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イレーネの援護

 鍋の焦げ付きは広範囲にわたる厄介なものだった。粘土とブラシだけでは落ちそうにない――いや待て、俺は何を本気でこの鍋を洗おうとしてるのだ。


「磨き砂みたいな物はないかな……ってそうじゃなくて、あの、俺この後もうすぐ謁け――」

「そやそや、ほんま、磨き砂あったらよかったな、ちょっと待っててや!」

 別の少し若い黒髪のおばちゃんが俺の背中をべしべしと叩いて走り去る。


「その鍋なぁ、先月の坊ちゃんの誕生祝いの時に焦げ付かしてしまってよう」

「そうなんですか」

 はて、どっちの誕生祝いだろう? 小ボールドウィンか、それともラウルのほうか。何にしても一か月焦げついたままとはひどい話だ。


「ほれ、磨き砂持ってきたで」

 さっきのおばちゃんが戻ってきて、目の細かいきれいな白い砂を桶ごと手渡してくれた。

「あ、どうも」

 ヴェーザー川でカワカマスのぬめりを取り除いた時の砂を思い出す。鍋にひとつかみ投げ込んでブラシを握りゴシゴシとこすりたて――あ、いかん。これでは抜け出せない。


「ああ、やっぱ男衆がやるとちっとは違うねえ」


「いや、まあそれほどでも……」

 違う。そうじゃない。あんな有無を言わさぬパワーで俺を引っ張ってきたおばちゃんが、これしきの汚れを落とせないはずがないじゃないか。


「この釜も頼むで」

 ケルト神話にでも出てきそうな分厚い大釜が、でんと目の前に据えられる。


「そんな次から次に」

「今度の収穫祭はお城に逗留してる旅芸人さんと、他にも何組か領民の結婚披露をやるからね、粥も茹で肉もそりゃあたくさん作るんだよ」

「んだ、ブレーメンから偉い司祭様が来てなさると」


「えっと、その……その旅芸人の花婿って俺なんだけど」


 その瞬間おばちゃんたちがどっと沸き、てんでに俺の肩や尻を叩いてけたけたと笑った。よほど面白い冗談に聞こえたらしい。


「またまた。そったら法螺吹いで、何の得あんだ」


「私も小路ですれ違ったことあっけど、あんな綺麗なお姫様みたいな子が、あんたみたいなのとどうにかなるわけ無いべ」


 酷いことを言われたものだ。日本人の西欧コンプレックスを何とも的確にえぐってくれる。

 積み重ねた事実は俺の立場を保証してくれるはずではないのか。イレーネが目の前にいないだけでなぜこんなに不安なのか。

 南バルト海の沖合を船で進んでいた時には、こんなことは欠片ほども気にしなかったはずなのに。 


「ほれほれ、手が止まっとるよ。あたし等も頑張るで、兄ちゃんも精出しておくれ」


言う割に彼女たちの手はあんまり動いていない。このままではこの城の鍋釜全部を洗うまで、解放してもらえないのではないかと思えた。


 近くのパン焼き竈から、ほんの少し焦げ臭いような匂いが漂ってきていた。保存用にパンを堅く焼くときのものに似ている。スープ皿代わりに使うものを焼いているのかも知れないと思い至る。


 匂いの所為でまた腹が鳴ると、おばちゃんたちがまた笑った。


 なんとか逃げ出せないかと周囲をうかがう。だが左右はおばちゃん、前方は洗い場の石組み、後方にもおばちゃんと、隙のない包囲網が敷かれていた。そうこうするうちに、俺はどうにか最初の鍋の黒い焦げ付きをこすり落とし終えた。

「うへえ、やっとこ一つか」

 磨かれた鉄が日光を反射してきらめき、思わず満足の溜息をもらす。はっと我に返って頭を振った丁度その時、中庭に馬蹄の音が飛び込んできた。


 人混みをかきわけてエクウスとその主人が姿を現し、洗い場の前で足踏みをして停まる。


「トール! やっと見つけた、こんなところにいたのか」

「あ、イレーネ」


 イレーネが馬上から俺と鍋と周りのおばちゃんたちを見比べた。一瞬の間のあとに彼女は噴きだしそうな顔になった。何が起きたのかを大まかに察したらしい。


「……何やってるんだ。もう謁見が始まるよ」


「あんれまあ、それじゃあ本当に……」

 おばちゃんたちは顔を見合わせ、爆笑しながら俺をイレーネに引き渡した。


「済みません、連れて行きますね」

 俺を鞍の後ろに引きあげながらイレーネがすまなそうに言い渡す。


「ごめんよう。兄ちゃんのおかげでちょびっと助かったで」

「あとでまた来なせ。うめえもん食わすっで」

「イレーネちゃんも一緒においで」


 口々に勝手なことをのたまうご婦人たちに、いくらか好印象が上書きされる。イレーネはどうやら、ブリュッヘの庶民たちにもずいぶん親しまれているらしい。


「やれやれ、なかなか姿を現さないと思えば。トールはお人よしだなぁ、もう」

「すまん。みんなしびれを切らしてるだろうな」

「うん、フリーダからこのあたりにいるはずだって聞いてね。とにかく、今は急ごう」

 腹の上に重ねられた俺の手を、イレーネが左手でぽんと叩く。余り好き勝手なところへさまよい出るな、とばかり釘をさしているつもりらしい――手にも、俺自身にも。


 彼女の背中にしがみついたまま、俺は居館へと揺られていった。




 謁見といってもさほど仰々しいものではなく、それはむしろごく親しい家族同士がしばらくぶりに一堂に会したような、そんな雰囲気だった。

 広間には乳母のユーライアに連れられて、小さいラウルまで来ていたのだ。それにもちろん、小ボールドウィンも。


 まだオリーブ油でしっとりと濡れたままの鋼塊を、フランドル伯は満足そうに指で触れてあらためた。貴重な羊皮紙にしたためられたハラルド王の親書を紐解いて目を通し、ゆっくりと数回うなずく。


ライン地方(ラインラント)の鋼のようだな、これはありがたい。夏以来、イングランドから敗走したデーン人がこのフランドルの沿岸からカレーあたりまでたびたび出没しておる。良い武器はいくらあっても多すぎることはない……使者の方々、遠路はるばるご苦労であった。ハラルド王にはさっそく返書をしたためよう」


 ボールドウィンが俺たちに向かって鷹揚にねぎらいの言葉をかける。親書は今後ノルウェーとフランドルの間で友誼が結ばれ、平和で活発な交易が襲撃と掠奪に取って代わることを示唆していた。

 俺たちはその裏にあるものを知っている。美髪のハラルドはノルウェー統一の戦にあたって、背後を固めたいのだ。


「明日はさっそく楽師殿とイレーネ殿の婚礼を執り行うとしよう。二人にとって縁深いブレーメンの司教座から、司祭を派遣して頂いたのだ。フィリベルト殿、こちらへ!」


 フランドル伯の声に応え、広間の壁際に控えた人々の中から、金糸で縫い取りした白いローブを身に着けた男が進み出た。

 年のころはおおよそ30代終りといったところか。わずかにカールした栗色の癖毛を油でなでつけていて、分厚いまぶたの奥に沈んだ色の薄い瞳が印象的な人物だった。


「ご紹介にあずかりました、ブレーメン司教座の司祭、フィリベルトと申します。神のお恵みにより結婚の秘跡を受けようと望まれるのは、あなた方ですか」

 慈愛に満ちた眼差しで俺たちを見つめ、手を差し出して来る。まずイレーネ、そして俺の順で彼の手を握りかえした。


(おや?)


 俺は奇妙な印象を持った。彼の手は肉厚で、手のひらの数か所にザラリと硬い感触がある。これはアンスヘイムの男たちやイレーネと同様、武器を持ち慣れた手ではないかと思えた。

「よろしくお願いいたします――ところで、司祭様には剣を持たれたことが?」


 フィリべルトの顔が一瞬赤くなり、次の瞬間くたくたと崩れてばつの悪そうな笑みになった。

「いやはやお恥ずかしい。ええ、シャルル王にお仕えしておりましたが、かれこれ十年前に剣を捨てまして……司祭の叙階を受けて三年になります」

「そうでしたか。いや、これは失礼を申し上げました」


「いやいや、地上の王国のために戦ったこの身が、今こうして主の栄光のためにも働かせていただける……ありがたいことです」

 司祭フィリベルトはそういって微笑んだ。結婚に当たって教会の祝福を求めることは、まだまだ一般的でないのだという。

 俺たちの結婚を一つの機会として、世俗の社会に影響力を強めていきたい、というのがブレーメン司教座の意向であるらしかった。


 フィリベルトはしばらく俺たちと明日の式次第を打ち合わせたあと、ボールドウィンのところへ大股に歩いていった。それを追うようにして乳母ユーライアが領主のところへ近づいていくのが目に入った。


 その場ではそれ以上領主たちを目で追うことはできなかった。しつけにやかましい乳母から解き放たれて、小ボールドウィンとラウルが飛び跳ねるように俺たちのところへやってきたからだ。


「楽師殿! お久しぶりです」

「またお話してください!」

 子供特有の高い体温が、抱きつかれた太腿や腕から伝わってくる。似たような年頃の二人を格好の遊び相手とみて、アンスヘイムの少年たち三人組も駆け寄ってきた。


「ずるいぞ! トールの話なら僕らにも一緒に聞かせてよ」

「貴方たちは?」

 たちまち自己紹介の応酬が始まる。子供というやつはいつの時代でも友達を作る天才だ。


(まいったな……ピーテルのことが正直気になるんだが……)

 俺が子供たちを前に困惑しているのを見咎めて、イレーネがすっと俺の横に立ち、肩に手を置いた。

「トール。僕も君の歌を聞きたいんだけど……どうやら気がかりを先に片付けたいらしいね?」

「うん」


「よし、任せたまえ……やあやあ、坊ちゃんたち。楽師のトールはちょっと一人になりたいそうだ。忙しくて新しい歌を考える暇がなかったらしくてね。彼が戻ってくるまで、僕と遊んでくれないかな」

 イレーネが魅力的この上ない笑顔を作って子供たちに呼びかける。

「あ、遊ぶー!」

「トールよりお姉さんの方がいいや!」

「お話ー!」


 五人は彼女の膝に飛びつくようにしてその場に座り込み、降ってわいた娯楽にくちばしを開いて待ち受けた。 

「よしよし、じゃあギリシャに伝わるアイソポスの寓話から……」

 ありがたい。俺は広間を横切り、ヨルグを誘って再び外へ出た。仕方がないとはいえ、とんだ回り道をしたものだ。



「ピーテルが、ねえ。いやあ、俺全然気づかなかったぜ」

 彼は流石に両手斧を持ち歩くことは控え、手斧と長剣を携えてついてきていた。


「トールはさ、あいつの兄嫁がフリーダに似てるのが気に入らないんじゃないのか?」


「莫迦なこと言うなよ」

「そりゃトールはそういうだろうけどさ。そういうのって案外自分じゃ気づかないもんなんだろ?」

 考えても見なかった。フリーダは俺にとって、今のところ妹みたいなものだ。だが確かに、彼女がああいう利にさとくて下世話な方向に気の回る男と一緒に旅をしていたら、と思うとなにやら心中に苦いものがこみ上げるのだが――

「むしろお前さんが気にしそうだな、それは」

「ん、まあ違いない」


 驚くほど率直に肯うと、ヨルグは俺を追い越して先頭に立った。


 陽が落ちかけていた。さっき向かったのとは反対側、城の北側の裏庭へ向かう。そこは傷みやすい食材や冷やしておきたい酒などを貯蔵する倉が立ち並ぶ区画になっている。

 フィリベルトと打ち合わせを進める中、側で口を挟んできたオウェインから、俺はこの場所のことを聞き出していた。


 居館の角を曲がると、果たしてそこに五台の荷馬車がワイン樽をそれぞれ積んで停まっているのが見えた。

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