ルピナス~幸せの風~
登場人物
黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ
白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ
「……」
黒瀬結衣は目を細め、職員室前の廊下に張り出された期末テストの順位表を見て声にならないうめき声を静かに立てていた。その表情はどう見ても上手く行かなかったことは見ていて判る。多分、彼女の脳裏にはそれまでにあった様々な、勉強を阻害する出来事が浮かんでは消え、それがエンドレスで流れていることは容易に想像できた。
「結衣にしちゃ順位が……」
「言うな」
こうなった責任の一部はお前にもあると言わんばかりに結衣は隣の白谷駿を睨みつける。廊下を柔らかく照らす春先の陽光に、彼女の眼鏡のフレームがきらりと一瞬輝いた。
貼り出された50位までの順位表に記載されてる彼女の名前は、20位辺りにあった。いつもなら10位辺りに名を連ねているのが、今回はその表情が示す通り、"屈辱的"な順位の様だ。
「しかし俺は今まで見向きもしなかったなぁ、順位表」
「そりゃあ三ケタ順位ばっかりだった駿は関係ないんじゃないの」
「悪かったな」
さっきのお返しとばかりの口撃に駿が口をとがらせる。
体育館の更に先にある購買へと不足品を買いに行った二人は、教室へと戻る途中で丁度試験結果上位50位が貼り出されるのを見かけて立ち寄った形になった。発表されて時間がそんなに経ってないせいか、見ている生徒はまだ10人もいない程だったが、見つめる視線の熱さはみんな高かった。表情も、順位が上がって喜ぶ人もいれば、結衣と同じように渋い顔をする人、様々だ。
駿は改めてその順位表を眺めてみる。
1位はまるで初めから固定されてるがごとく生徒会副会長の北川の名前が記載されていた。2位は生徒会長の緑川。10位前後にはクラスメイトの名前が2人ほど見える。結衣はクラスでは3番目辺りになるようだ。それでも平凡な成績しか出せない駿からすればレベルが違う世界の話で、どうやったらこんな成績叩き出せるのか、彼には不思議でならなかった。
結衣の名前の近くには、因縁の相手でもあった8組の遠野の名前があった。その名前は過去の記憶を誘発させ、忌まわしさを伴い浮かび上がる。嫌なモノを思い出した──しかし、何処かに彼女の、記憶としての存在を全否定できない事に駿は、しばし苦みと懐かしさが同居した表情を浮かべた。
ひとしきり順位表を見た結衣は深いため息をつくと、ぽつりと幼馴染に言った。
「……戻ろうか」
二人は、職員室前の廊下を教室へと歩み始めた。
明日は三学期の終業式。幸いクラスでは落第の危機に陥った者はいないようで、4月からは全員三年生へと進級できる。もちろん、クラスの再編成でみんながみんな同じクラスメイトになれることはないが。
卒業式が三週間ほど前に終わり、三年生がぽっかりといなくなった学校の中は、見かける生徒数が明らかに少なくなっている。しかしそれも一時的なものだ。4月になれば新入生が入って元通りに賑やかさに戻る。むしろまだ慣れてない一年生の初々しさが人数以上に学校内を賑やかにさせるのではと、二人はなんとなくそう思っていた。
「駿って期末何番だった?」
「確か……三ケタにはなってなかった」
「90位辺り?」
「それの真ん中辺り、かな?」
「よく言って現状維持、って所?」
「まあそりゃあ……いろんな事あったから」
すねた顔を見られない様に幼馴染から視線を切る駿。そんな仕草を見た結衣は安心感を伴った笑みを浮かべたが、目線を切った駿にはその光景は見えなかった。その代わり視界外から、何処か甘えているような、当りの柔らかい幼馴染の言葉が彼の耳に届いた。
「駿、同じクラスになれるといいね」
「……そうだな」駿は素直に自分の気持ちを口にした「登下校や休み時間にしか会えないよりは、同じクラスになれる方が今の俺には助かる」
駿はそう言うと一旦言葉を区切った。じゃあ昨年はどうだったか──記憶の引き出しからはその光景がすぐ出てきた。
そして続きを口にする。多少の苦笑いと共に。
「……そういや去年の今頃は同じクラスになるって聞いて『またかよ!』って言ってたな」
「言ってた。ずっとこのまま同じクラスメイトのままなんじゃないかって駿、露骨に嫌な顔してた記憶がある」
「まあホントはそう言いながらちょっとは嬉しかったけどな。気楽に話せる相手がいるってのは」
「誰だってそうよ。毎年この時期になるとクラスメイトが誰になるか、緊張するもん」
「それ考えると……8組の緑川とか遠野が同じクラスメイトになるのかがちょっと心配事だなぁ」
「どっちも因縁浅からず、って感じだもんねぇ……」
そう言った結衣の表情に少し影が落ちる。駿の方も、同じクラスになっての過去の再燃は避けたい気持ちで思わずため息が出そうになる。一時的ならともかく、1年間も、というと……。
「国公立文系コース、3クラスはあるからクラスメイトになる確率は1/3……数字上だとならない方が高いけどな」
「でも、こういう時程何でその確率で、って言いたくなるくらい当たるんだよねぇ……」
「あー……」
「ま、そうならないように帰りに神明神社寄ってく?」
「それだったら佐佳枝の社にも行った方がなおさらお願い叶いそうな気がする……」
「……そうしよっか……」
結衣はそう言ったが、ちょっと待てと言わんばかりに彼女の頭の上に"?"が生えたような表情をし、ついでに足も止まった。もう少しで教室のある3階にたどり着く階段の手前で、駿は危うく幼馴染を置いてきぼりにしそうになる。
「……どうした?」
そう言って振り向いた駿の視界に、幼馴染の、大口を開けて何かをしそうな姿が目に入り──盛大なくしゃみが階段室に響き渡った。
「……っくしゅっ!!」
階段室にエコーが響き、通りかけの生徒たちが何事かと彼女に視線を集中させる。駿も、まるでめったに出会えない珍獣でも見たかのように、じーっとその視線を幼馴染に固定したまま固まっていた。
「……なによ」
「風邪?」
「……多分違うと思う。熱とか辛いとかそんなんじゃない。けど、なんかさっきから鼻がむず痒い」
鼻をすするような仕草を見せた結衣だったが、鼻呼吸を回復したようで何度か深呼吸をする。
「やっぱり風邪じゃねーの?」
「違うって。でもなんだろ……」
思い当たるフシが無いか、首を傾げて過去を検索する結衣。しかし、それっぽい事はしてないようで、尚更彼女の表情が険しくなってゆく。
「まあ、季節の変わり目は体調崩しやすいって言うから、気いつけろよ」
ほら、早く行くぞと視線で促す駿。それに応えた結衣は階段を上り始め──その足がまた止まった。
「そういやさ、駿」
「ん?」
「明日、誕生日じゃない?」
幼馴染のその言葉に駿は、ぽかんとした顔をした。何かを探すようにその目は宙を舞い、やがて全てが判ったように表情が緩む。
「……あ、忘れてた。いろんな事あったからなぁ……」
「ならさ、明日駿の家でお誕生日会しようよ。おしんめさんや佐佳枝の社行くの、明後日にしてさ。駅前の勝木に参考書買いに行くついでにして。どうせなら他の買い物もしたいところだし」
「しかしこの歳になってお誕生日会、って言うのも何だか気恥ずかしい感じが……」
「いーじゃないの、祝ってくれる人いるんだから。それとも誰にも見向きされずにひっそりと一人で……の方が駿はいいのか?」
「そう言われると……なぁ」
そこまで結衣に言われた駿に拒否する事情はなかった。それと、何だかんだ様々な経緯がありながら、自分の誕生日をしっかり覚えてくれている幼馴染に彼は改めて嬉しさをその身に感じていた。
「わかった。ならそうしようか」
その答えを聞いた結衣は、軽やかなステップを踏む様に駿の隣へと歩み寄った。
もうすぐ4月になるせいか朝方はまだ息が白いほどの気温だったが、お日様がまだ残る冬の残像を日差しで一掃して行くように温度はぐんぐんと高くなっていった。暗めの色合いが多かったコート類が、もっと薄手の、カラフルな色合いのものに街行く人らの衣装も切り替わり、何処かしらやってくる春を楽しみにしているかのよう。
そんな福井駅前の電車通りアーケードを、駿と結衣の二人は勝木書店本店へと歩いていた。
紺色のジーンズに灰色のパーカーを着け、その上にベージュの薄手の襟なしブルゾンを羽織った結衣は、買い物を入れる紺色のトートバッグを肩から下げて、隣を歩く駿と歩調を合わせるようにやや大股で闊歩している。時折通りを駆け抜ける、微妙に強めの春先の風を受けた彼女のやや長めの髪が吹き流しのようにちらちらと揺れ、なびき、ふわりとその風に乗りたがっているかのように舞っていた。
駿の方は、結衣と似たような色合いの紺のGパンに、まるで下着のような真っ白い無地のTシャツ。その上に、牛がモチーフのマークを胸にした、在阪球団の赤一色な薄手の化繊で出来た長袖ウインドブレーカーを羽織っていた。薄手の、ぱっと見ビニールのようなウインドブレーカーが風にはためき、さながらマントのように翻る。
もう県内の学校は春休みに突入しているせいか、なんとなくだが、街中を歩いている人らの中の若者率が高いように二人には思えた。
「自分らみたいな子、多いなぁ。春休みに入ってるからだけど……」
結衣が周囲を見回してぽつりと言葉をこぼす。
駿はその声に反応したが、その表情は怪訝な、という言葉をまさに表現したものだった。おそるおそる、と言った感じで彼は幼馴染に声をかける。
「結衣」
「……なに?」
「まだ治ってない?」
「……うん。あ、そうそう、この症状って雑誌とかで調べたら花粉症って言うらしいね……杉とかの花粉がアレルギーを起こすみたい。雑誌とかも書いてあったし。あとテレビでも言ってたけど、この時期になると花粉が飛んで鼻づまりやくしゃみが起きやすいって。多分それかも」
まあ出掛けるくらいは大丈夫──結衣はそう判断したのだろう。しかし駿の方からすれば、昨日もずっと鼻声だったにもかかわらず今日も同じ状態の彼女に、心配するなと言う方が無理と言いたくなる衝動に駆られていた。
「そんな病気が流行ってるのか……」
「アレルギーだから人によっては全然ならないけどね……自分はアタリの方だった」
鼻をかんでもすぐまたしたくなったり、発作的にくしゃみが出たり……何とかして! と叫びそうに、結衣の顔は何処となく怒ってるように見えた。
「そんなに酷いなら、もう帰るか?」
「大丈夫。酷い人は今の自分が罹患してないくらいに見えるほど酷いらしいよ。それから比べれば……」
やや無理っぽく笑顔を作った矢先に、くしゃみを一つ。
「ホントに大丈夫か?」
駿は問い直した。呆れるように訊いたせいか、結衣は眼鏡越しに意志の強そうな瞳をキッ、と幼馴染に向けてきた。
「せっかくここまで来たんだから、せめて赤本買ってお参りしてからにする」
「まあ、どうしてもダメだったら途中でも帰るぞ。ところで結衣、赤本って何階に売ってたっけ?」
「3階だよ」
「3階? 漫画の単行本だけだと思ってたが……」
「そこしか見てないからでしょ? ちゃんとあるよ……んとにもう」
今までどこ見てたのよ……と結衣が呆れるが駿はあえて知らん顔をした。
話しているうちに勝木書店本店に着いた二人は、自宅のような気軽さで店内に足を踏み入れる。学生、生徒たちにとってはもう春休みだが、世間的には普通の日。客層はどちらかというとサラリーマンや買い物ついでの主婦の姿が多いように見受けられた。
途中にある雑誌コーナーに駿は、さながら重力に引かれて地球へと落ちて行くスカイラブのようにふらふらとその棚に吸い寄せられていったが、結衣がそれを察知して彼の腕を引っ張り軌道修正させる。
「いや、赤本は立ち読みした後でもいいだろ?」
駿は目と声で甘えるが、それを迎え撃つ結衣の視線は殺人を生業にしている人種のようだった。
仕方なく諦めた駿は、そのまま結衣に連行されるかの如く、会計横にある階段を上って3階まで足を運ばされた。
「あーここか……」
「ここか、って……普段単行本のとこしか見てないからでしょ……」
結衣に誘導されて赤本が並んでいる棚を見た駿が、さながらお宝を発見した発掘隊のように声を上げる。その姿を後ろから見た結衣が、ジト目で毒づいた。
隣接するコミックスのブースは二人と似たような年代の人たちが既に何人か買う本を選ぼうと熱心に立ち読みしている。が、赤本などが並ぶ参考書ブースはその性質上、人はほとんどいなかった。受験シーズンも終わってなるだけ勉強からは離れたいのだろう、人のいない区画を蛍光灯の照明だけがその場を盛り上げようと明るくしていた。
早速幾多もの大学名が書かれた赤本の背表紙の中から、福井大学を選んで取り出す。パラパラと過去問題を見ていた二人は、対照的な表情になっていった。
「あーなるほど……これはこういう問題か……。あ、これ判る。へえ、なるほどねぇ……」
これなら今までの通り勉強して行けば共通一次試験はもとより二次試験でも気後れはしないと判った結衣は、自信が次第に彼女の中を満たし、更なる活力を与えているかのようだった。
それに対して、
「……やべえ、判らん……」
ちらちらとページを見ていた駿は次第に青ざめていった。成績は確かに上昇しているから、以前なら手も足も出なかっただろう。しかし、今でも判る問題がそんなにない。
まだまだだな──駿は赤本がそう言って門前払いしているかのように感じた。
「……結衣、これホントに買うの?」
「買うよ。つか、駿も買わないと勉強にならないでしょ?」
「マジか……」
今から志望先変更してもいい? と言いたげな駿に対し、結衣のレンズ越しの瞳はそれを許さないとばかりに突き刺していた。
しかし駿の方もそれにめげずに何とか反撃の言葉を返す。
「ほら、先生になれればいいんだから別に福大じゃなくても……」
「駿の性格じゃ入学したら遊び惚けるでしょうが。自分が監視しないとなれるもんもなれないでしょ?」
結衣にそう言われた駿は言葉を喉で事故渋滞させた。過去にも、目標を立てたにもかかわらず遊び惚けて未達になったシーンが次々と頭に浮かび、記憶の欠片たちが多重露光されてゆく。
「……わかった」
観念した駿は、結局結衣と同じ本を買うことになった。とはいえ、結衣ほど活用できるかどうか怪しい、と首を傾げ、自信なさげに苦い表情をちらりと見せる。
「しかしこうも難しいと自信無くすなぁ……」
「そこは一緒に勉強して行こう。自分だってまだまだ判らない所もあるし」
「結衣が判らない所なんて俺もっと判らん」
「大丈夫。今まででも成績伸びてたんだから」
「ホントかなぁ……」
「やってみないと判んない、でしょ?」
とにかくこの"姉"に任せなさい、と結衣は今までで最高の自信を纏った表情を幼馴染に向ける。向けられた方は、ホントに大丈夫かなぁ、といくばくかの疑念を残してはいたものの、
「……まあ、そりゃあそうなんだが」
毒を食らわば皿まで──駿はふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
二人は会計を済まして階段を下りて行く。
その時、ちらりと店内の時計が駿の視界に映った。それに影響されたか、お腹が減ってきたような感覚がじわじわと彼の体を蝕むように広がって来た。
「結衣、少し早いけどお昼どうする?」
駿に言われて結衣もふと店内の時計が目に映った。あと15分ほどで、正午を迎える時間帯。彼女の方も時計の暗示にかかったか、何処となくお腹が空いてきたような感覚に襲われた。
「……今のうちに食べておく? 今ならまだ空いてるだろうし」
「そうしようか」
結衣の提案で二人はその場所を約300メートルほど離れた繊協ビル内にある8番らーめんに決め、勝木書店を離れて移動し始めた。そこまで行かなくても食べる所はあちこちにあるのだが、この後神社2軒分お参りする予定を考えると、その一つの佐佳枝の社が目の前にある繊協ビルは位置的に最適だった。
駅前大通りのアーケードを二人は目的地へ向けて歩き出した。冬の間、毎日のように通った学校行きのバスが出るバス停を通り過ぎ、小腹が空いた時によく立ち寄る大判焼き屋を横目に見る。やがて左側から駅前電車通りが合流してアーケードは次第に細くなってゆくが、そのまま駅前大通りを横断する地下道へと下りる階段とつながっていた。二人はそこへ歩を進めた。
勝木から歩いて5分ほど。二人は近くの職場から来ているサラリーマンや、バス待ちの間に何かお腹を満たそうとする奥様たちでにぎわっている、繊協ビル内バスターミナルにある8番らーめんに入った。混みあってはいたものの、幸いにしてカウンター席が二人分、まるで仕組まれたかのように空いた。そのため二人は、それぞれの胃袋から空腹の抗議を受けることなくすぐに席に着く事が出来た。
駿は味噌を、結衣は醤油を注文する。お昼時で多少は時間はかかったが、ひょっとして注文忘れられてるのでは……と心配になるほど待つこともなく目的のラーメンが二人の前に出された。
「おいしそう……でも匂いがあんまり感じない……」
いいにおいが嗅げない悔しさを口にして結衣がむっつりとした表情のまま割り箸を割る。
「その花粉症ってやつ、なんか治す方法ってないのか?」
結衣に次いで割り箸を割った駿は、そのままラーメンをすすり始めた。
「今の所ないみたい。それ用の薬は今作ってる最中なんだって」
「何か嫌だなぁ。かかっちゃったら鼻づまりかぁ……意外とキツそう」
「くしゃみが止まらない人もいるんだって」
「なおさら嫌やなぁ……」
ぱっと見は普通に食べてるように見えるが、時折箸が止まっては鼻を気にしている結衣。駿はそれを横目で見つつ、彼女を上回るペースでラーメン丼を空けてゆく。
「ところで結衣、もう普通に使える?」
駿が胸元の水晶を手に持って訊いた。
周囲は魔法の存在を知らない人ばかり。あんまりそのものずばりの単語を出さないように……そう思った駿は、さながら周りに混じっているかもしれない追っ手を警戒する諜報部員のように、声を潜める。それに対する結衣の感情は、納得という言葉とは正反対の位置に居るようだった。
「何とか以前の様には。昨日練習してたけど、なんかもう一つ足りない感じだから、今日も帰ったらリハビリしないとね……」
結衣の脳裏では昨日の練習を思い返しているようで、イマイチ納得できなかったその時の感情が、現在の彼女の顔に再現されていた。
とはいえ、もうしばらくすれば結衣も久々に魔法を使えるようになる。そこまで思った駿は、さて自分はいつ使ったっけ……と記憶の森を過去へ向かって遡る。
「そういや俺もマトモに使ったのって……」
そう口にしてしまった駿は即座にあの時の事を思い出してしまった。
瞬時に後悔の念が彼の中で津波のように立ち上がり、苦い薬を飲んでしまったかのように顔が渋くなるのを抑えられない。そもそも、あの時水晶を見せなかったら──。
「駿」
幼馴染から呼ばれた彼は目を向けた。
結衣は目を合わせなかった。しかし、瞳の意思は彼に寄せていた。
「……もう今更言っても、どうしようもないよ」
「……そりゃあ判るんだけどさ……」
どうしようもないとは言われるが、それでもどうしてあの時──タイムマシンがあったら今すぐその時に戻ってやり直したい気持ちが彼の体を支配していた。
「駿ってさ、駿自身が思ってるより隙が多いんだから……気を付けないとね」
「……そんなに多いか?」
「そうでなかったらそうなってないでしょ?」
全くもう、と言いたげに結衣はこれから食べようとした、箸に挟んだ8番らーめん名物、"8"という数字が赤く書かれたかまぼこをずい、と幼馴染の眼前に差し出した。突然目の前に差し出されたかまぼこにびっくりしたように、彼の頭部が少し後ろに下がる。
脅すような仕草をした結衣は、わかった? と眼鏡越しに駿をねめつける。彼からの反応を待たずに彼女は、いつものようにげっ歯類みたいな食べ方でかまぼこを口に入れて行く。
「……」
判ってはいる……数週間前には青野からも似たようなことを言われた。しかし、それを幼馴染とはいえ改めて他人から指摘されると──怒りを主成分としたさまざまな、彼自身でさえどうしたらいいのか判らない衝動のさざ波が駿の体の中を駆け巡る。
その衝動のはけ口になったのは、目の前にある、麵を全て食べ終わり、スープだけ何口か残っていたラーメン丼だった。駿は、丼を掴むと掲げてスープを一気に飲み干す。
「駿、スープは残した方がいいって。健康に悪いから。塩分のカタマリでしょ?」
小姑のような結衣のツッコミに駿はふくれっ面を隠そうともせず、
「うるさい。飲みたいんだから飲ませろよ」
「でもクドいでしょ?」
「大丈夫。動けば汗で出るって」
「まだ春先でしょうに……」
「俺を歩き回らせるんだから、汗ぐらい出るだろ」
「もう……」
ホントにこいつは……と呆れ果てるような顔をした結衣。そのもやもやを食欲に転化したのか、彼女は残った麵を全て口に入れ、箸を置いた。
駿の方も、スープで衝動が掃けたのか、さっきのふくれっ面からは幾分落ち着いた表情になっていた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさん」
結衣と駿がほぼ同時に口にする。
暫くは味の余韻を楽しむ様にぼーっとしていた二人。感情の起伏があったとはいえ、食欲を満たしたことでそれらは軽減されたように満足そうな表情を浮かべた駿と結衣は、時間の経過とともにごったがえしてきた店内をしばらく眺めた。
もうすぐ1時になろうとしている店内は、それでもサラリーマン風の勤め人が絶えてなかった。外回りっぽい、カバンを抱え、スーツを着た様々な年齢層の勤め人が入り口で自分が座れる順番を静かに待っている。よく見れば、高校生っぽい感じの人は駿と結衣の二人だけで、逆に自分たちが場違いな場所にいるのでは……と彼が思ってしまうほどの勤め人の割合だった。
そうなると、食べた後の余韻を楽しんでる自分らが並んでる人から見たら邪魔なだけなのかもしれない……駿も結衣も同時にそう思ったのか、それじゃ本来の目的を消化しましょうかとばかりに席を立った。
まずはその裏手にある佐佳枝の社へと向かい、4月からの学校生活が上手く行くようにとお願いをする。次いで北の方へと10分近く歩いて今度はおしんめさんと呼ばれる神明神社へ。そこでもお願いをして、再び駅前大通へと向かっていった。あとは結衣の買い物に、駿が付き合うことになる。
旧国道8号線に当たる大名町電車通りの歩道を、再び福井駅前へと二人は周囲の景色を見ながら歩いていた。街路樹はまだ春先で葉をつける前なのでぱっと見は茶色の幹と枝ばかりだが、よく見るとそこには新しい葉を広げようと、所々に芽が顔をのぞかせていた。道路をひっきりなしに様々な種類の車が行き来し、時折信号でその速度を落とし、横断歩道を歩行者たちがゆっくりと横断して行く。通りの中央部では、時折箱型の2両編成の電車が、いささか古くなった広告を掲げて、何処となくゴトゴトと、古そうだがしかし賑やかな音を立てて、次の駅へと通り過ぎてゆく。
当たり前だが、普段なら学校へ行ってて見れない情景に二人は、何かそこに新鮮なものを見つけたように、歩きつつ記憶に焼き付けるように眺めていた。
「まあ、神社2軒分回ったからこれで少しはご利益があると思うんだけどね……」
人事は尽くしたんだから、後は神様が何とかしてくれるはず……そんな思いを結衣は視線に乗せて空を仰ぎ見ていた。
「でもそれはお賽銭の額の多さで決まるんじゃないの?」
両方ともお賽銭50円づつだったのにそんなんじゃ聞くものも聞いてくれんのじゃねーのか? との疑問を駿は率直にぶつけると、少しぷんすか顔になった結衣は、さも真面目そうに
「なに無粋な事言ってんのよ。そんなことないでしょ? これだけ熱心にお願いしたんだから、神様だって少しは聞いてくれるはず。でないと……」
「でないと……?」
「困る」
「……それだけ?」
「……ほかに何かある?」
……駿は何かツッ込もうとしたが、ネタを考えるだけでもすごくエネルギーの無駄な気がしてそのまま口をつぐんだ。結衣の方はと言うと、勝ったとばかりに口元に歪みを作って、前を見る。
──しばし二人は会話なしで、歩いていた。
歩きながら、駿はふと考え始めた。三年生になる今年はどんな年になるんだろう……その言葉を起点に、頭の中ではありとあらゆる可能性を持った未来が、一気にイメージの洪水として同時多発的に映し出された。
まず受験勉強で色々と忙殺されることは間違いなかった。さっきの赤本じゃないけど、まだまだ勉強しないといかんなぁ、と嘆息が混じったため息をつきたくなる気分になる。
その原因となった、当時付き合ってた赤城とのことは、後悔が全くないと言えばウソになる……それは違いなかった。しかしその時は本気で将来はこの子と一緒になると思っていたし、あの時あの集団が来なかったら……遠野に感づかれてなかったら、違う未来を生きてただろうことは容易に想像できる。
ほんのわずかのボタンの掛け違いが、未来を全く別物に仕立ててしまう──そこまで考えて、駿はふと別の考えがよぎった。
これも、"悪魔"が仕組んだのか……と。視線を胸元へと向けると、歩いている反動でペンダントの水晶がぴょこぴょこと、何処となく楽しそうに跳ねている。
400年前の出来事が、いやもっと前から続いている術者という血統自体が、現在の自分や結衣を縛り付けているように、駿は思えた。
一見、自由にふるまえるようで実はそうではない。"悪魔"が敷いたレールから逸脱しないように、絶妙に出来事を調整されてるような、お釈迦様の掌で踊らされてるような……。
「……いや、まさか」
いつの間にか歩くのを止めていた駿が思わずつぶやく。考えに集中していたらしく、周りの喧騒や景色が急速に戻ってきたように感じられた。
「駿、どうしたの~?」
数歩先で幼馴染がついてきてないのを知った結衣が、何処か間延びした声をかけて来た。
「あ、ああ。ごめん」
駿は駆け出し、結衣の隣へと追い付いてくる。
「なにボーッとしてたの?」
「ごめん、ホント何でもない」
「……なら、いいけど……」
結衣の声に緊張と疑念が混じる。
確認するかのように結衣は駿を見つめた。レンズ越しの彼女の視線は、駿の脳裏まで見透かすようで、まっすぐで、強い。それを受け止める方は、その強さに少したじろぐように引くような姿勢を見せた。
「行こう」
そう言って結衣は再び前を見て歩きだす。駿もやや遅れて隣を歩きだした。
歩きつつ、駿は晴れ渡った春の空を見上げる。対照的に、心は晴れてるようで、何処かしら雲がかかって影を落としていた。それは、時には心全体にあっという間に広がる。
多分これは、ずっと治らない。消えない。あがいてもどうにもならない。
しかもこの自分の世界は、突然終わるかもしれない──黒雲が彼の心をまた覆いつくそうと広がっていったその矢先……駿の左側から何かが当たってる感触が伝わって来た。それは柔らかく、誘っているようにも感じた彼は視線を落とす。
結衣の右手だった。ぽん、ぽん、とリズミカルに、そして、早くして、と言いたげに。
駿の中の黒雲は、その広がりを止めた。覆いつくされる直前の隙間から、ほんのわずかだが、陽が差しているように、彼は感じた。
駿は彼女の右手の位置を確認すると、すがるように、求めるように指を絡める。この前のデパートの屋上でつないだときは寒さで手が冷たかったが、今はそれよりも暖かくなっているせいで、結衣の手から体温が感じ取られた。
「駿……」
「ん?」
「一人じゃないって」
「……そうだな」
結衣の言葉に、駿は改めて隣にいてくれる幼馴染のありがたみを、その身に感じていた。
買い出しといいながら、実際にはほとんどウィンドウショッピング状態で軽く1時間以上は過ぎていた。あーでもないこーでもないと、独り言を店の前で飽きずに繰り返す結衣の隣で駿は余り表情を変えずに見守っている。そうやって福井駅前を渡り鳥のようにあちこち寄り道をしていった。
「駿、これどう思う?」
"女の城"の異名を持つポアンカの中の、ティーン向けの店先に二人は居た。当然のことながら駿は入るのに躊躇していたが、問答無用に結衣に押し込められるという毎度のムーブをかまされ、周囲の女性率の高さも相まって、彼の表情は何処となく落ち着かない様子だった。
彼女が手に取ったのは夏ものらしい薄手の、明る目なライムグリーンのロングスカートだった。言われた駿は、少し訝し気な顔つきになり、
「スカートかぁ……何かイメージ違うんだよなぁ。それ履くようなおしとやかさじゃない、というか……」
「なにそれ。自分はそんな女子じゃないって?」
「あのなぁ、小さい頃近所のガキ大将みたいな振る舞いやっててそんな寝言言うか?」
「なによ寝言って……自分はただ活動的な女の子、ってだけ」
「近くのアパートの上級生、ほとんど腕っぷしだけで完膚無きまで叩きのめしてただろうが。"活動的"の意味取り違えるなよ」
「あれは駿が負けそうだったから加勢しただけでしょうが」
「勝てるケンカに横からしゃしゃり出てきて手柄かっさらって行きやがって……」
「何言ってんの。マウント取られて泣きべそかいてたくせによく言うよ」
そんな過去話をヒートアップ寸前で押しとどめつつ、そのスカートを自分の腰に付けて長さを確認したり、あちこち見回して自分に似合うのか確かめている姿は確かに女子高生だなぁ、と駿は何気なく思った。
今は眼鏡をかけて髪も背中半ばまで伸びている結衣のその姿を見て、その時を知らない人らは小学生だった当時のガキ大将ぶりは想像出来ないだろう。それを結び付けられるのは幼馴染の俺の特権なのかも……駿は自分の口元がどことなくにやついている様なゆるみを感じていた。
「……何ニヤけてんのよ」
「いや、小学生の時はガキ大将だったのに今はちゃんと女子高生してんなぁ、って思うと女はホントに化けるよな、って」
「そりゃあそうでしょ。化粧するし、基本女は化けるって覚えといて」
「化粧……してるの? 全然気づかんかった……」
え、ホントに知らなかったの……? と呆れた顔をした結衣は一回深呼吸をした後、
「まあ、お母さんほど厚くはしないけどね。軽くナチュラルな感じで」
そう言って彼女は自分の顔を幼馴染に近づける。ふわりと、化粧品から発する柔らかな香りが駿の鼻腔をくすぐった。
「へぇ……結衣もするんだ」
「なによ。そんなに自分が化粧するのが変?」
「いや……もう"女の子"じゃなくて、"女"なんだなぁ、って」
化粧もそうだが、気が付くと表情やしぐさのあちこちに"女の子"から"女"として変わってゆく幼馴染に改めて駿は気づいた。その雰囲気に飲まれそうになり……一瞬顔を赤らめる。
もう何回もキスしたはずなのに──。
「なに顔赤くしてんの」
「あ、別に……そういや、化粧って学校に行く時も?」
「……する時あるけどね。ホントは校則違反だけど」
「だったっけ……?」
駿は頭の中で生徒手帳に書かれてる校則の記憶を掘り出して確認した。そんなことが書かれてたような……かすかに記憶が残っているが、確証はなかった。
「というか、ウチのクラスの女子ほぼ全員、化粧してるよ」
「マジか?」
「今時の女子高生はそんなもん。大学生になっても、就職しても──就職するならなおさら化粧しっかりとしとかないとね……」
でも意外とめんどくさいんだけどね、とポツリと小声で付け加え、視線を外す結衣。
「……野郎にはそんなメンドクサイ事できんな……」
「男子は髭剃りとかでしょ? あれメンドクサイと思うけどなぁ」
「髭剃りはテキトーにやってもそんなに目立たないけどな」
「そお? アオちゃんなんかは結構あの人剃り残しあるってちらちら見てる時あるよ」
「げっ、マジか……!」
鏡もないのに駿は結衣から視線を外して顔を撫でまわし、剃り残しが無いかを今更ながら丹念にチェックし始めた。そうなると些細な所も気になってしまい、しかも結構あちこちあるように感じてしまう。そんな幼馴染に今日何度目かの呆れ顔を、結衣は幼馴染に向けた。
「……今更そんなことしたって遅いでしょ?」
「遅いけどさ……そう言われると気になって」
「明日から気を付ければいいじゃない」
少なくとも自分は今は気にしないって──呆れ顔だった結衣の表情はしかし、次第に柔らかいものへと変わっていった。
「……だな」
想いが伝わったのか、駿もそのような表情を結衣へと見せた。
──結局、結衣はスカートは買わずに戻すと、二人はポアンカを出て一旦、中央部の時計の周囲を緑の飾りパネルが妻面を飾っている、駅前アーケード入り口にあるお土産屋さんの角まで移動してきた。
日曜より人通りは少ないが、近くにスーパーがあるせいか、主婦の姿が休日よりも目立つ。あと、自分らと似たような年齢のグループも、春休みのせいでちらほらと見受けられる。
「買い出しって言ってた割には赤本以外買ってないな」
「何か今日はピンとくるものが無いって言うか……」
渋い顔をした結衣が愚痴るように呟く。買い出しの為と持ってきたトートバッグも、赤本2冊しかないせいで収容スペースが無駄になってしまっている。ため息をついた結衣は、これからどうしようかと駅前電車通りを嘗め回すように見回して、次に行くべき場所を見出そうとしていた。
しかし、妙案というのはこういう時に出てこない。メニューを前にどれにしようかと思い悩むように周囲を見回した駿はふと、とあるビルの屋上部分の方向に目が止まった。
結衣に話しかけようと思い、目線をそちらに移動すると彼女もまた同じ方向を向いていた。
駿は、そのまま話しかけた。
「結衣、時間いいか?」
「屋上?」
「そう」
「……自分も気晴らしに行こうと思ってた」
交差点の信号が青になる。
二人は、心が完全に同期しているように、同じタイミングで歩み始めた。




