第六章 暗中模索
南の橋には、新しい板が渡されていた。
メースンを取り戻して三日目の朝、エレノアは案内の男に続き、川岸の道を歩いていた。橋の片側には、まだ壊れた欄干が積まれている。修理のために運び込まれた木材の匂いが、湿った土の匂いに混じっていた。
兄が最期まで戦った場所だと聞いて、何かが残っているような気がしていた。しかしそこには、渡る順番を待つ荷車と、板の具合を確かめる町の者たちがいるだけであった。
「あの辺りです。殿下が残った者を、こちらへ渡してくださって……」
案内の男は川の向こうを指した。その後、静かに黙とうした。
エレノアは続きを求めなかった。兄の最期を見届けた者の話は、すでに聞いている。目の前の男にまで、思い出したくないことを話させる必要はなかった。
幼い頃、兄に連れられ、この川へ来たことがある。魚をつかまえると言い張って靴を濡らし、結局、兄の背で帰った。母に叱られたのは兄だった。二人で行こうと言ったのだと、最後まで譲らなかった。
エレノアは橋を見渡した。兄が最後に立っていた場所を教わっても、あの日のように兄を見つけることはできなかった。
橋の手前に、小さな花束を置いた。どこに手向けるのが正しいのか分からず、荷車の邪魔にならない石のそばを選んだ。
公国へ戻った。メースンも取り戻した。伝えるべきことを考えていたはずなのに、いざ口を開くと、兄さま……、としか言えなかった。
しばらくして荷車が近づき、エレノアは橋の前を空けた。荷台には空の籠が積まれ、御者が頭を下げながら渡っていった。
兄が守った人たちは、今日もここを通っている。そのことを確かめられただけでも、来てよかったと思った。
帰り際、案内の男へ礼を述べると、男はようやく顔を上げた。
「姫様。橋の修理に使った木のことで、あとで役所へ伺ってもよろしいでしょうか」
遠慮がちな問いに、エレノアは頷いた。
「ええ。担当の者へ、伝えておきます」
泣くために訪れた場所で、また仕事の約束をした。それを兄が聞いたら、どんな顔をしただろうか。城での記憶をたどると、呆れながらも笑ってくれそうな気がした。
神殿の裏庭で、クリマルはエレノアの頼みを二度、聞き返した。
「誓約をしていない者にも、力を渡したいと?」
「昨夜、ユージンは祈りを続けられませんでした。私はまだ、余らせていました」
別室の兵が自分の声で話せるのは、祈りが届く間だけだった。その声が途切れたあと、エレノアは自分の魔力を手の中へ集めてみた。明るすぎる光が、役にも立たず壁を照らした。
「神判の柱なら、力を分けられました。人にもできるか、調べてください」
「敵の印と似たものになります」
クリマルが言うと、ナイリューはエレノアの前へ出た。
「似ているなら、先に俺で――」
「あなたで安全でも、他の方で同じとは限りません」
彼の顔が険しくなった。止められる前に進めようとしていた自分を、エレノアは恥じた。
「すみません。まず道具で試します。人へ渡すときには、その方が嫌になったら、私の許可なしで止められるようにしたいのです」
クリマルは返事を保留し、翌朝、彼は灯り石をいくつかと、木の板を持ってきた。板にはY字の溝があり、枝分かれした先に石を一つずつ置ける。エレノアが溝の根元に指を当てて魔力を流すと、二つの石が灯った。
クリマルが片方の石を外した。行き先を失った光が残る石へ押し寄せ、急にまぶしくなる。エレノアは反射的に魔力を注ぎ、光を押し戻そうとした。だが、石はさらに強く輝いて割れた。
ナイリューが彼女の手をつかんだ。
「姫、手を離せ。これ以上、石に力を送ると祭殿の二の舞だ」
エレノアは魔力を止めた。板の溝の根元から、指を離す。片方が受け取れなくなったとき、もう片方に押しつけてはいけない。
「余った分を、私へ戻せないでしょうか」
エレノアが紙に道筋を描くと、クリマルは板の縁に新しい溝を刻んだ。二つの石のそばから伸びる溝は途中で合流し、エレノアが指を置く根元へ戻っている。
新しい石を置いて試した。片方を外すと、余った光が板の縁を走り、エレノアの指先へ帰ってきた。
「戻りました」
「ええ。ただし、帰り道は行きとはちがう道が一本です」
クリマルは、二つの溝が合流する場所を指した。何度か試すうちに、そこへ光が滞り始める。エレノアは慌てて魔力を止めたが、石の一つに細いひびが入った。
「ここが詰まったら、すべて止めるしかありませんね」
「人へ使うには、まだ危ういでしょう」
その日、用意した石の大半を試しに使った。それでも、誰かが離れたあと、残る人へ安全に力を届ける方法は見つからなかった。
「クリマル、明日もお願いします」
ナイリューは割れた石を皿へ集めていた。夕食の席まで口数は少なかった。傷ついた気持ちを彼から慰めてもらおうとしていることに気づき、エレノアは自分から隣へ座った。
「止めてくれて、ありがとう。明日は、言われる前に止まります」
「明日だけじゃ困る」
「……はい」
彼は皿を脇へ寄せ、彼女の食器を置く場所を空けた。焼いた玉葱まで端へ寄せている。
「それも、片づけるのですか」
「焦げてる」
「甘くなるまで焼いたのです。私は、そのくらいが好きです」
「なら、交換しよう。俺は芋がいい」
エレノアは芋を一つ渡し、玉葱を受け取った。今度はからかうつもりで、彼の皿に残る芋を指し、玉葱を差し出した。ナイリューは皿を遠ざけた。
「その芋は最後の一つだ。駄目」
「姫に向かって、ずいぶん強気ですね」
「食卓では、剣で勝負もできないからな」
エレノアは笑い、余分に差し出した玉葱を自分で食べた。
メースンを取り戻して五日目、ヨンウォリから最初の補給隊が着いた。町との交渉で買えた穀物は、当座をしのぐ分だけであった。軍はその間、メースンを離れられなかった。
先頭の荷馬車から下りてきたイーファは、挨拶もそこそこに、用意された倉の鍵を求めた。山道で荷が崩れ、途中で積み直した車があるらしい。濡れた袋をそのままにしておけないと、商会の者へ矢継ぎ早に指示を出している。
「神殿へ回す袋を先に分けて。濡れた分は庭へ広げる。乾いた分を西の倉へ入れたら、扉の前に人を置いて。今日の食事の分は出すけれど、残りまで一度に配らないで」
商会の者が走り出す。倉の脇には、荷ほどきを待つ町の商人、車軸を見ていた車大工、寝場所を尋ねに来た宿の女将が集まっていた。
「車大工さんは、神殿の車と山道で傷んだ荷車を先に。宿屋の人は、神殿の裏に寝床を作って。空いている天幕を三張り、あちらへ回す。戻ってくる人と、歩けない人の場所にするから」
「兵の寝場所まで回すのですか」
商会の若者が言いかけた。
「兵の寝場所だけ数えていたら、町はまた止まるよ。今夜、ここで眠る人が何人になるか、まだ誰にも分からないでしょう」
荷札を見ていた商人の一人が、低く尋ねた。
「手を貸しても、また軍に持っていかれるだけじゃないのか」
イーファはすぐには答えず、帳簿の空欄を指で押さえた。
「借りる穀物も、直す車も、働いた人の名も残す。今ここにないものまで約束はしない。でも、なかったことにはさせない」
エレノアは、昨日の倉の調査票を思い出した。持ち主を確かめるだけでは足りない。誰から何を借り、誰の暮らしへ返すのかまで、残さなければならない。
「役所の者を呼んでください。商会の帳簿と、こちらの控えに同じ名を記します。受け取ったものも、あとで返すものも」
商人はすぐには頷かなかった。だが、車大工の肩を叩き、荷車のほうへ歩き出した。
イーファはようやく帳簿をエレノアへ差し出した。
「荷を運ぶ手は足りてる。エレンは、あとで『聞いてない』って言われないように、そこを見て」
エレノアは帳簿を開き、役所の書記と並んで荷札の名を写し始めた。商会の者は倉へ、町の者は荷車と神殿のほうへ散っていく。
昼を過ぎる頃には、濡れた穀物袋が庭へ広げられ、神殿の裏には天幕が立ち始めていた。
ひと段落してから、イーファが言った。
「少し、顔色がよくなったね」
「イーファこそ、ずっと働いていたのでしょう。今日は休んでください」
「じゃあ、そうする。残りは現地のお偉い人に任せようかな」
エレノアが困った顔をすると、彼女は笑い、帳簿の端を指で叩いた。引き継ぐ箇所には、すでに印がつけてある。
ナイリューが水を持ってきた。イーファは礼を言い、彼の外套に空いた穴を指した。
「それ、荷の留め具に引っかかるよ。…あとで縫ってもらいな」
「私が預かります」
エレノアが申し出ると、ナイリューは外套を見た。
「休む時間、あるのか」
「その時間は、作ります」
イーファは裁縫道具を荷から出した。ナイリューの外套の穴へ、もう一度だけ目をやる。
「じゃあ、針をなくさないで。数、覚えてるからね」
道具を受け取ったエレノアが礼を言うと、イーファは笑った。
「お礼は、ちゃんと直してから聞くよ」
そのとき、神殿から使いが来た。公都の方面から逃れてきた者が、姫へ直接話したいことがあるという。
エレノアが顔を上げると、使いは声を落とした。
「マリエル姫に関わることだと、申しております」
手に持っていた帳簿の重みが、急に分からなくなった。
待っていたのは、中年の女だった。エレノアは、その顔を知っていた。公都の城で、食事の支度を手伝っていた者である。姉の部屋へ菓子を運んできてくれたこともあった。
女は立ち上がろうとしたが、ユージンが椅子を勧めた。長く歩いてきたばかりで、まだ休ませる必要があるという。
「お姉さまを、見たのですか」
挨拶より先に、問いが出た。
女は頷いた。城を離れたあと、姉とともに捕らえられ、公都の東にある古い館へ連れていかれたという。そこには反乱軍へ加わった野盗の一隊が居座り、周囲の村から食料や人を集めていた。
姉は館の奥へ閉じ込められ、外へ出ることを許されていなかった。女が最後に見たのは、三日前とのことである。
三日前。その言葉を、エレノアは胸の内で繰り返した。
「ご無事なのですね」
「お話しはできました。姫様がメースンへお戻りになったと、館でも噂になっておりましたので」
女はそこで、落ち着かない様子で膝の上に置いた手を握り合わせた。
女は洗濯場の仕事をさせられていた。館の者に荷を運べと命じられ、外へ出た折に、同じ境遇の二人とともに逃れたという。その二人は途中の村で休んでおり、彼女だけが公国軍を頼ってここまで来た。
館では、数日おきに人が荷車へ乗せられ、公都の方へ送られていたという。洗濯場の者も、荷を運ぶ者も、移送の名簿に名が載れば戻ってこなかった。
「マリエル様は、動けない者や、小さな子のそばを離れられない者を、ご自分の部屋の仕事へ回すよう、おっしゃっていました」
女は膝の上で手を握り合わせた。
「館の主は、姫君の身分など気にしておりません。姫君が逆らえば、次はこの者を荷車へ乗せると、目の前で言うのです」
声が細くなった。
「だからマリエル様は、次に名が載りそうな者を、病人の世話やご自分の身の回りの仕事に要ると申し出て、館に残そうとなさいました。あの者が求めるとおりに振る舞う代わりに、わずかな頼みを通して」
女は視線を伏せた。
「ですが三日前、公都から黒い印の使者が来てから、マリエル様の部屋の前にも兵が立ちました。誰が出入りし、誰の名が名簿から消えたかまで、調べるようになったのです」
女はそこで言葉を切った。しばらく膝の上の手を見つめてから、再び口を開いた。
「姉君は、皆をお側へ集めれば、まとめて疑われると仰いました。一度に残せる者は多くない。誰かを助けようとすれば、ほかの方には今は動かないで、と頼むしかなかったのです」
女の指が、膝の上で強く絡んだ。
「私にも、部屋の仕事へ戻るよう言えば残れたかもしれません。でも姉君は、外へ出られるうちに逃げ、妹君へ館のことを知らせてほしいと。私をお側に残せば、また誰かの名が疑われるのだと仰いました」
女は一度だけ息を継いだ。
「姉君から、お伝えするよう頼まれたことがございます」
エレノアは身を乗り出した。
「自分を助けるために、軍の進路を変えてはならぬ。皆を連れて、公都へ進んでください。もし館から人を逃がせるなら、私だけを先に出そうとしないでほしい――そう、お伝えくださいました」
姉らしい言葉であった。自分を「皆」の外へ置く言い方も、あの日と同じだった。腹が立った。
今度こそ迎えに行けるかもしれないのに、また置いていけと言うのか。
「また、私だけ先へ行けと……」
エレノアは言葉を切った。目の前の女性は、姉の頼みを届けに来てくれたのだ。
「知らせてくださって、ありがとうございます。まずは休んでください」
女が別室へ案内されると、エレノアは椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
軍議で最初に口を開いたのは、ジェラルドだった。館の場所は分かる。かつて狩りのために使われた、公都の東の丘にある建物で、周囲には穀物を集める倉もあるという。押収した輸送の記録にも、その地方へ荷を送った跡があった。
だが、メースンから軍を向けるには、公都へ通じる本道を外れることになる。
「全軍を動かせば、補給の道が延びます。その間に公都の兵が出てくれば、メースンへ戻る道まで危うくなる」
エレノアは頷いた。机の上には、昨日まで自分も見ていた地図がある。館へ向かう道だけが、遠くなったわけではなかった。
「少数なら、行けますか」
「行けます。帰れるかは、別です」
ジェラルドは言葉を飾らなかった。
スルトヴは、その館を昔見たことがあると言った。狩りに使う建物ではあるが、外周には塀もあり、見張りを置けば近づく者を見つけやすい。姉が奥にいるなら、門を破る前に移されるおそれもある。
エレノアは地図の館を指した。
「姉が今もここにいるという報告は、まだないのですね」
クリマルは、女が最後に会った日を告げた。そこから今日までのことは分からない。
「では、確かめる者を出してください。門を守る人数と、荷の出入りも」
ジェラルドは地図を見たまま、誰を出すつもりかと尋ねた。公国の者だけでは、姉を助けたいあまり、危険を小さく報告するおそれがある。
エレノアはジェラルドの部下を偵察役に求めた。土地の案内には公国の者をつける。クリマルが二人の名を書き、出発までに聞いておくことを挙げていった。
軍議が終わっても、エレノアは席を立たなかった。
ナイリューが戸口で待っていた。エレノアは彼を呼び、椅子を示した。
「あなたに、行ってほしいと思っています」
彼は腰を下ろす前に、地図を見た。
「帰りの道が、まだ決まってない」
「分かっています。命じているのではありません」
言い方がきつくなった。ナイリューは椅子を引いたが、地図には手を伸ばさなかった。
「……もし、あの黒い印の使者が館にいたら」
館から公都へ延びる道を見たまま、彼は続けた。
「俺は父さんのことを聞くために、追いたくなるかもしれない。姉君を助けに入って、途中でそっちを選ぶかもしれない」
エレノアは、すぐには答えられなかった。姉を救いたい。けれど、その願いのために、ナイリューへ父のことを諦めろとは言えなかった。
「それなら、無理にお願いはしません」
「今、断るつもりじゃない。ただ、館のことをもう少し聞いてから、自分で決めたい」
ナイリューは立ち上がった。
「スルトヴに、もう一度話を聞いてくる」
「お願いします」
扉が閉じても、向かいの椅子は引かれたままだった。エレノアはそれを机へ戻した。彼に断られたら、自分は何と言うつもりだったのだろう。
偵察の返事を待つ間、エレノアは神殿の裏庭へ向かった。クリマルが卓の上に、溝を刻んだ板と新しい灯り石を並べている。洗濯物を干す場所から少し離れた、屋根のある一角だった。
板の溝の底には、クリマルが魔力の行き先と戻り道を定めるための、簡単な術式を刻んでいた。板を使うかぎり、受け口の石に触れた者だけがその道の端となる。流す量を均す働きまではない。
前回は石を一つ外した途端、残る石へ魔力が押し寄せた。今度は石を外さず、受け手の側から流れを止められるか確かめる。
「私が石に触れたら、力を送ってください。手を離す前に、受け取りをやめてみます」
クリマルが灯り石に指を置いた。エレノアは板の溝へ魔力を流す。石に小さな光がともった。
「止めます」
クリマルが指を置いたまま、石へ向けていた意識をほどく。光が消え、余った魔力が板の縁の溝を通ってエレノアの手元へ戻った。
クリマルがもう一度受け取ると、石は再び灯った。手を離す前に光を消せる。エレノアは指先へ戻る魔力を確かめたが、すぐに喜ぶことはできなかった。今は受け手が一人で、二人とも板の前に立っている。
三度繰り返しても石が割れなかったところで、リーゼが神判の日の結界柱について話し始めた。観客は柱の環の外にいて、魔力を供給してもいない。それなのに、消えかけた流れが一瞬だけ安定したのだという。
「声援だけで、術ができますか」
「ただ声を合わせても無理でしょうね。あのときは、あなたの力がすでに柱を満たしていた。そこへ、人が同じ相手を支えようとする意思が重なった」
エレノアは、庭で洗濯物を取り込んでいた女へ協力を頼んだ。魔法は使えない、と女は断りかけた。何も唱えなくてよいと伝え、まず女とクリマルの二人に、灯りを見てもらう。
灯りは変わらなかった。
「姫様を信じております。それでは、足りませんか」
「そんなふうに、試すつもりでは……」
女は少し考えた。
「では、今日はしません。何を受け取るのかも、止めたらどうなるのかも、まだ分からないのですから」
エレノアは頷いた。
「はい。分かるまで、お願いしません」
女が断っても、クリマルもリーゼも何も言わなかった。エレノアは灯り石から手を離した。
その日の試みはそこで終えた。片づけを始めると、クリマルが灯り石を板へ近づけた。光が弱く、細い溝の底まで見えないらしい。
「こちらへ持ってきてください。私も見ます」
女が彼の手元を支えた。
エレノアの掌から銀色の線が伸びた。女の指先でいったん淡く灯り、それからクリマルの灯り石へ渡っていく。板の溝を離れた石にも、光は残っていた。
リーゼが息を止めた。
「今、何を?」
「暗そうでしたから」
エレノアはすぐに女へ言った。
「すみません。今のは、お願いしていませんでした。手を離していただけますか」
女は驚いて手を離した。銀の線は女のところでほどけ、余った光はエレノアの掌へ戻った。クリマルの灯りも消える。
「体に、変わったところはありませんか」
「いいえ。ただ、急に手が温かくなって……」
クリマルは石を置き、手を開いたり閉じたりした。疲れも、魔力を奪われた感じもないという。
翌日、女は自分から庭へ来た。
「昨日のことを、もう一度聞かせてください。私が嫌になったら、手を離すだけでよいのですね」
「はい。理由は尋ねません。私の魔力は、あなたが受け取ると決めた分だけ渡します」
女は灯り石へ触れ、それからクリマルへ目を向けた。
「では、私はクリマル様の灯りを支えます」
クリマルが石に指を置く。エレノアが開いた道へ、銀の線が渡った。
女が五歩ほど離れると、光は途切れた。互いの顔が見え、呼びかけに応えられる近さでなければ保てない。別の協力者を間へ入れた試みでは、真ん中の一人がやめた途端、その先も消えた。
リーゼは、女が閉じた道の先を確かめた。余った光はほかの枝へ回らず、まっすぐエレノアの掌へ帰った。
「板と違って、帰り道も一本ずつあるのですね」
クリマルは、板の溝を指でなぞった。
「板は、刻んだ溝がつながるかぎり、流れ先を選びません。けれど人は、自分が受け取る分の道だけを開ける。だから一人が閉じても、余りはほかの人へ押しつけられず、送り手へ戻るのでしょう」
別の枝を残したまま、一人に手を引いてもらった。残った灯りは揺れなかった。
誰も倒れなかった。そのことが、エレノアには灯りの明るさより嬉しかった。
「何を考えているかまで、伝わるわけではないのですね」
女に問われ、エレノアは首を振った。分かるのは、道が開いたか、閉じたか。それだけだった。
「では、私がやめると決めたことも?」
「手を離したことだけ分かります。理由は尋ねません」
女はその場で手を引き、光が消えるのを確かめた。誰もそれを止めなかった。
しばらくしてから、女はもう一度、灯り石へ触れた。
「では、もう一度」
人が支える道なら、板の届かぬ場所へも渡せるかもしれない。エレノアがそう言うと、リーゼは念を押した。
「戦場では、一人が怖くなればその先まで途切れます。それでも頼むのですか」
まだ、答えられなかった。自分の傍らで灯りを支える女を、矢の飛ぶ場所へ立たせることはできない。
エレノアは記録の余白へ、安全な場所でのみ試すこと、と書き加えた。だが、筆を置かずにクリマルを見た。
「これだけでは足りません。道へ入る方が、何を選べるのかも残してください。私がいないところで誰かが試そうとしても、守られるように」
クリマルは新しい紙を取り出し、上部に〈人を通す道の定め〉と記した。
――道へ入ることは、本人が内容を知り、自ら望んで同意したときに限る。
――入らぬ者と、途中で手を引く者の理由は問わない。
――手を引いた者へ余った力を押しつけず、その力は送った者へ帰す。
――力を送る者は、道が開いたか閉じたか以外を知ろうとしない。
書き終えたクリマルが、エレノアへ紙を見せた。
「ほかに、ございますか」
「拒んだ方を咎めないことも。次に頼むとき、その方が断れなくなるような扱いは、してはいけません」
クリマルは頷き、その一文を加えた。
リーゼが紙を読んだ。
「その定めどおりなら、戦場で誰かが怖くなれば、その先の道も途切れます」
「ええ」
「それでも、頼むのですか」
エレノアは、先ほど手を引いた女の姿を思い出した。
「今は頼みません。この条件を守れないなら、誰かに戦ってもらうための術にはしません」
クリマルは紙を重ね、記録の一枚目に置いた。
姉のいる館へ偵察に向かった者たちは、まだ戻らなかった。
さらに二日後の夕刻、偵察へ出した者の一人が戻った。
館の周囲には数十人の兵がいる。近隣の村に散った者まで含めた数は分からないが、荷を運ぶ者の中に公国側へ話を通せる人物がいるという。
「館の奥に公王家の娘がいる、と。直接見た者はいませんが、食事を運ぶ使用人の出入りは続いております」
「もう一つ。公都からの迎えが早まりました。明後日の夜には、人も荷も出すよう命じられています」
「なぜ、早まったのですか」
「姉君が移送の名簿から外した者がいると、使者が気づいたそうです。姉君の部屋の前にも見張りが増え、館の者は頼みを聞くなと命じられました」
クリマルは荷の記録を広げた。館から公都へ向かう荷車は、穀物だけでなく人も運んでいる。捕虜の兵が印を受けた場所も、公都だった。
ジェラルドが地図を引き寄せた。
「全軍は動かせません。本道を進む部隊と館へ向かう隊を分け、戻る道を確保します。救い出せるとは約束できませんが、待つだけよりは手があります」
エレノアは館と帰路の村を見た。
「中へ入る者と、戻る方を迎える者を決めましょう」
出発は、その夜のうちと決まった。
「その前に、救出隊が引く条件を決めてください」
ジェラルドが言った。
「姉君を見つけられなかったとき、あるいは救い出した方を退路へ出せなかったとき。いつまで待ち、どこで引くのか。これは、姫が決めることです」
「夜明けまでにします」
エレノアは地図の館を見た。
「夜明けまでに、館から出せた方を退路へ出せないなら、退いてください。お姉さまが見つからなくても」
ナイリューの指が、机の端で止まった。
「よろしいのですか」
「よくありません。ですが、私が姉のために救出隊と退路を失わせるなら、姉が私へ託したものを、私が捨てることになります」
ジェラルドは頷いた。
「承知しました。その条件で、退路を守ります」
ジェラルドとリーゼは主力を率いて本道を進み、救出隊の退路にも部隊を回す。ただし、合流までは時間がかかる。メースンには守備と補給を担う部隊を残し、イーファは町へ届く物資の手配を続ける。
館へ向かうのは、ナイリューとスルトヴ、土地を知る公国の騎士たち、それに手当てを担うユージンだった。エレノアとクリマルは、館から離れた村で戻る者を迎える。
「私も館へ行けば、障壁を張れます」
言ってから、エレノアは机の隅の灯り石を見た。人を通す道は、離れた場所から館の中を支える術ではない。自分が中へ入れば、救出隊は自分を守るために動く。
「そして、人を通す道は、作戦の人数には入れられません」
クリマルが続けた。
「今はまだ、誰かに戦ってもらうための術ではありません。使うなら、その方へ何をするのかを伝え、断る余地を残さねばなりません」
姉のいる部屋まで行きたかった。それでも、救い出した人々が戻る場所を失わせるわけにはいかなかった。
「分かりました。私はここで待ちます。戻る方を迎える場所に障壁を張り、手当てと寝床を整えます」
エレノアは地図の村を指した。
「この場所まで戻れれば、救い出した方々を次へ送れます。私は、そのために残ります。お姉さまに、近くで待っているとお伝えください」
馬具を確かめていたナイリューが顔を上げる。
「必ず伝える」
エレノアは頷いた。彼の馬具をつかみかけた手を、自分の胸元へ戻した。
イーファが荷の確認を終え、二人のもとへ来た。食料と水、替えの布。そのどれも、山道で必要になったものばかりであった。
「戻る場所の用意はしておくから。寝台の代金も、あとでちゃんと請求するよ」
彼女はナイリューの前へ立った。
「戻ったら、荷ほどきを手伝って。エレンのお姉さんを迎える支度まで、私一人じゃ回らないから」
「分かりました」
イーファが、エレノアの荷袋を指した。
「裁縫道具、持ってきた? 縫う約束、したんでしょう」
「はい。もう少し貸しておいてください。帰ったらお返しします」
そう答えてから、エレノアは荷袋に触れた。
「いえ、使ってからお返しします」
「うん。その順番で」
イーファは頷き、次の荷車の積荷へ目を向けた。
やがて出立を知らせる声がして、エレノアは馬へ乗った。見送るイーファの傍らへ、商会の者が帳簿を持って駆け寄ってくる。彼女にも、その夜に終えなければならない仕事があった。
館へ近づけたのは、翌日の夕刻だった。公都へ通じる道を遠くに見ながら、畑と林の間を進んできた。立ち寄った村には、反乱軍へ食料を取られた者もいれば、公国軍が来たことを喜ぶ余裕さえない者もいた。エレノアはそのたびに足を止めたくなったが、先へ進むしかなかった。
迎えが来るのは明日。エレノアは傾きかけた日を見上げ、馬を進めた。
待機する村には、穀物を量るための広い小屋があった。使われなくなった台を脇へ寄せ、運んできた毛布を敷く。村の者が湯を用意し、クリマルが出入りする道を確かめた。
ナイリューたちが発つと、エレノアは右手へ意識を向けた。彼が遠ざかる。呼吸も、求める力の量も、もう分からない。掌の半円だけが、かすかに温かかった。
林の向こうへ馬の列が消えた。エレノアはしばらくその道を見ていたが、桶を抱えた村の者に呼ばれ、小屋の入口を空けた。村の者が、戻ってくる者の体を温めるために湯を用意してくれたのだ。湯は奥へ置いてもらった。戻る者がどれほどいるかは分からず、敷いた毛布の間をもう少し詰めた。
古い館には、まだ灯りがともっていた。
スルトヴはかつて訪れたときと変わった箇所を確かめ、案内の男と言葉を交わした。ナイリューには、その二人が話をしている時間さえ長く感じられた。
館で働かされている者の一人が、公国側へ協力を申し出ていた。迎えの支度で荷を運ぶ者が増え、内側も落ち着かないらしい。その者の案内を得て、一隊はようやく秘密裏に館の敷地へ入ることができた。
だが、奥へ進む前に騒ぎが起きた。正面の庭へ馬車が入ってきたのである。扉のそばにいた男が声を張り上げ、使用人たちが慌てて道を空ける。
公都からの迎えが、早まっていた。
ナイリューはスルトヴを見た。年長の騎士は迷わず、彼へ進むように促した。予定どおりにいく部分だけを待っていては、救えるものも救えなくなる。
間もなく、背後で剣のぶつかる音がした。ナイリューは振り返らず、案内の者を追った。足音を隠す必要は、もうなかった。館の廊下を駆け抜け、重い扉の前で止まる。
内側から、人の声が聞こえた。
「その者には触れないでください。命じたのは私です」
知っている声だった。エレノアより落ち着いていて、城で会えば必ず、こちらの名前を呼んで挨拶してくれた人の声であった。
ナイリューは扉を開けた。
部屋には、荷物を抱えた若い女と、その前に立つマリエルがいた。二人に向き合っていた大柄な男が、驚いてこちらを振り向く。帯びた剣は立派だったが、公国の騎士の装いではない。
「何者だ」
問われても、名乗るつもりはなかった。
男が剣へ手をかける。ナイリューはその前へ出て、二人の女から相手を引き離した。狭い部屋で刃を振り回されれば、誰かを巻き込む。
短い打ち合いの末、男は机へ背をぶつけた。続いて入った公国兵が彼を取り押さえる。男はなおも、ここは自分の館だと怒鳴った。
姉姫は、その声に肩を強張らせた。
ナイリューは剣を下げ、彼女の前で片膝をついた。
「マリエル姫、お迎えに上がりました。エレノア姫が、お待ちです」
姉姫は彼を見たまま動かなかった。やがて、ようやく唇が開いた。
「ナイリュー……。本当に、あなたなのですね」
「はい。お怪我は」
彼女は首を振りかけ、それから傍らの女を振り返った。
「この者も、一緒に。他にも、ここを出たがっている者がいます」
「出口に兵がいます。案内を頼めますか」
女は何度も頷いた。その手には、小さな衣類の包みしかなかった。
捕らえられた男が、姉姫を呼んだ。妻を連れ去るつもりか、と。
ナイリューは振り返ったが、先に姉が口を開いた。
「私は、承知したことはありません」
声は大きくなかった。それでも、男の言葉を遮るには十分だった。
ナイリューはそれ以上尋ねず、廊下へ続く道を示した。
玄関へ戻ると、スルトヴたちが押し戻されていた。
正面の庭には、黒い外套をまとった使者がいる。周囲に集まった紋様のある兵は、互いを見ずに位置を入れ替え、公国兵を館の内側へ追い立てていた。逃れてきた使用人たちが玄関に詰まり、後ろから来る者も足を止める。
姉姫の息が浅くなった。ナイリューが支えようとすると、彼女はその腕をつかみ、廊下の奥へ目を向けた。
「荷車の庭へ。あちらの門からなら、馬も出せます」
案内の女は顔を曇らせた。そこにも番人がいるという。
「私が話します」
ナイリューはスルトヴへ知らせ、姉姫を奥へ導いた。荷車を入れる庭には、館へ運び込まれた荷と、それを見張る男たちが残っていた。剣を帯びてはいるが、腕に黒い紋様はない。こちらを見ると、閉じた門の前へ集まった。
先頭の男が、姉姫の姿を認めた。
「公都へお連れするよう、言われています。通せば、うちの者が……」
彼も近隣の村から連れてこられ、働かされていた一人であった。背後にいた使用人が、その男の家族も館に留め置かれていると告げた。ナイリューは剣を構えかけたが、姉姫に袖を引かれた。
「娘さんなら、ここにいます」
彼女は後ろの人々から、若い女を呼んだ。部屋からともに出てきた女だった。庭の灯りに顔を照らされると、男の剣先が下がった。
それでも門は開かなかった。男は玄関の騒ぎを聞き、姉姫と娘を交互に見ていた。扉を開ける役を引き受ければ、最後までここに残ることになる。
ナイリューは、マリエルだけなら塀沿いに連れ出せるかと周囲を見た。だが、姉姫は彼の手を離し、番人の前へ出た。
「私も、門が開くまでここにいます。あなたを残しては行きません」
「姫、それでは――」
ナイリューが止めると、彼女は首を振った。
「この人にだけ、最後に逃げる役を頼むのですか」
番人が娘を呼び寄せた。ほかの男たちも剣を置き、重い門へ取りついた。その音に、追ってきた黒い使者が顔を上げた。
ナイリューの左手が冷たくなる。
「その印か」
低い声が届いた。使者の視線は姉姫ではなく、掌の半円に向いている。ナイリューの脳裏に、洞窟で倒れた父の姿が蘇った。
ナイリューは一歩出た。あの使者なら、父が何と戦ったのかを知っている。
「ナイリュー。こちらを、手伝ってください」
振り向くと、マリエルが門を押さえる男の隣にいた。その娘が、父を引こうとしている。
背後で使者が笑った。今なら追いつける距離だった。
ナイリューは剣を下げ、門へ走った。重い扉を支えると、ようやく父娘が外へ出た。
ユージンは歩けぬ老人を背負っていた。乗せるはずだった荷車が庭に残されている。彼は一度それを見て、手伝いを呼び、ほかの病人も皆で抱えて運ぶよう頼んだ。残す者を決める相談をしている時間はない、と。
最後尾を守るスルトヴが合図を送った。外で待つ兵が馬を引き寄せる。ナイリューは姉姫の肩へ自分の外套を掛け、馬へ乗せた。取り押さえた館の主を連れ出す余裕はなく、兵は彼を部屋に残していた。
姉姫は馬上から、番人とその娘がついてきているのを確かめた。まだ離れたともいえぬ館のほうで、追っ手の声が上がった。
ナイリューは使者の声を振り払うように、馬を進めた。
村で待っていたエレノアは、椅子から立ち上がった。
右手が冷たい。
ナイリューが傷ついたのかと思い、思わず力を送ろうとした。しかし応えはなく、遠い気配が揺れるだけであった。
「姫。こちらへ」
クリマルが戸口から呼んだ。先に戻った伝令が、救い出した者を連れてくると告げている。追っ手も来るかもしれない。村の者を小屋の奥へ入れ、外に残る兵へ知らせなければならなかった。
エレノアは頷き、錫杖を取った。
林の道から、最初の馬が現れた。
手綱を引くナイリューの後ろに、外套をまとった人がいる。その顔を見た瞬間、エレノアは走り出しかけた。
姉姫もこちらを見つけた。何かを言おうとしたが、馬を下りる前に、後続の兵から声が上がった。
追っ手である。
エレノアは足を止めた。
ナイリューが姉姫を支えて下ろす。村の女たちが小屋へ迎え入れるのを見届けてから、エレノアは道へ向き直った。
杖を地面へ立て、詠唱を始める。村の入口を横切るように、青白い障壁が立ち上がった。木々の間から放たれた黒い光がぶつかり、夜の畑を一瞬だけ照らした。
戻ってくる者を閉め出してはならない。
エレノアは障壁の片側を開け、兵が通るのを待った。その狭い口を狙う術は、クリマルが防いでくれた。ナイリューは入口の前へ戻り、最後尾のスルトヴたちを迎えた。
彼が近づくと、誓約の道がはっきりした。エレノアは力を満たし、彼が必要な分を受け取るのを待つ。ナイリューの剣が銀色に光り、飛び込んできた敵兵の刃を受けた。
入口を守りながら、彼は後ろへ下がった。
最後の公国兵が通り抜ける。クリマルの合図を受け、エレノアは障壁を閉じた。
すぐそばで、兵が担架を持ち上げようとして膝をついた。村の女が駆け寄り、入口の陰へ一緒に運ぼうと手を差し出す。障壁の内側で、担架を軒下へ運ぶ間だけなら支えられる。
「お二人とも、よろしいですか。あなたを通して、兵士の方へ私の魔力を送ります。途中でやめたくなったら、受け取るのを止めてください」
女は兵を見た。兵は苦しげに息を吸い、担架の持ち手を握り直して頷く。女も頷いた。
エレノアは、二人へ細い道だけを開いた。指先から伸びた銀の線が、女を経て兵の腕へ届く。担架が軽くなったわけではない。だが兵の腕に力が戻り、女と二人で軒下まで運ぶことができた。
道が閉じた。エレノアはもう二人を見ていられなかった。前方から次の術が来る。
追っ手の放つ術が、続けざまに壁を打った。板に石を投げつけるような音が響き、村の子供が泣き出した。
エレノアは壁の向こうへ目を凝らした。黒い外套の使者が、林の縁に立っている。右手の冷たさが増した。相手が片手を伸ばすと、自分の障壁の内側に、細い黒い筋が現れた。
黒い筋に触れた障壁が、村の側へたわんだ。エレノアが力を足すと、筋まで太くなる。
小屋の前で、兵が担架を引いた。エレノアは黒い筋の届いていない場所を指した。
「クリマル、右側をお願いします。一度、張り直します」
説明する時間はなかった。クリマルはすぐに杖を向け、村の側へもう一枚の障壁を作った。エレノアはその前で、自分の術をほどいた。
黒い筋が空中へ浮き、支えを失って散った。
その前へ、新しい壁を張る。黒い筋が伸びれば、壁ごと捨てて張り直す。クリマルの杖が下がる前に、次を。
大量の魔力が失われていく。それでも、ナイリューへ渡す分だけは残した。
使者の足が止まった。
そのとき、遠くで角笛が響いた。本道から分かれてきた王国軍の旗が、畑の向こうに現れる。ジェラルドが、退路の援護に回していた部隊だった。
使者は旗を見て、伸ばしていた手を下ろした。
追っ手が林へ戻っていく。ナイリューは追おうとした兵を止めた。エレノアも、姿が消えてからしばらくは、杖を下ろせなかった。
小屋へ入ると、姉姫は毛布を肩へ掛けて座っていた。
ユージンがそのそばにいたが、エレノアを見ると立ち上がった。話せる程度には落ち着いている。長くならないように、と小声で告げて、ほかの者の手当てへ向かう。
エレノアは姉の前に膝をついた。近くで見る顔は、記憶の中よりやつれていた。それでも、目が合うときの表情は、間違いなくいつもの姉だった。
「お姉さま」
呼ぶと、姉が手を伸ばした。髪へ触れようとして、途中で止まる。エレノアはその手を取り、自分の頬へ当てた。
温かかった。
「……迎えに、来てしまいました」
姉は困ったように笑った。もっと言いたかった。でも、続きが出てこない。
「来なくてよいと、伝えたのに」
「聞きました。でも、嫌でした」
姉の袖をつかんだ。さっきまで兵へ指示を出していた声は、もう出なかった。
姉の指が、エレノアの頬を撫でた。
「そう。……嫌だったのですね」
それきり、二人ともしばらく黙っていた。
やがて姉が、そばの毛布を少し持ち上げた。エレノアは隣へ座り直し、同じ毛布の端に手を置いた。
父と母のことを、姉はすでに聞かされていた。兄について伝えると、目を閉じ、長く息を吐いた。エレノアは言葉を足さず、待った。
館で何があったのかも、尋ねなかった。
姉が自分から話したのは、そこで働かされていた人々のことだった。食事を分けてくれた者、外の噂を教えてくれた者。門を開けた男とその娘は、離れた村に残る家族のもとへ帰りたいという。
「明日、話を聞きます。帰れるように、手配します」
エレノアが答えると、姉は小さく頷いた。
「あなた、本当に皆を連れて帰ってきたのですね」
その言葉に、エレノアは顔を伏せた。
まだ公都には戻れていない。顔を上げかけたところへ、姉の手が重なった。
「今は、ここにいてください」
エレノアは頷いた。
小屋の外では、兵たちが交代の支度をしていた。桶を置く音や、湯を求める声が聞こえる。そのどれもが遠くなり、肩へ触れる毛布の重さだけが、はっきりと感じられた。
翌朝、姉姫はナイリューとクリマルにも話をしたいと言った。
無理をさせたくはなかったが、忘れぬうちに伝えておきたいことがあるという。ユージンが同席し、疲れたらすぐに切り上げることにした。
姉姫が語ったのは、公都から館へ来る使者のことだった。
昨夜の男だけではない。黒い印を持つ者たちは、館の主さえ従わせるほどの力を持っていた。彼らはアヴァルギンの名で命令を伝え、館へ集められた人々から、魔法を使える者を選んで連れていったという。
「何のために?」
エレノアの問いに、姉は首を振った。
「そこまでは。ただ、その者は私にも何度か、母のことを尋ねました。何を調べ、どんな書き物を残したか。森にある古い石を、母がどうやって守っていたか、と。エレンは石のこと知っていますか」
エレノアは小さく頷いた。毛布の上で、右手がこわばる。
ナイリューも顔を上げた。
館の場所も、反乱の始まりも、あの洞窟とは離れている。偶然だと考えようとしたが、昨夜の使者はナイリューの印を見ていた。
「お姉さまは、何と答えたのですか」
「母の静養に付き添った時期はあると。それ以上は話しませんでした。実際、知らないことも、多かったのです」
姉はエレノアの手を見た。
「母は、あの森の封印とつながっていたのだそうです。石の守りが弱まると、母の身体からも力が失われる。静養に行ったのは、近くで様子を確かめるためでもあったのです」
エレノアは姉を見た。母の病と森を、同じこととして考えたことはなかった。
「私が、石に触れる前から……?」
「ええ。あなたが生まれた頃には、もう具合を崩していたでしょう。母も初めは、何が起きているか分からずにいたそうです。あなたたちが帰った晩、久しぶりによく眠れたと、私に手紙をくださいました」
エレノアは膝を握った。自分が生まれたせいではなかった。そのことを、母のいるうちに、母から聞きたかった。
マリエルは妹が顔を上げるのを待ち、それから続けた。
「母さまも、封じられているものの正体まではご存じなかったの。鳥の印が薄くなったことには、気づいていました。その後も、熱心に古い記録を読み直しているようでしたが、何を確かめようとしていたのか、私には話してくださらなかった」
クリマルが二人を見比べた。
ここで話すべきだと、エレノアは思った。封印を利用する者を招かないために伏せてきたことだったが、敵はすでに自分たちより多くを知っているのかもしれない。
彼女は、九年前の洞窟で見たものをマリエルにも話した。
人の心へ語りかける影。二人の掌に残った半円。ナイリューの父が守った封印と、その父を奪った黒い力。
ナイリューも、自分が見たことを補った。父が最後に剣を支えていた場所を話すときだけ、少し言葉が遅れた。
クリマルは途中で遮らずに聞いた。それから二羽の鳥の写しを、二人の間へ置いた。
「母君から封印へ届いていた力が弱まり、石は、新しく触れた姫の魔力を受けた。ナイリュー殿が手を重ねたとき、その通り道が二人へ分かれたのでしょう」
マリエルは、母の体調がその後、森の異変に合わせて悪くなることはなくなったと話した。元気になったわけではなかったが、悪い晩ばかり続くことは減ったのだという。
エレノアは自分の掌を見た。印を授かったことを、特別だと喜んだ日もある。母がそれまで何を担っていたかは、考えもしなかった。
「封印は、閉じたのですね」
「はい。そう見えました」
言い切ろうとして、エレノアは言葉を改めた。あのときは子どもだった。見えたものがすべてであるとは、今になっては言えない。
クリマルは頷き、昨夜の使者についてナイリューへ尋ねた。
印を見て驚いたこと。姉姫よりも自分へ兵を向けたこと。話し終えると、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
「古い記録には、魔族という名があります。人とも精霊とも異なるものだと。ただ、私が知っているのは、その呼び名くらいです」
クリマルは書面の端へ、その二文字を書いた。
「では、私たちが石に触れたことと、今の反乱は――」
「まだ、確証はありません」
答えに、ナイリューが拳を膝へ押しつけた。
「あの使者に、聞ければよかった」
誰も、今は何も返せなかった。
ユージンが、今日はここまでにしようと言った。姉姫の顔に疲れが見えていた。クリマルは書き留めた紙を畳み、皆を外へ促した。
昼前に、ジェラルドが村へ来た。
本道に出てきた反乱軍は、公都のほうへ退いていた。こちらも深くは追わず、確保した宿営地へ主力を移しているという。館へ向かった一隊は、そこで合流することになった。
姉姫と救出された人々は、護衛をつけてメースンへ戻す。イーファへはすでに知らせが送られていた。
出発の支度が整うまでの間、エレノアは昨夜の報告を聞いた。
怪我をした兵もいる。館から逃れたすべての人を、この場で数えられたわけでもない。周辺へ散った者を捜すため、公国の騎士を残すことになった。
負傷者の名が読み上げられた。エレノアは知っている顔を思い浮かべ、知らない名にも印をつけた。
ジェラルドは報告の末尾で、マリエルを公都へ渡さずに済んだことを挙げた。人質にされれば、次の戦いはさらに難しくなっていたという。
その言葉を聞いた途端、救われたと思ってしまった。
「私は、姉を助けたかったのです」
「承知しております」
ジェラルドは短く答えた。
「そのうえで、何を得て、何を失ったかを数えてください。次も、ご判断が必要になります」
エレノアは頷いた。
彼が去ったあと、クリマルとともに負傷した者のいる小屋を訪ねた。礼だけで済むとは思わなかったが、顔を見ずに先へ進むこともできなかった。
姉の乗る荷車には、厚く藁が敷かれていた。
別れ際、エレノアは何かを頼まれるかと思った。公都を取り戻してほしいとか、無理をしないでほしいとか。どちらも、今は約束しきれない気がした。
しかし姉が尋ねたのは、メースンで自分にできることがあるか、ということだった。
「まずは休んでください。あとのことは、それからで」
「ええ。休みます。ただ、ずっと待っているだけでは、落ち着かないでしょうから」
エレノアは少し考え、神殿へ相談に来る者が多いことを話した。自分では聞き取れなかった話もある。姉が落ち着いたなら、そういう人々の話を聞いてもらえると助かる。
姉は、できる範囲でならと答えた。
荷車が動き始める。エレノアは見えなくなるまで見送り、それから自分の馬へ戻った。
ナイリューが鞍の紐を確かめていた。エレノアが声をかけると、彼は一度だけ姉の荷車を見た。
「昨夜、すぐに戻れなかった」
館で印を見た使者を追いたくなったのだと、彼は話した。父が何と戦ったのか。あの男を捕らえれば、分かるかもしれなかった。
「お姉さまから聞きました。最後まで、守ってくださったと」
「迷ったけどな……。今も、聞きたかったと思ってる」
「それでも、姉さまを連れて帰ってくださった」
「でも、次にあいつを追うのは、姫のためだけじゃない」
エレノアは、すぐには頷けなかった。次に彼が選ぶ道が、自分の望みと同じとは限らない。
それでも、父を失った彼に、姉を救いたい自分の願いだけを背負わせるわけにはいかなかった。
「分かりました」
ナイリューが鞍の紐を締め直す間、裁縫道具の入った荷袋を抱えて待った。
馬へ乗る前、ナイリューが振り向いた。
「次の休みには、頼んでいいか。その糸」
「はい。上手には、できませんけれど」
彼は外套の裾を鞍へ引き上げた。穴から覗いていた糸が一本、風になびいた。
公都へ向かう道の先に、王国軍の旗が見えた。
次に会うときには、姉と故郷の城で話したい。その願いを胸へ収め、エレノアは馬へ乗った。
2026/09/24 加筆・修正しました
2026/09/27 大幅な加筆・修正




