風になれ!
登場人物
黒瀬結衣:女子高生(2年生) 白谷駿とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 魔法使い(術者)だが現在はその魔法のリハビリ中 成績は優秀 眼鏡を掛けている 4月8日生まれ
白谷駿:男子高生(2年生) 黒瀬結衣とは家が隣で幼馴染で腐れ縁で同じクラス 実は存在自体がレアな男子の魔法使い 成績は下あたりから最近は普通くらいに 3月25日生まれ
緑川勇樹:男子高生(2年生) 生徒会会長。成績優秀で、大人しくまじめな生徒。黒瀬結衣は元彼女 眼鏡をかけている 1月15日生まれ
北川秋絵:女子高生(2年生) 生徒会副会長 成績は学年トップからほぼ落ちたことがない程 何故秋翠高校にいるのかが謎と言われる 眼鏡をかけている 6月4日生まれ
逃げている途中で北川は履いている内履きを脱いだ。これで床との音があまりしなくなる。
屋上へと続く階段室の天井の灯りは、節約のためか、明かりはついていなかった。北川は、周囲を見回し誰もいないことを確かめると、下の階の廊下から何とか届いているかすかな明かりを頼りに慎重に階段を上がり切って、屋上へと出る小さなテラスのような踊り場に腰を落ち着ける。余り物の生徒用の机や椅子、鉄製やあちこち破損して見栄えの悪い木製の教卓、事務室で不要となった事務机や椅子、扉が壊れた細身のロッカーなどが、雑然と整然との中間位の乱雑さで下からは容易に見えないようにはなっており、北川はその内の、階段からは腰板に囲われて容易には見えない教卓の下に隠れるように身をかがめて時を過ごしていた。
呼吸を整え、余計な音をさせないように深呼吸すること数度。心臓のドキドキは依然、激しいビートを奏でながら続いている。
──ソコソコ足が速いのがこんな所で役に立つとは……北川は持って生まれた素質に感謝した。
土間引き戸のガラスからは、漆黒に染まった空が見えた。幾重にも重なる雪雲で本来見えるはずの星たちは隔絶され、その姿は見る事が出来ない。地上からの照り返しを受けた雪雲の一部は鈍くそのディティールを見せ、その厚みを誇るように、ゆっくりと西から東へと流れてゆく。その見づらい環境の中で、北川は制服のポケットに入れた水晶のペンダントを取り出した。
ペンダント、というには水晶自体が大きく、ずしりとした重みを感じている。手に取ってかざし、薄明りの中をじっくりと見つめる。
「……どう見てもただの水晶にしか見えないですね……」
自分でも聞き取れないほどの小声で呟く。
わずかな光を反射して、薄暗い中でも水晶がきらりと光る。もっと明るければもっと良いように見えるかもしれないが、薄明りでも綺麗なものは綺麗だった。
階段室に誰かの足音が遠くから聞こえて来た。足音からして男子──多分、白谷だろう。焦ってるように息を荒々しく吐き出し、足音はやがて下へと降りる階段の手前辺りで一旦止まる。北川は息をひそめた。何かつぶやくような音が聞こえた数瞬後、足音は下へと向かい、次第に音が小さくなってゆく。
静けさが戻ってきた。自分自身の、規則正しい呼吸音だけが耳に届いている。
「緑川くん、ちゃんと来てくださいね……」
ここまでは上手く行っている。しかし大事なのはこれからで、それは合流しないと始まらない。北川は神様にお願いするかのように、教卓の天板裏を仰いで口にした。
ペンダントをポケットに再び忍ばせ、北川は膝を抱え待ち人が来るのを待つ。
屋上自体、生徒は余程の事が無い限りは出入りが禁止されている。そのため、東校舎の3階から屋上へと続く階段は昼ですらほとんど誰も寄り付かない。ましてや、ほとんどの生徒が下校した、とうに日が暮れて夜になった時間帯においては。
近づいてくる足音がしたらそれは、当事者と思っても差し支えなかった。
「……」
時計を見ていないのでどのくらい潜んでから時間が経ったのか、北川には判らない。腕時計はしているものの、アナログ時計の為、この暗さだと針があまり見えずに時計の文字盤が読みづらかった。5分かも知れないし、ひょっとしたら1分も経ってないのかもしれない。
確かなのは、次第に北川の心の中で緑川が来るのを待ち望む声が大きくなっている事だった。その声が高まるにつれ、心細さも比例して大きくなってゆく。
2月の半ばという時期な上に、暖房という言葉自体が縁遠い最上階。廊下がまだマシなほどの寒さに北川の身体は防御反応で、ぶるっ、と震える。
時折、北川は首を巡らし、階段や廊下から聞こえてくる音を少しでも遠くから捉えようとする。
目的が同じの、待ち人の足音を。
……やがて、また別の足音が廊下をこちらへと向かってくる。北川は身構え、身体を緊張させた。
あの二人のうちのどちらか──足音は、階段室の前で一旦止まった。緊張感が増大して、北川は自分の鼓動がこの教卓だけではなく階段室全体に聞こえているのではないかと心配するほどだった。
しかしその心配は、階段の手すりを支える細い鉄製の手すり子越しの向こうの、薄明りの中に浮かぶ姿を見て、何処かへと霧消したようにきれいさっぱり消え失せた。右手に木刀を持ったその姿は、腰板の下からちらりと覗き見る北川を見つけると、静かに、しかし時間を惜しむ様にまるでチーターのようなしなやかさで素早く駆け上がってきた。
「北川さん……遅くなってごめんなさい」
緑川が小声で謝りつつ北川の隣に腰を下ろした。持ってきた木刀をタイル張りの床に置く。
北川は、隠れ家から抜け出して薄明りの下、彼の姿を……しばらく呆然と見つめた。心細さから解放されて、言葉にならない感情を整理できずにどう表現していいか判らなかった。そして彼女は言葉の代わりに内なる衝動に従って彼を、緑川を柔らかく抱きしめた。
「北川……さん?」
緑川は、彼女の感触を制服越しに全身で感じていた。どことなく匂いたつ彼女はかすかに柑橘系の香りがした──緑川は少なくとも、そう感じた。
「……すみません、思わずホッとしてしまって……少しはしたなかったですね」
「あ……いえ、そんなことは……無いです」
気恥ずかしさに北川から意識せずに視線を外した緑川の体温とドキドキは、明らかに上昇していた。動いていたせいもあるが、それ以外の要因も上昇に加担しているようだった。
「ここ、寒いのでしばらくこうしていたいです……」
緑川のやや大柄の身体を抱きとめる北川の両の手に、力がこもる。さらに抱き寄せられて、互いの制服越しに互いの存在感が強くなっていった。
緑川の両手は、しばらくの間、迷っていた。
抱きしめるのは簡単だ。
ただ未だに捨てられない"心の引っ掛かり"が、本当にそれでいいのか、問いを発していた。
それに対する内なるもう一人の自分の声が、囁く──自分から切った癖に何をいまさら。それに、今更元に戻せるとでも?その方策は?相手の想いは?
「……結局、僕という人間も思春期からは逃れられない、ってことかな」
付き合う相手をちょくちょく変えるというのは恥ずべき行為だと、緑川はそう思っていた。
しかし、今はまだ、判る気がしてきた。
自分の隣の空虚に、自分自身が耐えられないからだ。そのサイクルが早いかゆっくりかの、それだけの違いでしかない。緑川はそれがうっすらと判り始めた。
自然と、緑川の両の手は北川の身体を柔らかく包んでいた。制服越しの彼女の温かさが、掌にいとおしく伝わっていた。
それに気づいたか、北川がささやく。かすかな光に照らされた、笑みと共に。
「……なんだか私達、これからいけないことをしようとしてるみたいですね」
「いけないこと……?」
「このまま私と緑川くんとで、今日の夜、どこかで過ごして、って思ってしまって」
「き、北川さん?」
「白谷くんの水晶奪っておいて何ですけど……今緑川くんが来た時、正直、あの二人の魔法がどうこうってもういいんじゃないかな……なんて思い始めてしまって」
「それはちょっと……」
苦笑いの緑川だが、その眼鏡の奥の瞳は、半ば北川の意見になびこうとしているようだった。
これからやることは、下手をすれば内申に傷が付くかもしれない。それを考えると、二人で駅前をただ何の目的もなく歩いてゆくだけの方が、より建設的と言えるだろう。
でも──。
「やるつもり、なんですね?」
「……どうにも、まだ好奇心の方が強いみたいです」
「……わかりました」
仕方ないですね、と言葉が続くように北川が許しを出す。
声は聞こえなかったが、わずかな光の下で緑川の口元はごめん、と動いた。そのように北川からは、見えた。
「ただ……」
緑川が、こういうことを口にしていいのかとの迷いが混じった声を躊躇いがちにこぼした。
「ただ?」
「……何て言っていいのか判らないですが……この件、僕は何だか今までの僕じゃない面が出てるような気がするんです。変な執着というか……欲というか」
そう告白する緑川を北川が垣間見た。そこには、新しい知識を得られる期待感と、それに引きずられてそれまでの自分を毀損してしまうかのような、内なる黒さを憂いたような、複雑なものが浮かんでいるように見えた。
それは北川自身も、何処かにそんな因子が息を潜めている様に思った。それは不発弾のように、何処かでいきなり活性化しないとも限らなかった。
「でも、もうこれっきりにしてほしいです」
そんな緑川と、北川も自身を戒めるかのように告げた。彼女の語勢は強かった。
しかしそれは笑みのオブラートに包まれていた。
「約束する」
簡潔に、そして断言するように緑川は答えた。どこまで守れるかは保証の限りではないが……。
その時だった。
「そういや、屋上行きの階段って見てなかったな……」
呟きと足音が階段の下の方から、二人の耳に聞こえて来た。音の遠さから、すぐ下ではないもう一つ下の階からだった。
間違いない、白谷だ──二人は確信した。
時は来た、とばかりに緑川はゆっくりと体を起こした。目を凝らし、手を伸ばし、木刀を握りしめる。
「じゃあ北川さん、手筈通り」
差し込む淡い光を、緑川の眼鏡のレンズがきらりと反射する。
緑川の言葉に、北川はこくりとうなづいた。ポケットから水晶のペンダントを取り出し、落とさないように革紐を右手に巻き付けた。確かめるように、それを顔の高さに掲げた。
足音が2階と3階の中間あたりに差し掛かったタイミングを計って、緑川は静かに階段を駆け下りていった。
──少し前。
自分の不注意とはいえ、大事な水晶のペンダントを奪われた白谷は息せき切って北川の後を追いかけるも、思ったよりも彼女の方の足が速かった。姿を見失ってもまだ足音でどの辺りかの目星は付けられたが、それもある時点でぷっつりと聞こえなくなってしまった。とりあえずはここだろうという当たりをつけて見て回ったが、北川の姿は廊下の薄暗い蛍光灯も手伝って、完全に姿を見失ってしまった。
「……クソっ!あの子、頭いいだけじゃなくて足も速いのかよ……反則じゃねーか」
見くびっていたとはいえ、頭はいいけど運動はそうでもないだろうと高をくくっていた白谷は"天は二物を与えず”という言葉を生み出した奴に罵声を浴びせたかったが、誰の言葉なんだろうかと頭をひねっても答えは出なかった。
とにかくうろついていれば何らかの手掛かりがあるかも──白谷はそう思い、傍から見て挙動不審者の如く、きょろきょろしながらゆっくりと、ほぼ無人の暗闇に沈んだ教室を見て回った。
動いてるせいであまり感じはしなかったが、時折街灯の光を取り込んだ窓から見える、自分が吐き出した息が白く霧のように広がるのを白谷は見た。頬に触れる空気も、思ってたよりは、冷たい。
「……もういい加減帰りたい」
そうでなかったら今頃は──そう考えて白谷は立ち止まり、大きく息をした。
──もし、魔法の素質が発現しなかったらどうなってたんだろう。
そう思いながら、今まであったものが無くなった、胸元辺りに出来た空虚さがさっきから気になって白谷はしょうがなかった。
半年ほど前までは、白谷の胸元には水晶のペンダントはなかった。今は、それとほぼ同じ状態になっているが、半年間の間にどうしてこうまで自分の身体の一部が欠けたような、大変な忘れ物をしたような感じになってしまったのか。
慣れ、というのは恐ろしい。
白谷はふと思った……そういえば、この状態で魔法は掛からないはずだが。
「やってみようか」
結果は判っている。しかし試したことはなかった。
白谷は、頭の中で言葉を組み、そしてそれを術者にしか発音できない"声"で唱えた。
ヴァン、という空気が爆ぜるような音が、誰もいない北校舎の廊下に小さく広がった。
しかし、音が広がっただけで別段何も起こらなかった。いつもなら胸元の水晶が淡く光り、中にいる"悪魔"が受け取った言葉を忠実に実行するのだが。
「少なくとも範囲内にはない、ということか……」探す場所、変えるか……そう思った矢先、何かすごいアイデアをひらめいた如く、電気のような"判り"が行き詰まった頭の中を駆け巡った「……ってそれなら言葉を唱えつつ探せばいいんじゃ?」
そうかその手があったか。そう思って白谷は再び唱えようとしたが、思わぬ障害がその考えを止める。
ただでさえ空腹に近い胃袋が不平のデモ行進を起こし始めた。言葉を唱えるより大きく、廊下の端々にまで聞こえるのではと思うほどそれは響いた。
「何だよ、使えなくても腹空くんかい……」
折角上手く行くと思ったのに……その落胆ぶりは誰も見ていなかったが、白谷は自分史上5位以内に入るのではないかというくらい愕然とし、力が抜けていった。
「駿、何やってんの……」
背後から聞きなれた声が呆れを伴って聞こえて来た。落胆の姿勢のまま、首だけを後ろに向かわせて声の主を白谷は改めて確認する。
「いんや……上手く行きそうな案があったけどダメだった」
「どうせ言葉唱えながら反応あるかどうか見ようとしたんでしょ?」
「……何で判った?」
「術者何年もやってないわよ。そのくらいは小さな時に経験済み。お腹が減っただけでしょ?」
「ただでさえすきっ腹の所に追い打ちかけられた」
「意外と不便なのよね……。逆に、だからこそペンダントはしっかり管理しておかないと」
「体に埋め込むとか、そんなやり方はダメか?」
「やった人いたらしいけど、術者の間でそうなってないってことは上手く行かなかったんでしょうね……一番いいのは、あの魔法庁の職員みたく、ピアスにしてしまう事かな」
「そうなんだ……道理で持ってないのに使えるんだろうと思ったけど」
「ただあれ、めんどくさいしお金かかるって聞いたことがある。自分らみたいな庶民には手が届かない話みたい。昔聞いた話だと」
……なんだかんだで現状が一番お金がかからないことが判った白谷は、どうにもならない思いを込めたため息を一つ吐き出した。
「良く判ったよ今回の事で。とにかく探さないとな……結衣、そっちはどうだった?」
「ダメ、見つからない……北川さん、あんなに足速かったなんて聞いてないよ……」
生徒会にいた時にはそんな素振りすらなかったけどなぁ、と憮然とした表情で黒瀬は口を尖らせた。
「そもそもさ、なんでわざわざ水晶、首から外したの?」
「あ……いや、なんかこう、一定の距離置きたかったから。首に掛けてたらもっとあの子、近づいてくるじゃねーか。なんか何しでかすか判らなさそうだし……だから手に持って見せた方が、って思って……」
今から思えばなんでそんなことしたんだろう、だからこんな大事に──白谷の後悔は底が無い様なほどだった。それを見た黒瀬が何やってんの、と言いたげにため息をつく。
「まあ北川さん、そんな雰囲気あるけどね……にしても駿、ちょっと不注意だよ」
「ごめん……で、結衣、次どこ探す?俺は北校舎をもう一回見て見るけど」
「自分は……」黒瀬はそう言いかけて考え込んだ「ちょっとお母さんに対策聞いてくる。こういう時どうしたらいいか、って。終わったらまた探すよ」
「判った。じゃあまた後で。10分くらい探して見つからなかったら、一旦生徒会室辺りで落ち合おう」
「うん、わかった。見つかったら大声出して走り回るから、ちゃんと聞いてね」
「わかった」
黒瀬は元来た道を戻って公衆電話が置いてある1階へと向かってゆく。白谷は幼馴染を見送ると、空腹をなだめながら北校舎を東方向へと歩んでいった。
「昼間に買ったパン、いくつか残しておけばよかったなぁ……」
もしタイムマシンがあれば今すぐその時間へと舞い戻り、半日前の自分に腹が減るイベントが起きるから絶対残せ、と言うだろう。しかし、風は操れても時間の遡行まではさすがに術者でも不可能でその上、現在の白谷にはペンダントが無い。
それが無い術者など、普通の人と何ら変わらない。
「この状態、真由にフラれた後だったら……そのままにしてたんだろうなぁ」
『術者を辞めるのは簡単だよ』
記憶の地層の中から、黒瀬が言ったその時の言葉が不意に再生された。
確かに簡単に、普通の人に戻れる──3か月ほど遅かった……のかもしれないが。
……何気なしに、白谷は廊下の天井を見上げた。いつもと変わらない天井をしばらく眺め……思わず、あれ?と呟く衝動にかられた。自然に歩くピッチが速くなる。
北校舎と東校舎との接続部分にまで白谷は歩を進める。右へ曲がれば教室へと続く廊下が伸び、目の前には地学室の引き戸がうっすらと外の街灯に照らされて不気味さを醸し出してるように見えた。その間にある、ぽっかりと空いた空間──劣化した蛍光灯に照らされた階段室を白谷は見つめた。上へと延びる階を眺める。
「そういや、屋上行きの階段って見てなかったな……」
屋上への出入り口は普段から鍵が掛かって出れないし、一番上は使わない机や椅子が置いてあるだけだからなぁ。ましてや、まだ2月の半ば。そこに潜んでるにしても寒さでそんなには居れないはず──いるワケないか。そう思った白谷は一旦引き返そうとした。
「……でも、ひょっとしたら……」
屋上へと通じる出入口は、北校舎の東西階段しかない。ここか、反対側だけ。
幾ら空腹でも全く動けないわけじゃないから、念のために見ておこう。再び階段に向かうとなるだけエネルギーの消費を抑えるようにと考えたのか、いつもよりゆっくり目に白谷は階段を上っていった。
「……!?」
動く音が、階段の上の方から白谷の耳に届いた。上履きがタイル床をこすりつける、キュッ、という音と、かすかな衣擦れ音。
誰かいる。もしかして……!
足が勝手に駆け足で駆け上っていく。踊り場を最小半径で手すりを使って白谷はターンし、3階へと上る。そこで足を止めた。
「……いない?」
気配はない。白谷がさっきまで感じていた人の存在は、初めから無かったかのようだった。
「気のせいか……」
念のため周囲を見回す白谷。しかし、いつもの階段室の光景が蛍光灯の青っぽい色にフィルタリングされているだけで、何ら変わるものはない。
白谷は、つい、と暗がりに沈んでゆくように続いている屋上への階段を見つめた。
「一応、見ておくか」
1歩、また1歩、白谷は階段を時間をかけて、まるでいつ襲われるかもしれないかもと内心怯えつつ、しかしそれを表情には出さず、上っていく。そして、3階と屋上の間の踊り場に差し掛かった時──背後に気配が復活した。
「……!」
さっきまで白谷自身がいた場所に、まるで自分の分身のようにそこに人がいた。それは右手に何か棒状の物を持って、さながら白谷をじっくりと観察するように眼鏡越しにその目を向けていた。
「……緑川!」
「白谷君、話の続きをしましょうか」
「お前に話なんかない!それより北川さんは何処だ!?」
「……別の所にいると思います。が、僕は話の続きがしたいんです」
「話すことなんてないっ!」
埒が明かない白谷の返答──仕方ない、と言いたげに一旦緑川は俯くと手にした木刀を構えた。
白谷の身体をアドレナリンが駆け巡る。
「生徒会長が……何やってんのか判ってんのか!」
「お話ししてくれるなら木刀の出番はないですが、そうでないなら……ある程度実力を行使させてもらいます」
「お前とじゃれ合ってる暇はねぇ。北川さん何処にいる!?」
「生徒会室を出たっきりなので、何処にいるかは判らないです」
緑川の構える木刀は多少武道をかじった白谷から見れば、素人も同然だった。言葉では威勢がいいものの、何処かしらためらいが顔を出し、迷いが生じている。しかし、木刀それ自体は今の白谷にとっては脅威以外の何物でもなかった。
その姿勢のまま、緑川は階段を上り始めた。白谷にとっての安全圏が、一歩、また一歩と削られてゆく。
「そこをどけ!お前に用はないっ!」
「お願いです。僕に暴力をふるわせないようにしてください」
「単に脅してるだけじゃねーかよ!」
緑川は踊り場に上がり、二人との間をさらに詰めた。3、4段ほど上った白谷が後退できる余地はあと6段ほど。しかもそこから上は机や椅子が積まれて動く範囲は徐々に狭くなってゆくので、逃げ場は無いに等しかった。
緑川から一瞬視線を逸らし、逃げる範囲を確認する白谷。
──何とか隙を見つけて緑川をすり抜けないと……現状では、逃げ場所が無い分だけ白谷には不利だ。
「話してくれますか?」
「だからただの"お守り"っつってんだろ!」
白谷はそう叫んだ。同時に動き出し、階段を駆け下りようとした……しかし、平地を走るようには足が動かなかった。
恐怖心が、足にブレーキをかける。崩れそうな姿勢をなんとか堪え──その直前を、空気を切り裂く鈍い低音と共に木刀が薙いでいった。
「しまっ……っ!」
思わずたたらを踏んで白谷は体を急停止させる。白谷は距離を取るため、再び階段を数段上らざるを得なくなっていた。
「あぶねえ、当たったらどうするんだよ!」
「だから、言って下さい。お願いですから。僕は傷つけたくありません」
「言ってることとやってることが反対じゃねーかよ!」
腕は明らかに素人だが、それ故に何してくるか判らない。しかも手加減が感じられない──白谷はその表情に相手への怖さがにじみ出ていた。何とかに刃物とはよく言ったものだ、と変な所で感心しつつ、再び突破を狙おうと緑川をじっと睨みつけた。
ここが廊下ならまだやり方があるんだが……白谷は意外と選択肢が無いことを感じていた。動きに制約が出る階段の、しかも下り方向は下手すると転倒の可能性がはるかに高い。
魔法が使えれば壁を形成して木刀を防御し、その間に抜けられるんだが──その刹那、白谷は気が付いた。こういう事態に魔法に頼ろうとしている自分に。
さっきの発動未遂もそうだが、ペンダントが無いと判ってるのにも関わらず、頭で反射的に言葉を組んでしまう……改めて白谷は原因となった自分の行為に嫌悪感を抱いた。
そして対峙する緑川は、もう少し白谷を屋上方向へどうにかして追い詰められないかと考えていた。
ペンダントが魔法の触媒なら、多分発動のキーは呪文を詠唱することになる。いつも身に着けているから、その発動範囲はかなり狭いと推測できる。だとしたら、屋上近くにいる北川さんが隠れている所までもっと追い詰めないと……緑川の、木刀を握る両の手にさらに力が入った。
「……っ!」
緑川の、声にならない裂帛と共に木刀は天井に届きそうな場所から耳障りな低音と共に振り下ろされ、返しで今度は横薙ぎに白谷の直前の空気を切り裂く。
緑川の気合に圧されたか、白谷は1歩、また1歩と突破口を見いだせずに階段を後ろ歩きで登ってゆく。フェイントをかけて反対側から抜けようとするも、階段の下りが自由な動きを阻害していた──転倒を恐れて体が勝手に慎重モードになっていたからだ。その鈍さは、素人の緑川でも十分に対応できる時間があった。
そこを狙って緑川の木刀が襲い掛かる。階段室の壁や手摺に切っ先をぶつけつつ、白谷を屋上方向へ後退させるという目的は達成しつつあった。
──クソっ、このままでは……! 白谷は、木刀の切っ先を避けながらちらりと、屋上までの残りの距離を見た。階はあと1、2段で終わろうとしていた。すでに屋上への階段幅の半分以上を置物が占めており、人一人が通れる幅しか、屋上の土間引き戸に通じてなかった。
そして当然、屋上へは出る事が出来ない──まさに袋小路。
緑川が木刀を構えつつ圧をかける。それに押された白谷はとうとう階段を上り切ってしまった。
周囲をチラ見した白谷の動きが緩慢になり、あれほど周囲に放っていた殺気に似た気合がゆっくりと、さながら潮が引いてゆくかのように消えていったのはその時だった。埃っぽく冷たい床に、疲れてしゃがむ様に腰を下ろすと荒い息を整えるようにして何度か深呼吸をしてから、緑川に向けて口を開いた。
「……判った。言うから……話すから。このことを」
疲れ切ってもうどうでもよくなったかのように、白谷はいくらかの情けない声を上げて白旗の姿勢を示した。落ち着いた反動か、荒くなってた呼吸が止まらずにしばらく無音の階段室に響く。
緑川からも殺気と似たような雰囲気は時間と共に収束して行き、木刀は目標を見失ったようにだらりとその切っ先を床に向けた。
「……話をして、くれますね?」
緑川の問いかけに、疲労感が浮き出てきた白谷は薄暗い光の中でこくりと首肯した。何回かの深呼吸の後、落ち着きを戻した白谷は、うつむいた顔を緑川へと向けた。
「……俺もまだ判らないことがあるから、判る範囲でしか答えられないけど……」
「構いません。じゃあ、最初に……白谷君は、"魔法使い"ですか?」
「それは……」
その言葉を聞いた緑川は、何処かざわりとした不快感が体中を蝕むのを感じた──
刹那、空気が動いた。
声は遅い。
考えるよりも、速く。
動きだけが、何物よりも速かった。
両者とも。
白谷は、恐れずに横合いを抜けようとした。
緑川は、切っ先を動かした。
白谷の視界はそれを捉えた。
考えるよりもそれは速かった。
ペンダントが無いのは判ってはいる。が、咄嗟の事態はそのことを忘却の地平線に置き捨てていた。
反射の速度で言葉を組み上げ──本人が気付いた時には、"悪魔"を使役する音を口に出してしまっていた。
しまった……!白谷は思わず心の中で舌打ちした。
そして迫りくる木刀の切っ先がもたらす痛みを覚悟した……はずだった。
痛みは来なかった。その代わり、白谷は感じ取った。
吹き抜けるはずがない風を──。
白谷は気が付かなかった。そこに探していた人がいたことを。
使役する"声"が届く範囲内に、白谷が探している人物が息をひそめ隠れていたことを。
──風が、強く舞った。
「「「風が……!」」」
言葉は同じだったが、意味合いは立場によってまるで違った。
北川と緑川は、未知の現象が目の前で起きたことへの純粋な驚きを。
白谷は、まさかこんな所で魔法が発動したことを。
積まれた机や椅子の間を、階段室全体の空間を、つむじ風のような強風が吹き抜け、それは白谷と緑川の隙間に瞬時に流れ込み──凶器から術者本人を守る見えない壁を形成していった。木刀の切っ先は形成しつつある空気の壁を切り裂きつつ、しかし急速に密度を高めてゆく気体分子はその運動エネルギーを奪い取り、あるいは斥力として働いた。木刀は、白谷の体に触れようとした時にはその軌道を強制的に変えられていた。その変更させられた力は緑川の手を伝って、彼の身体の姿勢をも変化させていた。
「これが……"魔法"の力……っ!」
姿勢を崩しつつ何とか転落の危機をギリギリで踏ん張った緑川は待ち望んでいた未知の出来事に、これ以上はないほどの満ち足りた表情を浮かべた。それは笑みというよりは野望を達した悪の科学者のように、歪みの成分がいくばくか含まれていた。
その代わり、木刀はあり得ない方向に軌道変更させられ、持ち主の手を離れ、階段室の空間を横切ってゆく。カラン!と固い音が階段室に響き、制御を失った木刀が床との間に不協和音を奏でながら下へと落ちていった。と同時に、白谷が形成した見えない壁は急速に散逸し始め、その地点を中心にして強い風が再び駆け抜ける。
「……本当にあったんだな、"魔法"は。白谷君、凄いものを見せてくれてありがとう」
「いや、これは……」
緑川は興奮を隠しきれないかのように、自身の内側からあふれ出る爆発する感情の津波を止められなかった。それは彼自身でも驚くくらい、マイナスの感情が多分に含まれていた。
──僕たちにないモノを、持っている。しかも、僕たち自身ではどうやっても獲得できないものを……!
それは白谷を見つめる、眼鏡の奥から放たれる視線が雄弁に語っていた。
白谷の方はと言えば、今更起こったことを糊塗出来るとは思ってはいなかった……が、それでも何か言わなければ、と、喉の奥から押し出されるようにたどたどしい言葉を紡ごうとする。しかしその努力すらあざ笑うかのように白谷の後ろから、北川が姿を現した。手には"お守り"と称した水晶を持って。
「白谷くん、普通の水晶なら光らないですが、これは白谷くんの何かを受け取って輝きました。そしてこんな閉鎖空間で吹くはずがない風……明らかに、"魔法"の現象としか思えないですね。そしてこの水晶は予想通り、触媒としての道具ですね」
薄明りの中、北川の表情はいつもの様に落ち着き冷静なように見受けられたが、眼鏡の奥の瞳は好奇心を満足させてなおかつ余りある出来事を間近で見れたことに、興奮を隠しきれない程に爛々としていた。それは口調にも表れていた。
「駿!」
階段下から黒瀬の声が響いてきた。ぱたぱたと急いで駆け上がってくる足音がそれに続き、やがて3人の視界の内に姿を現した。慌てていたらしく、足音からも心の余裕は全く無いようにその場にいる人らには聞こえていた。
「……緑川くん」
階段の途中から見下ろす元彼の姿を薄暗い灯りの下で認めた黒瀬は思わずその足を止め、名前を口にした。
「黒瀬さん。今しがた、白谷くんが"魔法を見せて"くれました。凄いですね……初めて見ましたよ」
「駿!?」
「結衣……ごめん」
白谷はそう言うと、腰が砕けたように階段にしゃがみこんだ。ふさぎ込む様にうなだれて、顔が見えづらくなる。
「な、何かの見間違いでしょ?魔法なんて……」
冗談でしょ?と言いたげな苦笑交じりの声を上げる黒瀬に、緑川の声はまるで機械が話しかけてきたように、感情の成分が抜け落ちているかのようだった。
「黒瀬さん、ようやくわかりました。黒瀬さんも、同じ魔法使いだったんですね……そりゃあ僕なんかより、幼馴染の方が大事だと思うのは仕方ない事でしょう」
「……何言ってんの緑川くん!自分はそんなこと……!」
「魔法なんて凄いものを扱う人からしたら、僕みたいな普通の人なんかは釣り合いません。やはり、僕は間違ってなかった」
緑川のその目は羨望というよりは、異物を見るかのように、温度は限りなく低いように黒瀬には思えた。言葉にも、相手を凍り付かせるような、突き放すような、そして反論を許さないかのように断絶をにじませるものだった。
「北川さん、もう目的を果たしたので、それは持ち主にお返しした方がいいでしょう」
「いいんですか?」
「また借りればいいでしょう。きっと、協力してくれるでしょうし」
「そうですね」
緑川の指示を受けて北川が、うなだれてふさぎ込んでいる白谷の横にペンダントを置いた。そのまま彼女は緑川のそばまで下りて、そこで黒瀬と対峙するように並び立つ。
「また借りればいいって……どうするつもり?」
絞り出すような黒瀬の声に、緑川はわずかに口元の歪みを浮かべる。
「どうもしないです。僕たちはあなたたちが魔法使いで、魔法が実在するということを知りたかっただけです。ただ出来ることなら、後日浮かんだ疑問等に答えていただけたり、水晶について調べさせてもらえれば僕としては大変うれしいですが」
「強請るの?」
「いえ、好奇心です」
「断ったら?」
「……僕たちはまだいいですけど、他の人たちはどう思うか……それを念頭に置いてくれれば」
表情が強張り、二の句が継げないような黒瀬の横を緑川と北川が通り過ぎる。
後ろへ遠ざかりつつある二人分の足音を聞き流しながら黒瀬は、二人を向かずに、ふさぎ込んでいる幼馴染を見上げた。勝手に足が彼女自身を動かし白谷のそばまで歩み寄る。
「駿……」
「ごめん。まさか間近に北川さんが隠れてるなんて……」
「それは仕方ないよ……」そう言って黒瀬は、一旦振り返った「一応、お母さんにこのことを話した。どうするかは、また知らせるって」
「……」
白谷は再び顔を俯かせた。黒瀬はそんな幼馴染をしばらく見つめた後、促すように白谷の肩をやさしく触る。
「駿、ここ冷えるから……とにかく移動しよ?」
「……うん」
横に置かれた自分のペンダントを持った白谷は、その重さがいつもよりも倍近いものに感じた。




