彼と彼女の家の事情
新章突入です。
「トールを船に引き上げたときは、てっきりフィンの貴人だと思ったな」
角杯をあおりながらアルノルが述懐した。
「フィンはまあ解るが、貴人ってのは?」
おそらく彼の言うのは、フン族などのイメージを漠然と含んだ、モンゴロイド系民族一括りなのだろう。黒髪、黒目。平べったい造作。
「あの外套だ。あんな縫目も見えないような、細かい針仕事は見たことがない。おまけにその見事な染色。フランクの王でも同じような物を持ってはいまい」
「そういうことか。だがあれは俺の国ではごく普通の品なんだ。どちらかといえば安い」
量販店で一着1万5千円。それなりに高級だが、別にそうたいしたものではない。羊毛70%ポリ30%の、多分中国製。色はあまり見かけないダークブルー。
普通の品、という説明に、アルノルが心底あきれたと言う顔で眉の奥の灰色の目をしばたいた。
「とんでもない国だな。まあ、あそこに迷い込むのは二度とごめんだ。ヘル(冥府の女神)の領土かと思ったぜ」
「まあ、長居はしないほうが良かったろうな。いろいろと」
21世紀の東京は環境汚染や彼らの免疫系が出遭ったことのない病原菌など、リスクで一杯だ。死の国というのもあながち洒落になってない。
「そうだな、よその連中に説明するときは『ずっと東の内陸部から来たフィンの公子』って事にしといてくれ」
「図々しいなあ。俺でもそんな法螺は気が引ける」
宮廷詩人って言い出さない程度には遠慮してるんだがね。
冬も終わりに近い3月。俺は村の一角にある長館の広間で、ヴァイキングたちの宴会に参加していた。
この数ヶ月、必死でフリーダやインゴルフに食い下がって学んだおかげでどうにかノルド語で会話が可能になった。我ながら良くぞまあと思う。覚えなければまともに暮らせないとあれば、必死ではあったのだが。
「話は違うが、あの客人どう思う?」
ゆでた肉の薄切りを口に放り込みながら、アルノルは俺にだけ聞こえる声でそう聞いてきた。
「どうも好きになれんのだ」
彼はそうぼやきながら、肉を咀嚼した。
「同類に対する嫌悪ってやつかね?」
俺が冷やかすと、アルノルはちょっと嫌そうな表情で、また杯を口に運んだ。
一昨日から村には珍客が訪れていた。ずっと北のほうから交易用の大きな|クナル船で航海してきた、オウッタルと言う名の商人だそうだ。毛皮や羽毛、アザラシ皮のロープといった品を北に住むサーミ人から仕入れ、ここからさらに海を隔てた南の半島にある大きな交易都市まで売りに出るのだという。まだ年若く、はっとする様な秀麗な顔立ちをしていた。
にこやかな笑みを絶やさずに如才なく立ち回る、いかにも商売人然とした人物だが、目の奥が笑っていない。
相手の腹の奥底まで見透かすような鋭いまなざしを、快活な声と巧みな話術、大げさで優雅な身振りで常に隠している――そんな男だとアルノルは言う。見透かすようなまなざしなら、アルノルもそうなのだが。
村の主だった男は総出で宴席に連なった。給仕には見目好い若い娘が数人駆り出されていて、忙しくテーブルの間を縫って蜂蜜酒やエールの角杯を、あるいは肉料理の載った大皿を運んでいた。
フリーダもその中に立ち交じって働いている。
(族長の縁者が宴席の給仕か。小さな村なんだな、やっぱり)
この村には奴隷は少ない。ヴァイキング社会ではこれは珍しいことらしい。つまり、この村はどちらかといえば貧しいのだ。俺はこの数か月の間に、どうやらフリーダを取り巻く周辺の事情を呑み込めていた。
アンスヘイムの村は今から40年ほど前、インゴルフの父の代に少し南の村から分かれて移住してきた一団が拓いた。インゴルフは二代目の族長を務めたが、三代目にあたる息子、つまりフリーダの父は族長の座を受け継ぐ前に、流行り病で命を落とした。妻も一緒にだ。フリーダだけは両親を奪った病魔から逃れおおせて生き残った。
ホルガーはインゴルフから見て弟の息子に当たる。つまり、甥だ
よほど高位の者を除いて、ヴァイキングたちには姓がない。ホルガーは父の名『シグルズ』に「――の息子」という語尾をつけて、シグルザルソン、と名乗る。
だがそういう呼び名では、ファーストネームも父の名も同じという他人同士が幾らでも存在しかねない。そこで、村の外で大きな軍勢に加わるときなどは、個々人の武勇に由来する二つ名を名乗ることになる。
ホルガーの二つ名は「膝砕き」だ。初対面のときには聞き違えていたが、「リューファフニェ」とでも発音する感じか。
洋上を航行中に遭遇した、こちらより優勢な海賊との戦いで、敵の頭目の膝を斧で縦に真っ二つに割り、数の不利を跳ね返して勝利を飾った、というのが謂れであるそうだ。
ホルガーの父シグルズは略奪行の最中に戦死してしまい、今は母親が家政万端を取り仕切っている。フリーダに料理や機織など女のする仕事全般を教えたのは、大叔母に当たるこの女性だった。
インゴルフがいよいよ老齢で身体が衰えてくると、族長の座を譲れる男子としてはホルガーしかいなかった。
当初は族長心得、とでも言うような立場で、村の長老グループから厳しい監督を受けたものだが、ようやくこのごろその地位を不動のものにしたらしい。
苛酷な時代の常として多くの欠員を出した一族の、数少ない生存者というわけだ。インゴルフの家に特に人手が少ないのはそんな事情だった。
俺が連れてこられたとき、フリーダはホルガーが奴隷を手に入れてきた、と思ったらしい。遠出の出来なくなったインゴルフに代わって家事や羊の番をするのが辛く、寝てもさめても奴隷が欲しい奴隷が欲しい、と念じていたそうだ。道理でホルガーに向かって不機嫌そうにしていたわけだ。
――あの男は旅の途中で拾った、奴隷ではない。
そう説明するのにホルガーは必死だったらしい。
結局のところ、俺は今ホルガーの客分であり同時にインゴルフの家臣もしくは奉公人という、いささか微妙な立場に置かれている。粗略には扱われないし、ホルガーの船のメンバーとも対等な立場で話してよいが、インゴルフとフリーダに対しては従属する。タダで飯は食えないのである。
俺が狼と戦う羽目になったあのときは、ちょうど長く飼っていた牧羊犬が老衰で死んでしまい、近隣の村に譲渡の依頼を出していたタイミングだったのだそうだ。俺は犬代わりを務めたわけだ。
実は今、その請われてやってきたお犬様が俺の足元にいる。スピッツっぽい体型の賢そうな犬で、喉の辺りに白い毛があるのを除くとだいたいチョコレート色をした、ようやく子犬の時期を過ぎた位の若いオスだった。
春になったらこいつの訓練がてら、冬の間に生まれた子羊で膨れ上がった群れを、主に俺が放牧に出すことになるのだろう。
投げてやった羊の腿の骨を嬉しそうにかじっているが、牧羊犬に羊食わせて大丈夫なのかという、迂闊に回りに訊けない疑問を俺はエールの杯を干してこっそり胃の腑に納めた。
酒でやや霞んだ耳に、上座のほうからにぎやかな会話が聞こえてきた。
「――で、いかがでしょう、族長ホルガー。腕の立つ者を、強くしなやかな狼の関節(手首)を持った、風切る毒蛇(投げ槍)の使い手を、何人か借りられれば幸いなのですが」
主賓の商人オウッタルは、ホルガーに人員の貸与を求めて掛け合っている様子だった。
「何日くらいかけるのか知らんが、あまり長くなれば村から出す補給物資の負担も大きいし、流氷も動き出して危険だ。気が進まんが――」
いったん言葉を切って、ホルガーが広間を見渡した。
「船一隻分の帆布を謝礼にと言われれば、断るのは愚かというものだ。そうだな、お前たち!」
ホルガーの渋面をよそに、宴席に集まった戦士たちから、どっと歓声が上がった。
14年8月5日
文章量のシェイプアップのため大幅削減。