やわらかい風
登場人物
黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ
白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ
緑川勇樹:男子高生(2年生) 生徒会会長。成績優秀で、大人しくまじめな生徒。黒瀬結衣は元彼女 眼鏡をかけている 1月15日生まれ
北川秋絵:女子高生(2年生) 生徒会副会長 成績は学年トップからほぼ落ちたことがない程 何故秋翠高校にいるのかが謎と言われる 眼鏡をかけている 6月4日生まれ
冬至を既に1か月と半分ほど過ぎてはいたが、それでも夕方5時を回ると外は急速に暗くなってくる。黒瀬結衣は慣れた手つきで幼馴染の部屋の電気をつけると、その部屋の主……白谷駿を誘導した。
ベッドに腰かけた駿の顔は、憔悴してはいたが昨日よりはまだマシ──そう彼女は思った。かといって黙ったままではまたよくない方向へと彼の思考が向かってしまう。
……何か話さなきゃ。結衣は部屋の温風ヒーターを付けながら虚空に言葉を探す。
「とりあえず横になってたら?そっちの方がまだ楽でしょ」
そうだな、と駿は結衣の言葉に応えてコートを羽織った外ゆきの服のままベッドの上に寝転がった。規則正しい彼の呼吸音だが、何処となく落ち着かせようとしてるのか、荒々しさがその中に混ざっている。
結衣もまだ部屋が暖まっておらず、コートを脱げないままの格好でそのそばに腰かける。しばらくは彼のその音を聞きつつ、話のキッカケを探していた……駿の、弱い部分を露出した声が結衣に届いたのはその時だった。
「……大丈夫かと思ったけど、いざそう言う話を聞くとやっぱりダメだな……」
こんな顔見られたくない、と言ってるかのように両腕で顔を隠した駿の声は、何とか絞り出した呟きの様にか細かった。
結衣からは彼の表情は見えなかったが、それを声が代弁しているかのようだった。
結衣は再び視線を泳がせる。強迫観念にとらわれてるかのように、何か会話をしなきゃと焦っている彼女は、まるで部屋の何処かに確かな答えがあるのではと探している中、つい手を入れたポケットの中に何か物があるのを指先に感じ取った。触れた素材の感触で、結衣はそれが何なのか判った。
「何でこんな所に……」
そういやさっき集まった時に渡そうとカバンからポケットに移したんだったっけ……結局渡すタイミングがつかめず入れたままにしてたけど、と結衣が自分の耳にも届かないくらいの小声で呟く。と同時に、そうだ、とも呟いた。
「駿、食べな」
結衣は包装を外したチョコを掴むと、エサで釣り上げるかのように幼馴染の鼻先に持っていった。
彼女に言われた駿は、顔を覆っている腕をゆっくりと外していった。そして一瞬、食欲はあるのか駿の顔が動く……しかし、無気力が彼の心を侵食しているせいか、途中で止まる。
「……いい。食べたくない」
「さっきあんまり食べてなかったでしょ?少しでも口に入れといたほうがいいよ」
「今はいいって……」
「駿!」
鋭く、短い結衣の声が部屋に満ちた。
「なんだよ……」
「……男は、こういう時に食べないとダメだって漫画にも書いてあったでしょ?食べて少しでも力つけないと」
喜怒哀楽が抜けきったような、"何もない"表情の駿は再び言い返そうとした──しかし、動こうとした口は、言葉を忘れたかのように止まった。
「……」
"何もない"表情の駿は、そのままで体を起こした。やがて浮かび上がって来た柔らかい笑みは、結衣の心に安心を満たしてゆく。
「……そうだな。何か口にしないといざと言う時に力が出なかったらダメだもんな」
駿はそう言うと、チョコを3分の1ほど齧った。口の中でゆっくりと溶けて行くチョコの甘みを確かめるように、彼は暫く余韻を楽しみ、柔らかい笑みが今度は恍惚な表情になっていた。
「駿、口の中に入れるよ──」
結衣が訊いた矢先だった。予備動作なしで、彼女の指はチョコごと齧られるかのように駿の口の中に入れられた。それはネズミを丸呑みする蛇のごとく、あまりに突然の事で、結衣は小さく声にならない悲鳴を上げたと同時に、体が冷や水を掛けられたかのようにビクつく。
「こらっ!駿ったら……」
「結衣の指にもチョコくっついちゃってるから……」
毒を食らえば皿まで──彼はそんな勢いで彼女の指先の隅々まで舌でなめとるようにしゃぶりついた。
突然の、あまりの艶っぽい出来事に結衣は体が火照る。しゃぶる音が何かを連想させるように聞こえ、それに同調したように呼吸が幾分荒くなってゆく。嘗め回す彼の舌の感触は全身を貫く快楽と同時に、得体の知れない何かにまとわりつかされてる気持ち悪さの両極端を反復飛びしているような感じだった。そして指が唾液まみれ……本来ならすぐさま拒絶するほどのものだった──幼馴染のモノでなければ。
「もう……何やってんのよ」
あきれ果てたような表情と文句を、結衣は駿に見せつける。
しかし彼女自身、その声は何処となく嬉しさの成分を含んでいるようにも聞こえた。
「ほれ、ティッシュ」
気持ちも少しづつ平常を取り戻しているのか、彼は慣れた手つきで枕元にあるティッシュペーパーを何枚か取り出すと、結衣の目の前に掲げた。彼女はそれを受け取り、指先にまとわりつく液体を拭う。拭いつつ、彼の復調を見て湧き上がる安堵感を結衣は、隠さずに幼馴染に見せた。
「まあ、それにしても思ったよりは大丈夫みたいでよかった」
「結衣がいてくれるから……」
駿が静かに発したその言葉が余りにさりげなかったせいか、結衣は一瞬普通に聞き流しそうになり……直後にまるで電源が切られた機械のようにコートを脱いでる彼女の動きが止まった。まだ部屋の中は寒さが残っていたが、結衣は体のあちこちから湯気が出てるかのように熱を感じる。
「い、いきなり何言ってんのよ……」
「この前は結衣の方からプロポーズみたいなこと言っただろ……顔赤いぞ」
「あ、あれは……その時にも言ったでしょうに。ちょっと意味合いが……」
「聞いてる方は同じだよ。でも、だから……」
駿がふらりと結衣の胸にもたれかかるように倒れて来た。ふわりとしたセーター越しとはいえ、彼女の上半身に駿の体重の一部が接触し、柔らかな圧を加え始めた。結衣は予期しなかったことに戸惑いを覚えつつ、やがてさりげなく彼の頭を手で囲うようにやさしく抱きしめる。
「……幼馴染、ってなんか不思議だよなぁ……知ってるようで、知らないことが互いに多すぎるような、そんな感じ」
「付き合っている年月と、相手に対する理解度は必ずしも比例してないからね……下手すると付き合って間もないカップルの方が互いを理解してる可能性だってあるし」
「でも、知らないことが多い方が、色々と楽しめそうな気がする。知ってたら、多分同じことの繰り返しばかりになってつまらなく感じてしまうかも……」
結衣はそれには言葉で答えなかった。代わりに、彼の頭をきゅっ、とさらに優しく抱きしめる。
二人はその姿勢のままゆっくりと真横に倒れ込んた。ベッドのクッションが効いて、互いの体が軽くリバウンドする。
結衣は彼を解き放つと、図ったように同時にあおむけになる。二人並んで、天井を黙って見上げていた。
このままでも、どこか満ちている感じが、二人にはしていた。
暫くは部屋には二人の息をする音しかなかった。
「……駿、ってさ」
部屋の静けさを、結衣の言葉が破く。
「……なに?」
「小さかった時、何になりたかったって言ってたっけ?」
結衣が問いかける。
幼馴染にそう言われた彼は、改めて目の前に広がる天井の模様を何の感動もなく見上げていた。まるで視線の先に、言葉の候補が浮かんだブラウン管があるように。瞳をせわしなく上下左右に動かして、かつての自分が言ったものを見つけようとしているようだった。
「……何だったんだろう。ヒーローものに憧れてたのはあるけど……」
「じゃあ、今は?」
「今……って」質問の意味を掴み損ねているかのように疑問の口調で駿は考え込んでいる「……夢、だろ……?」
すぐには浮かんでこないかのように駿の言葉は部屋のまだ暖まっていない空気に吸い込まれていった。その幼馴染の動きを、結衣は眼鏡越しに黙って見つめている。
……やがて駿は、ぽつりとこぼすように、結衣の許可を得るかのように言葉を発した。
「……先生になること……?」
「教科は?」
「教科……わかんね。何でもいい」
その言葉を聞いた結衣は、まるで汚れたものを見るかのような横目で駿を見つめた。視線を天井に戻すと、あえてわざとらしく派手目な溜息を一つ、零す。
「何?なんか悪い?」
開き直るような駿の態度に、結衣はレンズ越しのジト目で射るようにねめつける。
「それって本当になりたいこと?」
「まあ……そんなんでもいいかなぁ、っては思ってる」
「それは先生からの課題でしょ? なりたいことじゃないよ」
「だから、そうなるように……今頑張ってるだろ?俺」
「普通先生になりたいって言ったら、小学生ならまだいいけど高校生だったら教科名位出せないと本気じゃない、って自分は言うよ」
結衣の強弁に近い言葉に駿は押し黙る。その表情には幾ばくかの不満があったが、実際そういう部分はあるらしく、自信なさげに視線を結衣から外した。
しかし、言われっぱなしでは心がむずむずようだった。明らかにむっとした表情を浮かべて駿は訊いてきた。
「……じゃあさ、結衣から見た俺は何の教科が向いてると思う?」
「あんたねぇ……」今更何言ってんの、と言いたげに呆れた結衣はもう一つため息をわざとついて幼馴染の感情をざわつかせる「そんなもん自分で考えて目指すもんでしょうが。そんなとこまで人に頼るな、って」
「じゃあ、結衣は?」
殆ど怒り出す寸前の様な気を孕んだ駿が、幼馴染に問い返してきた。
「学校の先生。国語」
結衣は即答した。
揚げ足を取ろうとしてうずうずしていた駿は簡単に次の行動を寸止めさせられ、言葉を失ったかのように呆然と焦点の合わない目線を幼馴染に投げかけているようだった。
視線を泳がせた挙句に駿の口をついた言葉は、在り来たりな質問だった。
「……何で?」
「親がああいうことやってるせいもあるけど、言葉は使い方次第で面白くしたりその反対に向かわせたり……答えは一つだけじゃないところが面白いかなぁ」
「でも……前に古文書に関わることやりたいとか言ってなかったっけ?」
「逆。やりたくない」
「……何で?」
「英語と一緒じゃない。人が読めない文字を一旦日本語にしないと読めないんだからその手間が何か嫌」
「その割には……英語悪くないだろ?」
「あれはああいうものと割り切ってるから。何で同じ言葉を解読しないといけないの」
「ひでえ……」
非難めいた声を上げた駿を結衣は、誉め言葉と受け取っておこうとばかりに安堵感に満ちた笑みで受け止めた。
しかし彼女は気持ちを切り替える。表情が引き締まり、しばらく考え込んだあと、視線を再び寝転がってる幼馴染へと向けた。
「……駿ってさ、この前の期末見せてもらったでしょ?」
「ああ、そうだけど……それが?」
「駿ってさ、理系方向の学科、点数よくない?」
「……そっかぁ? あんまり変わらんと思うけどなぁ……」
「どうせ先生になるならそっちの方がいいと思うけどな。例えば化学とか」
結衣は以前、駿から見せてもらった二学期末試験の点数を自分の記憶の引き出しから思い出していた。同時に話していた記憶も引き出され、彼女の頭の中が一種のタイムマシンで過去をのぞいたかのようになっていた。
駿の方も言われて気付いたようで、
「なるほどねぇ……」
思わずの呟きが彼の口から零れた。
駿にそのような事を言ったせいなのかもしれないが、ふと結衣の頭の中で幼馴染が、たとえば化学の先生になった未来を勝手にシミュレートし始めていた。実験用の白衣を纏って試験管片手に薬品の説明を生徒たちの前でしている駿の姿が何気なく浮かぶ。
化学準備室で成り行きで生徒たちの悩みを聞いてアドバイスしたり、妙に懐く生徒らの遊び場になってしまって時折苦言を呈したり……職員室で紫煙たなびく中どことなく監視されてるような環境では無いように思える、そんな、根拠はないが何処か自由な雰囲気で働いている幼馴染。
そしてそこへ同じ学校へ赴任できた自分自身の姿も思い浮かべた。時折駿のいる準備室へ足を運んで愚痴を言ったり他愛もない話をしたり、一緒にご飯食べたり、生徒の進路について二人で真剣に話し合ったり──それは未来予想図としては申し分のないものだった。
「……結衣、何かにやけてるぞ」
「……えっ?」
彼女は幼馴染に言われるまで、自分の表情が緩んでることに気づいていなかった。慌てて取り繕い、呼吸を整える。
隣で寝転ぶ駿の顔が、結衣のレンズ越しの視界に入っている。そこには、未来を心待ちにしている様な、彼の自然な笑みがこぼれていた。
幼馴染も同じ未来予想図を共有している──そう確信した結衣は、言葉を投げかけた。
「どう?いい感じじゃない?」
「……なれるかなぁ」
「それは努力次第でしょ?」
「少なくとも福大教育学部……かぁ」
「国公立だからねぇ……駿、目標は50位以内。でないとB判定は出ないよ」
B判定……模擬試験での合格判定でAは確実に合格できるレベルでBは現状を維持すれば合格できる範囲内。Cは幸運が作用しなければ難しい状態。彼は現状ではC判定だが、それでもこうなる前は国公立なんて夢のまた夢の状態だったから、ずいぶんマシになっているように、結衣は思った。
「50位以内か……」自然な笑みが駿の顔から消え、現実を前にして曇る「俺、そんなに勉強出来るのかなぁ……」
「大丈夫。そこは自分が支えてあげる」
結衣はさりげなく駿に覆いかぶさるように、両手で体を支え、向き合った。長めの髪がだらりと幼馴染の顔を撫でてゆく。こそばゆいのか駿の顔は、しかめっ面と嬉しさが同居しているようだった。
「こら、くすぐったい」
「悪かったわね……」
結衣は、彼の顔をくすぐる自分の髪を見て、しばらく考えを巡らせた。やがて何か思い立ったように、駿にささやきかける。
「……髪、切った方がいい?」
「何で今頃?」
駿の疑問ももっともだ──結衣は目を閉じて答えの代わりにした。
普通は失恋した時とかに、過去と決別することを周囲に叫ぶかのようにバッサリと切ってしまうものだ。でも、これから新しい未来を作って行こうと思った時でもいいじゃないのかな? たとえそれが辛い思いをしてから数か月、経っていたとしても。
「今だから、でしょ?」
判るかなぁ、と小学生のような悪戯っぽい笑みを結衣は幼馴染に見せる。
部屋の明かりが駿の顔に結衣の影を彩らせる。同時に二人は互いを抱き寄せるように腕を回した。ゆっくりと、その表情との間の距離は小さくなっていった。
体温が、空気を経由して互いに感じられる。
雰囲気が、二人をその気にさせていた。
目を閉じた二人は、身体と唇に、接触感を覚えた。
「失礼しました」
白谷はそう言って職員室の引き戸を閉めた。煙草の煙たなびく職員室と比べると、廊下はまだ肌寒さが残っているとはいえ、空気は遥かにマシであった。
週が始まった月曜日の昼休み。弁当を食べ終えた白谷は担任の先生に呼ばれて職員室へヤボ用で向かったが、それは思ったより早く済んだ。じゃあ教室へと戻ろうとした白谷の視界に、普段なら見えないはずの人が、明確に映りこんでいた。
「……八木……」
「白谷、いいか?」
黒の学生服に身を包み、短めの髪に人懐こそうな表情を浮かべ、山岳部所属と言われてはいるがそれに似合わなさそうな、小柄でほっそりとした彼は白谷に時間を取れるか訊いてきた。
「……いいよ」
断る理由は白谷にはなかった。彼から話をしたい、という事自体、めったにあることではないからだ。
急いで生徒玄関から靴に履き替えると、彼はグラウンドへ出る連絡通路へと向かう。
二車線ほどの幅がある連絡通路の両側には、所々雪が積み上げられてミニチュアの山脈を作っていた。路盤のコンクリートが経年劣化でガタガタになってる足場の悪そうに見える道は、ザラメ雪のようなざらついた、氷のような雪がこびりついていた。そんな道中を白谷は小走りで校舎裏に広がるグラウンド方向へと向かう。
その途中、戦後間もないバラックのような、所々錆が浮いたトタンで囲われた、平屋建ての運動部関連の部室棟が通路の左側にグラウンドに続くように立っていた。そこの一番端っこ……白谷から一番近い場所にあるのが、山岳部の部室だった。八木はそこで待っていてくれた。
中に入るように勧められた白谷は、言われるまま部室の中へと足を踏み入れた。六畳間ほどの広さの部室は暖房が効いているせいか、ふわりと暖かい空気が彼の顔を包み込んで、しばし纏わりついた冷気を払いのける。指示された丸椅子に、白谷は腰を下ろした。
八木は部室のドアを閉めると、様々な登山道具で壁が見えないどころか、床ですら半分は道具や関連資材で埋まっている中を器用に避けながら、奥にある自分の椅子へと腰かける。手を伸ばし、近くに置かれた小さ目の画面のテレビのスイッチを引っ張ると、お昼のバラエティ番組が音声と共にゆっくりと見え始めた。
しばらくは二人とも興味があるネタだったのか、両方の視線は小さなテレビ画面にくぎ付けになっていた。そして時折話したりして、のんびりとした時間が経過していった。
「──そういや白谷、話聞いたぞ」閑話休題とばかりにさっき見せた人懐こそうな表情は影を潜め、白谷の考えてることをも見抜くような鋭い目線を投げかける「……寿命が、ないんだって?」
白谷は一瞬驚いたが、やがてそれが緩むと苦笑いにも似た歪んだ笑みを浮かべる。
「……早いな」
「まあな。そう言う立場だし」
八木は誇るわけでもないように、そう告げる。
何を言っていいのか、白谷は迷っている。八木の方も、話し出すキッカケを探してるように沈黙していた。「……俺が言うのもなんだが……白谷、最後まであがいた方が、結果的にはいいと思うけどな」
「それ、もう結衣に言われたよ」
「……そっか。もう言われたか」
俺は必要なかったかな?と自虐的な笑みを浮かべて八木はちらりとテレビの画面を見つめた。
「八木は、そうした?」
「俺か? ……さあ、どうだったかな」
八木は言葉の上で誤魔化す。しかし、逸らした目は、後悔の念がちらちらと白谷に見えていた。
「……時間、なかったんだろ?」
「まあな。おかげでこんなことしてるけど」
「念のため訊きたいけど……どうなん?」
訊かれた八木は、ちらりと白谷を値踏みするように見つめ、そして再び逸らした。
「……言わないでおく。まだ元気な人間に言うもんじゃねぇ。俺の足音がしょっちゅう聞こえるようになったら教えてやるよ。怖いだろうから」
「……今でも怖いよ。何でこんなことに、って発作的にそう思ってしまう……。それでも、先週終わりほどひどくは無くなったけど」
「忘れろって言っても、人間忘れられんように出来てるから、もういい意味でも自分にウソつくしかない。何か没頭できるもので少しでもその意識を遠ざけられれば……そしてそれを、ギリギリまでできればまあ、上出来じゃねーのかな」
「でも俺、小さい頃から飽きっぽいから──」
「魔法、あるだろ?続けられてるんだから……あと、幼馴染の期待に応えてやるってのも」
「……出来るかなぁ」
「やるんだよ。出来る出来ないんじゃなくて」
「……それが出来れば苦労せんわ」
「苦労しろ。俺みたいになっちゃったらしたくても出来ない。みんなお見通しだからな」
他人事だと思いやがって、と苦笑いを浮かべつつ白谷はそう言いたそうに視線で牽制する。
「……余計な苦労したくないんだがなぁ……」
「贅沢言うな。何年、何十年後になるかは言わないが、その時になったら判るようになるよ」
八木はうらやましそうに白谷を見つめる。できればもう一度──しかしそれは彼の立場からすれば、無理な相談だった。
「……八木は八木で色々と大変なんだな」
八木の、うらやましそうに見つめる目線の意味が白谷は何となく判った。
「構造が違うだけでやってることは変わんないよ」
「見通せるのに?」
「見通せるから」
それは禅問答のように、と白谷の脳裏でそんな言葉がふと浮かんだ。
朗らかだった八木の表情が、少し引き締まる。
「……俺みたいに突然ならともかく、お前はやることやってからでないとこっちでは別の意味で苦労することになるから……とにかく、自分をいい意味で誤魔化してくれ。それと、黒瀬さんの言う事は何だかんだで正鵠を得てるから、それに従ってれば大丈夫だと思うよ」
「……断定はしないんだな?」
「残念ながら。見通せるから、尚更。まあ、禁則事項になるからそこは勘弁してくれ」
「……わーった。何とかあがいてみるけど……躓いたら、察知してくれ」
「いつでも。その時は呼ぶよ」
「ありがと。少し……何とかなったかも」
白谷は立ち上がる。少し楽になったような、憑き物が落ちたような安堵の笑みを浮かべて出口へと歩み出した。
「それはよかった。じゃ、何かあったら」
八木が片手を上げて見送る。
白谷は木枠にトタンを貼り付けただけの簡素な扉を閉めた。建付けの悪さに辟易しながら完全に閉じる──その時、彼は言い忘れたことを思い出した。慌ててその扉を開けた。
「……あ」
中から流れてきた空気の冷たさは、完全に外のそれだった。
白谷の目には、そこはただの物置にしか見えなかった。運動部の部室からあぶれた様々な用具、機械、一時押し込んだ個人の所有物、部員が隠したい何か、部室等の修繕資材などが、初めから人を拒絶するようにみっちりと、それこそ足の踏み場もないくらいに床と壁と、一部は天井に届くほど埋め尽くしていた。
冷たい空気と共に、様々な匂いや臭い、埃、資材が発する化学物質が白谷の嗅覚を刺激する。
「……そうだよなぁ」
閉めなきゃよかった──後悔しても、目の前の光景はさっきまでいた山岳部部室に戻りようが無かった。
まあ、いいか。重要な事じゃない。ただ、確かめたかっただけだったから──でも多分、禁則事項だと言って教えてはくれんだろうな……白谷はそう思うと、その質問を胸の奥にしまい込んで、今度こそ教室へと歩き始めた。
「駿」
「……何?」
「昼休みにグラウンドへの道走ってたの見たけど、何であんなところを?」
「そりゃあ……」
「そりゃあ……?」
「……いや、まあただ……何となく」
「"何となく"、ねぇ……」
「……」
「……で、どうだったの?」
「……結衣と同じこと、言われた……」
「そう。ちゃんと見てるのね……」
「そうだ、な……」
そしてつつがなく1日が終わり、放課後になった。
HRが終わると、クラスメイト達がまるでエントロピーの法則のように三々五々教室を後にしていった。直接家へと帰る者、福井駅前へと出て買い物したりする者、部活動に励むためにグラウンドや活動場所にしている教室へと向かう者など……。
そのクラスメイト達に駿は帰る挨拶を結衣と共にしていた。彼女は制服の上に冬用の装備を纏い、カバンも持って今すぐにでも教室を出られる格好で駿の帰宅準備を見守っている。彼の方も、いつものような動きで準備を終え、コートなどを羽織ってあとは帰るだけになった。
「じゃあ行きますか」
「ああ、いいよ」
準備が整った二人は、残ってるクラスメイトに帰りの挨拶をしながら教室から出ようとする。似たような時間帯にHRを終えた他のクラスの生徒たちが廊下の人口密度を上げていた。その中に混じり、流れに沿うように歩いて行く。北校舎との廊下がT字の交差部分に二人が差し掛かった時だった。
二人はその交差部分を左に曲がろうとして──出し抜けに女子生徒が現れた。
回避する時間は全くなかった。
「うわわっ!」
「きゃっ!」
駿のコートなどの冬用装備付きの胸板に跳ね返された格好の相手は数歩後ろに弾かれた後、ふらつきながらもバランスを整えて転倒を防いだ。ぶつかられた方も、衝撃はあったが相手ほどの崩れはなかった。
「ごめんなさい大丈夫──って!?」
「ごめんなさいこちらこそ──って……!」
……ぶつかった相手は、生徒会副会長の北川秋絵だった。ぶつかった衝撃で眼鏡がズレたのか、そそくさと掛けなおしながら駿の顔をそのレンズ越しにじーっ、と見つめている。その顔色は怒っているようで、しかしどこか戸惑っているかのようだった。
ただ、木曜日の事もある。駿の心拍数はいつの間にか、もし計測しているならドクターストップがかかりそうなほどの上昇度を示したかもしれない。結衣の方も、似たような感じになっているように、駿からは見えた。
「……えっと……白谷君には何か言おうとしてたことがあったんですが……」
はて、何を言おうとしていましたか──北川はしばし考えこむ様に首を傾げ、視点を逸らしてあらぬ方向を見つめつつ何かを思い出そうとしている。しかし5秒が過ぎ、10秒が過ぎ……と無言の時間と周りの生徒たちの通過人数だけが増えていくだけだった。
「……北川さん?」
結衣が恐る恐ると言った仕草で北川に問いかける。駿も下手に刺激して思い出させてしまわないよう、口をつぐんでヤブヘビを防いでいたが、かといってこのままでは時間が無駄に……焦りは時間と共にじわじわとその水位を増やしていった。それに、廊下を通る生徒たちが何事かとじろじろ見られているのも二人としては気分のいいものではなかった。
「……ごめんなさい。何かを伝えようとしてたんですが、失念してしまいました。呼び止めてしまって申し訳ございません」
「あ、いえ。ぶつかったのもこっちのせいだし……」
丁寧に謝られた駿が釣られるように北川に頭を下げる。北川はそうしながらもまだ頭の中で何か引っかかってるような神妙な顔つきを解除しないまま、再び頭を傾げる。
「魔法が……」
北川が零した何気ない言葉に二人の神経が一斉にざわつく。かといって何か言いだしてもややこしいことになるかも……二人は言葉を交わすことなくここは黙っていようとそれぞれに口をつぐんだ。
「あ、いえ……こういう時にすぐ思い出せるような魔法の呪文があれば楽ですよね。どうしてこう人間の記憶って曖昧な時があるんだろう」
"魔法"という言葉は確かに北川は使ったが、二人が思っていたのとは違う表現だった。それを聞いて心拍数は通常モードへと下降して行く。思いがけず、表情にも安堵の成分が混ざり始めた──しかしその二人を、背後から掛かった声にその成分が再び吹き飛ばされた。
「北川さん!」
二人はその声が耳に届いた瞬間、また心拍数がグラフの上限を突き抜けるかのようにまた急上昇した。
声の主は判っている。だから二人は背後へと振り向こうとしなかった。台風に遭遇したかのように、じっとこらえて嵐が通り過ぎるのを耐え忍んでいるかのように、口を閉じて押し黙ってた。
「緑川くん。ごめんなさいちょっと白谷君とぶつかってしまって……」
「ぶつかった……?」
怪訝な顔をした緑川勇樹が、そう言いながら二人の背後から北川がいる隣へと移動した。先生に怒られてるように首をすくめてただじっとしている二人を改めて見た緑川は、何をしてるの?と言いたげに言葉を放った。
「黒瀬さんと白谷か……あ、黒瀬さん、学校祭の資料戻してくれてありがとう。おかげで来年度の行事予定、組めたから」
破顔、とまでは行かないがにこやかな笑みをこぼして緑川は結衣に礼を言った。
──頭では判ってはいるが、かといって本当に効いているのか見た目ではわからない……駿も結衣も、半信半疑の心持ちそのままを表現しているように固い表情をしていた。
そんな中、結衣がおそるおそるという言葉を具現化したようにそっ、と返答した。
「そ、それはよかった……です」
「ん?どうしたの黒瀬さん何か表情硬いけど……?」
「え?ああ、いやちょっと別に、何にも……」
あとで思い返せば露骨すぎる愛想笑いかも、と後悔するような作り笑いを貼り付けている結衣。つられて駿もどこかぎこちない笑みを浮かべてその場を何とかしのごうとしていた。
その願いが通じたのか、緑川は北川へその笑顔を向けた。
「じゃあ北川さん、生徒会室へ行きましょう」
「そうですね、では」
北川は二人に会釈をした。緑川も軽く会釈をし、生徒会の会長と副会長はその場から遠ざかっていった。やがて、廊下を行き交う他の生徒らに紛れて姿が見えなくなる。
「……とりあえずは効いてるみたいかな……?」
危機を逃れた事に駿は胸をなでおろし、ため息をついた。そして隣に居る結衣の方を向いた。
面倒ごとは回避できてホッとしていると思いきや、結衣は緑川が歩き去っていった方向をじっと見つめたまま、動く気配すらなかった。眼鏡越しの瞳を釘づけにされて動かせない拷問にでもかかったかの如く、微動だにせず、声も上げず、ただじっとその方向を見つめていた。
「……結衣?」
反応はなかった。廊下を通る生徒たちの雑踏に紛れるように、駿の問いは結衣の耳には届かずに何処かへと消え去ったようだった。
「結衣」
お前、言ってることが違わないか?と言いたくなるほどに駿が結衣に呼び掛けた声は、何処からか混入していた妬ましさが混じっているように強めだった。
「結衣、ってば!」
「え……あ、ゴメン」
今更気づきましたとでも言いたそうに、語気を強めて名前を言われた結衣はそれでも気のない返事と取られかねないような声ぶりで言葉を返した。
「どうかしたか?」
「ううん。ただ……ホントに忘れちゃってるんだなぁ、って」
「確かに。御寺さんのかけた魔法の効果、ちゃんと発揮されてる」
「……」
結衣が小さく何か言ったような気がして、駿はもう一度、彼女の方へと目を向ける。そこには、視線を足元の床へと落とし、その表情は硬く、口は閉じ、何かを拒絶し、そして反発しているようにも見える幼馴染がいた。
彼女が何処まで考えているか……駿はそこまではわからない。ただ、御寺さんのかけた魔法のことだけでないことは、結衣の表情から何となく理解できた。多分、もっと大切な何か──具体的には判らないが、直感的には何なのか、ぼんやりとは判る気がする……隣で幼馴染は、ふとそう思った。
そして、そうなってしまった原因の幾つかは俺だ──生徒会室や階段での出来事が、駿の心を痛めつけるかのように、モノクロの映画として頭の中で勝手に繰り返しかかっていた。
結衣は、俺を支えると言ってくれた。なら、俺は、何をしないといけないか──自分に問いかけることで、駿は胸の中にある答えを引き出そうとしていた。
あと何年生きられる、なんて言ってられない。
「結衣」
駿の声に彼女が反応した。振り向いた結衣の顔は、それはどこか悲し気なものを纏っているように、駿には見えた。
「帰ろうか」
「……うん」
結衣はそう言うと、何かの感情を振り切るように小さく首を振った。瞬間的に表情を入れ替え、駿の手を握る。
互いの体温が、互いの掌から伝わった。




