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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~ 作者:冴吹稔

霧の海の120

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霧と船団

 所属陣営を示す旗を意図的に下ろす――戦時国際法の観点からは褒められた行為ではないのだろうが、この時代にそんなものはない。むしろ時代性を考えれば莫迦正直に旗を揚げている事こそ愚かだ。
 間近に迫っている大艦隊は、デーン陣営のものである可能性が高いのだ。しかし、一体何故このタイミングでこの場所にあんな艦隊が現れたのか?

 数人がばたばたと揚げ索にとりつき、東風に躍る赤い旗を大急ぎで取り込んだ。そうするうちにも、今や俺の耳にもはっきりと、帆布がばたつく音と大勢のざわめき、追い風を受けて疾走する船の、ざあざあと波を切る音が聞こえてきた。

「すげえ数だぞ……」
 ヴァジがかすれた声で漏らした。
 もはや太陽は霧のカーテンの向こうで人知れず沈み、時折覗く空の晴れ間は薄暗い青だ。
 いくつかの大きな船では甲板にかがり火まで(非常に危険なことだが)点しているようなのだが、その火は霧を通して水平線全体がオレンジ色にぼんやりと明るく輝いて見えるほどに数多い。
 不幸中の幸いと言うべきか、船団が取ったコースは俺たちの現在位置よりも、やや南よりで、鎖蛇号が囲まれることは今のところ避けられていた。

 船団の先頭からやや後方にいる船のシルエットが、その奥のかがり火に照らし出されて、霧の中に放射状に拡がる影を投げかけた。
 その船は僚船のかがり火を追い越して走り、その影はサーチライトよろしく、ただし光ではなく闇を俺たちの方へ投げかける。
「でかい……軍船スケイド、いやもしかすると大戦艦ブッセか」
その船の巨大さに、誰かが密やかなため息とささやきを漏らした。

「多分……デーン人のいま一人の王、ハールブダンの艦隊だ」
アースグリムが自信ありげにそう言った。皆の視線が彼に集中する。
「あの竜頭には見覚えがある。それに――」

 アースグリムは唾を飲み込み、一呼吸ついた。
「ローガランのエイリークが部下を連れて陣営を離れる二日前、俺だけに打ち明けたのだ。ノーサンブリアへ援軍を要請しに行く、と。まさか本当にハールブダンが腰を上げるとはな」
 そういうことか! それで謎が解けた。エイリークがわずかな手勢でクナルを奪い、どこへともなく姿をくらましたのはこのためだったのか。そういえば思い出した。この男は聖堂の周りで警備についていて、エイリークとも親しげに言葉を交わしていたはずだ。

「何故そんな大事なことをもっと早く……」
 ヴァジが憤慨した声を上げたが、アルノルに口をふさがれた。船団の中からスネッケらしき小船が一隻、俺たちの方へ漕ぎ寄せてきたのだ。
「ち、見つかったか?」
 アルノルが渋い顔をした。遠くのかがり火に照らされて、その船の上に黒々とした人影が立ち上がり、こちらへデーン訛りの強いノルド語で呼びかけた。
「おーい、そこの船! どこの者だ?」

 とっさのことに対応に窮した俺たちだったが、アースグリムが決然とした表情で立ち上がった。
「俺に任せろ」
 無茶言うな、と抗議の声が上がったが、そのときには既に、新参の戦士は口に当てた手をメガホン代わりに叫んでいた。
「デーンの衆か? それ以上近づくな! ここは危ないぞ。見えない岩や砂州がいたるところにある、俺達は岩礁に乗り上げて身動きが取れんのだ!」
「助けはいるか? 名を名告なのるがいい」
 スネッケの船上からは意外に親切そうな声がかかった。アースグリムのデーン訛りのせいだろうか。

「俺はリーベのアースグリム! 助けはいらぬ、潮がもう少し満ちれば離礁できるだろう! その進路の先は海岸だが、北へ向かうならいま少し進んでからだ! そちらは何事もなく通れるはずだ」
「アースグリム? 『青い胸』アースグリムか? 礼を言うぞ、エギル神のお慈悲があらんことを!」
「お主らにも、エギル神のお恵みを!」
 スネッケは納得したように船首を返し、船団へ戻っていく。それを見送る俺達はしばらく呆然としていたが、最初にヨルグが我に返ってアースグリムの胸倉を掴んだ。
「おい、どういうつもりだ! 奴らに道案内なんぞ……」
「慌てるな、小僧」
 アースグリムはぴしりと言い放った。
「デンマークからぽっと出てきたグソルムの配下どもならいざ知らず、俺はこの辺りもヴァイキング行で航海したことがある。奴らの進む先は海岸が陸に向かって深く窪んでいるが、その北側は岸壁ばかりよ。大きな岬が突き出していてな」

「じゃあ……」
「霧の中を調子に乗って進んでいれば、戦艦だろうと無事ではすまん」
 アースグリムはびっしりと水滴の降りた顔に、凄みのある笑いを浮べてそう結んだ。
 それきり皆、押し黙ってしまった。艦隊は無限に続くかとも思えたがやがて最後の一隻が通り過ぎ、かがり火の明かりも遠くへ去って滲むように消えた。
「くそ、本当に座礁したような気分だぜ」
 ハーコンが毒づく。

 ふと、ブライアンのほうに視線を向けると、彼はなにやら真剣な面持ちで、視界の悪い闇の奥を見透かすようにして、水平線近くの空を見つめていた。
「ブライアン、どうした? なんだか顔色が良くないが」
「楽師殿……どうも、我らもこのままでは無事にすまないかもしれません」
 妙なことを言い出す。気づけばアルノルも、ブライアンと同じ方角を見ていぶかしげな顔をしていた。
「何かあるのか、二人とも」
「子供の時分、夏に大きな嵐が起きて村の漁師が何人も、行方知れずになったことがありました。ちょうどこのくらいの季節、夕方に酷い霧がでた後でした……そのときの雲に今の空の様子が似て居るので」
「俺もまだ見習いの小僧――今のヨルグより若かった頃、イングランドとフランク王国の間で嵐に出くわした。出航直後ですぐ港に戻ったんで、無事に済んだがな……案外ブライアンの言っているのと同じ嵐だったかも知れん。まあ、南の空にあんな雲がかかるとだ」
 アルノルは、霧のカーテンの上に覆いかぶさるように広がり始めた、黒い雲を指差した。
「大体は酷い嵐が来ると思っていいな」


 避泊地もしくは上陸場所を求めて必死で船を操る俺たちの周りで、いつしか大粒の雨が降り始めた。霧はその間に晴れたが、もはや霧の代わりに叩きつける雨が俺たちの視界を妨げている。
「水を掻い出せ! 積荷を濡らすな!」
 ホルガーが雨音に負けじと吼えた。
 甲板下の狭い船倉に押し込まれた積荷が取り出され、浸入してくる海水から守るため毛皮で覆いをかけられていく。その毛皮の一部には男たちのマントも含まれていた。
「もう少しです! それ、あそこに岩に囲まれた浜が!」
 ブライアンが前方を指差した。閃光が時折閃く空の下、雨に濡れて油を塗ったように光る岩がそびえるその間に、確かに白く浮かび上がる砂浜があった。

「真っ直ぐこぎ寄せても潮流で流されます! 少し西側から回り込まねば!」
「心得た! ホルガー、取り舵だ!」
アルノルの合図に合わせ、ホルガーが両の腕に満身の力を込めて舵柄を操った。水の流れに逆らって、船体が軋みを上げながらぐぐ、ぐっと左舷へ船首を向ける。
「手の空いたものはオールにつけ、積荷は大丈夫だ!」
「従兄者、危ない!」
 隻眼のため距離感が判らず、ロープを掴み損ねて体の支えを失ったハーコンを、グンナルが必死で抱きとめる。
「おお、済まぬ!」


 不意に、船底が何かに当たる鈍く重い感触が伝わってきた。
「岸だ! 助かったぞ!」
「まだ気を抜くには早い! 船を浜に押し上げるのだ!」
 ばらばらと、深いところで膝までの水の中に降り立ち、男たちは足元で渦巻く水に逆らって鎖蛇号を押した。

 どうにか船を斜めに傾けて接地させ、一息つく頃には雨と風は最高潮に達しつつあった。
 時折閃く雷光。なんとなく子供のころからの癖で、雷鳴が耳に届くまでの時間を計る。
(一……二……三……)
 ガラガラと転がるような音。ざっと1kmのはずだ。
 だが次の雷光がフラッシュを焚いたような明るさをあたりにもたらした一瞬の後に、今度は炸裂するような激しい落雷の音がした。近い!
 はっと気がついて再びマストを見上げる。高さ15m近い円材は、付近の岩を見下ろすほどに跳びぬけて高く空に突き出していた。
「こりゃいかん! 雷神はすぐそばだ、マストを倒さないと落雷するぞ!」
「本当か!? そりゃ拙い!」
 皆が大慌てで作業にかかる。

「はて、雷神と同じ名前だけあって、居場所がわかるのか?」
 アースグリムが気味悪そうに俺を見た。
「俺の国ではな、いかづちの力で楽器の音を大きくして、大きな農場いっぱいに響かせるのさ! 俺たち楽師は、折に触れて雷神の加護を願って歌うんだ」
 つくづく俺も出まかせが堂に入ってきたものだ。自分で言ってて可笑しくなる。

 マストを無事に片付けた頃には、もう目も開けていられないほどの雨が横殴りに吹きつけ、俺たちは余った毛皮に身を包み積荷のそばで体を寄せ合って、ただひたすら耐えるしかなかった。


        * * * * * * *


 新しい包帯を煮るためにミルドレッドはテントを出て井戸へ向かった。彼女を含め生き残りの修道女と離反組のデーン人たちは、投降を受け入れられた後、ハムワーの郊外に設けられた宿営地に移動したのだ。
 弱卒ながら彼女を守って奮戦した若いデーン人、スキョルドは今、脱出の際にくじいた足と背中に負った浅い切り傷のためテントの中でうつ伏せになって休んでいる。

(包帯を煮るってのは本当に効果があるんだね……)
 あの不思議な楽師が教えてくれた処置は、修道女達の間で急速に広がっていた。煮沸して日の当たる場所に干した包帯を当てた傷は、そうでないものに比べてずっと経過がいい。
(まるでイエス様の起こしたって言う奇跡みたい。それとも……)埒もない考えが頭に浮かんでミルドレッドはかぶりを振った。
 終末の時代にはキリストと同様に奇跡を起こし、ただしキリストに反する教えを説く偽の救世主、反キリストが現れるという。
 ミルドレッドたちにとっては、殺人と掠奪が横行する今この時代こそが、まさに終末かとも思われた。あの楽師は神と悪魔どちらに属するものなのだろうか。

(……うん、あの人は単にいろいろな事を知ってて、そして残酷な世の中が許せないだけなんだろうね)
 きっとそうだ。だって彼は、ウェアハムに来た最初の日から歌っていたではないか。


 悪魔が笑うこの世の中で 

 泣いてるばかりじゃつまらない――


 そして、門を閉ざしたウェアハムの防壁を前に、あの歌を歌って見せたのだ。生命と、のみならず不足さえも分かち合おうと呼びかける歌を。
「今は終末じゃなくて、始まりなのかもしれない」
 そう呟きながら、ミルドレッドはスキョルドのことを思い出す。朝の鐘を鳴らすときに時々鐘楼の上から返ってきた、少し間延びした声。まさか、あんなに必死になって自分を連れ出してくれるとは。
(エセルスリス様……私もしかすると、もしかするとだけど還俗しちゃうかも)
 旧主に胸のうちで語りかける。

 彼女には、そのエセルスリスからアルフレッド宛に預かった伝言がある。だが状況はいまだ王への拝謁を阻んでいるし、内容的にも、いかに異母弟といえども伝えがたいものだ。
「明日もよい事のある日でありますように……」
 遠い丘の向こうに卵の黄身を落としたようにねっとりと沈んでいく夕日。だが南の空はこのとき既に暗くかげり、彼女の上にもいつしか細かな雨粒が降りかかり始めていた。
 馬蹄の響きがミルドレッドの耳朶を打った。ハムワーの北側を通る街道を馬で駆けてくる、豆粒のような姿がある。
 やがてその姿は次第に大きく膨れ上がり、井戸のほうへと次第に速度を落として近づいてきた。馬上には軽装の兵士が一人。長い距離を駆けて来たと見え、顔に疲労の色が濃い。
 時折鞍から崩れ落ちそうになる体をようよう支え、彼は修道女に請うた。
「修道女様、どうか水を一杯。できうる事ならばこの馬にも……」
 その言葉に目を凝らしてよく見れば馬もつぶれる寸前、口の端には泡が吹き鼻からはうっすらと血が滲んでいる。
「お水ですね、どうぞ」
 ミルドレッドは手にした水桶をそのまま差し出した。
「かたじけない……急ぎの使いで、一刻も早く陛下にお届けせねばと走ってまいりました」
 ああ、とミルドレッドは嘆息した。
「王様はグソルムの軍を追ってハムワーを出立されたんですよ。差し支えなければ聞かせて、一体何が?」
 兵士の目にためらいが浮かんだ。だが一瞬の後、彼は口を開いて急迫した事態を明かした。
「本来なら余人に聞かせる事では無いが、事と次第ではあなた方の命にも関わる……ポータスの口に入港された海軍のウルフェル艦長から、火急の報せです」
 そこまで一気に吐き出すと、彼は差し出された水桶に口をつけ、ぐびぐびと貪り飲んで息を詰まらせかけあえぎながら言葉を継いだ。
「ノーサンブリアに駐留していたデーンの王、ハールブダンの艦隊が海路を西に進んでおります。その数は百隻をゆうに超え、巨大な竜船も複数――」

「なんだって……」
 取り繕った修道女然とした物言いからするりと地金をあらわにし、そう言いさして凍りついたミルドレッドの上に、大粒の雨が落ちた。雲はすっかり頭上を暗く覆い、やがて土砂降りの雨がむき出しの泥道を叩き始める。

(楽師さん……)
 午後遅くハムワーを出航したという、楽師とその仲間の事を案じて、次第に横殴りになる雨の中でミルドレッドは呆然と立ちつくしていた。
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