風の日
登場人物
黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ
白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ
緑川勇樹:男子高生(2年生) 生徒会会長 成績優秀で大人しくまじめな生徒 黒瀬結衣は元彼女 眼鏡をかけている 1月15日生まれ
北川秋絵:女子高生(2年生) 生徒会副会長 成績は学年トップからほぼ落ちたことがない程 何故秋翠高校にいるのかが謎と言われる 眼鏡をかけている 6月4日生まれ
御寺由紀:女性 非公開省庁である"魔法庁"の職員 水商売っぽい出で立ちをしている 風をメインに使う術者 28歳 喫煙者
布目紘一:男性 福井駅前アーケード街の純喫茶兼魔法庁の福井県事務所を維持管理及び連絡調整もしている嘱託職員 50歳前後 奥さんは術者
2-7の教室はまだ電気がつけっぱなしだった。誰もいない、室温も外と変わらないくらい冷えた、ただ机や椅子だけが整然と並ぶ中、ポツンと2つの、前後した机の上に二人のカバンが置かれていた。
「駿、荷物……」
黒瀬は白谷のカバンを手にすると、歩く気力さえも怪しいほどに気落ちした白谷に手渡す。まるで不本意に操られているような弱々しさでカバンを受け取るも、それなりの重さに体ごと前転しそうなくらいに白谷は傾いた。何とか持ち直すも、心理的なショックからはいまだに立ち直れていない。
「もうバス行っちゃってるから、親に車出してもらうように電話するけどいい?」
「あ、ああ……」
「あと、お母さんに知らせたあの事がどうなったかも聞かないと。ほら、駿、行くよ」
白谷の手を引いた黒瀬が、いつもよりもゆっくり目に歩きだす。ついて行けてるような速度を維持しつつ、教室の電気を消して廊下を玄関へと歩き出した。
いつもなら近い階段を使って下へと降りるのだが、白谷にとってはついさっきの出来事もあって、そこを慮った黒瀬は使わなかった。遠回りになっても、南校舎の階段で下へと降りてゆく。
1階に下り生徒玄関へと向かう途中、それまで黙っていた白谷が、ぽつりとつぶやくように黒瀬に話しかけた。
「……なんだか、小さい頃思い出すな……」
「……そうね」
「あの頃よりはマシになったかと思ったけど、何だか全然だな」
「……」
黒瀬は、言葉としては白谷に伝えなかった。その代わり引いている手を、少し、強く、握った。
幼馴染の温かさが、伝わってきている。
二人の視界は、薄暗い高校の廊下ではなく、夕焼けが鮮やかな何処からかの夕餉の香りが鼻をくすぐる小さかったあの時の情景が上書きされていた。
今は、下手に言わないでおこう──黒瀬はそう思い、同じピッチで生徒玄関へと向かう。
職員室に隣接する学校事務室に差し掛かった時だった。二人が通過しようとした時に、不意に引き戸ががらりと開けられ、いかにもベテランといった中年辺りの男性事務員が顔を出すや否や誰何してきた。
「あ、2年7組の黒瀬さん?」
「えっ……あ、はいそうですけど……」
「何かお母さん?に電話した?かかってるんだけど出てくれない?」
「……わかりました」
事務員はそう言うとさっさと中へと入り、こっちと手招きをしている。
「駿、電話来てるみたいだからちょっと待ってて。大丈夫だよ……ね? 」
「あ、ああ……」
黒瀬は白谷にそう言って事務室の中へと入っていった。
もういい加減帰りたいのか早く早くと急かしてるように事務員が手招きした所へと黒瀬は向かい、待ち受けオルゴールの上に置かれてる受話器を取った。
「もしもし?」
『結衣?お母さんだけど』
「お母さん?さっきの事で何か対策はあるの?」
『御寺さんに連絡したら、そっち行くって言ってた。時間的にはもうすぐそっち着くはずだから、来たら対応してあげて』
「御寺さん……!?かぁ……」
視界の片隅にゴキブリでも見たような嫌な表情を黒瀬は浮かべたが、こういう状況なのである意味仕方ない……そう思い、顔色を落ち着かせた。
『あ、そうそう。今手が離せないから帰りは御寺さんの車に乗ってって。じゃあお願い』
「ちょ、ちょっとお母さん迎えに来てくれるんじゃ──!」
問答無用でそのまま電話は切れて、ツーツーという冷たい音だけが受話器から流れて来た。思わず手に持った受話器を黒瀬はねめつける。
「もお……お母さん投げやりなんだから」
母親への不満を口にした黒瀬は受話器を戻すと残っていた事務員にお礼を言って、白谷の所へと戻る。視線だけを黒瀬に向けた白谷は、無言で幼馴染を迎え入れる。
「駿、ゴメン。御寺さん、今こっち向かってきてるって。だからもう少し待って」
「え?御寺さん……?」
御寺、という人名を聞いた白谷は少し驚いた反応を示し、さらに落ち込んだように顔を俯かせた。
御寺由紀。表向きは自治省の職員となっているが、本当は非公開省庁である"魔法庁"の所属で黒瀬や白谷と同じ風を操る術者でもある。福井県を含む中部地方に住んでいる術者の監理監督担当官で、砕けた言い方をすれば"世話を焼いている"。
黒瀬はその御寺に対してはいい感情を持っていなかった。初対面時の口調やしぐさがどうにも癪に障ったようで、対面後には周囲に当たり散らしていたほど。
「……しかし何で御寺さん?」
黒瀬は母親に対処法を訊きたかっただけだった。しかし、その方法は伝えられず、代わりに来るのが魔法庁職員……どうにも話が大きくなってしまってるような気がした黒瀬は、なんとなく背筋に薄ら寒さを感じざるを得なかった。
これは、ちょっと騒動になるかもしれない……黒瀬は、母親に相談してしまったことに後悔をし始めていた。かといって緑川と北川が、魔法についてもっと知りたいと言って来たらどう対処していいのか……黒瀬一人どころか、白谷と一緒に考えても両の手×2人分の手には余るのではないか。黒瀬の心の中には心配事がパイの生地のように積み重なってゆき、それに比例して怖さがジワリと蝕んでいくように感じられた。
「結衣……その、すまん。こんなことになってしまって」
「駿は気に病むな。それよりもこれからどうするか、でしょ?」
「……うん」
「とりあえず、御寺さん来て話ししてから考えよ。自分らだけではもうどうにも出来ないんだから」
「……うん、わかった……」
白谷の俯きは、二言三言話したところで回復はしなかった。
事務室前の廊下で二人が話していたその横顔を、外から鋭い光が照らし出し始めた。
ガラス越しにでも眩しいと感じるその光は、校門から伸びる道路をまっすぐ高校へと向かってくる。さっき電話で言っていた、御寺の車なんだろうということを黒瀬は予測できた。それなりの速度でほぼ無人の校門を駆け抜けると、来賓用玄関の前でその車は急停車し、同時にヘッドライトがその役目を終えて消され、中から女性らしき人影が降りて来た。
「……御寺さん、か……」
黒瀬の表情には、歓迎という文字は余り無いように見受けられる。
玄関から外へと漏れ出す蛍光灯の薄明りに照らされたその人影は、数か月前福井駅前の純喫茶で見た時と変わってはいなかった。
一見水商売風だが、そこまでケバくないギリギリの線で踏みとどまった風貌ながら化粧は控えめ。きらりと小粒ながらその存在感をアピールする右耳の水晶付きピアス。使い込んではいるがブランドものらしいベージュのトレンチコートを羽織り、黒地の革製のブーツを履いて石材の床を硬い音で響かせながら"自称"自治省職員は、颯爽と、という言葉を具現化したような身なりで学校敷地内に足を踏み入れた。小走りに玄関へ向かい、廊下でその光景を見ていた二人に視線を合わせる。
「黒瀬さん、白谷君……ちょっと」
御寺は手招きをして外へ出るように促した。内履きでは外に出られないため少し待ってくださいと黒瀬は言うと、二人は一旦生徒玄関経由で御寺がいる場所へと向かう。エンジンがかかりっぱなしの車の前で、迎えに来た公務員は二人が近づいてくるのをじっと見つめていた。
小走りに近づいてくる黒瀬の後ろで、動きの精彩が無い白谷に、御寺の視線は固定された。
「……白谷君、何か元気がないみたいだけど」
「それは……」
御寺の問いに、黒瀬が言い淀む。御寺はそれを察したのか、
「まあいいわ。とにかく乗って。中で話しましょうか」
「──電話の後はそう言う事になってたのね」軽快に回るエンジン音と煙草の臭いと車内芳香剤が立てる柔らかな石鹸の香りを車中に充満させ、御寺の運転する車は国道8号線を北へと向かっていた「ちょっと……防がないといけないかもしれない」
「防ぐ?」
助手席の黒瀬が御寺の言葉を受けて疑問を呈した。
「そう。防ぐ」
「……意味が分かりませんが」
黒瀬の、やや温度が低い言葉を聞き流した御寺は、助手席を一瞥すると視線を前方へと戻す。
「お母さまからは何も聞いてはいないみたいね」
「そうですけど……」
御寺は黒瀬の返答にはすぐに反応せず、バックミラー越しに、後席で俯き加減で大人しく乗っている白谷をちらりと見つめた。
信号が赤を示し、車は大型トラックに包囲されたような状態で停車した。窓からは周囲のディーゼルエンジンの、静粛さをかなぐり捨てたようなエンジン音が遠慮なく侵入し、室内をよりにぎやかにしていた。
御寺は深呼吸するように息を吸うと、何かを言いかけて──本当の事を言うことを諦めた。
面倒な事は今はやめておこう。御寺はそう思い、別の言葉を用意し突き放すように黒瀬に告げる。
「知らないなら……後日、改めて教えます」
言い方が黒瀬の癪に障ったようだった。彼女の、御寺を見る目つきと口調は鋭さを増していた。
「教えてくれないんですか?」
言われた御寺は黒瀬を再び一瞥する。他人からは断定できないような、複雑かつ雑多の、幾多の成分が混じった視線を投げかけ、そして前を向いた。
信号が青になり周囲も含めた車が一斉に動き出す。御寺はアクセルを踏みつつ、問答はここでは不要とばかりに温度の低い言葉を投げかけた。
「……その義務はありません」
「どうせ何も聞かされてませんよ自分らは……!」
「──知らないことのままでいた方がいいことも、時にはある」
自嘲気味の黒瀬の言葉を切断するように、御寺は力を込めた声で被せた。睨みつける視線が、助手席から御寺へと突き刺さる。それを無視するように御寺は続けた。
「後日、教えます。その時まではおとなしくしててください」
「……」
黒瀬は沈黙した。本当は言おうとした言葉があるのだが、それを喉の奥に閉じ込めた。
押し黙った彼女が何を言おうとしたのか、御寺にはなんとなく判るように感じた。
「安心しなさい。酷いようにはしない」
その言葉は、黒瀬にとってはどこまで信用していいのか計りかねる気分だった。しかし、自分たちが問題を引き起こし、その幕を引けない状態で他人の力でどうにかしてもらう立場にいる黒瀬と白谷には、抗うという選択肢すら初めから存在していない。
まだ営業しているスーパーからの灯りが差しこんでいる交差点を、左折の指示を出して車は8号線を離れてゆく。時間が時間なだけに交通量は明らかに減っていた。県立病院へと分岐するT字路を過ぎ、車はゆるりと右コーナーを通っていった先の交差点でその速度をゼロにした。
「黒瀬さん。お願いがあります」
「……何です?」
「その2人の、顔が判るような資料を手に入れておいてください。出来れば、今、家に着いたら」
「……」
「そんなに心配しなくていいです。魔法庁職員は、どっかの物騒な許可証を持ったエージェントじゃありません。ただの公務員ですから」
信号が青に変わった。車は、ゆっくりと交差点を右へ、御寺はステアを切った。
既にこの日のバスは走り去った後だった。にもかかわらず、そこには2つの人影が今日はもう来ないバスを待っているかのように、時間が過ぎてゆくのをじっと待っているように、通り過ぎる車からは見えた。
緑川と北川は、緑川の兄がよこしてくる車を待っていた。
車で迎えに来て欲しいと電話をかけた緑川は、受話器の向こう側から聞こえる兄の不平不満を聞き流しつつ、じゃあ待ってろとの了承を得る事が出来た。
二月の半ばの夜は、外で待つ二人の身体をじわじわと寒冷化させようとコートの上から侵略していた。しかし今の二人にはそれに拮抗しうるほどの事に気を取られていて、興奮で温められた体は十二分にそれらに対抗し得ていた。
「魔法が発動した時って、トリガーというか、何かキッカケみたいなもの、ってありました?」
「いえ、突然光って……もし呪文を知らない間に唱えてたとしたら、それは普通の人には聞き取れない可聴域外の音波か……それとも無茶苦茶短いせいで、一瞬過ぎて認識できない、とか?」
「可聴域外の音波と言うと犬笛とか、それに類する超音波類……か。聞こえなかった、という事からすれば案外それかも知れないですね」
「断定はできませんが……ひょっとしたら呪文を唱えること自体、やらないとか?」
「でもそれだと、ペンダントの水晶の意味がなくなるんじゃないかと思うんです。水晶が光った、という事はそれが魔法を媒介する触媒の役割を果たしてるはずですから、直接効果を発揮できてしまうとそれは魔法使いじゃなくて超能力者になってしまいますね……」
「やはりそうなりますよね……ということは、やはり音声とかそれに類するものがトリガーになる、と考えた方が自然ですね」
「今までの事を考えると、音声がそれだとしても、テレビやマンガみたいに悠長に唱えていられるほど長くはなく、下手すると極端に短いために聞き逃しやすい……しかも呪文と判らないくらいに巧妙な音で構成されている、または非可聴域を使ってるのか……何か魔法という僕たちが持つ常識を少し見直さないと、このことは判らなくなりそうです」
「テレビやマンガの魔法は、あくまでそれがそれだと明確に示すための、一つのガジェットと思えばいいのかもしれないですね」
「ガジェット?」
「あ、最近英和辞書引いてて面白い言葉だなぁ、と思ったのですが、意味としては"道具"とか"小物"という意味だそうです」
「そんな言葉あるのか……さすがは北川さん。僕の知らないことまでよくご存じで」
「緑川くんこそ、私が知らないことをサラッと言われることがあって、まだまだ私は何も知らないんだなぁ、って思ってしまいます」
北川は一旦緑川との楽しい言葉の応酬を止め、しばしの周囲の喧騒を楽しむ様に口をつぐんだ。周囲の光を透かすように彼女から零れる白い息が、ふわりと広がって、やがて溶け込んでゆく。
「……何も知らないから、だからこそ、東京へ行かないと……」
真横にいるからこそ、緑川は北川の、決意にも似た呟きを聞く事が出来た。彼女の、その意思を聞いた後、彼はややあって、それに沿えるような言葉を告げる。
「……なんだか僕も、もっといろんなことを知りたいと思うから……福井を出ようかな」
それは緑川の中で、さながら列車の行き先を決める転轍機がガチャリと動いて明確に行く方向を照らし出しているように、思えた。
まるで操られるかのように北川は、隣にいる緑川の横顔をみつめた。通過する車のヘッドランプを受けた彼の眼鏡が、きらりと鋭く反射する。
「……一緒に、出ましょうか?」
そう言った北川は何故か顔の温度が、数度、上昇した……ように感じた。
「……一緒に、出ましょう」
二人でまだ見えていない"知"という名の未踏の地を突き進むのも悪くない──緑川は、何だか心が落ち着くような安堵感を覚えた。それはしばしの寒さを完全に忘れるくらい、暖かなものだった。
やがて、二人の前に一台の車が滑り込んでくる。急減速しながらハザードをつけ、二人の前にピタリと止まった。
翌日。
開店して間もない喫茶店に客と呼べる存在はいなかった。福井駅すぐ横にあるアーケード街にあるとはいえ、開店してすぐに客が寄ってくるような名の知れた喫茶店ではないのも理由の一つかもしれない。
その喫茶店は……表向きは流行って無さそうな純喫茶なのだが、その実は非公表省庁である魔法庁の県事務所も兼ねている。
店内にいるのはマスターの男性と、開店前からいる1人の女性だけ。閑散とはしているが、店としては通常営業と言えるものだった。
「御寺さんや、どうする?」
カウンターに昨夜、黒瀬から借り受けた資料を並べ、腰高の椅子に腰かけた女性──魔法庁職員の御寺は、マスター兼事務所管理者の布目からの問いかけに、今更何をと言わんばかりに事務的に応答した。
「どうもこうも、今回は出張らないとダメっぽいですね……」
「やるのは初めて……?」
「1回だけありますね。あんまりいい気分じゃないですけど……これも給料の内ですから」
「話にあった、1年生に関しては?」
「あれは昨日聞いた分では、現状そこまで話は拡散してないようですから、このままでいいと思います」
御寺は変わらず手元の資料を見続けている。特に、顔写真のページを丹念に見つめ、目標となる二人の容貌を僅かな特徴でも記憶しておこうとする気迫に満ちていた。
「……どんな感じなのかねぇ、それは」
何かを思った布目は、コーヒーカップを磨きつつカウンターの高椅子に雑に腰かけている御寺に訊いた。訊かれた方は、何故か横目で親の仇でも見るかのように視線を資料から外した。
「……マスター、何なら奥さんと離婚すれば体験させる事が出来ますが、いかが?」
「……冗談にしちゃキツイな、御寺さんよ」
苦笑いの布目に少しやり過ぎた、と御寺も謝罪の成分を少し混ぜたような苦笑いを浮かべた。
「すみません。ただ……私はする方ですけど、それでも、いい気分じゃないことは言っておきます」
宮仕えはきついよ……そう代弁するかのような深めのため息を一つついた御寺は、手元の資料を伏せた。やがてあくびと共に眠気が再び襲来したのか、御寺は布目に向き直ると眠そうな目を向けて、
「マスター、渋めのブレンド1つ」
「眠気覚ましね……」
布目は彼女のそれを見つつ、背後の戸棚からコーヒー豆が入ったいくつもの小さ目なコーヒー豆が入ったデシケーターを取り出した。そこから適量、豆をミルに放り込み、また別の容器を取り出して豆を放り込む。それを3度ほど繰り返した。
「そういや昨日何時まで起きてたんだ?ずっと店にいたろ?」
「そうですねぇ……気が付いたらオールナイトの2部始まってたから……3時過ぎ?」
「で、今日は何時頃出る予定?」
「……夕方近くに出ます」
「しばらくあるなぁ……仮眠するなら、奥の方、空いてるぞ」
「ありがとうございます。資料のチェックと今回の処理予定表書いたらしばらく横になります」
「しかし夕方に設定したのはどういう理由?それに、それまでに二人がそれを拡散することはあるかもしれないが?」
「夕方に設定したのは目標の二人は資料や黒瀬さんからの話によるとそれぞれ違うクラスなので、一緒に居る時間帯が昼間か放課後という事だそうですけど、昼間はまだこちらの準備が整ってませんから、夕方、放課後を狙って行います。どうせなら二人いっぺんに処置した方が効率的ですし……。あと、情報拡散に関する懸念事項ですけど、直接見た二人に対して、そうでない、間接的に話を受ける方はまず疑いを持ちます。ましてや今回は成績がトップクラスの2人なので、なおさらそう言う事を話しても聞く方は珍しく冗談言ってると思い真面目に受け取らないか、逆に勉強のし過ぎでおかしくなったんじゃないかと茶化される可能性があり、鵜呑みにすることは少ないだろうと思ってます。他の人が真面目に受け取らない事や疑問を持つこと自体が、話を広めようとしても障壁になりますから、今日の内なら時間的に多分大丈夫かと。話を広めるコアを失えば周囲への拡散は限定的になり、やがてなかったことに変わるでしょう」
「……上手く行くといいね。意味合いが嫌な感じだけど」
布目が零すように独り言を発した。
「まあ、この二人が変な事をしなければ、立て続けにこういうことはせずに済むでしょう」
御寺はそう言うと、背筋を伸ばすように、両の手を天井へと伸ばした。
会話の終了の沈黙を埋めるように、布目はコーヒーミルのハンドルを握るとゆっくりと回し始める。ガリ、ゴリ……と固い音を周囲に響かせつつ、粉になったコーヒーがミルの下の受け皿に小さな山を築いていった。
放課後。
秋翠高校の生徒会室では欠損した資料が揃ったおかげで作業が進み、目途がついたためか書記の加賀山と会計の若井はまだ駅前行きのバスが残っているうちに、と早々に帰宅させた。生徒会室には会長の緑川と副会長の北川の二人が、わずかに残った業務を今日中で終わらせるためにラストスパートをかける。それも終わると、二人は計らずに同時に両の手を天井に向けて背筋を伸ばす。
「とりあえずは終わりましたね……」
「一時期はどうなるかと思いましたが……」
二人は視線をそれぞれの眼鏡越しに交わすと、似たタイミングで笑顔になる。
「どうします?」
「昨日が昨日だったので、今日は帰りますか。まだ最終のバス残ってたはずですし」
24時間ほど前は、学校内で大立ち回りをやっていた。"魔法"が本当にあるのか、実際この目で見て見たい──結果、二人としては魔法が発現するのを目の当たりに出来たことで知的欲求を幾分か充足できた。しかし二人は互いに自分の中でその欲求が、次第に膨らむ風船のようにジワリと大きくなっていくのを感じていた。そしてそれに付随して、このことを解明するのは自分たちしかいない──使命感にも似た義務感が、次なる欲求を満たそうと首をもたげ始めていることも薄々と気付き始めていた。
「昨日は色々と凄い事が目の前で起きたせいか、なかなか寝付けられなかったです」
「僕もそうです。本当にあるんだなぁ、って。まだ動作原理とか知りたいことが幾らでもあるけど、そこは追々白谷や黒瀬さんに訊けばいいでしょう」
「でもあの時の緑川くん、なかなか悪人顔でしたね」
「え、そうですか……僕もそんな顔するのか……。って北川さんも実はしていたんじゃないですか?」
「私も多分してたんだと思います……なんか怖いですけど、でも、知っていく事の気持ちよさ、ってあるじゃないですか。私、今まで以上にそれを感じています」
「楽しいですよね……どこか、無人の荒野を征服して行くような、そんな爽快感というか」
「そうそう。なかなかそう言う事に気付きにくい人って多いですけど、一旦味を占めてしまうと、もう戻れないというか……次々と新しいことを知って自分の物にしていく事が病み付きになってしまう感じです」
北川は、緑川からの言葉の反応が無いことにしばらくしてから気づいた。二人とも笑顔のまま、しばらく見つめ合う時間が過ぎてゆく。
「……どうか、しました?」
「あ、いや……何かずっとこういう楽しいことを追いかけていきたいなぁ、って思って。北川さん5組だから理系ですよね?」
「そうです。緑川くんは文系ですね」
「……このことを解明しようと思うと、文系では難しい様な気がします。なので今更だけど、理系に変更してもらおうかなぁ、って今ふと思いました」
「変更ですか……でも、緑川くんなら、出来るでしょう」
「難しいですけど、頑張って……北川さんと同じ大学で一緒に勉強したいです」
そう言われた北川の表情に、朱が混じり始めた。そして、やや俯き加減になり、笑顔がさらに華やかになってゆく。
「そうですね……同じ大学めざしましょう。とりあえずは物理学が強い大学を中心としてピックアップして、4月になったら本格的に傾向と対策を組んで、現役で一緒に……」
「現役で一緒に」
緑川はそう言った後に北川が続いてくれると思っていたが、肩透かしのような、ポツンと妙な沈黙の隙間が空いた。不思議に思ったが、その答えは話し相手の顔にすでに書かれていた。
「あ……それと、緑川、くん……」
「何でしょう」
男としての直感に近かった。顔の温度が妙に高いように思え、勝手に心臓が、まるで走った後のようにドキドキし始めるのを、緑川は全身で感じていた。
「あの……名字じゃなくて、名前で、呼んでいいですか……ね?」
もじもじと言い淀む北川。さらに顔が朱に染まり、言葉が尻切れトンボになる。
久しぶりに味わった、懐かしさを伴った感情と、想い──緑川は、身体が勝手に動くのを止める術を忘れてしまったように、北川との距離を詰めた。ふわりと柑橘系の香りが彼を包み込む。
「──僕、いつ北川さんが僕の名前で呼んでくれるんだろうと思ってました。もちろん、呼んでいいです。それが出来るのは、北川さんだけです」
「あ、ありがとうございます。なら、緑川くん……じゃなかった、勇樹くんも、私の事を」
「もちろんです。秋絵さん」
「ありがとう……これからも、一緒に……ってそうそう、忘れるとこだった。これ……」
彼女は思い出したように自分のカバンをまさぐった後、中に入っている綺麗な包装紙に包まれた、直方体の物を取り出そうとした──生徒会室の入口の引き戸が開かれて、何処か間延びした女性の声が聞こえて来たのはほぼ同時だった。
「あのお……すみません。岩崎先生がここで待ってろと言われて来たんですけど……いいですか?」
二人は突然の闖入者に、強制的に視線を向けさせられた。
学校という"神聖"な領域には似合わない、どこか夜の街を連想させるややケバメな印象のその女性は、引き戸から結界を超えられないかのようにその場に居ながら生徒会室を、同時にそこにいた二人を見つめていた。
緑川も北川も、状況を呑み込めずに何事と言いたそうにひきつりながら、言葉を告げられずにその女性を見つめていた。
ソバージュヘアに、右耳に時折蛍光灯の光を小さく反射させる水晶のイヤリング。ベージュのトレンチコートを着たその女性は、もう一度部屋の中を見回すと、生徒会長や副会長の許可を得ずにゆっくりと足を踏み入れた。
「あ、ごめんなさい。わたし、岩崎先生の大学時代の友人で御寺、って言います。今日、同窓会の事で話があるって訊いてきたんですけど、まだ仕事終わんないみたいで、生徒会室で待ってろって言われたので……先生が来るまでいさせてください」
その姿勢はあくまで低かった。何度もぺこぺこと、水商売風なその身なりからは程遠い動きで少しづつ申し訳なさそうな笑みを浮かべて部屋に入ると、引き戸を閉めた。足元に廊下の冷えた空気と彼女から漂う煙草の臭いが滑り込む様に床を伝って二人に足に遅れて届く。
「え……あ、ああ、構いませんが……」
ようやく言葉を発せるようになったのか、北川がたどたどしく反応する。二人ともさっきまで座っていた椅子に腰を落としつつ、しかしその表情は、二人だけの秘密にしたい雰囲気を土足でぶち壊すような部外者に対し、怒りもあって険しさを崩さなかった。
それは緑川も同じだった。眼鏡の奥の瞳は、学校に似つかわしくないその女性を射るように鋭さを維持している。
「岩崎先生ですか……確かに生徒会の顧問ですが」
警戒は維持していた。しかし部外者が知る由もない生徒会顧問の名前が即座にその女性から出たことによって、その水位は少し、下がっていた。
岩崎先生は、顧問とは名ばかりでめったに生徒会室に足を運んでこない。生徒の自主性を重んじる、と言えば聞こえはいいが、ただ単にそこまで手が回らないか、放置しているだけなのか……緑川も北川も、先生に関してはせいぜい議決や予算の承認を得るくらいでしか会うことはなかった。
二人の視線の強さは、御寺も充分に判っていた。まあ、警戒するよね──そう自分に向けて呟く。
そして、目標の二人の反応を見るために、御寺は口を開いた。
「わたし、久しぶりに福井に来たんですけど、相変わらず寒いですね……そういえば福井と言えば、昨年の秋にたまたまこっち来た時に見ちゃいました。駅前でトラックがバランス崩して歩いていた高校生のカップルに突っ込むところ──」
「え……見たんですか!?」
緑川が思わずといった感じで身を乗り出す。椅子から立ち上がり、詳しく話を訊こうと御寺のそばまで足を運んできた。やや遅れて北川もその距離を縮める。緑川と同じように、その表情からは御寺に対する厳しさは確実に減少していた。
普通なら何を言い出すのかと心の防御線を張るはず。反応があったら……それは"目標"として対処しなければならないことを意味している。
そしてさっきまでの鋭さや警戒感は、二人からはまるで感じられなくなった。
二人とも警戒心より好奇心が勝ってしまった。
仕方ない──御寺は彼らに聞こえないように、蚊の羽音に負けるほどの小声で呟いた。
「できれば詳しく教えて下さい。その時の状況とか……」
「え……えっと、わたし、見ていて突然の事で驚いてたので詳しくは話せないですけど……」
自分でも酷い演技してるな──自己嫌悪に陥りながらもぐいぐいと迫る北川の迫力に負けるように、御寺はいくらか後ずさりながら二人の接近を許していた。
「そ……そう、何か突然強い風が吹いたのは覚えてる」
たじろぐ演技をしながら御寺は二人に対してわざと隙を作ってゆく。その空間を埋めるように、二人はさらに近づいて行った。
「風が……間違いない。この時も白谷は魔法使ってる。風の力でトラックの進路を逸らせたんだ」
「どのくらい二人から離れてたんですか?体感的に風力幾つくらいとか?」
緑川と北川の顔からは完全に御寺を警戒する雰囲気は失われていた。好奇心に夢中で、自分が誰と接しているかを完全に喪失し、心を許しているかのようだった。
そして今、緑川から零れた"魔法"という単語に、御寺は"処置"を施すことを心に決めた。何も知らない普通の人が、こちらから何も情報を言わないうちにその言葉を持ち出したことは、この二人が間違いなく昨日の当事者だったことを証明していた。
「えっと……確かこれくらい」
ごめんね──御寺は心の中で二人に言った。そして、言葉を構築し、それを口にする。
パキン!と、何か固いものが折れたような音がした。
その刹那、御寺の右耳の水晶がきらりと一瞬、輝いた。水晶の中に潜む"悪魔"が、口にした言葉を忠実に実行し、風が吹きつけることもなく瞬間的に部屋中の空気を一点に集中させる。
真空状態になった空間を埋めるべく周囲の空気が風となって廊下や資料室から駆け抜けた。通常の物理法則を無視して一点に凝集された空気が、真空を埋め尽くす風に乗って今度はその秘めた力を解放する。それは、人の耳に聞こえる帯域を遥かに超える高い周波数を伴っていた。
二人を、その高い周波数──ある部位に特定の反応を引き起こす周波数を伴った超音波が襲った。
「えっ?」
「あれ?」
二人は頭の中心が一瞬、ぐらりと歪むような感覚に襲われた。平衡を失って倒れそうになるような、意識はあるものの身体の自由が利かない、何処かもどかしいその感覚が体中を駆け巡る。
しかし、それは1、2秒で終わった。二人はそれぞれ倒れ込む直前にバランスを取り戻すと、目の前の視界がまだ歪んでいる様なフラフラとした意識を引きづりつつ、視界がじわじわとその認識の領域を広げてゆく。
「……な、何が起こった……?」
緑川は頭の中心に何かがこびりついたような違和感を振り払うように、頭を幾度となく振る。そして、片膝をついて何とか倒れ込むのを防いでいる自分に気が付いた。回復して行く視界の片隅には、似たようなポーズで立ち上がろうとする北川の姿が見え始めていた。
「……何か気持ち悪い感じ……」
北川がお腹から沸き起こる吐き気を堪えるように、口に手を当てつつゆらゆらと体を起こす。しばらくしてその気持ち悪さが収まっていったようで、北川の表情はいつものような落ち着きぶりを取り戻そうとしていた。
「き……北川さん、大丈夫か?」
「緑川くんも……今の、何……?」
「判らない……何なんだ、今のは?」
そして緑川は気が付いた。さっきまでいたはずの、生徒会顧問を訪ねて来た女性は初めから存在してないかのように忽然と姿を消していた。
さっきまでいたはずの?──そう思った緑川は、果たしてその記憶が現実にあったことなのか判別がつかなくなっていた。いる記憶といない記憶が必要な部分だけ都合よく組み合わされ、それらが継ぎ目なく綺麗に一つにまとまって不可分な、二度と引き剥がせない状態で緑川の頭の中で上演されていた。
「そもそも、どうして生徒会室で倒れ掛かってるの……?」
「さっき来た女性が──女性?」
「──でもさっきから私と緑川くんしかいなかったはず……」
何とか立ち上がった二人は、ちぐはぐな記憶に振り回されて思わず互いを見合った。
「……それに、もう業務が粗方終わったのに、何でこんな遅くまで生徒会室にいたんでしょうか……?」
「それは……」
緑川の喉元には、言葉にしようとして引っかかった小骨のようなもやもや感が、二度と取れないかのようにしがみついていた。
それは確かにあった。しかし、記憶という記録が消しゴムを乱雑にかけたかのように思わせぶりな欠片が残り、推理し、再構築しようとも肝心なピースが初めから存在しないジグソーパズルを組み立てているかのように、もどかしさだけが無限に蓄積されていくようだった。
北川の方も似たような不快さが残っているようで、時折顔をしかめてまだ残ってる気持ち悪さに耐えているかのようなしぐさを見せる。
「北川さん、大丈夫ですか……?」
「私は大丈夫です。緑川くんは?」
「僕も大丈夫です。でも、北川さんの体調がよくないように見えるから、もう帰りますか」
「……そうですね。帰って、家で落ち着いて考えてみます」
緑川は北川の言葉を是とすると、資料類を軽く片付け、自分の荷物をまとめ始める。北川の方も同じ行動を取って荷物をまとめてさて帰ろうとした時に、カバンの中にある豪華な包装の箱に気が付いた。
「……何で?」
「どうしました?」
既にカバン等を持ってコートやマフラーなどの冬装備を整えた緑川が、変なものがカバンの中にあるかのように目線を固定して固まっている北川に訊いた。数秒間固まったまま動かない北川は、しかしそれを無視するかのようにカバンを閉じると、いそいそとコートやマフラーを纏って帰る準備を整えた。
「ごめんなさい。じゃあ帰りましょう」
「じゃあ出ますか」
二人はストーブが消えているのを確認し、廊下へと出た。引き戸を閉める前に、部屋の電気を落とす。
暗転した部屋は、外のかすかな明るさに照らされ、一部が自ら光ってるように浮かび上がっていた。まるで、今日も何事もなかったかのように。
──緑川は、いつものように、引き戸を閉めた。




