小径にて
夕刻に差し掛かる少し前の陰気な空。力を半ば失った太陽がよたよたと西の空を這い降りはじめる頃、俺は水の冷たさをこらえながら、水路のほとりで羊の腸を洗っていた。
トンスベルクの町はずれにあるその水路は、なだらかな丘陵のすそを蛇行するように流れていた。
岸には随所に板と杭で補強が施され、川面に張り出した小さな桟橋のような足場がある。そこは普段女たちが洗濯に使う場所で、俺が陣取った所からすぐそばには半分ほど水面下に沈んだ古い石組みがあった。
その遺構がいつの時代の物かわからない。だが、どうやらトンスベルクの近辺にはずいぶんと昔から人が住んでいたものらしい。
ぽちゃ、と小さな水音がした。黄色味を帯びた灰色の雲を映し、とろりと静まり返った水面に、同心円状にきれいな波が広がる。
流れの中央部からこちらへと広がった波は、石組みにぶつかって元来た方向へ戻っていった。
水音の正体は、岸辺の土手から投げ込まれた小石だ。振り返るとそこには、例の少年たち三人がいた。
「何してんの? トール」
少年たちの一人、オーズがこちらをのぞき込むようにかがみこんだ。残りの二人も少し後ろで立ったまま、こっちをうかがっている。
「見ての通りだ。腸を洗ってるのさ」
俺はてらいもなく答えたが、少年たちにとってはそれはどうやら癪にさわる答えらしかった。一様に顔をしかめ、かすかに軽蔑のこもった視線を向けてくる。
「腸詰の仕込みかあ。女の仕事じゃん」
ヘイムダルがそう言った。時代が時代だから仕方がないが、俺はおかしくなって吹き出してしまった。
「お前ら……刃物振り回すだけが男の仕事だと思ってるな? そいつは違うぞ。本格的にヴァイキング行に出てみろ、遠征先では穴を掘ったり布や皮を縫ったり、煮炊きをしたり、そんなことのほうが多いんだからな」
「えー」
ますます不本意そうになる少年たちに苦笑しながら、羊の腸を洗い続ける。三人はお互いに小突き合ってじゃれながら、洗い場へ降りて来た。
「こいつは、俺にとっては弦を作る練習なのさ」
洗い終わった腸を丁寧に桶に戻し、俺は腰を上げた。
「弦?」
「ああ、俺の楽器に張るやつだ。ムスタファに製法を教えてもらったが、まだまだ完全にものにしたわけじゃないからな。ちょっと油断するとこいつはすぐお互いにべたべた引っ付いてしまう。厄介なもんだ」
「ふうん……腸を裂いて撚って作った糸で、あんな魔法が使えるなんて信じられないや」
少年たちも俺の演奏はこれまでに何度か見ている。彼らにはなじみの薄い音楽的要素である『メロディ』がふんだんに含まれた歌が、この夏の冒険をそれなりの鮮やかさで描き出す、その場に立ち会っているのだ。どうやらその記憶が彼らを戸惑わせているらしい。
「ん、たしか有名な詩人が似たようなことを言ってたっけな……ま、実のところこの分はやっぱり腸詰になるんだ。いまから王様のとこの台所へ持って行って、料理人のおっさんに渡す」
「あ、じゃあもしかして、今夜の宴席には茹で腸詰が出るかな?」
食いしん坊のオーズが期待に顔を輝かせた。
「多分な」
「やった! 俺、茹で腸詰大好きなんだ!」
「そりゃあよかった」
春の謁見の時ほどではないにせよ、昨晩の宴席でもずいぶんと凝った料理が出ている。だが少年たちにとっては腸詰のほうがよほど魅力的らしかった。味がわかりやすいのだろう。
せっかく自分で洗ってはみたが、腸を弦に加工するには時間が足りないのだった。弦を作るには腸を細く裂いたり、撚ってひも状に伸ばしたものを干したりと複雑な工程が必要で、その間は乾燥した天候と時間が必要になる。
ところが俺たちは出発を明日に控えていた、ここで弦が完成するまでのんびりしてはいられないのだ。
厳密に期日が決まっているわけではないが、ブリュッヘ入りの時期はもう間もなくに迫っている。俺たちは――少なくとも俺は、村に戻らずこのままイレーネの待つフランクの地へ向かうつもりだった。
朝方見たとき、港には特徴的なバーディング船が一隻停泊していた。傷みやすい食品などの商品を運ぶのに使う、オール12対を備えた快速輸送船だ。
知っている範囲ではオウッタルの配下の女戦士――すなわち美髪のハラルド王の妻の一人、マチルダが北海で足に使っている。多分あれがその船だ。
(場合によっては、あれで送ってもらうという手もあるか)
そんな思案を巡らせながら街へ向かって歩いていると、前方から蹄の音が近づいてくるのがわかった。馬具をつけた馬が二頭、その上に誰かいる。
やがて二頭の馬は俺たちの前で足を緩め、足踏みしながら停まった。
「トール、ここに居たか」
馬上から呼びかけてきたのはホルガーだった。彼の乗った馬はしきりに鼻を鳴らし、首をあちこちに向けてじっとしていられない様子に見えた。よほどの悍馬なのだろうか。
隣の馬には彼が助けたあの娘、グロリアンドがこれも手慣れた手綱さばきでまたがっていた。
「やあホルガー、どうしたんだこんな夕暮に。あんたのことだ、遊びで女を連れて遠乗りに出るとも思えないが」
族長は少しむっとした顔になったが、まぶたを伏せ短く息をつくと、眉根にしわを寄せて口を開いた。
「そういうのんきな話ではないのだ。あのクナル――今は黒羊号と呼んでいるあれに乗せられていた奴隷、いや元奴隷がな……」
「……何かあったのか」
「一人、逃げた」
「はぁ!?」
俺は耳を疑った。彼らは奴隷ではなくなったはずだ。ノルウェーの法慣習はまだよく呑み込めていないが、少なくとも商人たちの所有権からは離脱している――いや、その手続きが適法かと言われれば自信がないが。
何せ力ずくのどさくさまぎれ、鋼と血の産物だ。
「彼らは……あんたの保護下に入ったんじゃなかったのか」
「そのはずだ――」
言いよどんでホルガーがグロリアンドを見た。半ばとがめるような視線。それを受けて娘は自分の右肩あたりに視線を落とし、俯いた。
「済みません……私が、その……説明を怠ったのです。彼らに現在の立場がどうなっているのか、ちゃんと話していませんでした」
「何てこった」
俺には元奴隷たちの心境を容易に想像できた。
商品として船に詰め込まれ、その船が襲われて襲った海賊がさらに俺たちに虐殺され、言葉もわからない異国の港に連れてこられたのだ。不安にもなる。
そして唯一ノルド語を解するリーダーから、説明がなされないとなればなおのことだ。
「まあ、それも仕方があるまい。グロリアンドは長い間あの船倉に押し込められておったのだ。そのあとに秋の海の冷たい風にさらされて数日を過ごした。昨晩からこの午後まで寝込んでいたのも無理はない」
「その数日の間に、何か説明できたんじゃないのか」
疑問を口にする。だがそれにはグロリアンドがきっぱり答えた。
「ホルガー殿が、私達をどうする、とはっきり仰らなかったので」
なるほど。いうなればホルガーの舌は鞘に入った剣だ。必要なときは能弁だが、喋らないときはその光の一片さえ見えない。相対するこちらもつい言葉を控えがちになるほどにだ。
(あの気質が裏目に出たわけか――)
「……そりゃあ確かに彼女を責めるのは気の毒だな。で、どうするんだ?」
「そう遠くへは行っておるまい、見知らぬ土地だし逃げ隠れしながらの道行きだ。俺はこの道のもう少し先まで、グロリアンドとともに駆けてみる。お主は小僧どもを連れて、街へ戻っていてくれ」
「解った。こいつ等のことは任せろ」
馬に一鞭くれて、二人は走り去った。
「どうしよう。トールに任せられちゃったぜ、俺たち」
ヘイムダルとギルベルト、それにオーズの三人組が不本意そうに顔を突き合わせた。
「何だとコラ」
本気で怒るわけではないが、少年たちに侮られている気がして俺は不機嫌を顔に表す。だが次の瞬間、オーズがにんまりと笑ってこちらを見上げた。
「あはっ、怒ってる。莫迦だなあトールは。立場が逆なんだぜ、分かってる? トールを僕らに任せるべきなんだ。楽師のトールは村の大事な知恵袋なんだからさ」
「そうそう。俺たちがしっかりと街まで送り届けるよ。ほら、そこぬかるんでるよ」
「……お前ら」
一瞬言葉に詰まった俺だが、すぐ無性におかしくなって笑い出してしまった。
「よろしい、よろしい! では小さい人たちよ、この年寄りとともに目的の場所、炎燃え盛る王のかまどへと向かおうか」
芝居がかった言い回しに少年たちが首をかしげたが、やがて戯言だと気づいたらしい。
「……ああ、また何か魔法を用意する気なんだ?」
「年寄りったって、トール。そんな薄っすい髭じゃ高座には座れないよ」
「髭の薄いのは勘弁してくれ」
尊敬されてるのか莫迦にされてるのかさっぱりわからない。ともかく、次第に暗い影の色を帯びていく雲の下を、俺たちは並木の列を追い越すように足早に歩き始めたのだ。