第四章 竜虎相搏
決勝の朝、王都には雲一つなかった。王城の大演武場を囲む旗は風を受け、乾いた音を立てている。昨日以上の観客が早朝から押し寄せ、城外の広場にまで神判の様子を伝える触れ役が配置されていた。
この一戦で選ばれるのは、単なる決闘会の優勝者ではない。ベルティネ公国を奪還する軍の総大将であり、次の公王となる資格を持つ者である。
エレノアは入場口の影から、向かい側に立つ三人を見た。候補者であるケーセルは、王族の白い外套をまとっている。公爵位を望んでいないとしても、神判へ臨む以上、王家を代表する者として立つ覚悟を決めていた。
その前にはジェラルドがいる。昨日と同じ近衛騎士の鎧だが、腰には王家に伝わる宝剣を帯びていた。鞘にも柄にも華美な装飾はない。候補者であるケーセルが、自らの代理として戦う彼へ預けたものであった。
少し離れた婦人の円では、リーゼが紫色の祭服の袖を整えていた。彼女の足元には、魔力を均等に配るための幾何学的な術式が幾重にも描かれている。
エレノアの魔力が大河なら、リーゼの魔力は深い湖に似ていた。量だけならエレノアに及ばない。それでも、波一つ立てずに必要な分だけを取り出せる制御力は、明らかにリーゼが上であった。
「エレン」
ナイリューに呼ばれ、エレノアは視線を戻した。
「どうすれば勝てるか、考えてたんだろ」
「ええ。ですが、まだ何も……」
「なら、俺にも相談してくれ。戦うのは二人なんだから」
エレノアは握り締めていた杖を持ち直した。
「そうですね。あなたには、どこを攻めればよいか分かりますか?」
「それが分かれば、苦労しないな」
「頼もしいことを言ったばかりでしょう」
「一緒に考えるとは言っただろ」
思わず笑みがこぼれた。エレノアは彼の隣に立ち、もう一度、対戦相手へ目を向けた。
二人が闘技場へ進むと、歓声が一段と大きくなった。昨日まではジェラルドの名を呼ぶ声が圧倒的に多かったが、今はエレノアとナイリューを応援する声も混じっている。
避難先から王都へ来ていた避難民の一部も、演武場の一角に席を与えられていた。彼らが掲げるベルティネの旗を見つけ、エレノアは胸元へ手を当てる。
あの旗の下へ、必ず帰る。
大司教が、降参、戦闘不能、武器の場外への落下によって決着とする旨を確認した。両組から異議はなかった。
国王と法王がそれぞれ開始を承認する。
その間に、リーゼがエレノアへ一礼した。
「昨日の神判を拝見しました。あなたほどの魔力を持つ方と同じ場に立てることを、光栄に思います」
「私も、あなたの制御を見習いたいと思っています」
「でしたら、神判のあとで。見学料は高いですよ」
リーゼはエレノアの杖先を見た。緊張のせいか、わずかな光が漏れている。
「まず、そこから」
エレノアは慌てて杖を握り直した。ナイリューが笑いかけたので、見ないでください、と睨んだ。
大司教が杖を掲げる。
「神判、決勝――始め!」
開始と同時に動いたのはナイリューだった。
ジェラルドが最初の一歩を踏み出す前に間合いへ入り、低い位置から長剣を斬り上げる。昨日の準決勝で見せた、相手の力を利用する技を使わせないための速攻であった。
ジェラルドは剣を抜きながら受けた。磨き抜かれた刀身が朝日を弾き、ナイリューの長剣と交わる。その瞬間、リーゼの魔力が彼の腕と足へ流れ込んだ。
音は小さかった。にもかかわらず、押し返されたのはナイリューのほうである。
彼は二歩下がると、すぐに踏み直した。今度は剣先を細かく動かし、上下左右から連続して仕掛ける。ジェラルドはその場をほとんど動かず、すべてを最小限の動きで受け流した。
ナイリューが速くなるほど、ジェラルドの動きは静かになっていく。
リーゼの補助も同様だった。全身を常に強化するのではなく、刃を受ける腕、重心を移す足、相手を捉える視覚へ、必要な瞬間だけ魔力を巡らせている。
エレノアはナイリューとの間に力を満たした。自分から押し込まず、彼が求める分だけを汲み上げられるようにする。
少量の魔力が引き出され、ナイリューの踏み込みが鋭くなった。剣がジェラルドの肩口へ迫る。
届く、とエレノアは思った。
その寸前、ジェラルドの姿が半歩だけ沈んだ。剣先が鎧の表面をかすめ、空を切る。ジェラルドはすれ違いざまに柄でナイリューの脇を押し、体勢を崩した。
ナイリューは転倒をこらえ、振り向きざまに剣を返す。ジェラルドはすでに間合いの外へ下がっていた。
「悪くない」
ジェラルドが初めて言葉を発した。
「だが、力を受け取る瞬間が分かりやすすぎる」
エレノアは息を呑んだ。
ナイリューが力を引き出すたび、誓約の道が光る。ジェラルドの視線は、その瞬間を逃さなかった。
ならば洞窟で生まれた二本目の道を使えばよい。そう考えた瞬間、リーゼの杖が地面を軽く打った。
銀色の薄膜がジェラルドの鎧を包む。攻撃を防ぐ障壁ではない。周囲の魔力変化を映し出す、感知の補助魔法であった。
ナイリューの掌に半円が浮かぶと、その輝きまで薄膜へ波紋となって現れる。
正式な誓約も、洞窟の道も、すでに観察されていた。
ジェラルドが踏み込んだ。
今度はナイリューが受ける側となる。一撃目を流し、二撃目を剣の腹で受け、三撃目を避ける。しかし、避けた先へ四撃目が待っていた。
まるでナイリュー自身より早く、次の動きを知っているようであった。
エレノアは防御の魔力を送ろうとしたが、動きを読まれる。送らなければ、ナイリューが押し切られる。
どちらを選んでも、ジェラルドとリーゼはその先へいる。
剣が重なるたび、ナイリューの腕へ疲労が蓄積していく。それに対し、ジェラルドの呼吸は乱れていない。リーゼが身体強化だけでなく、疲労を和らげる補助まで正確に重ねているためである。
「リーゼ、次は右腕へ厚く送れ」
「不要です。宝剣の重さに、あなたの感覚が追いついていません」
次の打ち合いで、ジェラルドの右腕へ光が届いた。求めたほどの量ではなかったが、宝剣はぶれずにナイリューの刃を退けた。
「それで足ります」
リーゼに言われ、ジェラルドは舌打ちした。エレノアには、その短いやり取りを挟む余裕さえない。
ナイリューが大きく距離を取った。
「強いな」
額の汗を拭う余裕もなく、それでも彼は笑った。
「王国最強が嘘じゃなくて安心した」
「おまえも、辺境だけで終わる剣ではない」
ジェラルドは淡々と答えた。
「だからこそ、ここで見せてもらう。主の大きすぎる力に頼らず、どこまで立てるのかを」
その言葉とともに、ジェラルドの剣へ初めて明確な光が宿った。
リーゼが魔力を送る。これまでの精密な供給とは桁が違う。紫を帯びた銀光が刃へ集まり、細身の剣が周囲の空気を震わせた。
エレノアは障壁を準備した。婦人が相手へ直接魔法を使うことはできないが、自分の騎士を守ることは認められている。
ジェラルドが剣を振るう。刃から放たれた衝撃は、ナイリューだけを正確に捉えた。エレノアの障壁がその前へ重なる。透明な壁と銀光がぶつかり、闘技場全体に低い音が響いた。
防いだ。
そう思った直後、障壁の中央に一本の線が走った。
ジェラルドの衝撃は力任せに壁を破ろうとしていない。リーゼが見抜いた魔力の薄い一点へ、すべての力を集中させていた。
障壁が二つに分かれた。弱められながらも残った衝撃がナイリューを押し戻し、彼の足が石床を滑る。
場外まで、あと一歩。
ナイリューは剣を地面へ突き立て、どうにか踏みとどまった。だが、顔を上げたときにはジェラルドが目前にいる。
ナイリューは地面から長剣を引き抜き、振り下ろされた剣を受けた。刀身が大きくたわんだ。膝が石床へつく。
エレノアは反射的に魔力を送りかけた。だがナイリューは、視線だけでそれを止めた。
――まだだ。
言葉にしなくても、その意思は伝わった。
エレノアは魔力を押し戻した。二本の道はどちらも、リーゼの薄膜へ波紋を刻んでいる。
十二本の結界柱が目に入った。二人を結ぶ道だけが光るから、見抜かれる。周りの柱も満たせば――。
入場のときに見分けた、二筋の光。観客を守る結界に触れぬよう、彼女は補助術式へ杖を向けた。
「ナイリュー。柱へ力を巡らせます。そこから、必要なときに受け取れますか」
押し込まれた剣を支えたまま、彼がこちらを見た。
「どの瞬間かは、俺が決めていいんだな」
「はい。長くは、保たせられません」
「一度でいい」
一本目へ送った光が隣へ渡り、闘技場の縁を巡った。柱の術式に魔力を分けさせながら、エレノアは十二本を満たしていく。
十二本目へ光が届いた。
闘技場の縁を巡る柱が、同じ青白い色で一斉に灯る。柱と柱の間に細い光の糸が走り、観客席を囲む結界まで、夜明けのように浮かび上がった。
観客から息を呑む気配が広がる。だが、熱も衝撃も客席へは一片も漏れなかった。石床に亀裂はなく、客席を守る壁も揺らがない。
エレノアは誰かへ力を叩きつけたのではない。演武場に元からあった術式の隅々へ、自分の魔力を行き渡らせている。
神官たちは計器と結界柱を見比べた。止めるべき異常は、どこにもない。その間にも、環を巡る光は静かに保たれていた。
十二本を保たせた途端、エレノアの膝が重くなった。リーゼなら一合ごとに使う力を、エレノアは環を光らせるだけで失っていく。
周囲を巡る力へ、ナイリューとの二本の道を重ねた。
リーゼの薄膜へ、いくつもの波紋が走った。ナイリューが力を引き出しても、その一つに紛れてしまう。
「随分、無駄の多い術ですね」
リーゼの声が届いた。エレノアは答える余裕もなく、杖を握り締めた。
環の光が偏り始めた。次にナイリューが大きく動けば、もう保たない。エレノアは杖を両手で支え、彼の踏み込みを待った。
環の内側で、ナイリューが剣の握りを変えた。
ジェラルドは一度剣を引き、すぐに斜め上から振り下ろした。押し合いを続けるより、ナイリューが新しい力へ慣れる前に決めるつもりなのだ。
王家の宝剣が白く輝いた。リーゼから送られた魔力を受け、刃の周囲に薄い光の層が重なる。先ほど障壁を切り裂いた一撃よりも、さらに鋭い。
ナイリューは長剣を構え直し、立ち上がった。
その動きに合わせ、環を巡る光が一斉に強まる。
ジェラルドの視線が、最も強く光った正式な誓約の道へ向いた。ナイリューの脚へ大量の魔力が集まっている。左へ跳び、横から切り込む動きだと読んだのだろう。宝剣の切っ先が、先回りするように左へ流れた。
しかし、ナイリューは動かなかった。
脚へ集められた力を使わず、そのまま環へ戻す。代わって彼が選んだのは、洞窟の道から届くごくわずかな魔力であった。強化したのは、剣を握る右手の指だけ。
ナイリューは正面へ踏み込んだ。ジェラルドが目を見開く。予測とは逆だった。それでも反応は速い。左へ流した宝剣を手首だけで返し、ナイリューの長剣を迎え撃つ。
二本の刃が触れる直前、ナイリューは力を抜いた。打ち合うのではなく、宝剣の側面へ自分の刃を添える。ジェラルドがこれまで何度も見せた、相手の力を利用する技であった。
「あなたの真似だ」
ナイリューは宝剣の勢いに逆らわず、身体を沈めた。二本の剣が円を描く。ジェラルドの斬撃はわずかに軌道を外され、そのまま石床へ向かった。
宝剣の切っ先が床へ触れる。白い光が弾け、硬い石に細い亀裂が走った。
その一瞬、ジェラルドの右手だけが伸びきる。
ナイリューは長剣を返し、宝剣の鍔の内側を下から打ち上げた。
乾いた音が響いた。
宝剣がジェラルドの手を離れ、朝の光を受けながら宙を舞う。
リーゼが反射的に魔力を送る。ジェラルドも左手を伸ばした。だがナイリューは追撃せず、その進路へ身体を入れた。
ジェラルドが宝剣を取り戻すには、ナイリューを押し退けなければならない。ほんの一瞬の遅れが生じた。
ジェラルドの伸ばした手は、宝剣に届かなかった。宝剣は闘技場の白線を越え、場外の砂へ突き立った。
誰も声を上げなかった。
ナイリューの長剣は、ジェラルドの胸元で止まっている。一方、ジェラルドの右手には、もはや武器がない。
大司教が両者を見比べた。場外へ落ちた宝剣を確かめ、ゆっくりと杖を掲げる。
「勝者、元公女エレノア=クレセント!」
一拍遅れて、演武場が揺れた。
ベルティネの旗が一斉に振られる。昨日までエレノアを知らなかった者たちも立ち上がり、勝者の名を叫んでいた。石壁に反響した歓声が幾重にも重なり、空へ昇っていく。
最後の一合で力を使い果たしたエレノアは、十二本の柱に残った魔力を慎重に引き戻した。環がほどけ、銀の光が一本ずつ消えていく。最後の一本が閉じたとき、全身から力が抜けた。
倒れそうになった身体を、円の外へ戻ってきたナイリューが支える。
「勝ったぞ、姫様」
「はい」
声にしようとすると、喉が震えた。
「私たちの勝ちです」
ナイリューは笑い、すぐにジェラルドへ向き直った。
敗れたジェラルドは、場外の宝剣を一度見たあと、エレノアを支えているナイリューへ視線を移した。怒りも悔しさも表には出さない。ただ、いつもの作り物めいた微笑だけが消えていた。
「私の技を一度見ただけで使ったか」
「形だけです。あんたほど上手くはない」
「勝負の場では、相手の隙を突いた者が勝つ」
ジェラルドはそう言うと、場外の宝剣へ一度だけ目を向けた。
「今回は、おまえの勝ちだ」
「最後の一歩は、私が示した間合いを越えましたね」
円を出てジェラルドのそばへ来たリーゼが、責めるでも慰めるでもなく告げた。
「止めなかっただろう」
「勝てると思ったのです。私も」
ジェラルドは初めて彼女を見た。
「なら、次は勝つ」
「その前に、手首を診せてください。今、隠しましたよね」
ジェラルドと言葉を交わしたリーゼは、十二本の結界柱へ目を向けた。
「最後の術。あれを大勢へ使うつもりですか」
「まだ分かりません」
エレノアは正直に答えた。
「できるなら。ただ、あなたがいなければ、どこから手をつけるかも」
「私を働かせる相談ですか」
「……お願いする相談です」
リーゼはエレノアを見たあと、結界柱へ視線を戻した。
「私は授業料も高いですよ」
そんなやりとりをしていると、ケーセルが場内へ降りてきた。自ら宝剣を砂から抜き、刃に損傷がないことを確かめてから鞘へ納める。
「ジェラルド。宝剣まで渡しておいて負けたとなれば、僕の面目は丸潰れだな」
「申し開きの言葉もございません」
「その顔で言われても、反省しているようには見えないよ」
ケーセルは苦笑し、それからエレノアへ向き直った。
「おめでとう、エレノア。王家の者として、この神判の結果を支持する」
「殿下……」
「手加減はしていない。だからこそ、誰にも君の勝利を温情とは言わせない」
エレノアは深く頭を下げた。
最上段の御座では、国王と法王が短い協議を交わしている。やがて法王が立ち上がり、演武場全体へ届く声で神判の終結を宣言した。
「剣の勝敗は定まった。ここに示された結果を、我らは神意として受け入れる」
続いて国王が、ゆっくりと立ち上がった。
「エレノア=クレセントを、ベルティネ公爵位の正統な継承者と認める。正式な継承の儀を終えるまでは、ベルティネ公爵代理として領民を統べよ。また、反乱討伐軍の総大将に任じ、公国の奪還を命ずる」
エレノアは闘技場の中央へ進み、国王と法王へ膝をつく。
「謹んで、お受けいたします。必ずやベルティネを取り戻し、民が再び故郷で暮らせるよう、全力を尽くします」
言葉を終えたとき、ベルティネの民がいる一角から、誰かが泣きながらエレノアの名を呼んだ。そこから声は次々に広がり、やがて一つの大きな響きとなる。
エレノアは顔を上げた。
旗を握った老女が、手を振っていた。街道で水をくれた人だった。
エレノアが手を上げたとき、消えたはずの結界柱に銀の線が走った。老女の旗、その隣の男の手、母親に抱かれた子供の指先へ、細い光がひと息だけ渡る。
歓声がずれ、光もほどけた。誰かに力を奪われた感覚はなかった。むしろ、柱にわずかに残っていた魔力が、滑らかに掌へ帰ってきた。
リーゼも柱を見ていた。
「今のは、客席から魔力を受け取ったのですか」
リーゼは柱の根元へ視線を落としたまま、尋ねた。
エレノアはすぐには答えず、掌を開いた。残っているのは、柱から戻った力の余韻だけだった。
「……いいえ。私のもとへ戻ったのは、柱に残っていた力だけです」
「私から、あの方々へ渡したつもりもありません。ただ皆さんが、同じように私たちを支えようとしてくださったとき、柱に残った力の戻り方が変わりました」
「その気持ちを、術に数えるのですか」
「数えられません。命じて起こせることでもありませんから」
リーゼは黙って、銀の線が消えた客席を見た。
「再現できなければ、戦場では使えません」
「はい。誰かが応じるかどうかまで、私が決めることはできません」
エレノアは老女を見失わぬうちに、侍女へ名を聞いてくるように頼んだ。
神判が終わった日の夕刻、ベルティネ公爵邸の広間には、休む間もなく地図と書類が広げられていた。
王国軍は五日後に王都を発つ。王直属軍を中核とし、各地の諸侯から集めた部隊を加えた大軍になる予定であった。だが、兵の数が多ければ公国を取り戻せるわけではない。ベルティネへ至る街道、反乱軍が押さえた城塞、公国内に残された住民の位置。知らなければならないことは、あまりにも多かった。
軍の名簿には、魔法の家系に生まれた諸侯の印が並んでいた。今は《呪の周期》。魔力が身分を支える時代である。約二百年ごとに訪れる《剣の周期》には魔力が弱まり、軍を支える者も変わるという。だが今、エレノアが頼れるのは、名簿に印をつけた諸侯と、その兵たちだった。
公国側の転移陣は、避難ののち反乱軍によって破壊されていた。現地から逃れてきた兵が、石柱の倒された跡を確かめている。対となる陣を失った今、エレノアの魔力があっても、あの道は使えなかった。
「まずはメースンです」
クリマルが地図の一点を指した。
「公太子殿下が最後に陣を敷いた場所であり、ブラス山脈を越える街道の要でもあります。ここを確保できなければ、大軍は補給を維持できません」
「けれど、正面から街道を進めば、反乱軍にも動きが読まれます」
「そのとおりです。ゆえに総大将となった姫には、軍を動かす前に味方を増やしていただきます」
クリマルは別の書類を差し出した。公国各地で反乱軍への抵抗を続けている騎士、役人、町の代表者。その名が、分かる限り書き連ねられている。
「門を開けてくれる者が、一人でも要ります。返事を集めましょう」
エレノアが紙面を見つめていると、扉が勢いよく開いた。
「兵糧の話なら、うちを忘れてもらっちゃ困るよ」
イーファが帳簿を抱えて入ってくる。その後ろには、荷札や見本の袋を持った商会の者たちが続いていた。
「軍が五日後に出るなら、明日には荷馬車を押さえないと間に合わない。王国軍のお偉方は、兵士が霞でも食べて進めると思ってるみたいだけどね」
「イーファ、手伝ってくださるのですか?」
「エレンが頭を下げる前に、もう半分は話をつけたよ」
得意げに言ったあと、イーファは窓際に立つナイリューへ目を向ける。
「それに、騎士サマが決勝で倒れなかったお祝いも必要でしょう?」
「倒れなかっただけで祝われるのか、俺は」
「王国最強に勝ったんだから、少しくらい威張ればいいのに」
ナイリューが困ったように頭をかき、エレノアは思わず笑った。
地図へ向き直ると、エレノアは帳簿の隙間へベルティネの旗を広げた。公国の名を見下ろしていた者たちが、彼女の顔を見た。
「五日後、故郷へ向かいます。軍の支度も、留守のことも、皆さんを頼りにします」
指先で街道をなぞった。メースンの名の上で止まり、そこから、もう一度進めた。
「故郷――ベルティネを、取り戻しましょう」
その言葉に、最初に頷いたのはナイリューだった。次いでクリマル、イーファ、スルトヴ、屋敷に残った公国の者たちが応じる。
イーファが旗の端を持ち上げ、下になった帳簿を抜いた。五日後という日付へ大きく印をつける。クリマルは封を待つ書状をエレノアの前へ並べ、ナイリューは使いに出るため外套を取った。
監獄島の牢獄で、アヴァルギンは擦り切れた冊子を開いた。
タントンの村々が納めた穀物の量と、王都へ届いたとされる量。何度数え直しても、二つは合わない。
伯爵だった頃、彼はその冊子を王都へ持ち込んだ。判を押した運び手も連れ、途中で消えた穀物を調べてほしいと訴えた。だが、取り調べを受けたのは彼のほうだった。
「この帳簿を書いた者は誰だ」
村で帳簿をつけた男の名は、明かさなかった。その男まで捕らえられるかもしれない。穀物の行方が調べられぬまま、アヴァルギンは爵位を失い、この島へ送られた。
それからも異議を申し立てた。返答のない書面が牢へ戻るたび、彼は冊子を開いた。海風で波打った頁には、今も同じ数字が並んでいる。
雨の晩、隣の牢から声がした。
『まだ、その帳簿を役人どもに読ませたいのか』
隣には誰もいなかった。アヴァルギンは冊子を抱え直した。
「読めば、穀物が消えたと分かる」
『おまえの話を聞く者はいなかった。ならば、聞かせるための力を持て』
床に、煤のような黒いものが落ちていた。アヴァルギンが手を伸ばすと、それは指の間へ入り、閉ざされていた牢の扉が軋んだ。
『おまえの領民も使えるものは何でも使え』
「タントンの村人には手を出すな」
彼は黒くなった指を握り込んだ。
『タントンの外にいる者は?』
アヴァルギンは答えなかった。冊子を懐に収め、扉へ手をかけた。
牢の扉を開けたあと、アヴァルギンは島の囚人たちを集めた。元騎士もいれば、盗みを働いて送られた者もいる。王都へ訴え直すと言ったときには笑われたが、城を取ると言うと、皆が顔を上げた。
「ベルティネ公は、島の処遇を軽くしてくださった方だ」
昔から仕えていた元官吏が言った。彼も主の罪に連座し、島へ送られていた。
「その公に、王都までの直談判のための船と護衛の兵を出してもらう」
「お断りになった場合は…?」
アヴァルギンは黙った。冊子の背を撫でると、黒く染まった指先に紙が張りついた。
断られたら。上申を待ち、季節を数え、返された紙をまた読むのか。
「ならば、城を取る」
元官吏はなお彼を見ていた。
「城を取るのは、帳簿を役人たちに読ませるためですか。それとも、ここにいる者を兵に変えるためですか」
「戦うかどうかは、本人に選ばせる。島にいた罪を赦すとは約束せぬ。だが、王都の前に立つ機会は作る」
元官吏は、主の黒くなった指を見た。
「その手に入ったものも、使うのですか」
「使う。だが、タントンの村人には触れさせない」
「タントンの外なら、よいのですか」
すぐには答えられなかった。
「民ではない。ここで、自ら剣を取る者だけだ」
元官吏は頷かなかった。ただ、冊子へ目を落とした。
「帳簿を書いた者の名は、これまでどおり伏せます。城へ入ったあと、帳簿を公の前へ出すまで、私が守ります」
「好きにしろ」
「覚えておきます」
元官吏はそう言って、島にいる囚人たちを見た。
アヴァルギンは、城への道を調べる者を募れと命じた。
島を出る支度が始まると、アヴァルギンは村の倉を荒らすなと命じた。下見に送った兵が漁師を連れ帰ったときには、自ら送り返させた。だが黒い印の兵が増えるたび、別の声が次の命令を囁いた。
石を運べ。公妃の書き物を集めろ。娘を捜せ。
元官吏は、命令を書き取る手を止めた。
「閣下。帳簿を王都へ出すために城を取るのではなかったのですか。石と、公妃様の書き物と、娘君たちを集めて、何をなさるおつもりです」
アヴァルギンは冊子の背を撫でた。
「……私が知りたいのは、帳簿のことだけだ」
『帳簿など、あとでよい』
耳で聞いたのではない声が、黒くなった指先から胸の奥へ這い上がった。
『石と書き物と、娘たちを揃えよ。城一つを取るためではない。人の目を、王都より遠くへ向けさせるために』
アヴァルギンは袖の内で手を握り込んだ。
「私は、帳簿を読ませたいだけだ」
『ならば、読む者が目を逸らせぬほどの力を持て』
元官吏は主の手首を見た。黒いものは袖に隠れていたが、命令を書き取る紙の上には、しばらく筆を置けなかった。
上陸を前に、その声へ一度だけ逆らった夜がある。
「先に、タントンへ使いを出す」
『何を伝える』
「私が、まだ――」
生きている、と言うはずだった。だが、自分の唇はそこで動かなくなった。
『帳簿を王都へ読ませるために、城を取るのだろう』
黒いものが、指先から手首へ這い上がった。
『ならば、領民へ知らせるのは、そのあとでよい』
「違う」
アヴァルギンは冊子を握り締めた。帳簿に記された村々は、王都を動かすための数字ではない。飢えに耐えた者たちの名であり、自分が戻ると約した場所でもあった。
『違わぬ。お前は、王都の者に目を逸らさせぬ力を望んだ』
その声に答えようとしても、口が開かなかった。
翌朝、元官吏がタントンの村から届いた報告を差し出した。
「村からの便りです。昨夜の使いが戻り――」
「公妃の娘の行方は」
言葉を遮られ、元官吏の手が止まった。
「まだ、分かっておりません」
アヴァルギンは、報告を受け取らなかった。
元官吏は報告を持ったまま、しばらく主を見た。やがて冊子を開き、村からの便りを数字の並ぶ頁のあいだへ挟んだ。
主が返書を送らなくとも、村から届いたものまで消させるわけにはいかなかった。
2026/09/27 大幅な加筆・修正




