南風─Reprise─
4月──市街地を南北に両断するように貫流する足羽川の堤防沿いに桜が戻ってきていた。そのそばに聳える足羽山のあちこちにも、桜色の華やかな染みがあちこちに点在し、まるで女性の髪を飾るかんざしのように、その艶やかさを競っているかのよう。
それに感化されたかのように、街を行く人たちにもどこかしら楽しげな表情が浮かんでいるように見える。ましてや、冬に間の、雪が降り続く鈍色の、低く広がる空ばかりを見ていた雪国の人たちにとっては尚更だった。
そんな華やかさが帯状に連なっている足羽川から見て南側にある県立秋翠高校は、他高と同様、新学期は始まっている。
「もう……折角駿が起こしに来てくれたのに!」
板垣橋にかかる、ゆるく右へと曲がりつつ登って行く高架は、学校にたどり着く前の最後の難関として彼女の前に立ちはだかっていた。時間を気にしつつ、結衣は焦りながら自転車のペダルを、ほとんどサドルに腰を落ち着かせることもなく踏みしめる。
昨日は誕生日。黒瀬家はおろか隣家の白谷家まで参加してのどんちゃん騒ぎは日付が変わる時間帯まで、近所迷惑にならないギリギリのレベルで行われた。結衣と妹の由紀、駿と弟の駈は未成年のためアルコールは当然ながら入ってない。それでも酒が入った大人たちの雰囲気にあてられたのか、後で聞いた話だと、いつもよりテンションが高かったらしい……とのこと。続けて、誰かが酒を入れたんじゃないかと思うほどだったとも言われた。
そのため、いつもよりも遅めに寝入った彼女が目覚ますと……高校まで限界近く自転車をこいで走っても間に合うかどうかの瀬戸際の時間だった。慌てて飛び起き、着替え、ご飯もソコソコに家を飛び出してゆく。
母親には何で起こしてくれなかったのと詰問したが、帰ってきた答えは、
『駿くん起こしに来たけど全然起きる気配ないって言ってたよ。ギリギリまで待ってたけど遅刻しそうだから、ごめん先に行ってますって』
……確かにそんな気配はあったかもしれなかった。あれは夢の話じゃなかったのかと勝手に勘違いした自分が恥ずかしかった。いや、起きれなかった事よりも、ひょっとしたら間抜けな寝顔見られた可能性が高い。そっちの方がよほど恥ずかしいじゃないか──そう思うと、結衣は自分の顔の温度がジワリと上がってゆく感じがしていた。
気を取り直し、さて高校へとひとっ走り──しかし家を出た直後、今度は隣家の駿の母親から声をかけられた。弁当を忘れてったからお願い持ってってと懇願された結衣は仕方なくそれを受け取ると、競輪選手もかくやと思うほどの脚力で通学路を爆走していった。
平坦な道路を自動車と似たような速度で走り切り、板垣橋に掛かる上り坂を走破する。上り切った所で、信号が赤に変わった。
とりあえず一息ついた場所を、ゆるりとまだ肌寒さが残る南風が駆け抜けてゆく。身体を動かしていたせいもあって、その風は心地いいと、彼女は感じた。
その胸元には、水晶のペンダントが春の光をキラキラと細かく反射して、踊るように揺れていた。
ふと、既に経験していたかのような感覚が彼女の中で沸き起こる──既視感、とでもいうのだろうか。
「そういや去年もこんなことしてた気がする……」
独り言は、周囲の自動車などの音にかき消されて、誰の耳にも届かなかった。
その時は背中の中ほどまであった髪が、今は肩口辺りでふわりふわりと南風に揺れている。
いろいろとあったけど、これでようやく駿との新しい関係が始まる──結衣はそう言って数日前、家の近所にある美容院で髪を切った。
それに対する幼馴染の反応は『ああ、髪切ったんだ』……まるで他人事のような感想しか返ってこなかった。一瞬、こいつはホントに……と怒気を孕んだ結衣だったが、
「まあ、そんなもんだ……」
その時の記憶と共に、春先の、何処か霞んでるようにも見える青空に向かって、結衣は言葉を放流した。言葉は南風に乗り、誰にも聞く事が出来ない天へと上ってゆく。
まあ、でもそれが駿だよな──結衣はそう思い、青信号を確認してペダルをこぎ始めた。
南風は、正面からの風。急いでいる時にはとてもうざったいと思えてくる。
しかし、身体にこもる熱を飛ばしてくれるように、向かい風は余計な思いも連れ去ってゆくようだ。結衣は、ふと右側に広がる、足羽川の水面の向こう側に演劇の書割のように見える福井市街地の、背の低いビルの群れをレンズ越しの視界に入れながらなんとなく、そう思った。
橋を渡って坂を下り、しばらくその勢いのまま三叉路まで走らせて右へ。行き交う自動車の隙間を狙って車道を横切るように左折。正面に高校横にあるお寺にぶつかるような直線を進む。右手にがらんと広がる市営グラウンドと、背景のように聳えたつ地元民間放送局の巨大な建物を眺めつつ、結衣は高校にたどり着いた。自転車を指定場所に置き、生徒玄関で内履き用のサンダルに大急ぎで履き替える。
「何とか間に合ったか──」
腕時計を一瞥した結衣は、新しい教室──3年7組は西校舎3階──目指して階段を駆け上がっていった。もうすぐ授業が始まるとあって、廊下に行き交う生徒たちの姿は減り始めている。その中を結衣は走って、これから1年を過ごす教室にたどり着いた。
教室には、ほぼ全員のクラスメイトが授業の始まりを待っていた。元々同じクラスらしい仲間3、4人ほどと固まって話してたり、一人で新しい教科書に目を通していたり、ぼーっと外を見て時間を潰していたり……それぞれの仕方で時間を過ごしている。
一瞬、先月までとクラスメイトが違うことに違和感を強く覚えるが、その中に幼馴染の姿を見つけた瞬間、安心感が結衣の体を満たしてゆく。
しかし、表向きには怒りの感情を露出させる。
「駿!」
結衣の、鋭く大きな張りのある声は、あちこちに咲いていた話の花を一瞬にして散らせた。そして何事かと新しいクラスメイト達が一斉に結衣の方に視線を集中させる。
そんな視線を彼女は眼鏡をバリア代わりにするかのように跳ねのけつつ教室に足を踏み入れる。そして幼馴染に、昨年のリプレイをするかのように声を荒げた。
「弁当忘れんなよ!おかげでこっちは遅刻しそうになったじゃないの!」
「わりいわりい。でもさ、起きなかった結衣も悪いんじゃね?」
軽口を叩きながら駿が振り向く。学生服の胸元の隙間からは、きらりとわずかに入る光をきらめかせた水晶が覗いていた。
その言葉に反応する新しいクラスメイト達。起きなかった、ってどういう……!?そもそも弁当持ってくるってこの二人、話には聞いてたけどそんなに深い仲なのかと、男子、特に2-7以外からクラスメイトになった人は、この二人のシチュエーションにざわつき、程度の差こそあれ、羨望のまなざしを向けていた。
それに対して、まーたやってるよと生暖かい目で見ているのは5、6人ほどいる元2年7組のクラスメイト達。表情に差異はあるものの、呆れたものから苦笑いまで、誰一人驚いている顔はしていなかった。
結衣はずかずかと、教室の中央辺りにある駿の机の所に力強く歩み寄ると、取り出した弁当をやや力任せに置いた。
「……そりゃあ起きなかった自分も悪いけどさ……」
不貞腐れて視線を逸らす。それは充分に判っていたけど、改めて言われると……結衣は感情の置き所をさまよわせつつ、駿の前の席に腰を下ろした。
2年生の時とは逆に、今度は結衣が駿の前の席に割り当てられていた。そそくさとカバンから教科書類を取り出し始める。
授業の準備を進めている最中、結衣は後ろから肩口をノックされた。微妙に残る、先ほどの表情を伴って幼馴染の方を向く。
「……何よ」
その言葉に棘はあったが、それは随分と先端を丸められた様な棘だった。
「ありがと」
駿は短く言葉を伝えてきた。自分にしか見せないような、秘密の想いがこもっているかのような、結衣にしか感知できない何かが、その言葉と表情にはあった。
──いきなり何言いだすのよ……と言いたげに、反応が出来ずにぽかんとした表情に変わった結衣は、言葉にならない混乱を口ごもりながら前を向いた。ただ、幼馴染の雰囲気は、去年の、まだ何者にもなってなかった頃に近いようだ……そう感じた結衣の口元は、気が付いたらほころんでいた。
「よーし揃ったか!?」
どたどたと聞きなれた足音が教室に響いたと思いきや、出し抜けに担任教師の中島の、教室中に響くような大声が聞こえて来た。小柄ながらがっしりとした体形からの声はそれだけで威厳が付加されたように、あちこちでだべっていたクラスメイト達が驚き、慌てて自分の席へと駆け寄らせる。と同時に、クラス委員長の、バタつく騒がしい音の中でも通る声が教室にこだました。
「きりーつ!」
──いつもと変わりがない日常が、また始まる。
それは、今までと同じように見えるかもしれない。しかし同じように見えても、どこかしら彼らは日々少しづつ、成長している。
その分だけ、違った日々を、違った未来を描き出そうとしていた。
〈終〉




