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不在

(あれ?)

 裏庭で荷馬車の周りに集まっている彼らを見て、俺はふと違和感を覚えた。昨日の夕方ここで見た顔ぶれから、だれかが足りない。


(確か、御者のヤンに、パウル……)


 壮年の御者二人に並んで、ごま塩頭の初老の男、シグムンド。太い腕とリンゴのような頬をした、まだ若い荷担ぎのクラウドに、思慮深げな眼差しをした金髪のウィルフレッド――もう一人いたはずだ。


――ビョルンのやつはどこへ行ったんだ? こんな時に。

 唇の上に形のよいひげを載せた方の御者、パウルがうめいた。

 

(そうだ、ビョルンがいない!)

 イェファーの町から来たという用心棒のデーン人が、どこへ行ったか姿が見えない。俺は少しためらったが、彼らの方へ歩いて近づいた。


「あんたら、とんだ災難だったな。でも大丈夫だ、ピーテルはきっと無実だと俺は思ってる」

「こりゃあ、楽師さん……」

 クラウドが人懐っこい笑顔に不安をにじませて、こちらを振り向いた。

「だけどうちの旦那、連れてかれちまいましたよね」


「大丈夫さ。真犯人を――本当の下手人を捕まえりゃいいんだ。それに、ピーテルたちは閉じ込められてるかぎり、さっきみたいに囲まれて殴られるような目には遭わずに済む」


「そ、そうならどんなにいいか。楽師さん、旦那はこすいけど悪い人じゃないんですよ。なあみんな」

 クラウドが仲間たちの方へ振り返ってそう言った。

「そうとも。あのワインだって、仕入れたときからずっと蓋の栓には蝋で封印をしてあった」

 ウィルフレッドが、筋肉の盛り上がった二の腕をもう一方の手のひらで叩きながらうなずいた。

「うんうん、俺たち、味見させてもらえなかったもんな」

「だから、毒が入ってたとしたら、この城についてから昨夜のうちに誰かが封を開けたに決まってる!」


(ふむ?)

 ウィルフレッドの話は興味深い。先ほどはじっくり観察する暇がなかったが、もし彼が言う通りなら、蓋の状態を頼りに残りの樽の安全性について確認できるわけだ。現場が荒らされないうちに行ってみなければ。だが、今はビョルンのことが先だ。


「そういえば、ビョルンがいないって?」

「ええ、そうなんですよ」

 パウルがうんざりだと言いたげな顔で首を傾げた。

「俺と一緒の馬車に寝てたんです。だいぶ遅くなってからふらっと出ていく気配がしましてね、小便か何かだろうと気にも留めなかったんですが、朝になっても帰ってこないんです……それでこの騒ぎだもんで」

 困惑した様子の御者は、時折不安げにこちらの顔色をうかがいながら、そう話してくれた。ビョルンの不在が明らかになることで、自分たちに疑いの目が向くのを心配しているのだろう。

「早めに領主さまに申し出たほうがいいぜ……ところで――」


 ビョルンが姿を消したのは何時ころだったのか、と訊きかけて、俺はひどいつまずきを覚えた。つい忘れがちなのだがこの時代(ここ)には俺がイメージするような、細かな区切りで時間を測る『時計』が――時間の尺度が存在していない。

 以前にも言及したことだ。聖職者など一部の例外を除いて、人々はごく大雑把な時間感覚で暮らしている。これでは人々の証言を聞いて回っても、どの時刻に何があったか、ということを正しく知ることはできまい。

 

(そういえば――)

 俺は妙なことに気が付いた。立派な君主が統治していながら、この地では教会の鐘の音をついぞ聴かないのだ。フランドル伯の奥方であったジュディス王女は既にこの世にないが、その葬儀はどこで行われたものか? そもそも今回の婚礼にあたってわざわざブレーメンから司祭を呼んだというのも、この地の事情をうかがわせるものがある。


(もしかすると、近くの僧院や何やと折り合いがよくないのかも……)


「楽師さん。何か言いかけてたようだったが、どうしたんですかい? 黙り込んじまって」

 パウルがこちらを訝し気に見ている。

「ああ、いや、何でもない。ほかの連中にもいろいろ訊いて回ってみるよ――」

 言いかけて、俺は彼らの膝や肩がわずかに震えているのに気が付いた。夜が明けてしばらくたつのにまだ雨は降り続けていたし、彼らは俺に比べてやや薄着だ。第一、膝上から足首までの間を覆う布地がなにもない。

「冷えるな……あんたら、どこか屋根のあるところに入ったほうが」

「そうしたいとこだけど、台所にはもう入れてもらえそうにねえなあ……」

 クラウドはそういって一つ大きなくしゃみをした。


 荷馬車には昨日見たときと同じく毛織物の覆いが掛けられていたが、さすがにもうぐっしょりと濡れてしまっていて、あまり屋根の役には立たないようだった。つついて軽く揺らせば、内側に水がしたたり落ちる――そんな感じだ。羊の脂などで防水する程の、時間も費用もかけられなかったものだろう。


「どこかで雨露をしのげるように頼んでみよう。また来るから、それまで風邪をひくなよ」

 そう言い残して俺は裏庭を離れた。



 おぞましい事件と雨のせいで、城全体が沈鬱な空気の中に沈み込んでいた。ようやく捜索隊の編成が終わったらしく、数人の男が犬を連れて中庭を横切っていく。その中にはスノッリともう一人、狩りにたけたアンスヘイムの男衆が加わっていた。まずはそれらしい足跡を探すわけだろう。


 少し迷った後、俺も手近なところから調査を再開することにした。まずは樽のところへ行ってみる。

 

 そこは一階の北棟、居館の基礎部分の石組に単純なアーチ型天井のトンネルを通したような、おおよそかまぼこ型の倉庫だった。南北には一応木製の扉が取り付けられているが、厳重に施錠できるような構造ではない。


 兵士が二人、見張りについている。彼らに声をかけ、立ち会ってもらって検分に入ることにした。トンネルの中は薄暗く、兵士が獣脂のろうそくを灯してくれた。


 問題の樽は既に片付けられていたが、蓋の木片は残りの樽とともに残されていた。ひんやりとしたそのトンネルの真ん中辺り、裏庭からは一番遠い部分だ。他にもこの場所には薪やその他の貯蔵品が積み上げられている。足元はむき出しの土だった。

 本来は水はけを考えて盛り土をしてあったものらしいが、長い間の人の出入りでその効果は失われていると見え、俺が立っている足元にも外から流れ込んだ雨水で水たまりができている。あたりは人々が踏み荒らした足跡が無秩序にしるされていて、先ほどまでの混雑ぶりの痕跡をとどめていた。

 

 蓋は確かに割れていた。何か重いものが力任せに上から叩き付けられたせいで、中央部の長い板がたわみ、真ん中からへし折れているのだ。その結果、蓋全体としても形を保てなくなったものらしい。

 

(ふむ……栓の部分はどこだ?)


 まずそれを見たかった。ぱっと見渡したかぎりでは見つからず、少し焦ったが、ふと視線を転じてみるとそれは少し離れた水たまりに沈んでいた。手を伸ばして摘み上げる。

 ウィルフレッドの言う通り、確かにその木片に開けられた丸い穴の周りには、削り取られた蜜蝋の封が残っていた。


(これがそうだ――ほかの樽はどうなっている?) 


 俺は残り四つの樽の内、手近な一つを選んでその上に覆いかぶさるようにして目を凝らした。蓋の穴に打ち込まれた、恐らくはコルクの栓には黄色い蜜蝋がたっぷりと盛り上げられていた。特に製造者が印章を押し付けたような跡はなく、これは全くのところピーテルの用心から出た施策らしかった。


「よし、あんたら、これをよく見て記憶にとどめてくれ」

「と言うと?」

 兵士も俺の横へ覆いかぶさるように顔を近づけてきた。

 

「こっちの割れた蓋の蝋は、一度何か刃物で削り取られてる。ほら、木材の表面にわずかに刃物のあとがあるだろう?」

「本当だ」

「ほかの樽の栓の周りにはそんな傷はない。どうやら、あの樽に毒を盛ろうとした犯人の目論見は、途中で挫折したと考えてよさそうだ」

 兵士は納得顔でうなずいたが、身を起こして俺の方を見ながらゆっくりと首を振った。

「そうは言っても、ここにあるワインを殿様に飲ませるのは、まだちょっと心配だな」

「……それはそうだなあ」


 人のよさそうな兵士に頷きながら頭の中を整理しようとする。確かにワインには毒が投じられていた。

「うん、昨夜だれかがここでワインに毒を混入した……そこまではほぼ確実だ。だが……」


 わからないことがいくつかある。犯人の目的が毒殺だとする。ではなぜ、わざわざ毒を仕込んだ樽に、フィリベルトまで投げ込んだのか? 意味がわからない。それではせっかく毒を仕込んだワインが使われなくなってしまうのではあるまいか。


 フィリベルト一人を殺したかったとしても、わざわざ樽丸ごと一つを費やして毒酒を飲ませるとは、まともな頭では到底考えられない。そういえばそもそも、司祭の死因は何だ? そろそろフォカスが例の犬とフィリベルトの、検死めいたことを始めるころだったが――


「トール! そこにいるのか?」

 不意に倉庫の入り口、半円形に切り取られた曇り空をバックに誰かが叫んだ。ヴァジの声だ。


「ヴァジか。俺はここだ、どうした?」

 鍛冶師の息子は、服にしみ込んだ雨水を絞りながら倉庫の薄暗がりに踏み込んできた。

「やれやれ、すぐ見つかってよかった。フランドル伯がお前を呼んでるぜ」

「フランドル伯が?」

 兵士たちに礼を言いながら倉庫の外に出る。


「ああ。城に今いない人間の顔ぶれが大体わかった。だが、妙なんだ」

「どういうことだ?」


 居館の東棟二階でボールドウィンが待っていた。そこは政庁や晩餐の間がある北棟とは屋根付きの渡り廊下でつながった、彼の私的なスペースだ。子供部屋や乳母の部屋もそこにある。


「フランドル伯様! お呼びと伺いましたが!」

「おお、楽師殿……私にはこれをどう考えてよいかわからんのだ」

 ボールドウィンは額を手で覆い、苦悶の表情を浮かべた。

「ええい、心が乱れる……! そなたの考えを聞かせてくれ。この城に今いない者が下手人だとするならば、私は……」


「どうなさったのです。一体、だれが消えたんですか」


 顔をあげてこちらを見たボールドウィンの眼は激しくしばたき、瞳の奥には混乱と怒りが燃えていた。

「オウェインとユーライアが、居らぬ……!」


 彼が最も信頼を置く忠臣と、子供の養育を任せきっている乳母の名だった。

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