第七章 捲土重来
レノアは手綱を引き、馬を止めた。
丘の上から、畑の向こうに公都が見えた。公都を囲む外壁はところどころ崩れ、城の塔にも黒い焼け跡が残っていた。幼い頃から見慣れた城とは、少し違って見えた。それでも、あの城の中には家族の部屋があり、自分の部屋もある。
隣を進んでいたスルトヴも馬を止めた。エレノアは城を見つめたまま、しばらく手綱を握っていた。帰ってきたのに、門をくぐるには、これから戦わなければならなかった。
王国軍の宿営地は、街道を見下ろす丘の手前に設けられていた。救出隊が合流すると、ジェラルドは新しく届いた報告書と地図を広げた。反乱軍は公都の外で戦うことをやめ、城とその周囲へ兵を集めている。外の町からは逃れてくる者があるが、城内の様子を知る者は少なかった。
ジェラルドは、メースンで足を止めた日からの敵の動きを読み上げた。城へ徴発された馬。新しく塞がれた道。連れ込まれた人々。
「明朝、外壁の兵へ降伏を勧めます。応じなければ、その日のうちに城へ攻め入る用意をします」
エレノアは許可を与えた。軍議のあと、救護係から、話を聞いてほしいという住民が来ていると告げられた。
女は公都で染め物をしていたという。息子は魔法を使えるため城へ連れていかれ、母親だけが逃げてきた。名はロゼン。エレノアが名簿に書く間、女は立ったままだった。
「軍がメースンへ来たと、聞いていました」
エレノアは顔を上げた。
「あれから、何日あったんですか」
「町と軍の食料を確保するため、出立を遅らせました。私の判断です」
「メースンの人は、食べられたんですね」
「はい」
「その間に、うちの子は連れていかれたんです」
女は椅子を勧められても座らなかった。逃げる途中で履物が壊れたらしく、足元の布がほどけかけている。
「早く行けば助かったと、言えるわけではありません。でも、待った間に連れていかれたことは、記録します」
メースンで、遅れの責任も報告に残せと、自分で言った。
「書いたら、戻ってくるんですか」
エレノアは答えられなかった。女は息子の特徴を告げ、それ以上は話さず、救護係と出ていった。
ナイリューが入口にいた。慰められる前に、エレノアは名簿を閉じた。
「私の判断は間違っていなかったと、今は言わないでください」
「……分かった」
ナイリューは入口の脇へ退いた。女の姿は、もう見えなかった。
エレノアは閉じた名簿へ手を置いたまま、しばらく動けずにいた。
ロゼンの母を見送ったあと、エレノアはクリマルに呼ばれた。メースンの神殿に残した、印を受けた兵からの証言が届いたという。
城の内庭には、印を刻むための黒い石が据えられているという。元は反乱軍がどこかから運び入れたもので、城を占領した当初から、アヴァルギンが何より先に確保させていた。その石に触れさせられた者は、やがて同じ命令に従うようになるという。
「石を壊せば、止まるのでしょうか」
「そこまでは。運んだ者は、中身を見せられてもいません」
数人で運べる平たい石だという。洞窟の巨石とは違う。捕虜が運搬に加わった際、荷札には監獄島からの積荷と記されていた。城が落ちた直後、首領の命で運び込んだものだという。
「運ぶ間も、術士が交代で力を注いでいたそうです」
石は、魔力を蓄える道具でもあるのかもしれない。
証言を確かめ終えた頃、メースンから小さな荷車が着いた。
イーファが手配した荷車には、メースンで魔力の受け渡しを試した、溝を刻んだ板と、追加の術具用の石が積まれていた。姉を救いに行く前、実験の続きをするために取り寄せていたものだ。軍が先へ出たので、ここまで追ってきたらしい。イーファ自身は翌日に着く補給隊の荷を途中の集積所で受け取り、この車には商会の者だけをつけていた。
手紙には代金と数量が細かく記され、その下に、姉君は食事を召し上がった、と一行だけあった。エレノアはそこを指で押さえ、二度読んだ。
姉からも紙片が添えられていた。助け出された使用人たちから聞いた、公都へ連れていかれた者の名である。知っている名も、知らない名もあった。最後には、門を開けた男の妻は無事に村へ戻ったこと、まだ家族と連絡がつかぬ者がいることが、同じ筆跡で書かれていた。
エレノアは名簿を救護の係へ回した。イーファの手紙は、しまう前にもう一度開いた。姉が食事を取れた。その一行に、ようやく少し肩の力が抜けた。物資の手配に追われながら、姉の様子まで知らせてくれた友人に、会って礼を言いたかった。手紙を丁寧に畳み、荷袋へしまった。
夜、天幕の中で三つの灯りがともった。
クリマル、ユージン、年配の術士が、板に並べた石へ触れていた。エレノアは三つの光を見渡し、余った力を引き戻す。ナイリューへ通じる道だけは、目を向けなくても保てていた。
ロゼンの母の言葉が、ふいに蘇った。書いたら、戻ってくるんですか。
杖を持つ手が強張った。エレノアは集中するため、ゆっくり息を吐き、三つの灯りを見渡した。光の大きさは変わっていない。
ユージンが自分の灯りを持ち上げた。その瞬間、隣の光が傾いた。
「量は保てます。でも、誰かが動くと、そちらばかり見てしまいます」
クリマルは石の位置を戻した。
「庭では、皆が座っておりましたからな」
村で担架を運んだ女は、歩きながら兵を支えていた。自分が見続けていなくても、魔力の道は消えなかった。
エレノアはその様子を話し、人を介した試みも続けたいと頼んだ。
「まず、救護所で。隣の方を助ける仕事なら、私たちにも確かめられます」
クリマルは翌朝の予定へ書き加えた。ナイリューは灯りを手に、今度は自分が歩くと言った。
翌朝、降伏勧告への返答を待つ間に、救護の天幕で試した。エレノアから受け取った力を術士へ渡す者、術士からさらに力を受け取って担架を運ぶ者。それぞれが隣の相手と声をかけ合い、魔力を受け渡した。
手当ての合間には、灯りの石で魔力が届くかを確かめた。途中で力を渡していた一人が仕事で離れると、灯りが消えた。別の者が手を貸すと、再びともる。その傍らで、ユージンは祈りを続けていた。力を渡せても、手当てを代わってやれるわけではなかった。
四人を支えたところで、エレノアは椅子を捜した。額を押さえる指が冷たい。
「これ以上は、今日は無理です」
自分から告げると、ナイリューがすぐに椅子を寄せた。
クリマルが記録へ術の名を書き加えようとすると、エレノアは声をかけた。
「この魔法のつながりを、『同心連環』と呼びたいのです。名前だけは、私に書かせてください」
クリマルは筆を止め、記録を彼女の前へ置いた。
「では、お願いします」
ユージンも手元を覗き込んだ。
「あとで僕にも写しをください。今日、どうやって皆さんを支えたのか、残しておきたいので」
エレノアは筆を借り、術の名を記した。天幕の入口から見える外壁には、まだ敵の旗があった。
同心連環の試みを終えた頃、公都の西の小門を守る兵が、降伏勧告に応じた。
西の小門から主力を入れる一方で、王国軍は北側の門と南の外壁にも兵を回していた。反乱軍を三方から城の周囲へ押し戻し、城と塔を町の中で孤立させるためである。
城へ大きな術を向ければ、城の中に取り残された住民まで巻き込むおそれがある。各隊には、外壁と城へ続く街路を確保し、退く敵を城の側へ集めるよう命じられていた。
降伏を受け入れた西の小門から、主力のうちジェラルドの先鋒が入った。続く隊が大通りへ出たところで、城の塔が黒く光る。
鐘楼の屋根が崩れ、通りが塞がれた。
エレノアは後続の兵の肩越しに、旗が一本消えるのを見た。前へ進めという号令と、下がれという声がぶつかる。馬が棹立ちになり、荷車の車輪が石畳へ噛み込んだ。
「壁際へ! 道の真ん中に立つな!」
スルトヴが怒鳴った。エレノアは錫杖を上げ、瓦礫と後続の間に障壁を張った。その下へ兵が仲間を連れて戻る。行くときには二人で持っていた盾を、一人で引きずってくる者がいた。
城前へたどり着けたのは、昼を過ぎてからだった。
ジェラルドは先鋒を率いて別の街路を回り、城前の広場に面した建物の陰へ兵を入れていた。リーゼたちが塔からの攻撃を防いでいる。エレノアが合流したとき、彼の鎧には白い粉塵が積もっていた。
「町へ入るだけで、この損害です。今夜も塔を使わせれば、救護所まで届く」
報告を受け取る手が止まった。どの家も自分の知る町の家であり、担架の上には自分が連れてきた兵がいた。
城内から逃れた者によれば、内庭に集められた住民が、黒い石を通じて城の守りと攻撃を支えている。門を破るほどの術を放てば、その住民にも力が押し戻されるおそれがあった。
降伏した術具職人が、城の図面へ震える指を置いた。妻子が内庭にいるという。石と術具を結ぶ金具を修理した際、命令の声が弱まったことがあると話した。
「石そのものは、壊さないでください。皆が、そこへつながっています」
ジェラルドは男を見ずに、エレノアへ尋ねた。
「中の者を離す間、町の被害は続きます。それでも、門前へ進みますか」
遠くでまた屋根が落ちた。返事を遅らせても、人は助からない。
「進みます。町への攻撃を止める隊と、内庭の人を救う隊を分けてください。私も門へ行きます」
「内庭の救出が間に合わなければ?」
「塔を先に止めてください。私の合図を待たなくて結構です」
言葉が喉に残った。住民の安全を約束できぬ命令だった。職人が何かを言いかけ、口を閉じた。
エレノアは彼から目を逸らさなかった。
「奥様とお子さんのお名前を、教えてください。迎えに行く者へ伝えます」
だが、城門へ向かった兵は、塔からの攻撃に阻まれた。リーゼたちは街路の兵を守るだけで手いっぱいだった。門前の広場を渡るには、進む者とともに動く守りを、別に用意しなければならない。
ジェラルドは城へ通じる街路に兵を留め、術士を交代させながら攻撃を防がせた。その間に、住民を城から離れた場所へ誘導する。西の小門近くに臨時の救護所を設け、エレノアも救出隊を守る術と道具を整えるため、そこへ戻った。
日が傾く頃には、北側の門を守っていた反乱兵は城の周囲へ退き、南の外壁にも王国軍の旗が上がった。外壁と主要な街路は、住民を逃がしながら少しずつ王国軍が押さえつつあった。
けれど、城と塔の周囲には、なお黒い術の届く範囲が残っていた。町でいくら押し返しても、あの石を断たなければ、城を落とすことはできない。
夕方、イーファの荷車が救護所へ着いた。
それは、あの日イーファが空けると決め、軍務省の帳簿から外した三台だった。荷を積めば、兵の負担は減ったはずだ。だが今、その空いた荷台が、救い出された住民を乗せるために待っている。
イーファは救護用の三台へ毛布を敷かせ、同行した補給の荷車からも荷を下ろさせた。逃げてきた住民を、公都の外壁の向こうにある宿営地へ運ぶためだった。
「術具を載せる車は一台だけ、門前へ。残りの車は、荷を下ろしたらここで待たせないで。人を乗せたら、西の小門へ戻して」
商会の者が、城へ向かう兵の列を見た。
「ですが、戻る車が来れば、兵の通る道が――」
「だから道を一本、空けておいて。入る車と出る車を同じ列にしたら、誰も動けなくなる」
イーファは、救護所の前で名を尋ねようとしていた書記の手を止めた。
「名前は、外へ出てから書く。今は水を渡して、乗れる人から乗せて。探している家族がいるなら、どの車に乗ったかだけ紙へ残して」
「でも、後で見つからなかったら……」
「見つけるために書くの。今ここで答えられない人を、待たせるためじゃない」
言い切ると、イーファは荷車の間を歩き、兵へ帰りの車路を示した。空いた道を、担架を持つ者と、毛布を抱えた者がすれ違っていく。いつもの軽口はなかった。
エレノアは術士たちへ同心連環を説明し、協力を求めた。
人を介して力を渡す方法は、まだ動きに合わせて保つのが難しい。門前では、石と板で受け渡す相手を定め、荷車の周囲に集まった術士たちを支えることにした。
弟が印をつけられたという若い術士は、同心連環への参加を断った。自分の意思で受け取りをやめられると言われても、今は信じられないという。
「分かりました。理由は記録しなくて結構です」
エレノアは、名簿へ伸ばしかけた書記の手を止めた。
「あなたがこの道へ入らないことで、咎める者はいません。救護所で人を迎える役を、お願いできますか」
術士は戸惑ったように顔を上げた。
「それなら、できます。弟のような人が来たときに、そばにいたいのです」
「お願いします」
彼が救護所へ向かうと、術士の一人が板を見た。
「一つ空けば、門前で守れる範囲が足りません」
「人数を埋めるためだといって、別の方へ参加を強制はできません」
エレノアは答えた。
「五人で保てる範囲へ縮めましょう。守れない場所まで守ると言って、誰かに断れない道へ入ってもらうわけにはいきません」
クリマルは少しのあいだ板を見ていたが、やがて頷いた。
「では、枝板を一つ外します。荷車は一台、板の周囲を離れず、まず門を開くところまで。それ以上は求めません」
試作の板から枝板の一つが外された。残った板には、石を置く場所が五つある。荷台へ渡した二本の横木と革紐が、板を動かぬよう押さえていた。
クリマルとユージン、それに三人の術士が、五つの受け口に置かれた石へ、それぞれ片手を添える。石から手を離せば、その人への魔力供給だけは止まる。
エレノアは荷台の後ろに立ち、板の根元の溝へ杖を当てた。五人へ順に魔力を通し終えたところで、石への供給を止めた。頭の奥に重い痛みが残っていた。
準備が整う頃には、日が落ちていた。ジェラルドと相談し、城門へ進むのは翌朝と決めた。夜の間も、城に面した街路では兵と術士が交代で守りにつく。エレノアは明朝までに少しでも力を戻すため、休息を取るよう命じられた。
夜、ナイリューの外套を返した。縫い目は引きつり、揃っていなかったが、ほどいてやり直す時間はもうなかった。
「帰ってから、直させてください」
「これで十分だよ」
「私が、直したいのです」
ナイリューは外套を膝へ広げた。少し考えてから、父もよく縫い物をしていたと話した。二人暮らしでは、剣の手入れより針を持つ時間のほうが長い日もあったという。
エレノアは初めて、その家の夜を思い浮かべた。彼が父と二人で食卓を囲んでいた頃、自分はまだ彼の名も知らなかった。
「あの使者を捕らえられたら、父さんが洞窟で戦ったものが、今も人を操っているのか確かめたい。でも、皆を止めてまで追うつもりはない」
「聞けないままになるかもしれません」
「ああ、わかっているよ」
それきり彼は黙った。エレノアは隣に座ったまま、明日の話へ逃げなかった。
翌朝、門へ進む荷車の車輪が、最初の衝撃で浮いた。
ナイリューが横木を押さえ、兵たちが引き戻す。エレノアは転びかけた術士を支えながら、石へ魔力を通した。頭上でリーゼの障壁が鳴っている。
五つの灯りがともった。
土の壁が立ち、落ちてくる瓦が宙で砕けた。その下をユージンの白い祈りが進む。門の隙間から術を放っていた兵が、急に杖を下ろした。
「出ておいで。そっちの声を、聞かなくていい」
ユージンの呼びかけに、兵は額を押さえた。背後の仲間が門を閉じようとすると、彼は扉の内側へ肩を入れた。
ジェラルドが走った。盾を構えた兵が続く。
塔から黒い光が落ちた。
リーゼが受け止めたが、路面までは覆いきれなかった。前列が崩れ、後ろの者が門へ飛びつく。閉じかけた扉が押し返された。
門の下に兵が倒れていた。エレノアは手を伸ばしかけ、先にナイリューの剣を見た。刃の光は、まだ揺れていない。
「留め具を切れますか」
「右の扉を支えてくれ。留め具は俺が切る」
エレノアは右側にだけ障壁を差し込み、扉を押しとどめた。ナイリューが必要な力を引き出す。刃が光り、留め具が断ち切られた。
扉の下から、兵が仲間を引き出した。エレノアはその姿を確かめてから、障壁を解いた。
開いた隙間へ王国兵が雪崩れ込み、ジェラルドが内側から合図を送った。城の外周では、北と南から進んだ隊も、城から延びる通りを押さえていた。反乱兵は城内へ追い込まれ、町へ逃れる道を失いつつあった。
エレノアも荷車とともに門を越える。勝ったと叫ぶ声はなかった。門の下へ戻っていく兵のほうが、まだ多かった。
門の内側では、兵が脇の建物を調べ、負傷者を一時的に収容する場所を確保した。外の救護所からも人手が呼ばれ、内庭から運び出す者を迎える支度が始まった。
庭へ通じる回廊で、黒い外套の使者が待っていた。
「父親と同じ顔をしているな」
ナイリューが剣を向けると、男の口が笑った。目は笑っていなかった。必死に首を横へ振ろうとしている。
「九年前も、あの男は邪魔をした」
「おまえが、あの洞窟にいた魔族なのか」
男が口を開いた。返事より先に黒い印が伸び、ナイリューの剣へ絡もうとする。ユージンの祈りがその腕を照らした。
男は膝をついた。
「私の、口で……話すな」
今の声は別人のものだった。ナイリューは刃を引き、兵へ男を託した。この男も操られていた。問うべき相手は、その口を借りていた何かだった。
奥の階段で、同じ笑い声がした。
内庭を横切る光は、すべて黒い石へ集まっていた。
杖を持たされた住民が並び、その奥に異様な雰囲気を放つ男が立っている。その男がアヴァルギンだと推測できた。公国の術具が公都の城壁に向けられ、光るたび、外の町から音が返った。
ジェラルドは右の回廊を押さえ、リーゼが塔へ渡る流れをせき止めた。スルトヴは救出した者を門へ戻すため、左の道を開こうとしている。
エレノアは柱の陰へ荷車を止めた。ここからなら、ユージンの祈りが最前列へ届く。
「六人では、足りぬぞ」
アヴァルギンが手を振ると、住民たちが一斉にこちらを向いた。
最前列には白髪の老人がいた。ナイリューが踏み込めずにいると、老人の杖から光が放たれた。彼は刃で逸らし、なお前へ出ようとした。
「近づきすぎないで!」
エレノアは障壁を重ねた。白髪の老人が、なお杖を向けている。救い出したいその顔が、光の壁越しに歪んだ。
階段の脇で、冊子を抱えた元官吏が主へ呼びかけた。
「閣下、もうおやめください。あの者たちは、タントンの村人と何も違わぬではありませんか」
アヴァルギンの目が、冊子へ動いた。
「村の名を、言ってください。あなたが訴えた、あの村の名を」
男の唇が開いた。
「ル……」
石が黒く光った。顔が引きつり、別の声が滑らかに続いた。
『タントンだけを守ると、決めたではないか』
黒い光が元官吏の足元を打った。冊子が落ちる。男がそれを拾おうとする間、エレノアは障壁を差し入れた。
「アヴァルギンの意識は、まだ、あるのですか」
『ある。帳簿に記された真実を明らかにし、自らの無実を証明する――アヴァルギンのその望みのために、城を取った。おまえも民を取り戻すために軍を連れてきた。何が違う』
「あなたは、何のために人を操るのです」
『最終的には赤き城壁を砕くためだ。だが、その前に封じられた我が本体を取り戻さねばならぬ。人の手と魔力を集めずに、それはできぬ。千年、我らもおまえたちも、この半島に閉じ込められてきた』
「壁の外へ出るために…?」
『そうだ。あの壁があるかぎり、我らは大陸へ届かぬ。おまえたちも、我らを封じるためにこの半島へ取り残された。壁に守られていると思い込み、千年も檻の内で暮らしてきた――哀れな番人どもだ』
にわかには信じられない話だった。しかし今、そのことを確かめる術はない。
元伯爵の指が胸元の布をつかんだ。石に置くはずの手が、そこで一度止まった。
ユージンの光が老人へ届いた。老人は杖を見つめ、指を開く。ナイリューがその腕を取り、柱の陰へ連れ込んだ。次の女も立ち上がる。
アヴァルギンが石へ手を置いた。逃げかけた者たちが苦しげに足を止める。石を支える金具へ光が戻り、塔がいっそう黒く染まった。
「人から離せば、あいつも弱まる!」
ナイリューの声がした。逃れた者が増えるたび、伯爵の背に重なる黒い輪郭が薄れていた。
人々を救えば、この戦いに勝てる。
エレノアはユージンへ力を渡した。白い光が次の一人へ届く。背後の兵が、その人を迎えに走った。
そのとき、左の回廊で子供が泣いた。
母親からはぐれ、倒れた鉢の向こうに立っている。西側を守っていた術士が石を離れ、駆け出した。障壁が消える。
兵が「戻れ!」と叫びかけたとき、スルトヴがその兵の肩をつかんで止めた。
「呼ぶな。術士は行かせろ」
「ですが、持ち場が――」
「退路は私が守る」
スルトヴは西の回廊へ盾を向けた。
エレノアは空いた場所を塞いだ。その分、ナイリューへ渡る力が細くなり、彼の足が階段の手前で止まった。
術士は振り向かず、子供を抱え、回廊の陰へ入る。
黒い光が、その入口を狙った。
スルトヴが盾を差し入れた。光は逸れたが、彼は壁へ叩きつけられた。盾を持っていた腕が肩から垂れ、もう一度だけ柄を握り直そうとした指は、動かなかった。
立とうとした膝が支えきれず、彼はその場に座り込んだ。駆け寄った兵が両脇を抱える。
「子供を、先へ!」
彼の声だけは、いつもと同じだった。
「西の守りを、私へ!」
エレノアは抜けた術士の分を引き戻し、回廊へ障壁を張った。スルトヴを運ぶ兵が、その下へ入る。
今度は右の盾が崩れた。そちらへ杖を向けたときには、次の兵が支えていた。
ナイリューが敵の前で足を止めている。彼へも力を渡さなくては。
敵の術を受け止めた障壁から、余った魔力が板へ戻ってきた。その光に、黒い筋が混じっている。エレノアが気づいたときには、黒い筋はすでに共通の戻り道へ入り、溝を伝って彼女のほうへ伸びていた。
『そのまま戻せ。全部、おまえが受け取ればよい』
魔族の声が、錫杖を持つ手の内側から聞こえた。
戻ってくる光が黒い。術士が石から手を引こうとして、声を上げた。エレノアの掌へも、冷たさが迫った。
皆を助けられるなら。
そう思った自分が、いちばん恐ろしかった。
「全員、受け取りをやめてください。今すぐに!」
声が裏返った。ユージンが彼女を見た。
「祈りが切れる!」
「はい。切って大丈夫です!」
エレノアは一人ずつ名を呼んだ。障壁が落ちるたび、柱へ衝撃が来た。ナイリューがユージンを押し戻す。全員が受け取りをやめたのを確かめ、エレノアは板への供給を断った。クリマルが最後の石を外したが、溝には黒い光が残っていた。
板が割れた。
その破片からクリマルをかばおうとして、エレノアは彼の袖をつかんだ。間に合わなかった。彼は肩を押さえ、膝をついた。そばの兵が杖を拾って渡したが、腕を上げられない。
黒い筋は切れていた。エレノアは敵を招き入れずに済んだ。
その代わり、庭を守っていた白い光が消えた。
塔へ向けていたリーゼの術が、こちらへ回る。抑えを失った塔が黒く輝き、城外へ光を放った。遠くで煙が上がる。
「一度、退く!」
ジェラルドが命じた。返事を待たず、部下を柱の陰へ押し込む。彼自身も脚を傷めており、歩くたびに痛みをこらえている様子だった。
板を拾いかけた。溝の黒ずみに、手が止まる。つなぎ直しても、またここから来る。
「戻る道を、分けられますか」
クリマルは片手で破片を寄せた。並べ直そうとして、首を振る。
「刻み直さねば。今は、とても――」
エレノアは石を置いた。
庭では、歩き始めていた人々が再び座らされていた。スルトヴが運ばれていく。ユージンの祈りがかすれ、リーゼの杖が柱へ押しつけられた。
柱の外には、動かない兵士たちが幾人もいた。
自分には、まだ力がある。泣きたくなるほど、余っている。
板の代わりに、戦う者たちへ安全に力を渡す道が、なかった。
それでも、救護所へ向かう列だけは止まっていない。イーファが空けさせた道を荷車が一台ずつ戻り、回廊では人が隣の者の肩を支えていた。
城門の内側、左の回廊の奥には、救い出した住民と負傷者を門外へ戻すための臨時の救護所があった。石柱と回廊の壁に囲まれたその一角で、担架を受け取る者と、歩ける者を支えて次へ送る者が待っていた。
左の回廊から、女の声がした。
「こっちへ。立てる人は、隣の人に肩を貸して」
ロゼンの母だった。城門の内側に設けた臨時の救護所で、避難してきた人を迎えている。イーファの商会の者が渡した水を置き、運ばれてきたスルトヴのために場所を空けた。
彼女の隣に、同心連環を断った若い術士がいた。弟の姿を捜しながらも、担架の端を持っていた。
救護所から内庭まで、回廊の陰に人がいた。隣の者へ手を貸し、担架を受け渡している。エレノアは、その手から手へ目を移した。
人を介する道なら、板のように全員の余りを一本の溝へ戻す必要はない。誰かが離れても、別の者が手を貸せばつなぎ直せる。
「ナイリュー、私を、回廊へ連れていってください」
彼は割れた板から彼女へ目を戻した。
「何をする」
「皆さんに、頼みます。私一人では、届けられません」
ナイリューは回廊の人々を見た。それから、彼女へ問い返した。
「嫌だと言われたら?」
「別の道を捜します。なければ、退きます」
喉につかえた最後の言葉を、彼女は言い切った。
彼は彼女へ手を差し出した。
回廊へ走った。ロゼンの母と目が合い、エレノアの足が鈍る。
「ロゼンは?」
「まだです」
女の顔がこわばった。エレノアは、その前へ膝をついた。
「私の魔力を、あなたから隣の方へ、さらにあそこで戦う人へ渡したいのです。皆さんの力を奪うことはありません。ここで、力を通す手助けをしていただけますか」
「また、待てというのですか」
「もう一度、息子さんを助けに行くためです。ただ、術が届くまでには、まだ時間がかかります。無理にとは言いません。途中で怖くなったら、受け渡しをやめてください」
女は内庭を見た。ナイリューが入口へ戻り、飛んでくる術を防いでいる。ユージンの祈りは、柱のそばを照らすだけになっていた。
「あなたを許したわけではありません」
「はい」
「でも、息子を迎えに行く人を、ここから支えられるなら」
差し出された手を、エレノアは両手で取った。
銀の線がともった。
女の手を経て、隣の担架を持つ術士へ届く。彼は驚いて手を引きかけ、弟のいる庭へ顔を向けた。
「僕も、今は受け取ります」
返事とともに道が開いた。救護所の灯りが強くなり、ユージンが顔を上げた。
エレノアは立ち上がった。
「その場から出ないでください。隣の方と、声をかけ合って。助けたい方へ、私の力を渡してください!」
頼みが回廊へ伝わった。魔法を知らぬ者が、自分にもできるのかと問い返す。先に光を通した女が、私にもできた、と手を伸ばした。助けたい相手を確かめ、応じた者同士の間に、新たな道が開いていく。
銀の線が枝分かれした。誰かが離れ、一本が消える。その隣から、別の手が伸びた。
彼女はそこへ、ため込んでいた魔力を満たした。
ナイリューの剣が輝く。ユージンの白い光が入口を越えた。盾を支えていた兵が、自分の手へ届いた力を確かめた。
傷は消えなかった。倒れた者は戻らなかった。それでも、まだ立つ者が、もう一歩を選べた。
エレノアの視界が、白くかすんだ。
祈りへ、盾へ、担架を持つ腕へ。力がいっせいに引き出され、息が詰まった。
ナイリューが振り返った。
「エレン、全部は無理だ!」
膝が折れかけていた。ナイリューの剣を見つけ、その光を頼りに、エレノアは流れを絞った。
「長くは、保てません!」
隠さず叫んだ。ジェラルドがその声を聞き、部下の肩から手を離した。
「ならば、今、決める。リーゼ、塔を押さえられるか」
「この受け渡しが続く間だけなら!」
リーゼの杖へ銀の光が集まった。氷が城壁を駆け上がり、塔の黒い光を包み込む。
ジェラルドは盾の隊を二つに分けた。片方が階段へ進み、片方が住民の前へ出る。ナイリューはその間を走った。
内庭の奥、住民の列の向こうで、黒い石の脇に立つアヴァルギンが腕を振る。
今度は、人々の杖が揃わなかった。
ユージンの祈りが届いた場所で、若い男が顔を上げた。ロゼンだった。母親が名を呼ぶと、彼は杖を置き、這うようにこちらへ進み始めた。その隣の女が肩を支える。
黒い石へ向かう光が、一本消えた。
ナイリューの剣が、石と術具をつなぐ最初の金具を断った。魔力を送っていた金属の棒が外れ、公都の城壁を覆う黒い結界に大きな裂け目が開く。兵たちが前へ出た。
「座れ」
階段の上で、男が命じた。
誰も座らなかった。
「そこへ戻れ!」
怒声に、逃げる男が足を止めた。すぐ隣の者が手をつかむ。二人は支え合い、白い道へ入った。
アヴァルギンの顔が揺れた。石から受けていた力が乱れ、借り物の輪郭を保てなくなった黒い影が、肩の上へ膨らんだ。
エレノアの足元へ、また冷たい気配が来た。余りを戻す道を狙っている。
「左の列、いったん離れてください!」
人々が手を引き、銀の線が消えた。黒い筋が石畳へ落ちる。エレノアは右の回廊を見た。そちらの光は、まだ続いている。
エレノアは泣きそうになりながら、そちらへ力を渡した。
全員をつなぎ止めなくても、環は残る。
救い出された者も、回廊で手を伸ばしていた。ロゼンは母のそばへ座り、震える手で袖を握った。母の指先から、次の人へ光が渡る。
ナイリューが最後の金具へ届いた。
黒い影が石から噴き上がり、彼を押し返す。ジェラルドが横から盾を差し込み、二人で階段の下で踏みとどまった。剣が振り下ろされ、金具が二つに割れた。
城の結界が、音を立てて砕けた。
アヴァルギンが石から手を離した。膝が折れ、外套が階段へ広がる。
その背から、人よりはるかに大きな影が伸び上がった。根元は黒い石につながっている。元伯爵の身体だけが、階段に残された。
元官吏が柱の陰から出かけた。ナイリューはその肩を押し戻し、代わりに階段を駆け上がった。
「ナイリュー!」
エレノアの声に、彼は振り返らなかった。剣を鞘へ戻し、元伯爵を担いで下りてくる。彼の父を奪った存在が、その頭上へ広がっていた。
エレノアは二人の背を障壁で覆った。柱へ着いた元伯爵に、ユージンが手を当てる。
「息はある。ここは任せて」
ナイリューは剣を抜き直した。エレノアも、石へ向き直った。
影は、黒い石から抜け出しきれていない。九年前の洞窟と同じだ。
背後で、魔力の道が一本途切れた。すぐに、別の誰かが応じた。銀の光は消えなかった。
『返せ』
影が回廊へ腕を伸ばした。人々が身を寄せ合うと、その指は届く前に崩れた。
『聞こえぬ。誰も、ここへ返事をよこさぬ』
エレノアの隣で、ユージンを呼ぶ声がした。担架の向きを尋ねる声もする。影はそれらへ顔を向け、やがて黒い石へ沈み始めた。
リーゼの氷が外側を押さえた。ユージンの祈りは、石の奥までは届かなかった。
ナイリューがエレノアの隣に立った。
「中だ。洞窟でも、霧を断っただけでは、影はすぐ元の形に戻った」
エレノアは彼へ右手を差し出した。二つの半円が重なると、黒い石へ流れ込む力が細い筋となって見えた。その筋が、石の表面の継ぎ目へ吸い込まれている。九年前、封印の途切れた場所を見つけたときと同じように、狙うべき場所が分かった。
あそこを開けば、ユージンの光が届く。
彼女が指す前に、ナイリューも同じ場所を見た。
「ああ。見えた」
手が離れた。
ナイリューが遠ざかる。エレノアは道を満たした。彼が引き出すまで、杖を握る手を動かさなかった。
ナイリューが剣を構える。
ジェラルドが盾を上げ、リーゼが石の上へ覆いを絞った。ユージンは柱に肩を預け、最後の祈りを始める。
エレノアは皆へ呼びかけた。
「もう一度、お願いします!」
銀の光が回廊を走った。
ナイリューが踏み込む。影が広がり、彼の姿を隠そうとした。ジェラルドの剣が横からその先を断つ。白い祈りが空いた場所を満たし、ナイリューの銀の刃が石へ届いた。
剣は、途中で止まった。
硬い石の奥で影が抵抗していた。ナイリューは両足を踏みしめる。エレノアの中から、残る魔力が引き出された。視界が狭まる。それでも彼が取る分を、彼女は渡した。
刃が進んだ。
『待て、姫。その器を砕いても、我が本体は石に封じられたままだ。赤き城壁も残る。おまえたちは、何一つ終わらせられぬ』
「分かっています」
エレノアは杖を握り直した。回廊をつなぐ銀の光は、まだ続いている。
『あの洞窟で剣を振るった男も、同じ檻を守るために死んだのだ』
ナイリューが、剣を押し込みながら息を吐いた。
「父さんは、おまえに人の意思を奪わせないために戦った!」
黒い石が、内側から裂けた。
白い光が亀裂へ奔り、頭上まで広がっていた影を引き戻した。リーゼの覆いの内側で、黒と白が激しくぶつかる。ナイリューは剣を残し、開いた道を閉じさせなかった。
エレノアは最後まで、ユージンへの道を守った。
黒い石へ魔力を送らされていた人々は、すでにそのつながりから解放されていた。影を支える力は、もう流れ込んでこなかった。
影が細くなった。声になりかけた音が途切れ、最後の黒い筋が白い光に消える。
ナイリューが剣を抜いた。
今度は、戻らなかった。
鐘が鳴った。
誰が鳴らしたのか、エレノアには分からなかった。城門のほうで声が上がり、別の声がそれに重なる。王国兵が武器を下ろせと呼びかける向こうで、母親が息子の名を何度も呼んでいた。
銀の道を、少しずつ閉じた。支えてくれた人へ礼を言おうとしたが、誰から声をかければよいのか分からない。
最後の光が消えたとき、エレノアは立っていられなくなった。
ナイリューが受け止めた。彼も膝をつき、二人で柱の下へ座り込む。
「勝ったのですか」
自分で見届けたのに、聞かずにはいられなかった。
「勝った。帰ってきたんだ」
彼の声が、少し震えていた。
エレノアは庭を見た。父の城だった。母が歩いた庭だった。取り戻したかった場所が、目の前にあった。
けれど、門を一緒に越えた兵が、皆ここまで来られたわけではない。
涙が落ちた。嬉しいのか悲しいのか、どちらかに決めることができなかった。姫たる者、泣いてはならないという言葉も、今は役に立たなかった。
ナイリューは急かさず、彼女が顔を上げるまで隣にいた。
兵に支えられたスルトヴが、やがて回廊から戻った。エレノアが立ち上がろうとすると、彼は先に兜を取った。
「姫様。旗を替えても、よろしゅうございますか」
いつもより息を継ぐ回数が多かった。その声をもう一度聞けたことに、また涙が出そうになった。
エレノアはナイリューの腕を借り、自分の足で立った。
「お願いします。門の外で待つ方にも、見えるところへ」
ベルティネの旗が、城壁を上っていった。
風を受けて開くと、城下から大きな声が返った。庭で座り込んでいた人々も顔を上げる。エレノアは旗が広がりきるまで、瞬きもできなかった。
2026/09/27 大幅な加筆・修正




