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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~ 作者:冴吹稔

ブリュッヘの婚礼

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まず転がされた死体

 俺たちが階段を下りて裏庭へ出たときには、すでに大勢の人々がそこにひしめいていた。軒から落ちる雨水は相変わらず不規則なリズムで敷石を叩き、陰気な模様を形作りながらわずかな傾斜に沿ってむき出しの土の上へと流れだしていた。

「誰が死んでるって?」
 人混みからやや離れて立っていたアルノルに声をかける。彼は口ひげを引っ張りながら俺に向かって片手を挙げて見せた。
「今引き上げるところらしいが……どうもな」

 彼が言葉を濁した理由は俺にもすぐ察せられた。逆立ちした形で樽の上に突きだしていたのはたくましい筋肉がついた男の足だったが、ひどく色白だったのだ。 
 あたかも、何年も陽にさらしたことがないといった風に――つまり、庶民ではありえない。

 男二人がかりで持ち上げられた死体の腰から上には、どっぷりと赤ワインをしみ込ませた黒い長衣がまとわりついていた。滴り落ちる液体は薄暗いせいでいかにも赤黒く、まるで鮮血であるかのように見えた。一匹の痩せた犬が、敷石の上に溜まったそのワインを舐めていた。 

「こいつめ! あっちへ行ってろ!」
 下っ端の料理人の一人が顔色を変えて、怒声とともにその犬を追い払った。 
 赤く濡れた死体は壊れかけた古いテーブルの上に横たえられ、ワインで汚れた顔が手早く拭われて哀れにも人々の目の前にさらされた。

「ああっ!」
 俺の横でイレーネが息を呑む。腕と肩にすがりついた彼女の腕が震えた。

「何てことだ」
 俺も我知らずそうつぶやいていた。

 テーブルの上からうつろな目をこちらに向けているのは、フィリベルト司祭だった。頬にはひどい打撲の跡が見え、直接の死因ではないにしても彼が何らかの暴力にさらされたことを示していた。

「トール……これは、婚礼は無理かな?」
 イレーネが青ざめた顔でフィリベルトを凝視したまま、そう言った――彼女を利己的と責めてはいけない。大きなショックを受けたとき、人間は得てしてこんな風に、ややずれた方向へ思考が動いてしまうものなのだ。俺にも経験がある、枚挙にいとまがないほどに。

「あの司祭、ブレーメンから一人で来たわけじゃないんだろ?」
 彼女に調子を合わせて訊き返す。フィリベルトがブリュッヘへ到着した時の様子を、イレーネは知っているはずだ。
「うん……随員が六人くらいいたかな? でも、どうして?」
「何人かは俗人じゃなく、聖職者だろうと思うんだ。代理を務めてもらえばいいんじゃないか」

「それはそうだけど、でもさ、この様子じゃ今日中に済ますのは無理じゃないかな」
 下唇を噛んで無念そうな顔だ。確かに、この後になだれ込んでくる段取りを考えると、俺たちの婚礼は数日と言わず先延ばしになるだろう。まずは葬式が割り込んでくる。

 それに。あの様子だと恐らくは――他殺だ。

「ああ。誰であれ、フィリベルトを殺した奴はまだどこか、この近くにいるってことだよな」
 そう告げるとイレーネの手に力がこもった。
「そうだね。本当に、婚礼どころじゃないよ。何とかしなきゃ」

(何とかする、か……まいったな、これは立ち回り方を間違えると困ったことになるかも)
 混乱しつつも、俺の頭は目まぐるしく動きはじめていた。

 俺たちはよそ者で異教徒のヴァイキングだ。ボールドウィン本人はこちらのことを了承しているし、イレーネ一人に限って言えば、この地の人々に相当好かれてもいる。だが俺たちという外来の集団全体に対して、領民や家臣がどの程度好意的かは、もうひとつわからない。
 混乱した人々の中にいったん敵意や疑念が生まれれば、彼らは俺たちを災厄の源とみなして排除にかかるかもしれない。それを避けるのに一番有効な方法は、俺たちの手で犯人を挙げることではないだろうか?

 この時代における犯罪への対処が、必ずしも真犯人の究明と逮捕に帰着するとは限らないが出来ればこちらがイニシアティブをとって、科学的な裏付けをもとに捜査を始めるべきだ――

 使用人や村人、その他の種々雑多な群衆に踏み荒らされたぐちゃぐちゃの地面を一目見て、俺は内心で頭を抱えた。現場に残った足跡から状況を推測する、といった類の事はもはや不可能だ。

 それでも、何とかしなければ。


「殿のお通りだ、道を開けよ!」
 兵士の呼ばわる声が響き、群衆が一斉にそちらを見る。居館の東側にある南北に伸びた本棟から、フランドル伯が兵士と数名の家臣を伴って、中庭を横切ってきたところだった。

 
「どうしたことだ、これは。先ほどの悲鳴にこの人だかり……めでたい日の朝だというに何があったというのか?」
 豪胆と英邁をうたわれたボールドウィンも、さすがに困惑しているようだ。兵士たちは集まった人々に事情の説明を求めて何度も声を張り上げた。だが領民たちは萎縮してしまって何も答えられずにいる。
 周囲を見回した領主の視線はすぐにテーブルの上の物をとらえた。ボールドウィンの、眼球の上に深く覆いかぶさったまぶたが大きく見開かれ、いかつい顎が掛け金の外れた冷凍庫のドアのように緩んで落ちた。

「フィリベルト殿……」
 バシャ、と彼の足元で小さな水音が響いた。一瞬よろめきかけて足を踏みかえたに違いない。

「一体何が起きたのだ……いや、これは紛れもなく殺人だ。誰がこんなことを――」

 瞬間、俺は直感的に動いていた。この状況に対して主導権(イニシアティブ)の一部でも握ろうとするなら、今を置いてチャンスはあるまい。一歩前に進み出て領主の視線を正面から捉え、腹の底から声を振り絞る。

「フランドル伯様! 私とイレーネは昨晩遅く、なにか木でできたものが叩き壊されるような騒音を耳にしました。恐らくはこの樽の蓋が割られたときのものでしょう。下手人は誰かまだ判然としませんが、それほど遠くへ去ることはできておるまいと存じます」

「おお、楽師殿。イレーネ殿から、そなたはなかなかの知恵者であると常々聞き及んでおるぞ。この恐るべき所業が何ゆえ、誰によって、そして如何に行われたか……叶うことならば詳らかにしてはくれぬか」

 ありがたいことに、ボールドウィンは俺の望んだ通りこちらを頼ってきてくれた。知恵者と呼ばれるのは面映ゆいが、俺だって絞れば何がしか頭から出るものはある。

「無論です。このままでは私とイレーネは司祭の祝福を受けずに結婚することに……ああ、いや。まずはそうですね、今この場にいる者はとどめ置き、城から誰か消え失せていないかを確かめてください。それと、狩りや森歩きの得意な者にお心当たりがあれば――」

「ふむ?」

 明確なアイデアがすでに頭にあったわけではない。俺はこの時必死で思考をめぐらせ、目の前の状況と頭の中の知識をより合わせ織りあげながらしゃべっていたのだ。
「昨晩からのこの雨……地面は緩みぬかるんで、だれかが歩けば足跡が深く残ります。悪事を行ったものは人目を避けようとするはず。下手人の足跡はふだん人が歩かないところに、はっきりと残っているのではないでしょうか」

 ボールドウィンがうなずいた。
「うむ。もっともな思案であるな」

「腕の良い狩人なら、そうした足跡を追って森を進むことができるはずです――」
 そういいながら、俺はスノッリの姿を目探ししていた。こんな時には何といってもあの男だ。イングランドでも何度助けられたことか。彼の目と耳を欺ける逃亡者は、おいそれとあるものではない。
 実のところ犯人が司祭を殺した後どういう行動をとったのかも不明だが、城の外に出た可能性は五分にそれほど遠くないはずだ。

「森か。狩人なら何人か心当たりがある。すぐに集めよう――猟犬も」

 領主が随員に指示を下そうとした、奇しくもその時――

 きゃいん、と悲痛な声が響いた。居館の一階を貫いて裏庭と南の中庭を繋ぐ、天井の低い通路にこだましたその声は、すぐに人々のどよめきに押し流された。

――何だ!?

――犬が……こいつ、急にひっくり返ったぞ!?

「何事か?」
 ボールドウィンが鋭い声をあげ、どよめきの中心へ向かった。周りには慌てた家臣たちが付き従う。俺も彼らを追ってそのごく短い距離を走った。

 人垣の輪が次第にほどけ、広がっていく。その居心地の悪い静寂の真ん中で、犬がもがいていた。先ほどフィリベルトが逆さに漬け込まれていた樽のそばで、こぼれたワインを舐めていた、あの犬だ。

(これは……!)

 痙攣をくりかえす四肢、力なく開かれた口の下あごからだらりとこぼれた舌は、のどの奥からあふれた血に汚れていた。
「これは……毒か!?」
 俺は迂闊にも、とっさに頭に浮かんだことを口に出してしまった。誰かが恐怖の悲鳴を上げ、そして周囲で上がった怒号がその後を追いかける――まずい。

「違う! 違う、俺じゃねえ!」
 司厨係と下働きたちに囲まれ、ピーテルが叫んでいた。腕がねじ上げられ、髪の毛が引きむしらんばかりに掴まれる。
「この野郎! ボールドウィン様を狙ったのか! まさか、あの樽全部か!?」
 ピーテルの頬げたに拳がめり込んだ。
「違う!」

 必死の抗弁はしかし男たちの耳にほとんど届いていない。フィリベルトの死体を樽から引き上げた、例の屈強な二人組の男も、自らの手に付着したワインのしずくをおぞましいものを見る目で凝視し、次の瞬間には暴行に加わるそぶりをあらわにしていた。

「待て、やめろ! 毒を仕込んだのが彼だとはまだ……」
 あまり好きではない相手だが、それでもここでピーテルが殴り殺されるのは寝覚めが悪い。俺は男たちの間に割って入ろうとしたが、幾人もの肉厚な腕と肩に阻まれてピーテルに手が届かない。

 
――静まれ、莫迦者ども!

 不意に雷のような声があたりを圧し、ざわめいていた群衆が静まり返った。じゃり、と鈍い金属音が響く。巨剣スルズモルズを抜き身でひっさげたホルガーが、人垣の一角をたった今粉砕したかのように、周囲から距離を置かれてそこに立っていた。
 音を立てたのは柄頭でこすられた鎖鎧だろう。ホルガーはその体力に物を言わせて、平時でも腰から上の体幹部だけを覆う鎧をつけているのだ。

「領主の目の前だというのにその裁量を飛び越えて、罪があるかどうか決まってもいない者を殴るとは、いかにも不敬だと思わんか?」

 族長はそう言い放つと、人々の頭一つ上から周囲をぐるりと睨みまわし、最後にボールドウィンに視線を合わせた。二人の眼がお互いを捉える。 

 ボールドウィンが小さくうなずいた。
「ホルガー殿の言われるとおりだ。この件に関しては誰も私の裁可無しに動いてはならん。その男を一旦解き放て」

 料理人たちが渋々ピーテルを放す。膝をついて濡れた石畳の上に崩れた彼のそばに、兄嫁が駆け寄った。

「まず、今この場にいるものは許可なく城を出る事を禁じる。そして、楽師殿になにか尋ねられたら包み隠さず答えるのだ、よいな?」 

 群衆の間からわずかに困惑したざわめきが上がったが、兵士たちににらまれてすぐに辺りは静まり返った。森番を務めるアウグストという男が呼び出され、綱につけた猟犬が数匹、小屋から引き出される。ピーテルは可哀そうに、結局兄嫁ともども城の塔に見張り付きで軟禁されることになった。

 ピーテルはおそらく、殺人にも毒物にも関わりがない、と俺は思っていた。彼の関心はあくまで商売とその利益だからだ。だが、示された状況はいかにも彼に不利だった。


「どうすりゃいいんだ、俺たち」
 あとに残された部下たちが、ピーテルが連れ去られた塔の方角を呆然と見つめていた。
 お久しぶり。随分間が空いてしまいましたが、またぼちぼち書き続けていこうと思います。気長にお付き合いください。
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