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もしもアルフレッド大王が『孫子』を読みかじった奴から又聞きしたら



 何かの虫が頭上を飛び回って、かすかな羽音を響かせている。多分ブナの樹液をすする甲虫類か、蜂のたぐいだろう。


 ここイングランドでも夏の林の中はそれなりに暑く、騒々しい。時折木の枝から落ちてきた小さなアリが皮膚や頭髪の上を這いまわり、その感触が男たちを煩わせる。

 ハリエニシダの鋭い棘に引っ掛けられて手の甲に出来た、長い掻き傷からぷつぷつと血が噴き出して、そのうちに柘榴石のように固まった。


 低い潅木の陰に隠れて、緩やかな斜面の下った先にある草地を俺たちは凝視していた。 薄曇りの空の下、ずっと東のほうには銀色に輝いている水面がある。

 ウェアハムの修道院は西から東へと流れる二本の川の間に挟まれた土地に建っていた。その敷地の東側には、河口に堆積した土砂にせき止められ取り残された、浅く広い沼があるのだった。

 薄曇とは言うものの、その水面の反射光をうっかり見つめると、草地のさらに奥に位置する木立が暗くぼやけるので、できるだけそちらへ視線を向けないようにしなければならなかった。


「何か見えるか、スノッリ」

「今のところは何も。とにかくここからではまだ遠すぎるな」

「スノッリの眼でもだめか」

「ん、なんと云うかな。森の中に湿気が多いせいか、遠くの景色が滲む」

 彼の言うとおり、ノルウェー西部の森林に比べると、ここはずいぶん蒸す――といっても九州のむせ返るような照葉樹林と比べれば、可愛い物だが。

 ここから草地を隔てた向こうの森までは、まだ1kmはゆうにある。その木々の間に差し込む光は、確かに幾分もやがかかったように煙って見えた。


「そういえば今年は、天候がすこしおかしいな。昼間からひどい霧が出たり、夜の冷え込みが厳しかったり」

アルフレッドに随行した兵士の中からこの偵察行に志願した、ブライアンという名の男がそう言って空を見上げた。

「この男は元々サウサンプトン近くの漁師のせがれで、天候を読むのが得意なのです」

ウィリアムがアルフレッドに説明する。

「天候、地形に人間の心、か」

アルフレッドは兵士二人に向かってうなずき、焦りを隠せぬ様子で再び修道院の方角を見た。

「わずかこればかりの距離が、いざ接近するとなるとずいぶんと遠い」



         * * * * * * *



 話は少しさかのぼるが、サンドフォードは俺たちが到着する数日前に襲撃を受けたと見え、村人は逃散してしまっていた。食糧の貯えや家畜、金目のものはほとんど持ち去られていた。

「これは酷い有様だ。糧食を運んで来たのは正しい判断でした」


 村人の消息は気にかかったが、アルフレッドの手勢と共に俺たちはひとまず、村に駐屯した。問題はこの村が、修道院の側からはやや見上げる形で丘陵の上に存在することだ。夜に灯火を点したら一発でこちらの存在がばれてしまう。

 王都ウィンチェスターの間近を駆け抜けたデーン勢は、目撃証言によれば少なくとも500人を超える、それなりの大集団であるらしい。今正面からぶつかっても、こちらに勝ち目がないことは明らかだ。

 軍事力をもって勝利するためには、東アングリア派遣軍の到着を待たねばならない。しかしデーン人はロンドン周辺さえ占拠している。その動きを監視する前線から、抽出してこちらへ回せる兵力は限られてくる。


「……この状況で派遣軍を投入するには、張りつめた弓を放つように満を持した、絶好の時宜を得ねばならなりません。そのためにも、こちらの動向はデーン勢に知られてはならない。かといって、あちらの状況もできる限り正確に把握する必要がある」

 その辺りが、吟遊詩人に扮しての潜入と言う、一見奇矯この上ない策に彼が固執する理由なのである。


「では修道院周辺の地勢、地形をも詳細に検分すべきでしょう」

俺はつい、軍議に口を出してしまうのだった。

 子供のころは三国志演義や絵本太閤記などの――子供向けにリライトされた――戦記ものをよく読んだものである。ゲド戦記をその類と勘違いして読んで衝撃を受けたりもした。

 まあゲドはさておきとして、三国志でも太閤記でも、兵法書と言うものが重要な役割を果たす。孫子や六韜といったやつである。


「俺の国やその周辺では兵法書が数多書かれている。優れた将はそれらを|諳〈そら〉んじ、真髄を理解したうえで応用発展をなし、寡を以ってよく衆を下す、というものです」

「ふむ。ローマに滞在した幼い頃に『イリアス』やプルタルコスの『英雄伝』、ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』を読んだことはあるが」

 この時代の人間としてはトップレベルの教養人なのだよなあ、アルフレッドって。


「それらはあくまでも個々の事例ですが、その事例の集積の中から一定の共通性を見つけ出すことが出来れば、応用してみたり、あるいは同様の条件下で起こる事態を予測したりすることが可能です」

 まあ、学問と言うのはすべからくそういうモノなんですけどね。

「ケントマントの知恵も同じだな。砂州や岩礁は取り除きでもしないかぎりは、その場所に潜み続けて船を台無しにするし、嵐や大雪の前には大体同じような感じの雲が現れるものだ」

アルノルが口の端を吊り上げた。


「で、地形の話に戻りますが……例えば沼があるのを知らずに進軍して踏み込めば、人馬共に身動き取れなくなって容易に敗れる。谷底を通る狭い山道を通るときは、上から石など重いものを落とされる心配をしなければならない。他にも色々と例は挙げられますが、とかく地形の持つ効果はおろそかに出来ません。敵地深くへ潜入しての偵察を目論むのであれば、なおさらです。脱出、撤退の際の経路を確保する意味でも」


「なるほど。そういえばアッシュダウンの戦いでは、デーン軍の盾壁が丘の高所に展開されていて、とにかく攻め難かった」

「それはまた、ずいぶんと愚直に戦われたのですね……」

 よく勝てたものだ。高所に陣取った敵への攻撃は多くの場合、突撃の衝撃力はそがれる、攻撃できる敵兵の身体部位は限られる(つまり斧や剣等の短兵器が頭部はじめ重要部分に届かない)と、なかなかに悲惨なことになる。そのことを指摘すると、アルフレッドは目を半ば閉じ、敬虔な表情で答えた。

「あの時、我らは愛する故郷と人々を守り、主の栄光を地上に示す、強い意志で一つになっていた。負ければ悲惨なことが待っているのを知っていたし、死に物狂いでした」

「それはつまり士気の問題ですね。王の軍勢は士気によって地形の不利を覆したと言うことです。仮にそのとき、主の恩寵が失われたことを示すような現象――例えば日食が起こったり、デーン勢の一部が戦線を回りこんで、町や村が先に落とされた、と言う報せが届いたりしていればどうなったでしょう」

「おお、考えたくもない! 兵士たちは希望を失い、立ち向かう勇気も潰えてどこへともなく逃亡してしまったでしょうね」

「つまり、軍とはあくまで人間の集まりです。その心から士気を奪ってしまえば、どんな大軍もまともに戦うことは出来なくなるでしょう。ならば敵には死に物狂いの勇気など出させず、油断させ、慢心させ、命を惜しませる。あるいは両軍の激突へ向けて勇み立ち昂ぶった気持ちに肩透かしを食らわせ、萎えさせるのが得策」

「おお……」

アルフレッドが畏怖すべき、あるいはいっそおぞましいものを見る目をこちらに向けた。


「それが『心を攻める』と言うことです。敵の心を手玉に取り、地形を把握して利用し、会戦の前には入念に準備を整えて、勝つべくして勝つ。これが『孫子』のいわば極意ですよ」

「そう思えば、ガリア戦記や英雄伝の一つ一つの戦いも、違った姿で見えてきますね……」

 王はしばし視線を宙にさまよわせ、読書の記憶を反芻しているようだった。


 さて生かじりの兵学を王に披瀝して見た俺だったが、これを実地に生かす自信は今のところない。だいたい「孫子」は古代中国の小国乱立状況の中で、当時の軍制、戦術などを想定して書かれている。ディティールをそぎ落とした原則論にまで還元しなければ応用も難しい。そして問題がもう一つ。


 孫子は特殊部隊レベルの潜入救出作戦など扱っていない。少なくとも直接的には。


         * * * * * * *



 というわけで、俺たちは女子修道院に接近するための事前調査を行っているのだった。メンバーは、アルフレッド、スノッリ、ヴァジ、ウィリアム、ブライアン、それに俺。

 現地を自身の目で見たいというアルフレッドと、例によって野次馬的に、あるいはオブザーバーとして同行した俺以外は、おおむね野外活動への適性やその他身に着けた技能を基準に選ばれている。


「静かに」

 スノッリが鋭く俺たちを制した。危うく木立を抜けかけたところだ。少し前方にトレント川がある。

 ウェアハムの北側を東へ蛇行する細い水路――そこへ向かって、武装した男が三人ばかり、先ほどスノッリが睨んでいた森を抜け、騎馬で草地を横切って接近しつつあった。

「危なかった。いや、もしかすると気づかれたかな?」

ヴァジの逡巡にスノッリが首を振った。

「いや、気づいていないようだな。見ろ」


 男たちは大きく馬首を巡らして、西にある低い橋へと向かっていく。

「サンドフォードに向かうのかな」

 

 昨日相談した結果、アンスヘイムの男たちとウェセックス軍、おおよそ50名はサンドフォードからやや北西にある湧き水の周囲を拠点に、天幕を張って露営していた。念入りに偽装はしてあるが、接近すればそれと知れる。

「ホルガーたちに遭遇すればまあ、逃げられないとは思うが、あの連中の動きには注意を払う必要があるな」

「ややこしい感じになってきたな」

 とにかくこれで分ったのは、デーン勢もただ修道院にこもっているだけではないと言うことだ。

 そしてウェアハムの地形は、一言で言えば堅固な要塞だった。二つの川は修道院の南北を天然の堀となって遮断しており、その幅こそ狭いがそれなりの深さがあるらしい。流れ込む先の東側は海と沼。西から回り込むのが正攻法だろうが、当然そちらはしっかりと防備を固めているに違いない。


「露営地に戻って皆と合流しましょう。おおよそ見るべきものは見ました」

アルフレッドがそう言って、皆が腰を上げたとき。


 女の悲鳴が響いた。ぎくりとしてその方角を見ると、傾いた日差しを背に、先ほどの三人の男たちが駆け戻ってくるところだ。うち一騎の鞍の上に横ざまに押し付けられているのは、逆光で判然としないものの、まだ幼さの残る農家の娘ではないかと思えた。

 フリースラントでザラと出会ったときとそっくりの状況だ。だが今回はあの娘を助けに飛び出すわけには行かない。

 兵士二人が危うくそちらへ殺到しそうなそぶりを見せたが、ヴァジとスノッリががっちりとベルトを掴んで押さえた。

「今はだめだ。抑えろ。デーンの連中の気質を考えれば、すぐに殺されるようなことはない」

「畜生……」

 歯噛みの音が響く。デーン人に聞こえるのではないかと、おかしな心配をしたほどにそれは激しいものだった。

「せめて……姉上たちにも、あの娘にも、救援の手が近いことを知らせる方法があれば」

アルフレッドの顔色が青い。良く見ればぶるぶると体が細かく震えている。こめかみから頬へと伝う汗も、夏だからとばかりはいえない様子だった。


「陛下、もしやまた発作が?」兵士二人が慌てふためく。

「大きな声を立ててはいけない……すまないが私を運んでください」

そう言ったきり、彼は意識を手放した。



 サンドフォード北西の泉のほとりに戻ると、イレーネが俺を呼んだ。

「トール、頼まれてた物が出来てるよ。急ごしらえで、なんとも不細工だけど」

彼女の腕の中には、黒っぽい布で作られた外套風のものがあった。俺の分、アルフレッドの分、ウィリアムの分……これで三着。だがもう一着ある。

「これは?」

「オウッタルさんの分。王様に同行したいんだって」

「……どういうことだよ」


「こういうことです」

 したり顔で俺たちのテントへやってきたオウッタルは、青銅製の巨大なホルンを抱えていた。ローマ時代の軍団兵が伝達のために使用していたような、二まきほどの長い管の環に肩を通して保持するものだ。先端のラッパ部分は比較的小さな円盤状で、シンバルの中央部のような丸い突起が6個、ぐるりと円を描いて打ち出されている。

「吹けるのか?」

 当然の疑問を投げかけるとオウッタルは少しはにかみながら答えた。

「セイウチ狩りのときに、川獺かわうそ号で見たでしょう? あの大きな角笛」

「ああ……しかし、まさか――」

「あれは私も時々吹くんですよ。これも原理は同じだ、流石にここで練習は出来ませんが」

 自信たっぷりである。まあ、パートが増えるなら俺としても異存は無い。そういえば移動の間、時々ぴーぷーと妙な音が聞こえていたが、あれはオウッタルがマウスピースだけで練習していたとか、そういうことだったのか。

「移動中の練習のときに加わればよかったものを」

「ええ、まあその、なんとなく言い出しにくくて」

このところ無気味な様子ばかりが目立ったオウッタルが、この時は妙にはにかんで少年のような表情を覗かせた。


 翌朝、ようやく発作の痛みから解放されたアルフレッドを先頭に、俺たちは件の黒い外套を身につけて出発の準備を整えた。膝丈の、ごく簡単な縫製でポンチョ風にこしらえたその服は、俺たちの風体、主にそのシルエットを異様なものに変えた。

 まだまだ北ヨーロッパにはなじみの薄い、吟遊詩人と言う概念をそれらしく補強する扮装。そして、それぞれが楽器を抱えて橋を渡る。

 昨日の三人の男たちは、露営地には姿を見せなかったと言う。どうやら近隣の農村近くまで、物資掠奪や子女誘拐の手を伸ばしているらしい。


「アルフレッド王。中にいる女性たちに、救援の手が近いことを知らせる方法が欲しい、と仰せでしたね」

俺は隣を歩くアルフレッドに、何気ない感じで話しかける。


「ええ。しかしそんなうまい方法があるのならとっくに――」

「ありますよ。その方法が」

アルフレッドはまなじりを裂けんばかりに見開いて俺を見つめた。

「本当かね!」


「あります。キリスト教を深く信仰し、聖書に親しんだ修道女たちであれば、すぐに理解できる方法が」

 昨夜悶々と考え続け、その挙句に思い出したのだ。それは俺の、この時代で作り出した新しいレパートリーの中にあった。


 俺の旅に、徒労などない。

 

 アルフレッド大王が吟遊詩人に扮してデーン陣営を偵察に行く、と言うエピソードは、一応彼の伝記にまつわる伝説の一つとして英国民には広く知られているようです。長らくその概要がつかめなかったのですが、英語サイトにまで探索の手を伸ばした結果、どうやらそれはエディントンの戦いでデンマークの首領グソルムに対して決定的な勝利を収める直前の出来事だったと分りました。


しかし、その事件は作中の年代より若干ずれる、878年のことです。


 何と言うか作者としても心苦しいのですが、トールと言う異分子が歴史に紛れ込んだことで起こりえる一つのイレギュラーな事象としてお楽しみいただければと思います。この876年の戦いも一次資料であるアルフレッド大王伝やアングロサクソン年代記にはほとんど具体的な記述がないので。

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