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三流スパイのためのハンドブック

 どこかで飼われているらしい牛の鳴き声が聞こえる。夕暮れの桃色に染まった空に、背の低い家屋がくろぐろとしたシルエットになって浮かび上がった。魚を焼くような物の焦げる匂いに、男たちのわめき声。

 金属を打ち据える槌の音が時折鋭く響く。無気味なほどスムーズに、デーン人たちはこの要塞地を我が物として使いこなしはじめているのだった。イングランド東部の占領地でもきっとこんな具合なのだろう。


 居住区画へ向かう途中、路地に立っていた修道女の一人がこちらへ手招きをした。

「あ、ごめん。ちょっと待っててね」

 黄色い修道女は小走りに俺の元を離れ、同輩の修道女たちと何事かささやき交わす様子だった。 

 そうして戻ってきた彼女としばらく歩いた後、隠者の庵を並べたような居住区の、比較的大き目の一棟へ俺は案内された。

「ふう、お疲れ様。あなたカッコいいね。グソルムがあんなに髭ひきむしって悔しがってるの、ここ十日で始めて見たわ」

 そう言いながら彼女は小さなかまどに火をおこし、質素なたまねぎのスープを温めにかかる。

「これ、半分貰っても構わないのよね? 助かったわ。他の子と違って私は昨夜も食事抜きだったから」

 盆に載せられた食事を指差して苦笑して見せた。


「ああ、そりゃ勿論。そういう事情なら好きなだけ取ればいい。その代わり――」

 彼女は少し眉をひそめながらこちらの言葉をさえぎった。

「……仕方ないわね。おおっぴらにはそういう名目でご同道したんだし」

 おっと。なにやらずいぶんな誤解を受けているらしい。

「待て。俺にはねやでの奉仕は必要ないぞ。そういうんじゃなくて……」


 そこまで口にして、俺ははたと困った。この修道女から色々と情報を聞き出したいのだが、彼女をどこまで信用してよいものだろうか。そのことに思い当たったのだ。

 グソルムの私的な食事に同席して歌っていたということは、それなりに信用を得ている可能性がある。少なくとも、出した食い物が不味くても殺されるわけではないらしい。


 修道女たちに救援が来ていることを知らせようと熱唱したのだったが、はやまったか?


「とりあえず、名前を教えてくれ。『修道女シスター』とか『thou』とかじゃ話しづらい」

 微妙に拙い展開へ転がってる気がしないでもなかったが、もう引き返せない。

「まず先に名告ろう。俺はトール、楽師だ。ノルウェーから来た」

「へえ? ……ああ、もしかしてやっぱり、昼間変な歌を歌ってたっていうのは」

「変な歌って言うな」

 俺はつい、ぼろを出していた。歌をくさされるのはひどく傷つく。メロディもクソもない北方人の武勲詩や哀歌、単旋律単声部の聖歌しか未だ知らないこの時代のヨーロッパ人にとって、俺の歌うものが珍妙に聞こえるのは仕方ないとしてもだ。

 不意に修道女は真顔になって俺を見据え、合掌させるような形に俺の手を掴んで引き寄せた。

「ミルドレッド……私の名前はミルドレッドよ。ねえ、答えて。本当に誰かが救援に来てるって言うの?」

 どうやら防壁近くで作業をしていた修道女が、俺たちの歌を聞いていたらしい。歌にこめた意図もほぼ正確に伝わったようだ。それならば後は――

「あの歌のことなら、好きなように解釈するといい」

 俺の言葉に隠された冷たさに、ミルドレッドは鋭く気づいたようだった。

「……信じてくれて大丈夫なのよ。私は院長の――エセルスリス様の侍女なの」

「院長?」

「この修道院の最高責任者よ。王様の姉君に当たる方」

「なるほど」

 そこまで言われたら信じてもいいかも知れない。だが決め手がない。互いの間に下りた長い沈黙に、ミルドレッドはため息をついた。

「用心深いのねぇ」

「さっきまでは迂闊だったよ。ところで、スープが温まったようだぞ」

「うん……」


 ミルドレッドは確かに良く食べた。持ち込んだ食事のほとんどを平らげた。一方で俺はパンを一切れとあとはエールで済ませた。グソルムの前で歌う合間に食った、繊維質の多い粥がもたれていたし、とにかく声の出しすぎで喉が痛い。


「あなたがウェアハムを救援に来た何者か――おそらくはウェセックス軍の、一員か協力者だと見立てた上で話すわ。別にあいづちとかはいらないから、聞いててね」

 おっと。ミルドレッドは大胆な賭けに出たらしい。とはいえ思惑が外れたところで彼女には失うものは余りない。

「デーン人は千人とちょっといるわ。鍛冶屋がいて、古い釘や鋤を武器に作り直したり傷んだ武器を修理したりしてる。陸路で来たらしくて近くに船は見当たらない。仲間の修道女で無茶な乱暴をされたり殺されたりした子はまだいないわ。むしろ、気味が悪いくらい大事にされてるのよ。ただ、男たちの一部には不満が募ってるみたいで、昨日の夕方には近くの農村からさらわれてきた女の子がいたって」


 なるほど、あの時俺たちが見た娘か。ミルドレッドはそれ以上言葉にしなかったのだが、その子はさだめし酷い目にあったに違いない。喉元に酸っぱいものがこみ上げた。あの場では身を潜めてやり過ごすしかなかったのだが、実にいやな気分だ。 

「もし必要なら、だが……傷の手当てをするのに使う布は、沸騰した湯で煮てやるといい。土や古い衣類についた病毒を清められる。痛みにはヤナギの樹皮や葉を煎じたものが効くよ」

「初めて聞いたわね、そんなやり方」

「ギリシャの知恵さ……それはそうと、迂闊に寝入ってしまうわけにもいかなそうだな」

「呆れた、まだ信じてないの」

「君を信用したとしても、外にいる奴が小屋ごと燃やすかも知れん……悪いが朝まで付き合ってもらうぜ」

 一瞬びくりと身を硬くしたミルドレッドから目をそらし、俺はウードを抱えて爪弾き始めた。

「そっち、ね」

 ふ、と鼻息を一つ吹きだして、彼女は緊張が解けた表情になった。

「大概でその方向からは離れてくれ。俺はついこの間、好きな娘と結ばれたばかりなんだ。わき見をする気にはならんよ」

「あらあら。羨ましいこと」




 羊飼いの 可愛い娘よ


 波打つ髪と 輝く瞳


 こぼれる笑顔は花のよう



 おいらは寂しい歌うたい


 竪琴片手に 街から村へ


 落ち着く場所などありはせぬ


 ラリリ・ララ・リラリ


 ラリラディラ・ヒラディ



 ああいっそ竪琴投げ捨てて


 羊を追って暮らせれば――




「あなた自身は、楽器だけは死んでも手放すものかって顔をしてるわね」

 即興で歌った田園詩パストラルに、ミルドレッドはそれなりに感心した風だったが、一言鋭く、俺に指摘した。

「その……恋人さんとだと、どちらを選ぶのかしら?」

 恐ろしいことを言う。そんな選択をする機会が来ないことを祈るばかりだが、俺は虚勢を張って答えた。

「そのときは彼女を選べる自分であれたらいいな、と思うよ」

 修道女は疑わしげに笑いながら、俺を見つめていた。

 

 喉をかばって小さな声で歌ったが、結局俺は一晩起きたまま過ごした。ミルドレッドにしてみれば、眠れないという点では大差なかったかもしれない。

 ようやく朝が来た。日の出前の薄青い明かりの中で、俺たちはどうにか無事にウェアハムの西門で集合していた。流石に誰も眠らなかったらしく、四人とも充血した目をしぱしぱさせている。

 俺たちと修道女以外には、数人のデーン人たちが面倒くさそうに門番を勤めているばかりだった。

「ずいぶん早くから発つのだな。まるで逃げるようだ」

「おおかた、役に立たなかったんだろうさ」

 どっと嘲笑が浴びせられる。ミルドレッドの浮べる陽気な苦笑いも、彼らの野卑な想像を膨らませるのに一役買っているようだ。

 無言で手を振る修道女たちを背に、俺たちは次第に明ける空の下を、野営地へとひっそり歩いて戻った。



 千人のデーン人。不足気味の食糧。技術者込みの移動と、修道女はじめ女たちへの慎重な扱い。

 ウェアハムの実情は一通り分った。他の三人も何かしら情報を掴んでいるようだ。後でゆっくりすり合わせをして、作戦を立てる必要があるだろう。

 とりあえず今は一秒でも早く睡眠を取りたい。下腹、ちょうど膀胱の後ろあたりに、なにやら虚無を抱え込んだような気持ちの悪い疲労感がある。丹田の気を枯らしたというのはこんな感じだろうか。

 野営地につくと俺はすぐイレーネのテントへ向かい、くつろいでいた彼女の膝の上に、頭を放り出すように乗せた。

「ちょっとちょっと。甘えすぎなんじゃないか、君」

「夜通し起きてる羽目になったんだ。寒い。温めてくれ」

 暖かな毛布が俺を包む。彼女の叱言を子守唄に、俺は数時間の眠りを貪った。



「彼らはどうやら、このあたりに定住する気ですね。具体的には秋に麦を撒くつもりだ」


 目覚めるとすぐに軍議に呼び出された。見栄っ張りでお祭り好きなデーン人たちが、糧食を蕩尽することなく節制に努めている、という事実は、アルフレッドを勇気付けると同時に大いに懸念を抱かせたようだ。

「既にノーサンブリアや東アングリア、サセックスなどではデーン人が定住と耕作を始めているそうです……どうしたものか」


 ヴァイキングたちの活動は、初期の単純な掠奪サイクルから、年代を追うにしたがって移住と植民の色合いを帯びていく。

 温暖な気候に恵まれた場所で豊かな農地が確保できるなら、なにも毎度毎度故郷にとって返す必要はないのだ。物理的に土地が狭く、周りをフランクやヴェンドといった外国、異民族に囲まれたユトランド半島のデーン人たちは、特に早くからその傾向を見せ始めているのだった。そのあたりは俺がこの夏フリースラントや北ドイツで見てきたとおりだ。


「放っておいても彼らは次第にその土地のサクソン人と同化し、いずれはキリスト教徒となっていくのかも知れないが……そうなる前に彼らがイングランドの支配者となることは、阻止しなければならない」

 アルフレッドは荒々しい蛮族、異教徒としてのデーン人がサクソンの上に君臨することを恐れている。俺の眼から見ればデーンもノースと同様、決して野蛮なだけでなく高度な文化と技術を持ち合わせ、家族を愛し隣人を大切にする人々なのだが、いかんせん自分たちの共同体と社会の外にあるものに対して彼らはいささか過酷にすぎるのだ。

「なんとしても、ロンドンまでは取りもどさねば。手始めにまずはウェアハムを」


「今の手勢で千人を相手取るのは多すぎるな」

ホルガーが野営地を見回して重々しくそう言った。

「確かに多すぎる。これはやはり東アングリア派遣軍の到着を待つしか――」

アルフレッドがそう言いかけたとき、アルノルがにやりと笑って顎鬚を捻った。

「だが、その派遣軍が来る前に何がしか戦果を上げねば、王も我らへの支払いをためらおうと言うものだ。そうだな?」

「そんなつもりは無いが……」

「なに、我らも此処でただ休んでいるわけではない。頭を捻って計略を考え、手を動かして仕掛けを凝らしているのだ。久々に一つ、みなの肝を取りひしいでやろう」

 アルノルは一座を見回し、俺に視線を合わせた。

「此処のところトールばかりに知恵を出させていたからな」

灰色の瞳がきらりと光った。


「なにをする気だ?」

「トール達が危険を冒して偵察してくれたおかげで、こちらにはデーン人どもの状況が分っている。その情報を基に考えれば奴らの行動を読めるし、こちらからの細工で操ることも出来る。そうだな?」

「……ああ」

「さて、すぐ間近にあるあのサンドフォードの集落は、デーンの襲撃を受けたものの、我らが見たとおり死体などはほとんどなく、物資だけを持ち去られていた。勿論、奴らが村人を連れ去った可能性もあるが……あの修道院に、外から連れてこられた人間はいたか?」

 俺が聞いたのは、一昨日に斥候がさらってきた少女の話だけだ。他のメンバーはどうだったのか?

「申し訳ありません。私は同室になった修道女に、姉の消息を聞いたあとはずっと主の恩寵について語り合っていました」アルフレッドが頭を掻いた。

「何してるんですか、もう……ウィリアムとオウッタルさんは?」

「修道女様と一晩中、この悪鬼の軍勢が早くイングランドから討ち払われるよう祈っておりました、いえ、誓ってやましいことは何も」

「ケンブリッジからこの地まで遠征してくる間に、数人の捕虜を得て奴隷とした、と言う話を聞きました。他には特に」

……オウッタルはまあ、流石に抜け目がなかったらしい。


 そこで手が上がった。ウェセックスの兵士ブライアンだ。今夜は歩哨の任務が非番だというので軍議の末席にいたのだった。

「仲間の兵士が一人、行軍してきた途中の土地へ噂を訊きに行っていたのですが、先ほど戻ってきまして……サンドフォードの生き残った住民は、一度北へ向かった後、川伝いに東進してハムワーで保護されたそうです」

「その兵士には褒美を出さねばならんな!」

 アルノルが笑った。

「今一番欲しかった情報だ……奴らは夜の闇の中で、見たいと望んだものを見るだろう。そして無様に死ぬ」

「もっと分りやすく説明しろよ」

ヴァジが野次を飛ばした。


「サンドフォードそのものを罠にするのだ。自分達が掠奪してすっからかんにし、村人は逃げ去ったはずの村に、夜中突然、灯りがともる……お前らならどうする」


「おう……」

ヴァイキングたちが薄笑いを浮べて凍りつくという、珍しい表情を見せた。


おのが胸襟を開かずに相手の内情を探るのは難しい、と言う話。


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