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不穏な同行者

 町の南、デーネヴィーケの向こう側に広がる落葉樹の群落が、次第に色づき始めていた。朝の空気は湿気を含んで冷たく、木道の脇の草や家々の壁にもびっしりと露が下りている。

 冬になればこれが霜となり、氷柱となって垂れさがるだろう。また長い冬がやってくるのだ。

 ポケットには程よくシーズニングされた弦が4セット。頭の中にはムスタファから教わったガットの製法。俺は上機嫌で大山羊号の舷縁を乗り越え、甲板に上がった。

 マストの周りに大きくくぼんだ船倉には、選り分けられた琥珀の塊が皮袋に詰められて積み込まれている。一部を例によってまた食料や酒、冬の必需品に換えてはいたが、まだ大部分が琥珀のまま俺たちの手にある。

 やや遅れて、桟橋へフリーダがやってきた。まだ少しにきびのあとは残っているが、黒い毛皮帽子の下で彼女の肌の白さがことさらに際立って見えた。

 フリーダは何かを待ち受けるように、桟橋の上からこちらへ手を伸ばした。一瞬意図を測りかねていると。少し不満そうな顔で船と桟橋の間に横たわるわずかな隙間と、その下の水面に目をやったようだった。

 

 なるほど、そういうことか。俺は腕を伸ばし、フリーダの手を取った。

「よろしい」

 そういってニッと笑うと、彼女は俺の腕に支えられてその50㎝ほどの間隙を跳び越える。

「そのくらい、跳べたんじゃないのか」

 苦笑しながらそう言うと、彼女はつんとすまして答えた。

「もうしばらくは私の忠僕でいてくれるんでしょ。だったらうんと甘えなきゃ」

「やれやれ、お嬢様にはかないませんなあ」

 肩をすくめた俺は、両脇にそれぞれの手荷物を抱えて、甲板の上を船尾へ向かって歩いた。


「向こうでも一隻、船出の準備をしてるな」

 ちょうど近くにいたヴァジが、そう言って埠頭の端につけられた一隻の船を指差した。

 俺もそっちを見る。大きなクナルだ。


 それが普通の商船でないことは、すぐに理解できた。普通の交易船にしては船に乗り込む人数が多い――傍目にはこちらも、その点は同様なのだが。

 商人然とした身なりの男たちのほかに、武装した十人ほどの戦士と、体の前に回した腕を手首のところで縛られた、数名の男女が乗り込むのが見えた。つまり。


「……奴隷商人の船か、あれは」

「そのようだな」

 ヘーゼビューは手工業製品が集まる商人と職人の街だが、同時に北欧有数の奴隷市場でもある。この町で買った奴隷を乗せて、北欧のどこかへ売りに行くのだろうか。

「あまり気持ちのいい眺めじゃないな」


「気にするな、トール。こっちには武装した男が三十人。仮にフリーダや小僧たちに目をとめても、わざわざ漕ぎ寄せてきてまで商品を増やそうとはするまい」

 ホルガーが舵柄の位置に着きながらそういった。つまり彼自身も気になっているらしい。

 リスクの多い冒険を試みて、今持っているもの――命も含めて――まで失う羽目になるのは誰も望まない。ホルガーが言うのはそういうことなのだが、よりによって同時に出航するというのは何とも妙な気分だ。


 オールで桟橋をつき離し、潟湖の中ほどまで漕ぎ出す。街の方角を振り仰ぐと、遠くの木々の梢がざわざわとそよぐのが見えた。

「帆を張れ! いい風が来たぞ」

 帆の固縛が解かれ、帆布がなだれ落ちる。号令に合わせてロープを引くと、西からの風をうけて、帆が固く張りつめた。船出に伴う一連の作業は、この時代に初めて来たときのあの新鮮な驚きと心細さを、いやでも俺に思い出させる。



 風に波立つ水面を滑って進む大山羊号のやや後ろ、100mほど離れた位置にあの奴隷船がぴったりとつけている。向こうの船のほうが見たところ、帆の面積が大きい。その気になればこの順風下、一気に距離を稼いで先行できるはずだが、奴隷船はなぜか帆を絞り、増速する気配がなかった。

 向こうの船の連中は取り澄ました様子で進行方向に視線を向けるか、操船作業をする仲間を見ているように装っていた。だが、距離は離れていても彼らが明らかにこちらを意識しているのは頭の動きでわかった。こちらへ視線が向いたときにどうしても一瞬止まる。見ていないふりをしながら、見ているのだ。


「こっちを警戒しているのかな」

「そうかも知れないな。この数日、あの船は桟橋に影も形もなかったが、昨日になってやってきてたんだ」

 ヨルグがそういった。


 こいつも抜け目なくなったものだ。俺がムスタファのところに寝泊まりして、羊の腸を洗ったり割いたりする特訓を受けている間、彼は毎日桟橋に足を運んで、船の出入りを調べていたらしい。

「そうか。あの商人たちが土塁(デーネヴィーケ)の南からやってきて、町の門をくぐったのも昨日だったな」

 ヴァジがいった。彼は彼で、鉱石や鉄製品がフランク王国側から運ばれてくるのを何となしに毎日見に行っていたという。

「ふーむ。待ち合わせをしていたのかな?」

「何にしてもあの船の連中は、俺たちがここで琥珀を売ってたことは知る余地がなかったわけだろう」

 なるほど。つまり彼らにしてみれば、俺たちは帰路の襲撃におびえる同じ立場の商人ではなく、不自然に多くの戦闘員を乗せた得体の知れない船に見えるということか。それは警戒されても仕方がない。


「妙なことになったな……」

「この先で水路の幅がぐっと狭くなるが、どうしたものか」

 ホルガーとアルノルが船尾で話しているのが聞こえる。


 ヘーゼビューと海をつなぐシュライフィヨルドは、最大幅およそ1km前後。狭い場所では100m程度だ。船のサイズによっては回頭も困難なその難所へ、二隻の船は差し掛かりつつあった。


「大量の琥珀に、活きのいい奴隷か。山賊や海賊にとってはどちらもよだれの出るような獲物だが……」

「船に乗っている人数と武装した者の割合を考えれば……俺たちが仮に襲撃を受けても、ある程度の幅のある場所なら振り切って逃げられるだろう。だが奴らはそうはいくまい」

 アースグリムがそう分析してみせた。

「奴らが先行した状態で襲撃を受けたら、俺たちも足止めを食らうか」

 アルノルが口ひげを捻る。

「是非もない。先に行かせてもらうか」

 ホルガーがそう言うのとほぼ前後して、奴隷商人の船が絞っていた帆を全開にした。ゆっくりとだが次第に速度を上げ、大山羊号を追い抜いていった。

「あッ……ああー……」

 男たちの間から落胆とも憤懣ともつかないうめきが上がった。今やあちらのクナルは完全に大山羊号の前に出て舵を戻し、まっしぐらに狭隘な水路へと進んでいく。


 ふと、その船の何かが俺の心に引っかかった。はっきりと形にならない違和感。だがその印象は捉えどころなく頭の中から逃げ去り、俺は首を振った。


「先に入ろうと思ったとたんにこれか……妙に癪に障る奴らだな」

 ホルガーが口をへの字に曲げた。

「急いで何かいいことのある旅でもない。奴らが狭いところを抜けるまで待って、様子を見よう」

 アルノルが開き直ったようにそう進言する。俺たちはいったんクナルの帆をたたみ、とろりと淀んだ淵の上で船を止めた。

「なに、そうたいした時間はかからん。狭い水道を抜けるまでに奴らが要するのは、せいぜい――トールがよく言う『一時間』の半分くらいだろう」

 アルノルが皆を見まわして顎髭をしごいた。皆がチラチラと俺の方を見て、納得したようにうなずいた。


 そう。俺はこれまで21世紀感覚で時間を意識してこの時代でも暮らしてきたが、実のところ北方人たちの時間の観念はごく大まかなものだ。日の出と日没、それに正午くらいの感覚で彼らは動く。壊れたスマホでは時刻を参照することも長らくできていないが、それでも体感で30分程度を刻みながら生きている俺は、彼らにとっては奇妙な存在らしい。

 一日五回の礼拝を義務として日々を暮すムスタファたちアラビア人や、時間単位できっちりと区切られたスケジュールでミサや祈祷を執り行うキリスト教の聖職者たちは、すでに何らかの形の時計で自分たちの時間を管理している。だが、まだまだヨーロッパ全体ではそうした時間感覚は一般的ではないようだ。


 太陽はまだ沖天に昇る途中だが、俺たちはこの機会にと早めの昼食をとった。平焼きパンに燻製ニシンとチーズ、それにエール。代わり映えのしない携行食料。

 舷側にもたれて水の上に上体を少し乗り出すと、ぽってりと膨らんだ船腹と、船が作る影に隠れるように泳ぎよってくる小魚の群が見えた。クナルの舷側は高く、水面までは少なくとも150cm以上の高さがあった。


(あれ?)

 再び違和感を覚えた。だが相変わらずそれが何なのかわからず、もやもやした気持ちがわだかまった。パンの切れ端を小さくちぎって水に放り込むと、小魚が群れ集まってそれをつつき始める。しばらくそれを見ているうちに、自分が何に引っかかったのかがどうやら明らかになる気がした。さっきの、あの奴隷船の姿が脳裏によみがえる。


 近くにいるヴァジをつついて注意を引く。噛みちぎったばかりのパンを顎と唇の動きだけで器用に口の中に送り込みながら、鍛冶師の息子は俺のほうを振り向いた。

「何だ、トール。だしぬけに」

「さっきの、あの船――『クナル』でいいんだよな?」

「ああ、クナルだったが、それがどうした」

「さっきこっちを追い越して行ったとき、あの船はひどく舷縁が低くなかったか? 水面から」

 そうなのだ。どこのものとも知れないあの奴隷船は、大山羊号とは違い、水面から舷縁までの高さが1mなかったように思えた。同じクナル、しかもこちらより大型なのにだ。見えた人数の奴隷の重さだけで、あんなに深々と沈み込むものだろうか?

 そのことを話すと、ヴァジも首を傾げた。

「そういえばあの商人たち、町の門をくぐるときは荷車に何か重いものを積み込んでいたな。車のわだちがかなり深かったのを覚えてる。だが出航の時、それらしい積荷は船上に見えなかった」

「――隠してる?」

 妙な胸騒ぎがする。何を積んでいたのだろう。

 フランク側から持ち込むものといえば、鋼や鉄製の武器、それにワイン、南方から運ばれたオリーブ油や布地、それに塩といったところだが――


「ホルガーに話してみよう」

「ああ」


 かいつまんで話すと、ホルガーも興味を示した。交易都市から商人が奴隷を積んで運び出す。それは普通のことだ。フランク王国から重量物を運んでくる。それもまあある。


「だが、何か周りの船に見せられないような積荷を、奴隷船を装って運ぶとなれば、これは話が別だぞ」

 ホルガーがそういった。

「楽師殿の胸騒ぎとやらは俺にも分る。我らはこの夏、イングランドで大掛かりな事件にかかわった……そのためか、俺自身どうも疑い深くなったように思う。目に見えるものはその通りでなく、オウッタルがハラルドだったようなことが、この世には溢れておるのだ――」


 ホルガーは甲板に向かって向き直ると、大声を張り上げた。

「帆を上げろ! 奴らに追いつくぞ」

 フリーダが俺の隣に来て、袖を引っ張った。

「どうしたっていうの? 兄さんは何を――」

 俺はフリーダに、あの奴隷船が見かけどおりではないことを説明した。

「それって……つまり、何か悪いことが?」

「ああ。ヘーゼビューでフランクから運び込まれるものといえば鉄、あるいは鋼が思いつく。それ自体はありふれた物だが」

 一瞬言葉を切って、俺は不吉な予感に震えた。

「隠して運ぶとなると、そいつはなにかの陰謀が関わってるはずだ」


久しぶりに更新。新たな波乱の予感に揺れる大山羊号。次回もお楽しみに!


 ガット弦の製法についてはどう書いてもネットにある記事のパクリめいたものになってしまいそうなので断念。興味ある人はググってください。

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