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ペヴリル・ポイントの挽歌

        * * * * * * *



 夕方から降り始めた雨はここ、ダルウッド近郊の街道沿いにも降りしきっていた。道は酷くぬかるみ、疲れから最後尾に落ちていた一頭の馬が足をくじいて倒れ、乗り手が軽い捻挫を負っている。

 アルフレッドは急場の宿を借りた民家の片隅で、座ったベンチの座面を拳で殴りつけた。このところ発作は起きていない。それはいい。

 少数で出発したのが逆に幸いして、部隊の兵たちはどうにか数人ずつに分散し近隣の民家に雨風をしのぐ場所を得ている。それもありがたいと感謝すべきことだ。

 だが行軍は完全に止まっている。エクセターに入る前にグソルムの軍を捕捉することはおろか、エクス川河口で鎖蛇号と会合できるかどうかすら危うい。


(もっとも、鎖蛇号が無事である保証もないか……この嵐では)


「陛下、お食事です。貧しい村のようで、上等なものとはいえませんが」

 ウィリアムが盆を運んできた。硬くなりかけたパンにチーズ、ありあわせの野菜のスープ。こんなものでもこの農家の蓄えをずいぶんと圧迫したことだろう。

「私への気遣いは嬉しいですが、手に入るものに不平を言うものではありません。今のうちに英気を養っておきましょう……嵐が収まったらすぐに発たねば」

「過ぎたことを申しました。楽師殿たちがうまくやってくださって居ればよいですが……」

 ウィリアムの言葉に、アルフレッドはフィンの楽師を思い出して嘆息した。ウェアハムの防壁に向けて叩きつけられたあの歌は、まるで聖書にあるジェリコのラッパのようだった。

「彼の歌を、嘘に貶めることは出来ないですね……」

「と、仰せられますと?」

「主があの場に立たれたら、きっと同様の歌をお歌いになったことでしょう。手を取り合え、分かち合え、と呼びかける――キリストの教えを奉ずるものとして、我々はあの歌に縛られざるを得ない」

 あの楽師が歌っていたことはアルフレッドの理想と同じものだ。彼の立場で解釈するならば、それは「その意志がある全ての人間を臣民として受け入れよ」ということなのだ。いや、むしろ敵対せんとする者でさえも。

 いずれにせよ、エクセターに入るまでに異教徒たちに追いつけなければ、おそらくは再び和議を結ぶしかない。だが、既にひとたび裏切って無慈悲な殺人を行った彼らを、どのように心服させればよいのか。どのように自らと民の怒り、恨みを解けばよいのか。


(姉上……せめて、無事でいてください)

 焦燥の中、パンをかじりスープを飲み下す王の胸のうちには、次第にその思惟だけが膨れ上がっていった。



        * * * * * * *



 耳の穴から頭蓋骨の内側まで水が浸入したような、そんな錯覚を覚える。鎖蛇号は積荷を満載したその船体を、自重で砂の上にずっしりとめり込ませ、打ち寄せる高波にさらわれずにどうにか耐え続けていた。

 だが絶え間なく吹きつけ打ち掛かる雨は俺たちの体温を奪い、口を利く気力さえも奪っていく。

 ふと、俺の左胸に頭を預けて震えていたイレーネが、身じろぎをしたように感じた。次に閃光が雲の中にほとばしったとき、その明かりの中で彼女はしっかりと顔をあげて、俺の眼の奥を覗き込んでいた。

「トール、何か歌ってくれ」

 ああ、馬上では凛として力強く美しく見えた彼女が、今は何と弱々しく見えることか。栗色の髪はほつれて濡れた額にかかり、そこからしたたる水滴は涙よりも冷たく苦く頬を伝い落ちているではないか。


「今は無理だ……この雨の中、コメットを皮袋から出したら、にかわが溶けてばらばらになってしまう」

 ウードの胴には一本の釘も使われていない。それはただ、精緻に切り出された木片を組み合わせ、魚の浮き袋や家畜の骨などからとったゼラチンで、貼り合わせてあるだけなのだ。 

「伴奏はいい。君の歌を聞きたいんだ」

 あるいはこの弱々しさは、お互いを預けあう存在がいるからなのか? ならば彼女の強さを担保し補完すべきは、俺なのか。

「ああ、歌うさ。歌うとも――」


 震えて止まらないイレーネの肩を抱きしめたまま、荒ぶり吼える空を無言で見上げた。

 雷鳴が轟き、波の音が途切れなく響く。

 中学生くらいの頃、芸能界で大人気だったメタルバンドのドラマーが、(東洋の)雷神が背負う太鼓を模したドラムセットをステージに持ち込んでいたことを、ふと連想した。


 口元が緩む。何だ、楽器はあるじゃないか。俺が弾くわけにはいかないが、雷鳴はドラムのフィルイン、波の音は少々荒っぽいがブラシで持続音を響かせるスネア――あるいはストリングスキーボードが鳴らす白玉(全音符)だ。そう思えばいい。


 心頭滅却すれば火もまた涼し、一心に弥陀に帰命すれば悪人もおのずと成仏するなり。心の持ちよう一つで生きることの意味は変わる。気づきさえすれば世界は音楽で満ちているのだ。


「よし、演るぜ! 皆も歌えよ、暖まるぞ!」

 喉から最初のフレーズが滑りだす。猛々しく盛り上がってはなだれ落ち波飛沫を上げる海が、俺の心の中でアリーナを埋め尽くす聴衆の幻影と重なった。


「雷よ!……閃光よ!」

 何事かと集まる視線。

 一瞬の後、事態を理解すると、男たちは拳を突き上げる動作を繰り返して、俺の歌が漕ぎ出すのを待ち受けた。




 狂える空、砕ける海!


 吹き荒れる夜の嵐!



 雷よ! 閃光よ!


 ほんの一瞬でも、照らしてくれ


 この雨と闇に閉ざされた世界を



 愛する者の顔を


 盾を並べ戦う友の背を


 見失なうことがないように!



 ……船はユトランドを過ぎフリースラントを越え


 アルビオンの断崖を間近に見上げて駆け巡った


 約束の地の宝は夢路にも明らかに輝くが


 現実の旅路は絶え間なく波濤に揺れ動く


 指の間を滑り落ちる 時の砂粒を前にためらうな


 しがみつき抱き止めた物だけが 最後に手に残る



 狂える空、砕ける海!


 吹き荒れる夜の嵐!



 俺を癒し力づけるのはお前の白い腕


 風を掴み波を越える我らの真白き帆――



 声を張り上げたことによる心拍数の増加と、末梢血管の拡張のおかげで、少しだけ指先に温もりが戻ったようだった。皆の頬にも赤みが増したように見える。だがそれは決して長く続くものではない。一刻も早い夜明けを待ち望みながら、俺たちは風雨を衝いて歌い続けた。



 ……旅はボルガ川を抜けゴドランドを廻り


 地の果ての富が集まる町へ向かった


 幾つもの運命が交差しまた別れていくが


 真実と呼ぶに足る巡り会いが我らを明日に繋ぐ



 雷よ! 閃光よ――



 いつしか雲が切れ、東の空に茜色の輝きが宿っていた。朝だ。嵐は収まり、疲れ果てた俺たちの体の上に穏やかな風が吹いている。

 誰かのくしゃみが響いた。

「やれやれ、どうにかやり過ごしたか。皆、起きろ! 蜂蜜酒で体を温め、マストを立てるぞ」

 ホルガーが声を励まして皆を目覚めさせ、か細い歓声とともに角杯が廻された。喉を通り過ぎる甘味とアルコールの刺激。それは水平線に弱々しく姿を現した太陽そのものを飲み込んだように、俺たちの体を温めた。やがてささやかな酔いが腹の底から頭と手足にまわって行く。

 それと重なるように太陽は次第に東の空を這い登り、やがて強風で一切の汚れや垢を吹き払われた世界に、金色の光の矢を投げかけた。

 海はまだ幾分、波が荒く騒々しい様子に見えたが、船を出すには支障がなさそうだ。酒で潤った喉に保存食の燻製やパンをむりやり押し込んで、俺たちは骨の折れる作業をばたばたと片付けた。

「おはよう、トール」

 イレーネがすっかり元気を取り戻した顔で、まだ湿ったままの髪を風にさらしている。波打つ栗色の上に滴る陽光が反射し、黒鉄の地に象嵌された純金のように輝くその様に、俺はしばし返事も忘れて見とれた。



 船は再び、後の世に言うイギリス海峡に漕ぎ出し、朝風を受けて南へ進んでいた。


 後ろの席にいたスノッリが、俺の肩を叩いて左舷を指さす。見れば5mほど離れた波間に一塊になって漂う、大小取り混ぜた木片があった。

 東京にいた頃TVで見た、津波の引いた後に残された建物の残骸を思い出す。俺は酷くいやな気分になった。

「これは……」

「あれを見ろ、舵板だ。きっと昨夜の嵐で……」

 スノッリがそう言い終わる前に、今度は反対側の舷から、そして船首のほうから、次々に驚きの声が上がった。

「おい、何だこりゃあ!」

「幾らなんでも多すぎる!」

 思わず、櫂走中であることを半ば忘れて、首を思い切り廻して進行方向を覗き込んだ。


 ずっと嵐の余波で皺立っていた海が、ここではべったりと静まり返って見えた。たまたま突込んだ場所が特にひどかったのだとは思うのだが、海面のいたる所を覆った木片が、厚い毛布のように波を抑え付けていたのだ。ところどころにまだ帆布の切れ端を残したマストや、船首からもぎ取られた竜頭までが浮いている。


 見誤りようもない。昨晩のデーン艦隊の成れの果てだ。ホルガーが焦りを隠せない声で叫んだ。

「漕ぎ方やめぇー! いったん止まれ!」

 鎖蛇号はオールを仕舞い、帆をたたんで停船した。

「また舵を壊されてはたまらん……スノッリ、破片の少ない進路を探してくれ! 手の空いておるものはオールを舷縁から突き出して、大きな破片を遠ざけるのだ」


「ひどい……幾らあの嵐の後でも」

「ああ、まるで地獄だ」

 青ざめた顔で見回すイレーネを、俺は目隠しするように抱きしめた。ちょうどイレーネの顔が向いたその方角に、破船の残骸に取りすがったまま絶命している、金髪の北方人の亡骸があったのだ。

 ヴァイキングは泳ぎは達者なのが普通だ。子供のころから夏場には海で大胆に水遊びをするし潜水や遠泳も普通にこなすのだ。だが、昨晩の風雨の中、海に投げ出されて漂流したとすれば、溺れなくとも低体温症で命を失うことは容易に想像できた。


「一体何があったというんだ。俺たちやデーン人の作る船は、少々の嵐でここまでばらばらになるほど脆くはないはずだぞ」

 アルノルがいぶかしげに口髭を引っ張り、ぎらりと輝く眼差しで、ブライアンを見た。

「お前、何か知らんか?」

 ブライアンは何か言いかけたようだったが、眼前の光景の壮絶さに、その言葉は意味のある音をなさなかった。

「かッ……」


 そうする間に鎖蛇号は木片の渦巻く水域を抜け出し、やや東側からゆっくりと、追い風を受けての帆走に移っていた。行く手にはアースグリムが言っていた通りの、内陸へ向かって大きく凹んだ砂浜が延びる湾が、鋭く突き出た岬の北側に広がっている。

 デーン艦隊が突っ込んで潰滅するだろうとアースグリムが予見したのはその北側の海岸で、そこは俺たちが夜を明かした浜辺からやや南西へ下った場所だ。


 船の針路に黒ずんだ巨大な影が姿を現した。それは昨晩、あの霧の中でみた大戦艦ブッセの一つであるらしかった。船体は途中から折れたように破れ砕けて後ろ半分が失われ、半ばほどで折れたマストがむなしく天を指している。

 その辺りは水深がごく浅いらしく、腰から上を水面に出し、盾にしがみついた形のままうつ伏せに漂う死体がいくつか確認できた。


 船を破壊したものはすぐにわかった。辺りではそこかしこで打ち寄せる波が白く砕け、水面の下に鋭い岩が突き出ていることを示していたのだ。

 ブライアンが辺りを見回し、得心いったように一人うなずいた。

「ここは、ペヴリルの穂先ポイントといいまして……地元の漁師も固く戒めて近づかぬ、難所なのです……この艦隊は昨晩の嵐で押し流され、危険な岩礁地帯に入り込んでしまったのでしょう」


 ぞっとする眺めだ。デーン人たちのたどった運命を想像し俺は背筋が寒くなった。『ペヴリルの穂先』――そこは、喫水の浅いヴァイキング船でさえ生き残ること叶わぬ、悪夢のような場所だったのだ。

 白亜がさらに長い時間堆積して出来た石灰岩、あるいは大理石。日を浴びて美しく輝くそれらの白い岩は、しかし恐ろしげに切り立ちひび割れて、水流に研ぎすまされ、悪意あるものの牙のように波の下で連なっている。

「こいつらがハムワーにでも上陸していたら、アルフレッドは挟撃されていたな」

 ロルフが死体を指差し、暗い顔で言った。


「生存者はまず居るまい……いたところで助けている暇もない。彼らには気の毒だが、我らは先を急ぐとしよう。アルフレッド王が痺れを切らして待っておることだろう」

 ホルガーが冷徹にそう断じた。事実、鎖蛇号の姿を認めて助けを求める声を上げるものは視界の及ぶ限りどこにもいない。


 再び皆が配置につき、鎖蛇号に岬の外側を大きく廻るコースに乗せ始めたとき、マストの上で見張りについていたヨルグが叫んだ。

「船が来るぞ! あれはウェセックスの旗だ!」


 赤い長旗を翻した、カーヴに似た大型の軍船が二隻とクナルが一隻、東から接近してくるところだった。 

 

 ただ無為に海に消えた艦隊と男達。スウォニジの海戦と呼ばれる事件の記録は多くを語らない。そこには刃の閃きも戦いの歌もなく、栄光もなかった。


 この解釈が正しいかどうか、もはや誰にも解りません。とはいえ年代記もアルフレッド大王伝も、この事件については口をつぐんだように記述を控えています。大王伝の著者アッサーにいたっては、海戦の記述そのものを断念したようにさえ見えるのです。


 アルフレッドは勝利を収めたのではなく、ただただ天佑によってデーン人と痛み分けたのではないのか。そうした疑念が、私にこのエピソードを物語に組み込むことを決意させました。

 屈辱的な敗戦や偶然に助けられての引き分け。アルフレッド大王の戦いは、決して英雄的な華やかなものではなく、こうした蹉跌の繰り返しでした。それでもなお、イングランドに平和を戦い取るために彼は歩みを続けたのです――

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