第五章 同舟共済
公爵代理の印は、思っていたよりも小さかった。
王城から届いた箱には、青い布に包まれた銀の印章が入っていた。ベルティネの紋章の下に、王国の権威を示す飾りがある。
エレノアは印を手に、公国の各地へ送る書状を読んだ。王国軍を率いて帰る。反乱軍を退けるために協力してほしい。署名は、継承の儀までは用いることになっている母方の姓でしている。
最後にひと言、何かを添えようとして、筆が止まった。必ず助ける、と書くことはできる。だが、まだ救い出せる時期も分からぬ相手に、それを約束してよいものだろうか。
机の向かいで、クリマルが封蝋を温めていた。彼は急かさず、書き損じた紙を脇へ寄せるだけに留めている。
「返事を寄越せない方も、いるのでしょうね」
「おられるでしょう。賊の目を恐れる者もいれば、使いを出す余力さえない者も。返書がないことを、そのまま拒絶と受け取られませぬよう」
答えたあとも、クリマルは書面にある援兵の期日を見ていた。エレノアが筆を取ると、もう少し待つように手で示した。
「父君がまだ城におられた頃、私は報告の揃うのを待ちすぎました。分からぬことを減らせば、誤りも減ると思っていたのです」
彼は期日の文字から指を離した。
「待たせる相手にも、時間がある。そのことを、忘れぬようにしたい」
クリマルの指は封蝋に触れたまま、しばらく離れなかった。
エレノアは書状の余白へ、まず、そちらに残る民の暮らしを知らせてほしい、と添えた。兵を送れなくてもよい。助けが必要なら、それだけでも知らせてほしい。
クリマルは読み終え、封をする位置を示した。
銀の印を蝋へ押しつける。持ち上げたあとに残った紋章は、わずかに傾いていた。父の出した書状では、こんなことはなかった。エレノアが眉を寄せると、クリマルは新しい蝋を足そうとはしなかった。
「読めます。まずは、これを届けましょう」
その日の昼までに、同じ印を何度も押した。手首が重くなる頃には、傾きも気にならなくなっていた。
出立までの五日間は、瞬く間に過ぎていった。
軍務省から届く名簿と、実際に集まってくる兵の数は、毎日のように食い違った。参加を約した諸侯のうち、遠方の者は王都での集合に間に合わず、後から追いつくこととなる。最初に出立するのは王直属の部隊と近隣の諸侯の兵、およそ三千。公国を逃れた騎士たちは、ヨンウォリで合流する予定であった。
エレノアは総大将ではあったが、各部隊を率いる者たちの人柄も、部隊ごとの事情も知らない。自分の名で命令を出すたび、スルトヴに用語を確かめ、クリマルにその命令が及ぶ範囲を聞くこととなった。
あるとき、エレノアは荷馬車の到着を待たず、先頭の部隊を出すよう命じたことがある。名簿で「予備」と記された車なら、あとから追いついてもよいと思ったのだ。
イーファは、その車の積荷の欄を指した。替えの車輪、馬の飼料、修理用の鉄具が記されている。
「先頭の車が壊れたらどうするの? 替えの車輪が追いつくまで、街道で軍を止める?」
エレノアは伝令を走らせ、部隊長を呼び戻した。出発を取り消す声が、思ったより小さくなった。
「私、あなたの命令を毎回確認できるわけじゃないよ」
エレノアはもう一度、積荷の欄を見た。「予備」の二文字だけを見て、車の中身を確かめていなかった。怒らせたと分かっても、何も言い返せなかった。
イーファは帳簿をめくり、荷馬車の列の末尾に赤い印を三つつけた。
「それと、後ろの三台は空荷で出す」
「空のままですか…?」
「毛布と水、担架に使う布だけは積む。途中で歩けなくなる兵がいるかもしれない。山を越えられない人に会うかもしれない。助けに向かう軍が、人を乗せる車を一台も持たないのは困るでしょう?」
エレノアは、赤い印を見た。三台分の荷をほかの車へ移せば、馬も兵も重くなる。
「三台分の荷は、どうします」
「載せ替えられる分は、もう商会の者に数えさせてる。残りは兵に分けて持ってもらうことになる」
「兵には、武具もあります」
「分かってる。だから、どの隊へ何を持たせるかは、あなたが決めて」
イーファは赤い印の横に、商会の印を重ねた。
「この三台は、軍務省の名簿には入れない。私の商会の名で借りた車にする。空荷で出すなら、借り賃も御者の賃金も、こちらの持ち出しになるよ」
「それでは、イーファの商会が損をします」
「損かどうかは、帰ってから決まる。人の戻らない土地で、次に誰へ物を売るの?」
イーファにとって空いた荷台は、使われない余りではなかった。誰かが戻るまで、あらかじめ残しておく場所だった。
エレノアは帳簿を引き寄せた。どの隊なら荷を分けられるか。どの荷を後続へ回せるか。考えようとして、そこで手を止めた。
「三台を空ける意味は分かりました。ですが、兵に持たせる荷まで、私だけで決めてはなりません。軍の指揮を預かる方の意見も聞かせてください」
イーファは赤い印の上に指を置いた。
「そうして。私は、帰る人の場所だけは空けておく。今度は、予備という言葉だけで決めないで」
軍の副将には、ジェラルドが任じられた。
近衛騎士団長ショーリルの指揮下から討伐軍へ出向し、王直属部隊をまとめるという。辞令を携えて公爵邸へ現れた彼の傍らには、当然のようにリーゼがいた。腰にあるのは、王家の宝剣ではなく、自分の剣である。
「公爵代理閣下の御指揮に従います」
神判ではケーセルの代理だったが、今は王の命で、この軍へ来たのだ。エレノアはジェラルドに返答をした。
「よろしくお願いします。軍のことでは、あなたに教わらなければならないことが多そうです」
「私でお役に立つことであれば。ただし、御決定の前に異を唱えることは、お許しいただきたい」
「私が間違っていれば、そうしてください」
ジェラルドはそこで、わずかに目を細めた。
「間違いと分かることばかりであれば、楽なのですが」
ジェラルドの視線が、机に残った帳簿の赤い印で止まった。軍務省の名簿にない、三台の荷車である。
「こちらは、商会が別に用意した車ですか」
「そう。人を運ぶために空けておく」
イーファは、御者にも救護用だと伝えてある、と続けた。借り賃も御者の賃金も、商会で払う。
「山を越える軍に空の車を三台つければ、荷は兵に分けることになります。行軍は重くなる」
「分かってる。だから軍の車にしなかったの」
イーファはエレノアを見た。
「軍に必要なら、姫が命じて積み替えればいい。しかし私は、帰る人の場所をなくす判断を、商会の名ではしない」
エレノアは帳簿の赤い印を見た。三台を残せば兵に負担がかかる。戻せば、まだ顔も知らない誰かの帰る場所を、出発前から捨てることになる。
「三台は救護用にします。兵に持たせる荷と、後続へ回す荷を、私が決めます」
ジェラルドは、すぐには頷かなかった。
「副将としては、お勧めしません。次に足りなくなる物を選ぶことになります」
「分かっています」
ジェラルドは短く一礼した。イーファは帳簿を閉じず、赤い印を指先で押さえていた。
食事のあと、大神殿から封書が届いた。祭殿の老女が約束していた、二羽の鳥についての調査報告だった。古い封じの術に似た図があるものの、写本が欠けており、由来までは確かめられないという。
ただ、守り手が離れた場所から封印へ力を補うため、二つの印を対にした例はあった。見えるのは人の考えではなく、つながった力の動きであるらしい。危機に際して互いの気配が届くことも、その働きの一部なら説明がつく。
エレノアは鳥の図に指を置いた。母の手首で一度だけ見たものに似ていたが、確かめたい相手はもういない。クリマルには、その記憶も伝え、写しを旅の書類へ加えてもらった。
約束の五日目、王都の門をベルティネの旗が通った。
見送りの人々の中には、神判でナイリューの名を呼んでいた者もいる。彼らは晴れやかな顔で声を上げ、兵たちはそれぞれの隊の旗を追って進んだ。馬上のエレノアは何度も頭を下げたが、列の後方に連なる荷馬車を振り返るたび、無事に帰せるだろうかという思いが湧いた。
「ロンのおじさま」
ロンとはシェリル伯の名であり、エレノアは普段、彼をそう呼んでいた。シェリル伯は門の近くまで見送りに来ていた。王都を離れられぬ彼にとって、できることには限りがある。それでも、公国から新たな報せが届けば必ず軍へ回すと約してくれた。
伯は国境からの報告も伝えた。帝国軍が越境した形跡はなく、初めの混乱で侵攻と疑われた兵は、反乱軍の一隊だったという。国境の警戒は続けるが、今回の討伐軍が相手にするのは、公国内の反乱勢力であった。
「無理をして、父君と同じ振る舞いをなさることはありませんぞ」
別れ際、伯は馬のそばへ寄って、そう言った。
「あの方も、若い頃はずいぶん周りを困らせたものです」
「父上が、ですか?」
「帰られたら、お話ししましょう。今ここで話しては、出立に遅れます」
からかわれた気もしたが、その約束は嬉しかった。エレノアは頷き、手綱を握り直した。
門を出ると、人々の声は次第に遠のいた。代わって、馬の足音と車輪の軋む音が、長い列の前から後ろまで続いた。
二日かけてヨンウォリに着いたときには、エレノアも馬上で背筋を伸ばし続けることができなくなっていた。逃れてきたときは従者とともに急ぐだけでよかったが、軍と荷車を伴う旅は、そのようにはいかない。小さな川を渡るにも列は止まり、前の部隊が進めば、後ろの部隊が置き去りになりかける。平らな街道でさえ、この有様である。
まして、目前に迫るブラス山脈を越えねばならない。
難民の天幕は、まだ街の外に並んでいた。ベルティネの旗を見つけた子供が走り出すと、大人たちも次々に仕事の手を止めた。エレノアは馬を下り、自分を囲んだ人々の間をゆっくりと進んだ。
神判の勝利は、すでにここにも伝わっている。手を握って喜ぶ者もいたが、家族の消息を尋ねる者には、答えられないことのほうが多かった。
兄の最期を知らせた騎士にも、再び会った。
彼は腕を吊っていた。討伐軍へ加わりたいと願い出たが、まだ剣を握れる状態ではない。エレノアは迷った末に、ここに残る民の世話を頼んだ。騎士はすぐには返事をせず、遠くの旗を見てから、ようやく頭を下げた。
その夜、ヨンウォリ卿の館で軍議が開かれた。イーファは商会の者とともにこの街へ留まり、後続の物資を送り出す手配を引き受けている。山越えにはクリマルとスルトヴも同行し、ここで合流した公国の騎士たちが道案内を務めることとなった。
街道に沿う山越えの道は、かろうじて通行できるという。公国側から来た者の話では、メースンにはすでに反乱軍の兵が入っているが、周囲の村まですべて押さえているわけではないらしい。
先に出した書状への返事も、二通だけ届いていた。
一通には、こちらも手一杯で兵は送れないと記されている。もう一通には兵の話はなく、村に残る人数と、冬までに必要な穀物の量が書かれていた。エレノアの添えた一文に、そのまま答えたのであろう。
彼女はその紙を畳み、軍の名簿とは別に、自分の書類袋へ収めた。
難所であるブラス山脈の山道では、魔物を避けるために何度も列を止めた。二日目には、斥候が崖の上に群れを見つけた。先頭の兵だけなら通れたかもしれない。だが、荷馬車が続くあいだに襲われれば、狭い道で逃げ場がない。
ジェラルドは後続を待たせ、魔物が去ったのを確かめてから列を進めた。遅れた分、宿営地へ着く頃には日が暮れかけていた。
山道へ入って三日目の午後、先頭の部隊から知らせが来た。
公国側へ下る街道を外れた沢沿いで、公国の民らしい一団を発見したという。メースン方面から逃れてきた者たちで、荷車が動かなくなり、足を止めていた。斥候が呼びかけたものの、こちらへ来る様子はないらしい。
狭い道に軍を止めたままにはできない。ジェラルドは後続を待たせる場所を指示すると、エレノアへ報告した。
「確認のための兵を出します。本隊は先へ。日暮れまでに、向こうの宿営地へ入らねばなりません」
地図の上では、尾根を一つ越えるだけだった。しかし荷車を通せる道は大きく曲がり、まだ相当の距離がある。途中で夜を迎えれば、列の一部は斜面で休むことになるという。
エレノアは沢のほうを見た。木々の間に、粗末な幌が見えている。追われていた自分たちが、街道を逸れたときのことを思い出した。
「私が呼びかければ、出てきてくれるかもしれません」
「それが姫を誘うための囮ならば、相手の望みどおりになります」
囮。その言葉に、エレノアは沢を見直した。幌の奥は、ここからでは見えない。
答えあぐねていると、後ろからユージンが顔を出した。治療の必要な者がいると聞き、やってきたらしい。目深に被った神官帽の下から、沢の幌をじっと眺めていた。
「あれ、神殿の荷車です。雨除けの端に、小さな印があるでしょう。施療所で使うものですよ」
エレノアには見分けがつかなかったが、ユージンは迷わなかった。父の神殿で同じものを何度も見たという。
「僕なら話ができるかもしれません。護衛はお願いしたいですけど」
ナイリューが前へ出かけたところを、ジェラルドが視線で止めた。
「君は姫のそばに。護衛は私の部下を出す」
ひとまず、確かめるためにユージンたちを下ろす。エレノアはその案を採った。スルトヴには各部隊長とともに本隊を宿営地へ進めるよう命じ、クリマルを同行させた。自分はジェラルドとリーゼ、ナイリュー、それに一部の兵とともに、街道の退避場所へ残ることにした。
ユージンたちが沢へ下り始めた。エレノアは立ったまま待ったが、彼の帽子は、幌のそばまで行く前に木々へ隠れた。
やがて、木立の間でユージンの帽子が揺れた。荷車の陰から出てきた者と、何かを話している。剣を抜く者はいない。エレノアがわずかに息をついた、そのときだった。
さらに下流の茂みから、人影が現れた。
数人の男たちが沢へ入り、荷車を指差して叫んでいる。逃げてきた人々の動きが、一斉に止まった。
ユージンは、荷車の前に立ったまま、迫ってくる男たちを見た。
背後には、歩くのも難しい老人が二人と、小さな子供を抱えた女がいる。ほかにも何人か、幌の中で身を寄せていた。車輪が石の間にはまり込み、押しても引いても外れないのだという。
男たちの一人は、ベルティネの兵が着る上衣を身につけていた。だが腰帯は結び方が違い、袖の紋章も半ば剥がれている。荷車の持ち主である老神官が、その姿を見て唇を震わせた。
さきほど、この老人は、街道の兵も同じ仲間ではないかと尋ねてきた。ユージンはようやく、その意味を理解した。
「おい、そいつらはメースンから勝手に出た連中だ。引き渡せ」
先頭の男が剣を見せた。護衛の兵が前へ出たが、狭い沢では並んで立てない。荷車を背にする以上、下がることもできなかった。
ユージンは杖を横にして、男と老人の間へ差し入れた。
「病人です。街道へ上げて、治療します」
「神官なら引っ込んでろ。こいつらは、こちらの命令に従わなかったんだ」
男が杖を払い、荷車へ手を伸ばした。その手が老人の襟へ届く前に、ユージンは相手の腕をつかんだ。
細身の身体が一歩沈み、次の瞬間には男が沢の浅瀬へ転がっていた。
護衛までユージンを見た。彼は襟を直し、倒れた男と荷車の間へ杖を戻した。
「起きられますか。なら、その剣は置いてください」
声は低かった。
残る男たちが動いた。護衛が剣を合わせ、その向こうで一人が腕を突き出す。剥き出しの手首に、黒い紋様が走っていた。
ユージンの胸に、遠目で見た姫を追っていた兵の姿が蘇る。
杖を立て、短い祈りを口にした。白い光が荷車の前へ広がり、飛んできた黒い塊を受け止める。光の壁は軋んだが、消えなかった。
その間に、上から角笛の音が響いた。街道に残っていた王国兵が、ジェラルドの指示で沢へ下りてくる。紋様を持つ男はすぐに向きを変え、木立の奥へ逃れた。ほかの者は逃げ遅れ、護衛と増援の兵に囲まれると、武器を捨てた。
ユージンは追わなかった。老人の襟を整え、荷車の中を確かめた。子供が幌の端をつかんだまま、目を大きく開いている。
「びっくりしたね。もう少しだけ、待っていて」
そう言ってから、自分の帽子がないことに気づいた。いつの間にか落ちて、水に浮かんでいる。拾いに行こうとすると、足取りのおぼつかない老神官に袖をつかまれた。
老人は何度も頭を下げたが、言葉にならなかった。ユージンも帽子のことを諦め、その背を支えた。
沢の安全を確かめてから、エレノアはナイリューとともに下りた。
荷車を見て、まず魔法で持ち上げられないかと考えた。しかし車軸にはひびが入り、片側だけが石に挟まっている。力任せに引けば、車ごと壊してしまいそうであった。
結局、乗っている者を一人ずつ降ろすことになった。エレノアは冷たい水を防ぐ障壁を低く張り、兵が足場を確かめる間、流れを荷車から遠ざけた。必要な広さを決めてから魔力を注げば、沢の水を押し返すこと自体は難しくない。
老人が声を上げたときも、エレノアは決めた幅を保った。神官が手当てをする間、沢の水を近づけない。それを最後の一人が岸へ着くまで続けた。杖を下ろすと、冷えた足がようやく震えた。
荷車は諦めた。積み込まれていた袋のうち、薬とわずかな食料を選び、残りは置いていく。老人が何度も振り返った小箱には、神殿で使っていた古い燭台が入っていた。
持っていきましょうか、と言いかけたエレノアより先に、ユージンが箱を背負った。老神官には何も言わず、荷紐を肩へかけ直している。
「ジーン、それ、重いだろ」
「重いよ。君、半分持ってくれる?」
ナイリューが剣とエレノアを交互に見ると、ユージンは小さく笑い、そのまま歩き出した。
街道へ戻った頃には、山の端に日が触れていた。本隊に追いつくことは難しい。ジェラルドは残った兵を周囲へ配置し、退避場所で夜を越すための準備を始めていた。
「本隊には、こちらの状況を知らせました。明朝、合流します」
彼はエレノアを責めなかった。ただ、残った者の食料と、夜の見張りを増やす必要があることを告げた。助けた人々へ分ければ、兵の食事は予定より少なくなる。
エレノアは自分の分も出すように言い、そこでナイリューに止められた。魔法を使ったあとに何も食べず、明日も馬に乗るつもりか、と。
エレノアは器を受け取った。自分の分の半分を助けた人々へ回し、残りを食べた。足りないものは、誰かが我慢すれば消えるわけではなかった。
薄い粥を食べ終えたあと、ユージンに付き添われて老神官が来た。洗った顔には、疲れが深く残っている。
老人はメースンの小さな神殿で、病人を預かっていたという。反乱軍が町へ入ったあとも留まっていたが、やがて物資を取り上げられ、動ける者を外へ連れ出してきたのだった。
「姫様がお戻りになるという書状が、町にも届きました。しかし、あれを持っていてよいものかと、皆が恐れております」
手首の重みを覚えていた。あれほど何度も押した印が、持ち主を危険にさらしている。
「書状は、処分してくださって構いません。返事も、無理には求めません」
「ですが、門の者は待っております。姫様の御旗を見たならば、どうするべきかと」
老人は門番の何人かが、今も公国に心を寄せていると話した。ただし、その家族は町に留め置かれている。門を開けば、先に家族を失うかもしれない。
エレノアはメースンの名の横へ、門番の家族、と書いた。
ジェラルドが地図を広げた。メースンへ入る道と、神殿の位置を老人に確かめる。エレノアはそのそばへ膝をつき、話を聞いた。
老人の挙げた倉の名は、軍の持つ地図には載っていなかった。ジェラルドが余白へ書き留め、道を一本描き足した。
老人の指が地図の端で迷うと、エレノアは灯りを近づけた。
「急がなくて結構です。覚えているところから、教えてください」
夜の山道で、小さな灯りの周りへ人が集まった。濡れた神官帽を手にした兵が戻ってきて、ユージンの隣へそっと置いた。
翌朝、本隊へ合流すると、クリマルは報告を聞き終えるまで何も言わなかった。
昨日助けた者たちは、軍に同行する神官たちへ預けられた。捕らえた男たちも、別の場所で取り調べを受けている。彼らは食い扶持に釣られて反乱軍へ加わったと口を揃えたが、それだけで昨日の振る舞いが許されるわけではなかった。
クリマルが知りたがったのは、逃げた男の紋様である。
「ほかの者にも、同じものは?」
ユージンは首を振った。捕虜となった者たちの腕にも、それらしい印は見つかっていない。ただ、紋様のある男が命じると逆らいづらくなった、と訴える者はいた。
言い逃れかもしれない。その一方で、エレノアには、追っ手の二人がまったく同じ声を発したときの記憶があった。
クリマルは捕虜の証言を書き留めた。エレノアが目を向けると、昨日荷車へ剣を向けていた男が、何度も頭を下げた。袖から見える腕には、何の印もなかった。
「まずはメースンへ。町の様子を見てから、決めましょう」
その言葉に、クリマルは書きかけの紙を畳んだ。
再び軍が動き出した。荷車の列は昨日より長く見えた。王都でイーファが空けておいた三台と、積荷を分けた車に、救い出した者たちが乗ったからである。
翌日の昼過ぎ、木々の間からメースンにある家々の屋根が見えた。
街道が山を下り、大きく曲がった先に、低い石壁に囲まれた町がある。西には荷車を入れる広い門、東には公都へ続く道が伸びていた。山を越えてきた物資は、ここで積み直され、公国各地へ運ばれていく。
エレノアの知っているメースンは、いつも人と荷物で溢れていた。旅人に焼き菓子を売る屋台があり、馬の水を替える子供がいて、店の軒先には色とりどりの布が吊られていた。
今、門は閉じていた。石壁の上に掲げられているのは、ベルティネの旗ではない。
エレノアは手綱を握り締めた。
兄が最後に見たのも、この壁だったのだろうか。そう考えた途端、胸の内がざわついた。すぐにでも敵の旗を引き下ろしたいという思いが湧いたが、隣で地図を開く音がして、ようやく視線を戻した。
クリマルが老神官の描いた図を広げている。神殿は西門から少し奥、古い広場の一角にあるという。その向かいの織物倉に、門番の家族が集められていた。
町を出ることを禁じられた者は、そこだけではない。反乱軍に物資を納める家々にも、勝手な移動を認めぬ命令が出ているらしい。
「門を開ける約束だけでは、こちらも動けませんね」
ジェラルドは壁を見上げながら言った。
「先に家族の安全を確保しなければ、門番は動けない。だが、門を開けてもらわなければ、我々は家族のもとへ行けない」
エレノアは頷いた。老神官の話を聞いてから、ずっと同じところを考えていた。
エレノアが別の入口を尋ねても、老神官は首を振った。水路には格子があり、人の通れる幅ではないという。
しばらくして、壁の上から白い布が振られた。話し合いの使者を迎えるという合図だった。
こちらが公国の旗を掲げたことで、少なくとも誰が来たのかは伝わったらしい。ジェラルドは使者を出し、エレノアは後方の陣で返事を待った。
戻ってきた使者によれば、守備の指揮を執っているのは、アヴァルギンに従う元騎士であった。公国軍が来たのなら話は聞くが、王国軍を町へ入れるつもりはないという。
「向こうも、我々が町ごと焼くとは思っていないのでしょう」
「焼きません」
即座に答えてから、エレノアは少し声を落とした。
「だからといって、このまま待つつもりもありません。交渉の場に、神殿の者を出してもらえないでしょうか。使者には病人を預かる用意があると伝えてください」
ジェラルドが使者を呼び直した。兵の入城と病人の引き渡しを分け、返事を求めることになった。
クリマルが書面を整えた。降伏を受け入れた者の扱いも、先に示しておくべきだと彼は言った。命令に従って門を守っていたことと、住民から略奪したことは、分けて調べる。武器を置いた者を、その場で一律に罰することはしない。
エレノアは読み終えると印を押した。
使者は書面を受け取り、町へ戻っていった。
返事が届いたのは、夕方近くであった。
神殿の病人に限り、西門の外へ出す。ただし迎えに来るのは神官とその従者のみ。兵は近づけないこと。それが相手の条件だった。
ユージンは濡れて歪んだ帽子を被り直し、自分が行くと言った。沢で助けた老神官も同行を願い出たが、今度はユージンが止めた。帰りを待つ者へ伝える言葉を預かり、代わりに連れて戻ると約束した。
それでも、町へ入ることは許されなかった。門の前で引き渡される者を受け取るだけである。
エレノアは陣の前方へ出て、開かれた門を見つめた。ナイリューもそのそばを離れなかった。門から現れたのは、歩ける者ばかりだった。背を支えられた老人と、包みを抱えた女。子供が一人、その後ろをついてくる。
ユージンたちは何度か往復して彼らを迎えた。最後に門が閉じようとしたとき、白い衣を着た神官が、門番へ何かを訴えるのが見えた。しかし返事はなく、重い扉が二人の間を隔てた。
戻ってきたユージンは、エレノアの前で帽子を取った。
「まだ、中にいます。自分で歩けない人は、運び出す手間がかかるからと」
彼は帽子を机へ置き、運び手と担架を貸してほしいと言った。エレノアが返事をする前に、ジェラルドが首を振る。二度目に門を開ける保証はなく、神官を捕らえられれば、交渉の条件はさらに悪くなる。
「それで、歩ける人を出したから約束は守ったと、向こうの言い分を認めるんですか」
ユージンの声が強くなった。ジェラルドへすぐに頭を下げたが、申し出は取り下げなかった。
「歩けない方が、まだ中にいます。あちらが運ぶ人手が足りないというのなら、僕たちが担架を持って門まで行きます。もう一度、交渉させてください」
その晩を待てない病人がいるかもしれない。エレノアは伝令へ、担架の用意と再交渉を命じた。これによって町へ入る許可を得られたわけではなかったが、日暮れまでに、もう二人が門の外へ運び出された。ユージンは迎えに走り、礼を言う神官には、まだ中に何人いるかと尋ねた。
最後の担架を受け取って戻ると、ユージンは机に置いた帽子を取り上げた。中に残る者の数を報告する声は、まだ硬かった。
ユージンによれば、神殿から出てきた若い神官は、織物倉の人々が今夜、東へ移されるという噂を聞いたと話していたという。公都からの命令だと言う者もいるが、確かめた者はいない。
その頃、公都の仮指揮所では、元官吏がメースンへ送る命令書の横に、もう一枚の紙を置いていた。
織物倉へ集められた者の名と、その家族の名。織り手、染め手、帳場の者、杖を使える者。余白には、歩けぬ者がいることまで書き添えられている。
「移した先でも照らし合わせられるよう、名を残します」
アヴァルギンは、その紙を見た。
「……そうしろ」
黒い紋様が、彼の手首で脈打った。
『数だけでよい』
耳で聞いたのではない声が、机の上の名を数えるように続けた。
『織り手何人。杖を持てる者何人。歩ける者何人』
アヴァルギンの指が、一人の名の上で止まった。
「人を東へ出す命令は、待て」
『公女が王国軍を率いて、この公国へ戻ってくるそうだ』
喉の奥で、別の声が言葉を押し返した。
『織り手と、杖を持てる者を東へ移せ』
「命令は――」
アヴァルギンの唇が動いた。だが、封をする手は止まらなかった。
「東へ移せ」
元官吏は、しばらく主を見た。命令書には、織り手三十二、術を使える者四、とだけ記した。そのあとで、名の並ぶ紙を擦れた帳簿のあいだへ挟んだ。
人数として送られても、戻るときまで名を失わせるわけにはいかなかった。
エレノアはジェラルドを見た。彼の表情は変わらなかったが、広げていた地図を畳む手が止まった。
「確かな報せではありません」
ジェラルドは地図の東側を指で押さえた。
「夜に町へ入れば、敵の数も、織物倉までの道も分からぬまま戦うことになります。移送の話がこちらを誘い出すためのものなら、神殿に残る者まで危うくなる」
それはもっともだった。噂だけで兵を動かし、救えるはずの者を危険へさらすことはできない。
だが、明朝まで待てば、門を開ける者もいなくなるかもしれない。救うと約した相手を、移された先まで必ず追えるとは言えなかった。公国の地図は広く、反乱軍の居場所さえ、まだ十分には分かっていないのだ。
「噂が本当かどうかを、確かめてからでは遅いのです」
エレノアは、地図の上の町を見た。
「町を取るために入るのではありません。織物倉の人々を、移される前に連れ出すためです」
ジェラルドはしばらく答えなかった。やがて地図を開き直し、織物倉と神殿、東門を順に指した。
「ならば、入ったあとの行き先を先に決めましょう。救う者を増やすほど、引き返す道も必要になります」
エレノアは頷き、町へ目を向けた。屋根が夕日で赤く染まっていた。
「今夜、動きます。ただし、町へ入ったあとの行き先は、先に決めておきたいのです」
門を破るだけでは、織物倉へ間に合わないかもしれない。神殿の病人も、混乱の中へ取り残される。クリマルとスルトヴを呼び、エレノアはユージンに、門で若い神官から聞いた町の様子をもう一度話してもらった。
その話し合いは、火を灯してからも続いた。
町の外に残す兵をスルトヴへ任せ、ジェラルドは西門の前へ進んだ。
リーゼがその後ろにいる。門を守る兵には、すでに降伏の条件が伝えられていた。だが、扉は閉ざされたままだった。
壁の上から、黒い光が走った。
リーゼの障壁が兵の前へ広がる。それを合図にするように、門の内側で叫び声が上がった。こちらへの攻撃を命じる声に、別の声が重なる。閉じられた扉の向こうで、何かがぶつかった。
エレノアは少し離れた場所で、その音を聞いていた。夜の町には、どこに誰がいるのかも分からない。門を大きな魔法で破れば、そのすぐ裏にいる者を巻き込む。
錫杖を握る手に、ナイリューの手が軽く触れた。
「待とう。まだ、門の向こうで動いてる」
エレノアにも音は聞こえていた。それでも、待てと言われなければ、何かをしなければという焦りに負けていたかもしれない。
やがて扉の片側が、内へ向かって動いた。
隙間から、一人の兵が両手を上げて姿を見せる。門を守っていた公国の兵であった。彼は王国軍を見て立ちすくんだが、ジェラルドが剣を向けずに道を空けると、何度も頷き、後ろへ叫んだ。
さらに門が開いた。ジェラルドの部隊が入っていく。
門の隙間から出てきた兵が、織物倉の方角を何度も指していた。エレノアは馬を進めた。
合図を受け、ナイリューとともに門をくぐった。
内側には壊れた荷箱が散らばっていた。左右の家々は戸を閉め、細い隙間から灯りだけが漏れている。ジェラルドは町の中央へ向かい、エレノアたちはユージンと護衛を伴って、神殿の広場へ進んだ。
織物倉の扉は開いていた。
すでに人々が外へ出され、東へ向けて並ばされている。泣く子供を抱いた女の前に、黒い紋様を持つ兵が立っていた。ユージンが声を上げるより早く、その兵の腕が動いた。
黒い光が、広場を横切った。エレノアは錫杖を振り、障壁を張った。神殿の石段から織物倉の軒まで、青白い光が弧を描く。反乱軍の術はそこで止まり、石畳を叩くような鈍い音を立てた。
守る範囲が広すぎた。遠い端が薄くなり、次の一撃を受けたときには、その部分が震えた。
エレノアは足を踏ん張った。神判のときとは違い、周りに魔力を分けてくれる柱はない。だが、同じ場所へ人々を集めてもらえば、形を単純にすることはできる。
「神殿の石段へ! そこから先へは出ないでください!」
ユージンが駆け寄り、立ちすくむ者へ声をかけた。護衛の兵も剣を収め、子供や老人を石段へ上げる。人々が動くのを確かめながら、エレノアは障壁を少しずつ縮めていった。
ナイリューが前へ出た。誓約の道へは、彼が求める力だけを残してある。
しかし彼が剣を合わせた瞬間、エレノアは右手に冷たいものを感じた。
敵の手首の紋様が、広場の奥にいる別の兵と同じ間隔で明滅していた。向こうの兵が顔を上げると、ナイリューの相手も、見ていないはずの背後へ半歩下がった。
敵の背後から、別の兵が踏み込んできた。ナイリューは間に合ったが、追っ手を振り返る暇はなくなった。
神殿の前で、ユージンが祈り始めた。
白い光が石段へ広がる。逃げ込んだ人々を落ち着かせ、身を守るための天神魔法だった。その光が黒い紋様へ触れたとき、ナイリューと戦っていた兵の動きが鈍った。
彼は自分の腕を見た。次いで、剣を握る手が震えた。
「待っ……」
何かを言おうとした口が、不自然に閉じた。紋様がひときわ暗くなり、兵は再び剣を振り上げる。
エレノアは息を呑んだ。
あの人は、今、何を言おうとしたのだろう。
ナイリューも気づいていた。刃を受け流しながら、相手の腕へ目を向ける。その隙を別の兵が狙ったが、彼は追わず、神殿の前へ戻った。
「ジーン。もう一度、さっきの光を出せるか」
「出してるよ。でも、これ以上は広げられない!」
ユージンの額に汗が浮いている。沢で見せた障壁とは違い、石段の人々へ祈りを届かせ続けなければならないのだ。
余っている自分の魔力を、ユージンへ渡せれば。エレノアは右手を伸ばしかけたが、つながっているのはナイリューだけだった。
エレノアは障壁の端を見た。
敵の術を防いでいた光の壁を、石段の前から左右へ伸ばす。術を放つ兵と、剣を振るう兵の間に薄い壁ができた。広く守る力を、今度は二人を隔てるために使ったのである。
「ナイリュー。その人を、石段の前へ!」
言い終える前に、彼は動いた。
剣を合わせたまま立ち位置を変え、相手をユージンの光の中へ導く。兵の足が止まった。黒い紋様はまた明滅したが、今度は腕がすぐには動かなかった。
ナイリューはその隙に剣を落とさせた。兵は膝をつき、自分の右腕を左手で押さえたまま、何度も息を吸った。
広場の奥で、残る男が叫んだ。
人の言葉には聞こえなかった。エレノアの掌に、洞窟の冷たさが蘇る。男が何かを唱えかけたとき、別の通りから王国兵が姿を現した。ジェラルドの部隊である。
男は後ろを振り向いた。ナイリューが間合いを詰め、短い打ち合いののち、その杖を石畳へ落とした。
護衛の兵が二人を取り押さえる。それでもエレノアは障壁を解かなかった。黒い紋様が消えるのを待ったが、兵の腕には、薄い痕が残り続けていた。
メースンの抵抗が止んだのは、夜半を過ぎてからだった。
守備を指揮していた元騎士は、東門から逃れていた。ジェラルドは追撃を長く続けず、町の確保を優先した。兵が家々へ勝手に立ち入らぬよう命じ、倉に残った物資を調べさせる。
西門には、ようやくベルティネの旗が戻った。
だが、夜のうちに歓声が上がることはなかった。家族を捜す声と、兵を呼び止める声が、暗い通りを行き交っていた。
エレノアは神殿の脇に腰を下ろした。杖を持つ手がうまく開かず、指を一本ずつ伸ばした。ナイリューが水を持ってきたが、器を受け取ると中身が揺れた。
「少し、持っていてもらえますか」
彼は黙って器を支えた。水を飲むと、ようやく、自分の喉が渇いていたことに気づいた。
神殿の中では、ユージンがまだ働いていた。沢で助けた老神官も、荷車で運ばれてきて、若い神官たちへ指示を出している。あの燭台が祭壇に戻され、曲がった蝋燭に火が灯っていた。
ナイリューに剣を落とされた兵は、別室にいた。
手首は革紐で柱につながれ、扉の外にはスルトヴ直属の兵が二人立っている。紋様は消えていない。ユージンの祈りが届いている間だけ、兵の呼吸は落ち着いた。光が薄くなると、彼は目を閉じ、聞こえぬものを押し返すように肩を固くした。
兵が一度だけ目を開けた。焦点の合わぬ目が天井をさまよい、唇がかすかに動く。名なのか、命令なのか、言葉にはならなかった。
「今は、問いを重ねないほうがいいです」
ユージンが静かに言った。
「聞き取れる言葉が本人のものか、印に言わされているものか、まだ分かりません。祈りで無理に言葉を引き出すことは、僕にはできません」
スルトヴは扉の外にいる見張りを見た。
「治す手立てを探すことに異はない。だが、見張りを一人にはせぬ。扉を開けるときは、必ず二人以上で入れ」
「分かりました。拘束も続けてください」
エレノアは答えた。
「苦痛を和らげる祈りは続けてください。ただ、印そのものに新しい術を試すなら、話せる状態になってから説明し、本人に選んでもらいます」
スルトヴはエレノアを見た。
「それで間に合わぬときは」
「そのときは、皆さんを守るためのことをしてください。でも、今は、あの印の声とこの方の声を、同じものとして扱いたくありません」
スルトヴはすぐには答えなかった。やがて見張りへ、夜明けまで交代を絶やすなと命じた。
ユージンは兵のそばへ戻り、祈りを続けた。
エレノアは紙を借りた。受け取る者が、自分で止められる道。そこまで書き、続きはクリマルに相談しようと書類袋へ挟んだ。
別室から、ユージンの祈りの声が聞こえていた。
翌朝、神殿の前に、小さな列ができた。
施療を待つ者ばかりではない。昨夜、王国兵に納屋を使わせた者が、敷藁の代金を受け取れるか尋ねに来た。門を開けた兵は家族を連れて現れ、自分がまだ公国の兵でいてよいかと聞いた。
エレノアは机を外へ出してもらい、クリマルとともに一人ずつ話を聞いた。答えられないことは、その場で決めずに書き留めた。
兄が最期まで指揮を執った場所は、町の南の古い橋の近くだという。案内すると申し出た者もいたが、今は手を離せなかった。落ち着いたら必ず伺うと伝えると、相手は帽子を胸に当てて頭を下げた。
昼近くになって、倉の調査を終えたジェラルドが来た。
エレノアは住民への応対をいったん中断し、クリマルとともにジェラルドを神殿の一室へ迎えた。
残っている穀物だけでは、町と軍の両方を長く支えることは難しい。ヨンウォリからの補給が届くまで、軍の配分を見直す必要があるという。
エレノアは頷いた。町を取り戻せば、そこにある物を自由に使えるわけではなかった。住民も、次の収穫まで食べていかなければならない。
ジェラルドの案は、倉の穀物をいったん軍の管理に移すというものだった。住民への配給も軍が引き受け、補給隊の到着を待たずに公都へ進む。反乱軍が立て直す時間を与えないためである。
「代金は王国発行の為替手形で支払います。取り上げるのではありません」
エレノアは倉の調査票を手元へ寄せた。所有者の欄には、昨夜から話を聞いている商人の名や、共同で穀物を蓄えている村の名が記されていた。
「手形を渡されても、現物がない以上、彼らは麦を買えません。まず持ち主と、町に残す量を決めます」
「その交渉に、何日かけられますか。公都には、今も捕らわれた者がいる」
エレノアは即答できなかった。ジェラルドは必要な日数と、動かせる兵の数を示した。補給を待っている間に、公都の敵が増援を集める可能性もある。
「足りない分を買うための手形です。飢えさせるために取るわけではありません」
エレノアは調査票を机へ置いた。
「それでも、持ち主を確かめずに軍の物にはしません。取り戻した初日に、誰の倉も総大将の一言で開くようにはしたくないのです」
少しの間、ジェラルドは黙っていた。
「私は、公都へ進むことを優先すべきだと考えます」
「承知しています。これは私が決めます。この遅れで、公都の誰かを救えなくなったなら、その日付も私の判断として報告に残してください」
ジェラルドはしばらく彼女を見た。
「承知しました」
彼は一礼した。賛同の言葉はなかった。
クリマルが交渉のために公国の役人を集めると申し出た。エレノアは頷いた。窓の外で出立を待っていた兵へ、今日も待てと伝えなければならなかった。
部屋を出たジェラルドを、リーゼが追った。
「従うのですね」
「従う。しかし、遅れた理由は、報告書にありのまま書く」
ジェラルドは廊下の窓から、動かぬ旗を見た。
「王都には、勝利だけを待つ連中がいる。この足止めまで、俺の指揮のせいにはさせない」
リーゼは表情を変えず、軍の配給表を彼へ渡した。
その頃、部屋に残ったエレノアは、クリマルへ補給の手配を頼んでいた。
「イーファへ、状況を知らせてください。まず、必要な量を正確に」
クリマルが紙を引き寄せた。その横には、ジェラルドが置いていった公都への輸送記録がある。荷車の行き先をたどれば、反乱軍がどこへ兵を集めているか、少しは分かるかもしれない。
その紙を読み始めたとき、外から、車輪を叩く音が聞こえた。
神殿の若い神官が顔を出し、荷車を直してくれる者が来たと告げた。エレノアは一瞬、沢に置いてきた車かと思ったが、別のものであった。町に残っていた古い車を、病人のために使ってほしいという。窓から覗くと、二人の男が車輪の具合を確かめている。そのそばでは、ユージンが荷台の板を押さえていた。帽子は相変わらず歪んでいたが、本人は気にしていないようだった。
ナイリューが何か言うと、彼は眉を上げ、空いているほうの板を指差した。騎士は苦笑して剣を壁へ立てかけ、手を貸した。
兵たちが荷台を持ち上げた。明日はこの車で、病人を運べるのだという。
エレノアは、その音を聞きながら公都への地図を閉じた。町の人々が少しずつ暮らしを取り戻しているのは嬉しかった。それでも、公都へ進めない日が増えるたび、向こうで待つ人々のことが気にかかった。
2026/09/23 軽微な修正をしました
2026/09/27 大幅な加筆・修正




