鎖蛇号、海へ
デーン人たちと修道女達は草原の一角に集められ、傷の手当てを受けた。アルフレッドはまず何をおいても、グソルムたちの行き先を掴もうとした。異母姉であるエセルスリスの安否が判らないのが大きかったのだろう。
生存者たちはデーン人たちのうちでも比較的順位が低く、発言権の弱い者たちだったのだが、勇敢にも少数の修道女たちを虐殺から守って、宵闇の中、森へと逃げ込んだのだった。
グソルムの権威を認め、引き続き上位者として戴くことを肯った者たちはウェアハムを出て北上した後、陸路でエクセターと呼ばれる地へ向かったという。
「エクセターだと……」
アルフレッドの顔色が変わった。
「どういう場所なのだ」
ホルガーが皆を代表して、アルフレッドに問いかけた。
「土地の言葉ではカイルウィスク、とも言います。ローマ時代の城壁が今も残る、ここよりもさらに堅固で肥沃な土地なのですが……そんなところに立て籠もられたら今度こそお手上げだ」
「で、どうする?」
「私はこれから騎馬隊を編成し、デーン軍を追撃します……ついては、あなた達にまた助力を請いたい」
「ふむ?」
「最低限の人員で、糧食などの荷駄も連れぬ強行軍にならざるを得ません。あなた方の船は今日、ハムワーに入る――随行の商船2隻を引き連れて。そこで、その商船に積んだ物資を、エクセターにほど近いエクス川河口まで、輸送していただきたい」
アルフレッドはこれから待つ厳しい状況に思いをはせ、瞳に暗い影を宿しながら答えた。
「お安い御用だ。そこまでは約束の三千ポンドに含めて構わんぞ」
「そういっていただけると助かります」
気前よく追加の依頼を引き受けたホルガーに、王は少し虚無的な笑みを浮べて見せた。
陽光を受けて輝くウェアハム水路に、ハンカチを広げたような帆影が三つ現れたのは、予定通りその日の昼過ぎだった。
アルフレッドは既にえり抜きの騎兵をまとめ、かき集められるだけの馬を集めてエクセターへ向かっている。血気にはやった兵士達に危うくイレーネたちの馬も取り上げられそうになったが、それは流石に王自らが止めた。
馬がつぶれることも覚悟の上、折込済みの強行軍であることはわかっている。そうやってつぶしてしまうには傍目にもあまりに惜しい良馬であったし、なにより俺の私的な関係者でありながらウェセックス陣営に多大な協力をしている、と言うのがものを言ったのだった。
「馬に変わりはないのに。あの子達はみすみす乗りつぶされてしまうのか」
集められた馬が可哀想だと、イレーネは少し涙目で隊列を見送った。
川の流れが運んだ土砂が堆積して作り出した、長く平板な海岸線へ向けて、鎖蛇号を先頭に三隻の船が近づいてくる。北から見守る俺たちからは、その帆は次第に陰になって黒ずんだものになった。
マストの先端には、ウェセックス王国の旗が遠目にも赤く掲げられ、黄色い飛竜の姿が勇ましく躍っている。小ぶりなカーヴ船ながら竜頭を舳先に飾った鎖蛇号には、その旗が妙に似合って見えた。
「見ろ、我らが待ち望んだ鎖蛇号だ!」
誰かが叫んだ。俺にとっても、フリースラントで置き去りにされてからそろそろ1ヵ月半以上になる。途中サウサンプトンで一度乗船しはしたが、これからまた自分たちの手で海に出すと思えば感慨は尽きない。
「ヤンの丸い船やボールドウィンのクナル、色々な船に乗ったがやはり鎖蛇号が一番だな!」
歓声が渦巻く中、船は静かに砂浜に接した。鎖蛇号を指揮してきた士官が目を白黒させるのを尻目に、俺たちは船から降りてきた兵士たちをだれかれ構わず抱きしめ、髭むさいキスを彼らの頬に見舞った。皆少々テンションがおかしい。
やがてアルフレッドの残した命令が伝えられ、クナルの積荷のうちから糧食や束ねられた大量の矢、貴重な医薬品といった品が取り分けられて鎖蛇号に積み込まれ始めた頃、一人の見慣れぬ男が海岸にやってきた。
「おお、こいつはいい波の馬だな! 名前は何と言うのだ」
表を真っ白くただ塗りつぶした中心に、大青で胸元あらわな女の姿を描き込んだ盾を肩から吊るしたその男は、マストの上のほうを見上げながらそう叫んだ。
「こいつは鎖蛇号だ。あんたは誰だ?」
ヴァジがいぶかしげな視線を男に向ける。その男のユトランドなまりに俺は聞き覚えがあった。
「あんた、確か……」
「おお、覚えててくれたか。楽師のトールとか言ったな。俺はあんたとあと二人の兵士に捕虜にされた、アースグリムだ」
思い出した。「よく働きそうだ」とブライアンが評していたあいつ。ウィリアムの腹を剣先でちょっと傷つけた男だ。
「デーン人が何故ここに……」
あちこちからざわめきが上がった。アースグリムはその声を手振りで制するようなジェスチャーをすると、俺に顔を向けた。
「俺はこのところずっとグソルムに仕えてたが、どうも今回ばかりは愛想が尽きてな。定住したがるかと思えば、配下の首領たちに突き上げを食らって仲間割れだ。挙句の果てには進軍の足手まといになるからと、皆に分け隔てなく親身にしてくれた女どもまで殺させやがる」
ああ、やはりそんないきさつだったのか。どうやらあの夜、防壁の中では大体想像通りのことが起きていたのだ。
「だからな、これからはひとつ、あんた方についてみようと思う。捕虜になってる間の飯はなかなか美味かったしな。あんたの歌が本当なら、それと、あの王様の口上が本当なら」
彼は一息ついて俺達を見回した。
「俺だってもう少しいい目が見られるんじゃないかと思うんだ。どうだろう、俺も連れて行ってくれんか」
アースグリムはすらりと剣を抜いて、頭上高く掲げた。
「俺の名はアースグリム! ヘルゲの息子、『青い胸』アースグリムだ。このあいだは不覚を取ったが、武勇には自信があるぞ」
困惑のざわめきはさらに高まったが、ホルガーが人垣の前面に出て男達を一喝した。
「静かにしろ! こやつの扱いは俺が決める」
潮が引くように辺りが静まると、ホルガーはさらに一歩前に出て、アースグリムを見据えた。
アースグリムは悪びれる様子もなく、わずかに紅潮した頬に食い込むように唇を引き結び、琥珀色の瞳を見開いている。
彼が剣を掲げた手を下ろし、その打ち物を鞘に収めた瞬間、今度はホルガーがスルズモルズを鞘音高く抜き放った。
(まさか、斬るつもりなのか?)
ぞっとする光景の予感に目をそむける暇もなく、ホルガーはアースグリムの間近まで踏み込んで巨剣を振り下ろす。誰かが息を呑む声が聞こえた。
ぱちん、と剣が鞘に納まった音。砂の上には一滴の血もなく、アースグリムは同じ姿勢と表情のまま突っ立ったままだ。一瞬遅れてその口元から、ひゅうっという音とともに息が吐き出された。
潮焼けしたやや彫りの浅い顔がくしゃっと崩れ、薄い色の口髭の間から笑みが漏れる。
「へへっ」
同じ色の髪をくしゃくしゃと手でかき上げ、広めの額が風に吹かれる。その表情はどこか子供めいてさえ見えた。
「ふふっ」
ホルガーもつられたように笑い声をもらした。やがて双方から野太い哄笑があがる。
「よかろう、アースグリムとやら。その腕、『膝砕き』ホルガーが買おうではないか」
「ああ、よろしく頼む」
そういうことか、とようやく納得がいった。ホルガーはアースグリムの胆力を試すため、顔の前すれすれの距離でスルズモルズを唸らせたのだ。
作業に加わるために船のほうへ歩いていくデーン戦士を見送ったあと、俺はホルガーを振り返った。
「良かったのか? あいつはデーン人だし、見方によっては利のために主君を変えるような男ともいえるが」
「はッ、何を言うトール。あの男はお主と同じではないか。元いた場所で思うに任せず不遇をかこち、目の前の突飛な機会に飛び込んだ、と言うことなのだろう?」
「あっ……」
虚を突かれて俺はしばし硬直した。いわれてみればその通りだ。アースグリムの立場は、本質にまで分解してしまえば、およそ一年足らず前の俺とそっくりではないか。
やれやれ。どうやらこのところ、皆に重要メンバーと認められたり、イレーネと懇ろになったりしているうちに、俺はこの時代に来た頃の気持ちを忘れかけていたらしい。あんな歌を作っていながらこれだ。
無論、あのままでいるのが良かったというわけではない。俺の立場は幾分変わったし、それならその立場にふさわしい物の見方、考え方が必要だ。
だが、他人の中にかつての自分を見出すだけの共感力が失われていたら、それは余り褒められることではないだろう。
「……それなら、あいつのために一言口添えをしよう。あいつは……一度に三人相手にして、なおかつ打ち込んだ剣をウィリアムの盾にくわえ込まれても、怪我一つせずに済ませた男だ。つまり自分の一つ前の手に執着がないんだろうな」
「そうか。そいつは戦士としては大事な資質だな」
ホルガーは満足そうにうなずいた。
積み替え作業は順調に進んだ。やがてひたひたと満ちてくる潮が船を砂浜から浮かび上がらせるころ、俺達は船に乗り込んだ。シグルズの抜けた穴は新参のアースグリムが埋めることになった。
「砂浜を押して出さずにすむのは、ありがたいな」
そんな声が上がる。最小限度の補給物資とは言っても、数にして人馬百騎をゆうに超える部隊をまかなうものだ。船に乗せた状態で押し出すのは骨が折れる。
午後遅く、鎖蛇号はハムワーの海岸を後にした。陽光にあぶられたカーヴの舷縁や甲板はまだ心地よい熱を帯びていて、傾き初めた日差しの下、座席についた俺達を温めてくれたのだが、ウェアハム水路を抜けるあたりで風がやや強く吹き始めた。
先ほどまで船材に残っていた陽光の名残は掻き消え、熱は急速に失われて船の上はひどく肌寒い場所に変わってしまった。
「ううむ、莫迦に寒くなったぞ」
「やはりこの夏はどうも、このあたりの天候が妙だな」
臨時の水先案内として乗り組んだブライアンが、曇り始めた空を窺った。彼は漁師だった頃に何度かエクセターの近くまで船を出したことがあるため、アルノルの補佐を買って出たのだ。
風は次第に東へ廻り、船はその速度を落とした。
「こんなところで進みあぐねているわけにはいかんな。ようし、お前達、少しばかり気張るとするか!」
ホルガーが威勢良く叫び、皆にしばしの労働を覚悟させた。
舷側のオール穴からキャップが取り除かれ、ほぼ全員がオールについて櫂走の体勢に移る。つい先日までウィリアムに貸し出されていた太鼓が、いまは船首近くに据え付けられ、隻眼になったハーコンが憤懣をぶつけるようにリズムを取っていた。
「そぉれ、漕げや! やぁれ、漕げや!」
背後から太鼓の音と共に飛んでくる調子あわせの号令に従って、男たちはオールを漕ぎ続けた。フォカスもオールの一本についている。
イレーネは舵柄を握るホルガーからやや前方に、視線を妨げないように立って、以前大山羊号の航海でフリーダたちがそうしていたように、その存在だけで皆を鼓舞していた。
海岸線に沿って南下を開始し、櫂走の必要がなくなったあたりで、船の周りの視界が次第に霞んできたのに男たちは気づいた。服にも髭にも、船材、ロープに至るまで、細かな水滴がびっしりと群がった。
「や、こりゃあいかん。霧が出てきたぞ」
誰かが不安そうにぼやいた。ホルガーが口髭の奥で「むう」と唸る。こんなとき頼りになるはずの太陽石は、先日のワイン酢のおかげで溶け去ってしまっているのだ。
「仕方がない。せっかくの風だがそろそろ日も暮れる。帆を畳んでやり過ごすか」
「それが良いでしょう。この辺りまでならまだ、船を引き上げられる砂浜がありますが、もう少し先は岸壁ばかりですから」
アルノルとブライアンが、そんな会話を交わす。
「よし、面舵――」
その時だった。
「皆、静かに! 今妙な音がした」
スノッリが声量を絞った小さな叫びを上げた。
「またか」
「スノッリの耳と眼は鋭いことこの上ないな」
狩人は眼を閉じて一心に周囲の物音に集中しているようだった。東から吹く風は次第に強まり、彼は耳に手を当ててマイクで言うところのポップノイズ(息や風が吹き込んで立てる雑音)を遮断しなければならなかった。
幾ばくかの間を置いて、彼はくわっと眼を見開いて皆に告げた。
「帆布がばたつく音と…舳先が水を切る音だ。船がいる。それも一隻や二隻じゃないぞ……とんでもない数だ!」
「何だと?!」
船に緊張が走る。東から来るたくさんの船。いやな予感しかしない。
ふと見上げたマストの上にウェセックスの赤い旗を見つけ、俺ははっと気がついて叫んだ。
「あの旗を降ろせ!」
いよいよイングランド編も終わりに近づきました。アングロサクソン年代記にほんの数行記された、「スウォニジの海戦」を描きます。謎めいた部分の多いこの事件、どう解釈するかは以前に割烹でも記したとおりずいぶん頭を悩ませましたが……