表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
81/102

シャボン玉阻止デー

 内政モノめいた話

 宴会が終わると、俺は蜂蜜酒の酔いで少々ふらつきながら家に戻った。


 インゴルフはまだ皆と飲み交わしている。俺は皆に比べて酒が弱いので、許しを得て先に宴席を辞したのだ。

 

 家には灯油ランプの灯だけが小さくともっていて、戸口で声をかけるとフリーダが出迎えてくれた。酔った頭の中で、彼女の姿がイレーネのそれと重なった。いずれ、俺が家に帰るたびにイレーネが出迎えてくれるようになる――そう考えるとどうしようもなく頬が緩み、口元にはだらしない笑いが浮かんだ。

「お帰りなさい――何その顔、気持ち悪い」

「ほっとけ」

 少しろれつの回らない舌でそう返しながら、倒れこむように寝床へ向かう。

「お水、要るかな?」

 フリーダが小さな錫のカップを持ってきたのを、奪い取るようにして一気に飲み干す。酔いが完全に回って横になるより前でよかった。


「美味い。フリースラントは水が良くなかったから格別だ」

「よかった……あの、昼間、ごめんなさい」

 フリーダは恥じ入った様子でしゅんとしている。

「いいさ。誰も怪我をしてないからな。これからは一人で悩まずに、体の事は大叔母さんに相談するといい」

「そうね……」


 数秒の沈黙の後、彼女は横になった俺のほうを覗き込んだ。

「ねえ、昼間言ってた、話したいことって何?」

「ああ」

 何から話したものだろう。この夏は本当に色々なことがあった――だがまあ、俺にとって本当に大事なこと、そしてフリーダに伝えておくべきことと言ったら。


「――結婚することになった」

 そう打ち明けた瞬間の、フリーダの顔はなんとも言えない代物だった。眉根にしわが寄り目を大きく見開いて口が鯉か何かのようにポカンと開かれて、出てきた言葉は――

「酔っぱらってる? それとも私をからかってる?」


「なんだよそれは! 酷いじゃないか。いや、確かに酔っぱらってるのは認めるけど……真面目な話だよ! 真面目な話!」

「ひどいのはそっちじゃないの! 何よ! 錯乱して刃物向けたのを反省して素直に謝ったのに」

 掴み掛らんばかりの勢いで不満を表明する少女にたじたじとなりながら、俺はなんとかきちんとした説明をしようと試みた。

「だから! 本当なんだってば! ほら、へーゼビューで夜中にウナギ料理の桶を置き去りにする羽目になった時の、っていうか次の日に埠頭で『人違イデャ』な人たちと戦う羽目になった原因の! あのお姫様とッ――痛ぇッ、なんで殴るんだよ――フリースラントで再会して、いろいろあっギャッ!」

「なんか、殴らなきゃいけない気がした!」


 理不尽である。さすがに薪で殴られることは今回はなかったが、頬を平手ではたかれたり、掴み掛ろうとするフリーダの腕を押しとどめようとして、こっちの手が彼女の胸のあたりに飛び込んでさらに事態がややこしくなったりした。


 そのうちに両者とも息が上がってへたり込み、やっとのことで両者それぞれのコーナーに戻る感じになる。いつの間にか俺は土間に正座に近い形で座り込み、フリーダは俺の寝床だったはずの場所に立膝で手を突き、まだこちらを睨んでいた。

「え、えっと。話を整理しましょう」

「その提案には大いに賛成だ」


「トールは、フリースラントで再会したあの追剥お姫様と仲良くなって、結婚することになった。秋にはフランドル伯のお城で婚礼を挙げる。ここまではあってる?」

「極めて正確に俺の話を理解してくれてると思う」


 フリーダの表情がさらに奇妙なものになった。あまりに突飛な話を聞かされた人間が呈する、あのキョトンとした顔だ。そこある状況と自分との関係性の把握に挫折した、そんな感じの――

「……バカがいる。私の目の前に」

 彼女の口から出た感想ときたら、およそ最悪だった。



 ようやくまともに話ができるようになったころには、俺の酔いも幾分覚めていた。気持ちよく眠れるはずだったのだが、その機会は逸したようだ。


「なるほどねえ……うん、あなたやっぱり頭おかしいわよね。っていうかバカでしょ。ほんとに」

「ひどいなあ。これでもかなり悩んで出した結論なんだぞ」

「私とお爺さまのこの家に居候してる身で、よく結婚しようとかいう気になったわねぇ」

「それは俺も考えたよ……ホルガーに相談したんだ。家を一軒、建ててもらう。できれば畑も。資金ならイングランドでもらった銀150マルクの金がある」


「……本気なのね。ローマの血を引くお姫様、かあ」

 フリーダが深いため息をついた。炉のそばのベンチへ移動して座りなおす。


「ふーん、もしかすると大きな魚を逃がしちゃったのかな? 私」

 そう言って、フリーダはくすくすと笑った。まじまじと見つめる俺に気づくと笑い声がはじけてさらに大きくなる。

「冗談よ! 冗談。でもあなたが思ってたよりいい男らしいってのは納得できたわ……応援してあげる、イレーネさんとのこと。責任もって幸せにしないと承知しないからね」

「ありがとう」

「こちらこそ……ホルガー兄さんを助けてくれて、ありがとう」

 彼女はベンチから再び移動すると、寝床の上に戻って胡坐をかいた俺の後ろから、首に腕を回して抱きついてきた。

「シグルズのことは残念だけど、みんなが無事に帰って本当に良かった……」

 そう言った彼女の声は、少し震えていた。



         * * * * * * *



 村に戻って次の日――宴会の翌日から、俺は妙に忙しい日々を送ることになった。家を新築するための準備と、フリーダのにきびを治療する方法の検討、琥珀を採掘に行くための情報収集と、難しい課題をいちどきに抱え込んだせいだ。


 顔を覆った無残な吹き出物が治せる、と聞いて、フリーダはとりあえず毛布をかぶって閉じこもるのをやめ、出歩くようになった。まずは一歩前進だ。

 にきびには何をおいてもこまめな洗顔が必要なのだが、俺は石鹸を製造する、というアイデアを早々に捨てた。一つは水質への影響を懸念したためだ。

 合成洗剤ほどではないにしても、このあたりの美しい海を、本来自然界に存在しなかった物質で汚すのは忍びない。ひとたび石鹸を手にしてしまえば、それはあっという間に村の女たちの間に広がるだろう。フリーダ一人が使うくらいなら問題ない、というわけにはいかないのだ。

(あとになって考えてみればリンなどを含まない、天然油脂を原料とする石鹸は富栄養化を引き起こしにくいはずだったのだが、俺の両親は公害が深刻な社会問題になった時代に育った世代だった。そのため、石鹸や洗剤の泡が水面に浮かぶ絵面には、少々過敏な反応を示す。それは息子の俺にもそのまま受け継がれていたのだ)



 もう一つは原材料の問題だった。俺がうろ覚えなりに知っているのは、てんぷら油などの廃油に苛性ソーダを加える製法と、古来地中海沿岸で行われたオリーブ油と海藻灰を使用する方法だ。

 苛性ソーダは製法を覚えておらずちょっと手に入りそうになかったし、オリーブ油はわざわざ食用に相応の銀を支払って手に入れてきたもので、量の限られたぜいたく品だ。製法を確立する前にかなりの量を試験的製造に費やすことになる以上、コストの高いものは使用できない。


 また、アルカリと反応した油脂の、ゼリーめいた塊を持ち運びに適した固形にするには『塩析』というプロセスが必要なのだが、これには字を見てわかる通り多量の塩を必要とする。

 塩の産地として知られたマルセイユで後世、石鹸製造が隆盛するのはこのためなのだが、スカンジナビアでは塩は貴重品だ。現在村にあるのはこれまたドーレスタットで買ってきた物だし、現有量ではおそらく、冬の間に消費する魚肉の保存に使用するので精一杯のはずだった。


 そもそも食器洗いなどに使うものならともかく、思春期の少女のデリケートな皮膚に使用するには、粗雑な手作り石鹸は危険すぎる。油脂が多すぎれば鹸化しきれずに残った油は酸化して有害物質となるだろうし、アルカリ分が多すぎればそれは皮膚にダメージを与えるものとなる。


(いっそボールドウィンにでもアイデアを売って、試行錯誤させてでき上がったものを買うか)

 埒もない考えが頭に浮かんだ。フリースラントやフランドルなら岩塩も海水塩もこちらよりは容易に手に入るだろう。封建領主の権力と財力をもってすれば、コスト面の問題も押し切れるかもしれない。


(はて。そういえばあそこでジーンズを洗ってもらったけど、何を使ってたっけな?)

 頭をひねるが、現場を見ていない以上、思い出せないのだった。情けないことこの上ない。



 俺がそうやって思考を堂々巡りさせていたのは、村の奥まったところにある、小川のほとりだった。ここはホルガーの家が所有している土地の一部なのだが、川沿いに家一軒分ほどの区画を俺に譲ってくれることになったので、下見に来ていたのだ。

 川を挟んだところには村の共有になっている広場や共同井戸の区画があって、いましもグンナルが10頭ほどの羊を連れて、放牧から戻ってくるところだった。


 手を振るとこちらを認めて、羊の群れとともに近づいてくる。従兄のハーコンとは対照的に、付き合ってみると穏やかで人の気持ちを引き立てることにたけた男だ。イングランドからの帰路以来、俺は彼ともよく話すようになっていた。

 俺は小川の浅瀬におかれた飛び石を渡って対岸に移動した。ここにもいずれ、重量物を通せるような橋を架けられればいいが。


「やあ、グンナル。よく肥えたいい羊だな」

「トールか。こいつらは春前に生まれた若い雌でな。来年売りに出すつもりなんだ。お前のとこでもどうだ?」

「考えておくよ。だが、畑と放牧両方は無理かもしれん」

「そうか? まあトールは村に親類がいるわけでもないからなあ」

「遠慮なく食えるバターやチーズには、大いに魅力を感じるけどな」

 そう言いながら俺は寄ってきた羊を撫でた。知らなけば山羊と見分けのつきにくい、長い角をはやした羊は、モップのような見てくれとは裏腹に毛にたっぷりと皮脂を含んでいて、犬のハルシ以上に手が汚れる感じがする。

(汚れちまったなあ……ん? 皮脂?)


「来年はまあ、この辺も戦争だ。王の許しがあれば奴隷を手に入れられるかも――」

「すまん、グンナル。その話またあとで頼む――」

 グンナルの楽天的なおしゃべりを途中でさえぎって、俺は亜麻のシャツの上に重ねていた毛織のチュニックに手を触れた。

「どうしたんだ、トール?」


 チュニックの生地に油ッ気はない。きれいなものだ。つまり何らかの方法で脱脂されている。

「やっぱりそうか……なあ、グンナル。羊毛って紡ぐ前に、何か加工するのかな? 洗うとか、煮るとか」

「ん? うちの母者や女房はどうしてたかな……女の仕事だ、考えたこともなかった。しかしまた何でそんな?」

「フリーダの、乙女心のためなんだ」

「ふーん?」


 歩きながら、彼に事の顛末を聞かせる。俺がサクスの切っ先を向けられたあたりで、彼は首をすくめて頭を振った。

「なりは小さくても女か。恐ろしい恐ろしい、うちのもそうだが頭に来るとてんで理屈が通じないからな」

「……イレーネは絶対に怒らせないようにしよう」

 あのお姫様ときたら手には剣ダコがあるわ埠頭から船まで馬で跳ぶわ、石つぶてでヴァジの指を折るわ、とにかく俺が逆らってタダで済む相手ではないのだ。


「にきびには俺も悩まされたもんだが、なるほど、羊毛と同じで油ッ気をとってやるといいわけか」

「うん。人間の肌も羊の毛も、大体同じような材料でできている。羊毛を傷めずに脱脂する方法が分かれば、それは人間にも応用できるんじゃないかと思ってね」


 ケラチン。皮膚や爪、毛髪などを構成するタンパク質繊維だ。石鹸が発明される以前は古い尿に生じたアンモニアや灰汁などのアルカリが洗濯に使われたはずだが、羊毛はケラチンだからアルカリに弱い。



 グンナルの家で主婦たちから聞き出したのは、意外な方法だった。

「粘土?」

「ああ、ぬる目のお湯で温めた後、粘土をまぶしてもみ洗いするんだよ」

 グンナルの母がそう教えてくれた。

「羊毛の脂抜きにも洗濯にも使えるね。手もきれいになる」


 村から少し離れたところにある山の斜面に白っぽい粘土層があり、その土は衣服や羊毛の油脂汚れをよく落とす、という。

(ああ、そういえば……)

 粘土は増える、という話を大学の頃聞きかじったのを思い出した。水中の様々な有機物や鉱物の分子を吸着して、粘土はその体積を次第に増していくという話で、生物の自己複製システムが生まれるのに寄与した、といった仮説もあるとかなんとか。

 小難しい話は置いておくとしても、彼女たちの話はかなり有力な示唆を与えてくれた。油脂汚れを落とすには、何も界面活性剤ばかりを頼らなくてもいいのだ。


(そういえば、活性炭にも似たような吸着作用があったな……)

 フリーダのにきびには、どうやら解決の糸口が付きそうだ。俺は女たちに丁重に礼を言ってグンナルの家を後にした。


 石鹸を作らない内政があってもいい――自由とは、そういうことだ!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ