大山羊号再び
「ちょっと、トール。それにお爺さままで! ちゃんとテーブルに向って食べなさいよ」
聞こえてはいる。だが、俺とインゴルフはとっくに冷めた肉入り粥の椀を片手に、ひたすら炉の前の床土を、乾燥した薪の細い切れ端でひっかいていた。
足元の床に何度も消しては描きしているのは、俺の新居となる家の概念設計だ。何でそんなところにそんなものを描いているかといえば、原因は俺が21世紀から持ち込んだ物品の再入手性の問題だった。
ボールペンのインクはすでに尽き、メモ帳の紙もほとんどはフリーダに教わったノルド語の覚え書きと、旅先で見聞きしたものの不出来なスケッチで埋まっている。
防水ポケットのおかげでスウォニジ湾で出くわした嵐にも耐えたが、何か書き込めるスペースはあとわずかだ。ざっと、十枚足らず。この際、大きな寸法で概略的な図面を描く程度なら、床で十分というわけだ。
「ふむぅ。床を板張りにする?」
「ぜひお願いします。もちろん広間の床は土でいいんですが。つまり、入り口から奥まで寝床だけの部屋を作る、と思ってください」
俺の説明に、インゴルフはなおも首をかしげる。こちらとしては日本人らしく靴を脱いで床の上であれこれの作業をしたり足を投げ出してくつろいだり(イレーネの素足を観賞したり)したいのだが、北方人の感覚ではそのあたりが理解できないのは無理もない。
「ああもう。せっかく今日はご馳走にしたのに……」
ちらと横目で窺うと、フリーダはなにやら険しい形相でテーブルの上の大皿に盛られた鶏の腿と豆、そして俺とインゴルフを交互に睨んでいた。
洗濯用粘土を利用した洗顔は、フリーダのにきびにある程度の改善をもたらした。その成果を祝ってよく肥えた雄鶏を一羽つぶしたのだが――
(そろそろ、やばそうだな……)
「インゴルフ様、あとは食事の後にしましょう」
「そうじゃな」
今までの熱気を帯びた議論がまるで存在しなかったように打ち切られ、俺たちは食卓へ向き直った。
「うむ、うまい鶏じゃのう」もぐもぐ。
「豆にも鶏の味がよく滲みてて美味いです。美味いですな!」ぱくぱく。
「何その裏返った声」
とってつけたようなわざとらしい会話に、フリーダの眉がきゅうっと寄せられる。だが、爆発を予測したのとは裏腹に、彼女は鼻からふっと息を抜き、苦笑いを浮かべるにとどまった。
「まあ、いいわ。あなたが教えてくれた洗顔で、このおできもどうやら少しづつ治ってるみたいだし。大目に見てあげるわ……粘土ってすごいのね」
実際、俺なりにいろいろと工夫したのだ。近くの山からとってきた件の白い粘土は一度天日で乾燥させて粉末にし、井戸水でさらし洗いして硬い鉱物の粒子や腐植などの不純物を取り除いたうえで練り直してある。
フリーダの肌に使ったものは純粋に粘土だけだが、俺はほかにもタールをとった後の木炭など、吸着性の高い炭を粉末にしたものを混ぜ、混合比を変えたものを数種類作ってみた。そのうち一つは――
「炭を混ぜたやつで洗ったら、ハルシの匂いもだいぶとれたな」
そう、『洗ってない犬の匂い』からついに我らがお犬様は卒業したのだ。
「ちょっと、やめてよ。犬と同じもので自分の顔を洗ってるって、なんだか癪だわ」
「なに、ハルシのやつめが贅沢にもフリーダお嬢様と同じもので洗われてるんですよ」
「ああ言えばこう言う……」
あきらめ顔であさってのほうを向いてため息を一つつき、フリーダは目の前の鶏の腿にかかりきりになった。
「明日、発つのよね」
唐突にそんな言葉が、フリーダの唇から発せられる。一瞬何のことかわからなかったが、すぐにバルト海沿岸への琥珀探しの旅のことだと胸に落ちた。
「ああ、うん。もうあのウードの替えの弦が心細いんだ。むしろよくもった方だ……ムスタファに琥珀を渡さなきゃならない。どうあってもね」
鶏の脂でべとべとになった指をしゃぶりながら答える。次の瞬間、フリーダは顔を上げて、まっすぐこっちを見つめながら言った。
「私も、連れていきなさいよ」
「何だって?」
何のつもりなのかはわからなかったが、断っても聞き入れそうにない。インゴルフのほうを見ると、長老はなぜか目を閉じて食事を半ばに寝入ったふりをしていた。
* * * * * * *
「なんだかもう、クナルに見えないな」
スノッリが桟橋から船を見上げて、そんな感想を口にする。
「ふむ、こいつは察するところアラビア人の船に通じる工夫らしいが」
アルノルの左手が顎の前で彷徨ったままだ。
フィヨルドから引き揚げられて再艤装された大山羊号には、以前と決定的に違う部分があった。マストの頂点近くから舳先へ向かってピンと張られた前静索に、亜麻で織られた三角形の白い帆が張られていたのだ。逆風時の推進力を向上させる工夫である。
そしてもう一つ。マスト前方の静索だけに帆があっては、横風を受けた際に船がぐるぐると回転してしまう。それを回避するため、船首の三角帆と釣り合いをとるように船尾に小さなマストを立ててそこにも縦帆を張った。原理的にはヘリコプターのテールローターと同様だ。
どちらの帆も、帆脚索や小マストに取り付けた可動式の円材を調節することで、風に対して角度をつけられるようになっている。そして、横風を受けた場合の復元性を考慮して主マストの高さは5分の4ほどまで切り詰められていた。
ヨルグの言う通り、これはもうクナルといえるかどうか怪しい。しいて言うならば後世の『ヨール』と呼ばれた形式の船を先取りしたような代物だ。
春に体験した船旅とその途上で海賊船の追跡を受けた経験から、少ない人数でよりスピードが出せ、逆風に対してもより効率的に推進力を得られる船を求めて、俺たちはクナルに大幅な改装を施したのだった。三角帆に使った布はドーレスタットでわざわざそのために買ったものだ。
船尾の小マストに張った帆は、マストを切り詰めることであまりが生じた分をもともとの帆から切り取って細工した。
「効果のほどは、まあ実地に航海の中で試せばよかろう……慣れない作業が増えることになるが、此度我らの仲間に加わったアースグリムは経験豊かな男だ。そしてわれらのケントマントは当代随一の船乗りだ。きっとうまくいくだろう」
ここしばらくの夜毎の酒宴で新参者の気性を熟知するに至ったホルガーが、深々と満足げにうなずいた。
荘重な儀式を経て、貨物の積み込みを終えた大山羊号は、村総出の歓声を浴びながら錨を上げ、桟橋を離れていった。
水門を抜けてフィヨルドの中ほどまで来たとき、ちょうど風が反転して進行方向から吹き付けた。アルノルの指示のもと帆桁が回され、そのまま風は後方に抜ける。
桟橋に残った者たちからは気づかわしげなどよめきが漏れたが、次の瞬間、船は船首の三角帆を膨らませ、逆風を切り裂くように次第に速度を上げていった。どよめきがやがて大きな歓声に変わる。
図らずも出航早々に新式の艤装が威力を証明したことになったわけだ。ホルガーが皆を見まわして誇らしげに笑った。
「うわっははは! こいつは大したものだ。こんな船を持っている者はノルウェーやデンマークじゅうを探しても、我らの他にはあるまいな! 異国の知恵を惜しみなく提供してくれる我らが楽師殿と、そいつを形にした叔父上はじめ村の皆の働きを讃えよう!」
「楽師のトール、万歳! アンスヘイム万歳!」
乗組員として新たに加わった少年が、威勢よく叫んだ。
夏のヴァイキング行にはまだ参加を許されなかった、ヨルグより年下の少年たちが、今回の旅には三人ほど加わっている。
目的地はへーゼビューおよびバルト海の南岸、現地での仕事は琥珀探しで戦闘の可能性は低いとあって、冒険心にあふれる少年たちの熱意にそれぞれの親も承諾を余儀なくされた、といったところだ。
彼らの称賛はいささか面はゆいが、俺は当面、知恵を出すことで村に貢献するしかない。ならばその知恵への対価は、有形無形問わず胸を張って受け取るつもりだった。
参加した顔ぶれは、少年たち以外はおおむね夏のヴァイキング行と同様。違うのはシグルズの空席を埋める形でアースグリムが加わり、ロルフがいないことくらいだ。
いや。
そもそも一番の違いは、この船にフリーダが乗っていることだった。その彼女はいま、手のすいた男たちの間をまわって角杯にエールを注いでいるところだ。
「フリーダ! 僕にもエールを呉れよ。もう喉がカラカラだ」
少年の一人が一人前の男のような口ぶりでエールをねだった。
「あんたたち、出航してからずっとそこで座り込んでるだけじゃないの! エールがほしかったら働いて! ほらほら!」
エールをねだった少年がきまり悪げに腰を上げると、仲間の二人もそれにならって立ち上がった。
長老の孫娘が自分たちを近くで見ているとなれば、少年たちも不慣れなことを理由に船上の仕事を怠けたり尻込みしたりしてはいられない。案外、インゴルフが彼女の乗船を許可したのはそんな理由かもしれなかった。
ちょうど彼らにうってつけの仕事があった。どうしたことか、船首近くの甲板の上に、羊の皮でできたホースが死んだうわばみ宜しく放置されていたのだ。以前船の引き揚げ作業をした時、浮袋に空気を送り込むのに使ったもので、ロルフの力作だった。とっ散らかっていたとはいえ、なぜこんなに長い間誰も顧みなかったのか。
「おーい! 小僧たち、仕事をくれてやるぞ。このホースにセイウチの脂を少しづつ塗って、しなやかになるまで丁寧にもむんだ」
「えー、手がぬるぬるになっちゃうよ」
「楽師のトールはいつも気楽そうでいいよなー」
トール万歳、と持ち上げられた直後にこれだ。
「何を言っとるか!」ヴァジがその少年の後ろから軽くゲンコツを見舞った。「トールはヴァイキング行の間中、大変だったんだぞ!」
「ヴァジ、ありがとう。だがそのくらいで許してやってくれ。俺は実際気楽な男さ、気楽でいられる限りは気楽でいたいとも」
そういいながら少年の隣に座りこみ、俺もセイウチ脂を手に取った。
「もっと薄く延ばして、こうやって丹念にすりこむんだ。水に浸かった後陽にさらされた割にはこいつはまだずいぶんしなやかだが、もっと堅くなってひび割れたりしたら台無しだからな」
東京で金がなくなって古着屋に売った、黒の革ジャンを思い出す。毎年冬の終わりにしまい込む時は、小さな缶に入ったミンクオイルをちょうどこんな風に手で塗り込んでやっていたものだった。
「でさ、この長いやつどうするの」
少年たちの一人が訊いてくる。三人のうちで一番ひょろっとしたソバカスの多い子だ。このくらいの年の男の子にしては素直で落ち着いている。名前は確か――ヘイムダルだったか。
「柔らかくなったら端から巻いて丸めるんだ――そうそう、巧いぞ。できあがったら船首の甲板下に入れておこうか」
「わかったー」
消防訓練で消火ホースを延ばすときとだいたい逆の要領だ。パンケーキのようなきれいな円盤形にまとまったそれを収納していると、マストの上から甲板に声が降ってきた。当番で見張りに立っていたヨルグだ。
「おーい、左舷に船だ。でっかい軍船だぜ!」
目をやればそれは、真新しいタールを塗られて黒々と輝く、竜頭を掲げた舷側に色とりどりの盾を並べた、素晴らしくも恐ろしげな船だった。マストにはキラキラと陽光を反射する、透かし彫りを施された銅板の風見が取り付けられているのが分かった。予期せぬ椿事に大山羊号の甲板がにわかに騒々しくなる。
ふと船から視線をそらし背景の海岸を見ると、俺たちはちょうどクラウスたちが建設中の軍港、スキルパッデハヴェンのそばに差し掛かっていた。
ということは――
スノッリが叫んだ。
「ありゃあ、ゾートの軍船だったやつだ! 竜頭の形に見覚えがある」
俺も別なことを思い出していた。トンスベルクのあちこちに飾られていた銅の彫板は、いま目の前の船に取り付けられているものと、デザインが似通っているのだ。
春の襲撃を切り抜けたあと接収し、扱いかねてハラルド王に売った船だった。来年夏のホルザランド平定に向けて、ここまで運んできたということだろうか。
「ということはまさか、あれにはハラルド王が乗っておるのかな」
「どっちのだ?」
「どっちにしても――」
ホルガーとアルノルがそんな会話を交わす中、船は次第にこちらへ接近し、やがて船上の顔一つ一つが見分けられ声もはっきりと届くほどになった。
「そこの船! 見慣れぬ艤装だが何処の船か」
誰何の声に、ホルガーがいつものよくとおる声音で応えた。
「アンスヘイムのクナル、大山羊号! 族長たるこのホルガー・シグルザルソンが指揮をとっておる!」
ややあって、あちらの船上からも声が返ってきた。
「アンスヘイムの衆か! こちらはハラルド王の家臣、メールのラグンヴァルドだ! この船ともども、スキルパッデハヴェンに入る。冬の間はなにかと世話になろうゆえ、よろしくな! 貴船の航海によい風を祈る!」
ラグンヴァルドと名乗ったのは年のころ40代後半、息子ロロ――つまり蓬髪王ハラルドに扮していたあの巨漢――によく似た、厳めしい面もちにわずかな霜の置いた髪を肩まで垂らした偉丈夫だった。
やがて軍船はゆっくりと進路を変え、フィヨルドの奥にある軍港の、槌音響くただ中へと向かって進んでいく。
「王様の船……」
少年たちが興奮に頬を紅潮させ、目を輝かせてそれを見送った。腰に吊るした短剣にそっと手を触れるものもいる。来夏の戦に参陣して勲を立てる自分の姿でも夢見ているに違いない。
しかし、俺はといえばいささか苦い気持ちでその軍船の黒い後姿を凝視していたのだった。




