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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~ 作者:冴吹稔

北方人のお荷物

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牙とナイフ

 焚火の明かりに照らし出された彼らは、腿などの肉付きが少なく痩せていて、いかにも飢えているようだった。足を傷めた羊など望外のご馳走だろう。そして俺はそれを邪魔する厄介な障害というわけだ。

 狂犬病などの危険な病原体を持っていないとも限らない。噛まれたりするような事態は避けたかった。追い払って済ませられるものならそれに越したことはない。
 低くうなりながら小走りにこちらへ駆け出した一頭へ、投石を試みる。野球のセットポジションに近い小さなモーションから、出来るだけ鋭く――

「ギャン!」
 肩の辺りに石つぶてを受けて、狼が鋭い悲鳴を上げる。怯んだそいつは包囲の円のやや外側へ後退したが、残りの個体は相変わらずこちらをうかがっていた。

(さすがに、このくらいでは退散してくれないか)
 知らず知らず自分が顎を強く噛み締めているのに気づく。

 コートは着たままのほうがいい、そう思った。分厚い毛織の丈長なコートは、ナイフなどに対して十分に防具として機能するからだ。
 次の投石のために中腰で屈みこんだとき、群れのうち一頭がそれまでよりも大きく尻上がりの唸り声を上げ、突進してきた。

「グァルルルルゥワウガウ!」

 飛び退って避けようとしたが、正直言って俺の体は大学卒業以来鈍ってしまっている。回避が間に合わずジーンズの左裾に食いつかれた。直接ダメージはなかったが、足を強く引っ張られて体勢を崩されそうになった。痩せた体の割りにものすごい力だ。

(やっべえ! 次にもう一頭に絡まれたら引き倒されて終わるぞ!)) 

 左腕で狙いにくかったが、火のついたままの焚き木を狼の頭に振り下ろす。火の粉が目にでも入ってくれれば、と思ったが命中したのは鼻先だった。落胆しかけるが、狼はものすごい悲鳴を上げて俺の足を離した。

(そういえば、犬って確か視覚にはあんまり頼ってないんだっけ)

 彼らの知覚はむしろ鼻が主軸だったはずだ。神経が集中して敏感なのに違いない。人間で言うと足の小指をタンスの角に強打したとか、そんな所だろうか。

 俺を強敵と認識したのか、群れは一旦森へ退いた。緊張が切れてへたり込みそうになるが、前方の暗がりの中にはまだ、光る目がこちらを伺っているのが見える。

「クッソ、こっちがへばるまで待とうってわけか」

 時折二頭ほどがちらちらと、空き地との境界に姿を現しては消える。
 俺は焚き火のそばに下がってしばしの休息をとった。気づかないうちに滝のように汗をかいていたのを初めて意識した。フリーダのほうは小刻みに肩を震わせていた。恐怖か寒さか。両方だろう。うずくまる羊をすがるように抱き、体温を分け合っている。

 フリーダは意を決したように腰に手をやり、片刃の鋭いナイフを手に取った。彼女の身体に対比するとかなり大ぶりのものだ。
「トール……」呼びかけながらそのナイフを俺に差し出した。

 意図するところは大体わかる。俺に狼を仕留めてほしいのに違いない。

 だけど。そのレンジの武器を使うということは近接格闘戦だ。そんな訓練は間違っても受けてないし、噛まれるリスクも飛躍的に増大する。
 一対一ならともかく囲まれて袋叩きよろしく噛み裂かれる状況は、俺の手に余る。いや誰の手にだって余るだろう。

 それでも万が一の瞬間に、石ころや枯れ枝しかないよりはいい。俺はしぶしぶそのナイフを受け取り、柄の握り具合を試した。滑り止めを兼ねて、独特の幅広な紐状の模様が彫刻されている。手にしっくり来る仕上げだ。刃渡りは40cm弱。ちょっと心強い気分になる。
 バカな、錯覚に決まってるじゃないか。中二病もほどほどにしろ、こんな物をもったからといって、積極的に野生の狼と戦おうなどと考えられるものか。

 地道に石を拾って次の襲撃に備える。こちらが疲れを見せたら必ずまた襲ってくるはずだ。火のそばを離れると危険なのであまり遠くへはいけない。この辺りの石を投げつくすようなことになったら、どうすればいいのか。 
 どれくらい経ったのか、ふと時間の感覚がおかしくなった。数分か、あるいは数十分か? 焚き火に目をやると、枯れ枝の大部分が燃え落ちて白っぽい灰と消し炭になりかけていた。火はまだ辛うじて燃えている。狼のほうばかり気にして焚火を忘れていた。

 振り向いてフリーダをうかがうと、彼女は羊を抱いたまま眠っていた。疲労が限界に達したのだろう。可哀想に、彼女にとっては散々な一日だったに違いない。しかも、まだ終わっていないのだ。

 予備に取っておいた枯れ枝を焚き火に補充するが、元の量の半分程度しかない。これまで燃やしていたほどの火は望めないし朝までは持たないだろう。これはいよいよ後がない。
 そして静まり返った森から一頭、また一頭。再び狼たちが姿を現した。忌々しいほどにこちらにとっていやなタイミングをついてくる。

「フリーダ!起きろ!」
 通じないとは知りつつ日本語で叫んだ。名前に反応して彼女が顔を起こす。どうやら状況を飲み込んだらしい。俺は焚火にコンビニ袋を放り込んだ。プラスチックが燃える異臭を感じて、警戒した狼たちがやたらに吼えはじめた。
 焚き火から彼女が燃えさしを一本取り、俺もとっくに消えた先ほどの枝に替えて、もう一本を掴む。右手にはフリーダに託されたナイフ。やるしかないならやってやる。

「イ゛ヤ゛アアアアアアアアアアアアアアアアアアアァ!」

 バンド全盛期のライブさながらに声を張り上げて叫んだ。アドレナリンがどっと噴出する、などという感覚が体感できるわけもないが、腹はいくらか据わった。
 人間の咆哮に応じて、狼たちもいよいよ殺気立って吼え猛る。包囲の輪をぐっと縮め、こっちの死角をとろうとぐるぐる廻りだした。

 その喧騒の中、山側からの風に乗って人の声が聞こえた。かすかに油の焦げる匂いも漂ってくる。ざわめきは次第に大きくなり、やがて二つの名前を交互に呼ばわる叫び声に変わった。

 フリーダァ……!
 トール……!

(俺たちを、呼んでる……)
 まだ遠くおぼろげだが、確かにそれは俺たちを呼んでいる――ホルガーたちだ! ようやく異常を察知して捜索に出てくれたに違いない。なぜか目に涙があふれた。

 そうだ、こんなダメ人間の俺を、彼らはフリーダと同様に名前を呼んで探してくれている。
 ならもう一度だ! 船が村に着いたときの船員の歓声を思い出し、肺の空気すべてを吐き出す勢いで叫んだ。
「アアアアアンッスヘエエーーーーーインムッ!」
 崖の上、遠くからまた雄たけびがそれに答えた。彼らのたいまつが上げる煙の匂いが強くなる。魚油特有の油臭さ。

 突如、狼たちが俺めがけて殺到した。なぜそんなことが起きたのかはよく解らない。長い飢えのために群れの命令系統が崩壊したのかもしれないが、この時俺には考える余裕などなかった。

 一頭をはかわした。だがもう一頭が俺の喉を狙って跳躍。俺は左腕をあげてガードしようとした。鋭い牙がコートを貫いて皮膚と肉に食い込み、体勢が崩れた俺は危うく焚き火に頭を突っ込みかける。フリーダが悲鳴を上げた。

 熱い――いや痛い。ナイフを狼の首につきたてようとしたが、転倒の際に手放してしまったらしい。必死に身体を起こし、いや転がり、獣の頭を左腕もろとも焚き火にねじ込んだ。狼がけたたましい悲鳴を上げる。

 さらに別の一頭がこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。

(ああ、こりゃ終わったな……)
 喉を噛み裂かれる自分の姿がありありと目に浮かぶ。

 だが次の瞬間、その狼はなにかに跳ね飛ばされたように視界からかき消えた。温かい飛沫が顔にかかり、一瞬遅れて奇妙なラインで両断された獣の身体が目の前に降ってきた。

 長く伸ばした金髪に飾られた、がっしりした広い肩と背中が視界を埋め尽くす。その手には血糊で汚れた幅広の長大な剣――ホルガーが間一髪、狼を斬って捨てたのだ。

 周りには男たちが崖を伝い降りて来ているらしかった。どすどすと重い足音が響き、犬そのままの鳴き声と、剣尖の立てる風音が交差する。肉と毛の焼ける嫌なにおいが立ち込め、やがて腕に食い込む顎の力が緩んだ。 

 短い乱戦のあと、狼は五頭分の死骸を残して森の奥へと逃れたようだった。フリーダが身体の前に燃える枝を掲げた姿勢のまま、顔をべとべとにして泣きじゃくっていた。
 狼の不潔な歯牙で噛まれた腕がじんじんと痛む――たぶん運がよくても何日か寝込むことになるだろう。だが俺は、そろそろ許容量をオーバーしてぼんやりしはじめた頭の片隅で、全然別のことを考えていた。

(……言葉、習わなきゃな)

 現代日本から遥かな時と距離を隔てた、この異郷で生きていくには、まず彼らと意思疎通出来なければどうにもならない。俺はもう逃げられないのだ――憧れ夢見た、このヴァイキングたちの世界から。
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