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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ブリテンの夏空に、雲は疾く流れ
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お前がお前の舵を取れ

 そうこうするうちに一行のあらかた全員が起き出してきた。焚き火に薪を足し、食事の準備を始める。近くに綺麗な川があるのはありがたいもので、皆顔を洗ってそれぞれにさっぱりした様子だ。

 椀に注がれた重めの粥を、ここしばらく持ち歩いている手製の箸でかきこむ。細かな肉の破片をつまみ上げる俺の手元を、イレーネが不思議そうに見つめた。

 子供のころから親父に厳しく仕込まれたおかげで、俺の箸使いはそれなりに様になっているつもりだ。そうめんの器に浮かぶ融けて丸みを帯びた氷でも、塗り箸でつかめる。


 先ほどアルフレッドが飲んでいたのはただのお湯だったらしいが、彼は今、いかにも自然にヴァイキングたちに紛れ込んで粥を受け取り、食事をしていた。ウィリアムがおろおろしている様子が見えたが、そもそも彼が供しているものではなし。食事が質素なのは彼の責任ではない。

 そこを間違えて「このような粗末なものを」などとうかつなことを言えば斬り捨てられても仕方がないのだが、流石にウィリアムは身分社会に長く生きているだけあって、ぎりぎり口をつぐんでいた。



「……いい加減飽きてきた」

 突然、ハーコンが無造作に吐き捨てた。皆の視線が集まる。

「この王様とやらに何か親切にする意味などあるのか。アッシュダウンを建造させたのはこやつだろう? シグルズの仇ではないか」

このアホ、ぶちまけやがった! ヨルグが腹芸を憶えてくれたと安心していたら!

「あ、従兄者!」

グンナルが絶句する。アルフレッドとウィリアムの表情が引きつるのが見えた。


「アッシュダウンが何か……仇とは一体」

顔色を変えて粥の椀を地面に下ろし、周りの男たちを見回した。

「詳しく聞かせてくれませんか」


 オウッタルがため息をついて答えた。

「友よ。この男たちは、アッシュダウンとの遭遇戦で仲間を失った、ノースの掠奪者なんだ。隠し通すつもりだったが、もう仕方あるまい」

「ノースと言うなら、君の……取引相手のノルウェー王の配下なのか? アッシュダウン号と戦ったというのか。それで何故、ここに」


 さて、これはおかしな雲行きになってきた。アッシュダウン号にろうそくの火を投じたのは俺だが、それを無言で指示したのはオウッタルだ。いや、それはおそらく審問になった場合通じまいが。

 俺とオウッタルの間に、すばやい目配せが交わされた。だが言葉なしに伝わるニュアンスは限界がある。オウッタルはとうとう、口を開いた。


「全部話していいですよ、楽師のトール……アッシュダウン号は失われた。停泊中の火事で」

「なんと!」アルフレッドがぽかんと口を開けて固まった。


 俺はホーエンキルヒェン北でのアッシュダウンとの遭遇を手始めに、フリースラントでの旅は大幅に省略、水牢からの脱出とアッシュダウン船上での戦いそして焼き討ちまでをつぶさに物語った。

「……かくして、アッシュダウン号は灰燼に帰し、我らは丸い商船でブリュッヘへ向かった」

「なんとまあ……呆れた話だ、いや、なかなか面白かったが。ウルフェルからも後日詳しく話を訊きましょう」

アルフレッドは地面に置いていた椀を手に取り、冷えた粥をそそくさと掻き込んだ。


 オウッタルがアルフレッドをじっと見つめる。

「すまない、アルフレッド。だがあの船の面々は少々やりすぎた。フリースラント人にしてみれば仕方ないのだろうが、ノルウェーの船まで狩られてはね。ハラルド王の戦略には彼らのような小領主とその随員の、毎年の遠征も計算に入っているのだ」

 そういうことか。オウッタルの行動の謎、それが少しだけ明らかになった気がした。ハラルドの意を受けて動いている部分があるとすれば、この理屈は納得できる。


「オウッタル。君は時々、実に酷い友人だなあ……それで、君から見てあの船はどうだった? 問題点があったら指摘して欲しい」

商人は首をかしげ、記憶を探った。

「大きすぎる。一隻で強いのは大いに結構、だが軍で運用するならあれほど強大である必要はない。船員の数、積める物資の量、色々と余裕がなさ過ぎるしな」

「ふむ……量産時には少し小ぶりにするか」

アルフレッドはアンスヘイムの男たちに向き直った。


「言葉でどういおうとも誤解を免れえないと思いますが、色々と不幸な行き違いがあったようですね。私から何かできることはあるでしょうか」


 あちこちから、小声で「仇を……」「復讐を」といった声が上がる。だがホルガーがそれを制した。

「よせ。この男を殺しても、船もシグルズも戻りはしない」


「確かに船は戻らんな。港に戻って無理に奪い返そうとしても、あそこには精兵が詰めていたし、成功する目算は低い」アルノルが詰まらなさそうに口ひげを捻った。

「じゃあ、この男を始末したあとそこらの森で木を切り、船を作って戻ろう。我らの船がごく短期間に進水できることを忘れてはいまい?」

ヴァジが恐ろしいことを言い出す。何より不可能ではないと感じられるのが恐ろしい。

「そうだな。アッシュダウンはもうない。今なら北海のどこへ行っても我らを邪魔だてるものはないだろう」オーラブが言う。が、それはいささか楽観的に過ぎるのではないかと俺は思った。


 ふと見ると、ロルフが酢を飲んだような顔で彼らを見ていた。彼とヨルグが座っている席まで移動して座る。

「皆、だいぶ鬱屈してきてるな」

「仕方ないと思うぜ。あーあ、ハーコンのおっさん、やってくれたな。これでボールドウィンの手紙も意味がなくなった」

「それはまだ分らんけどな」

 俺たちがノルウェー王の使節であるという擬装が解けただけで、あの文書の外交上の重要性は変わらない。オウッタルは何故いつまでもあれを懐に忍ばせたままなのか。

「俺は皆とずいぶん遠くなってしまったな。彼らのように自らの運と力を恃んで物事を決めるのはもう無理だ」

ロルフが嘆いた。



「ふむ、大体のことは分りました」

男たちの議論が途切れたところで、アルフレッドが右手を軽く上げた。


「申し訳ないが、諸君に殺されて差し上げるわけには行きません。私にはやることがありますので。船は返還しましょう。サウサンプトンへ持ち込んだ士官はがっかりするだろうが、彼に報いるには別の方法もある……戦死した男については深く謝罪したい。さて、そうとなればここでいつまでも話しているわけにもいきません。どうです、一度ウィンチェスターまで同道しませんか」


「もとより、ウィンチェスターへは行くつもりだった」

ホルガーは重々しくそう答えた。


「だが、何人かは行く先々で王侯貴族のところに上がりこんで酒と肉を食らう繰り返しに、飽きていることだろうな?」

そう言いながらこちらを見る。

 いや、俺に振られても。だいたい庇護を受けたり便宜を図ってもらったりと、こういう時代なら権力者に世話になるのは仕方ないじゃないか。

「いやいや、王侯貴族のところで酒と肉、大いに結構! イレーネには快適に過ごさせてやりたいし俺は喜んで行くよ」

 妙なところで意地を張ってもしょうがない。そもそも必要もない。だが、むしろホルガーたちの方こそ、そういう事が繰り返されるのは面白くないだろう。それは他人が舵を取る船に乗り込むのに似ている。

 思えばロルフの味わっている疎外感も、その根っこは同じなのだった。彼らにとっては結局、運と力を恃んで物事を決めるのがごく自然で、最も心地よいことだ。だがロルフはいまやキリスト教に自らを委ね、ホルガーたちは状況に翻弄されて、自分の船の舵柄をつかめない。文字通りの意味でも象徴的な意味でもだ。


 ああ、なんだか日本にいたときにそんな歌があったなあ。今になって心に滲みる。


「ならば行くとしよう。アルフレッドとやら、良いもてなしを期待させてもらうぞ。お前たち、方針は決した! 出立の準備だ」

鷹揚に言い放ったホルガーは、しかし厳しい眼差しで仲間の一人を見た。

「ハーコンよ。今後は軽率な言葉で仲間や同盟者の思惑をぶち壊してくれるな。次はないぞ」

「解った」ハーコンは唇を髭ごと噛んで屈辱に耐えた。



 ウィンチェスターの城と城下は想像よりずっと小さく小ぢんまりとしていた。ハラルド王の本拠地、トンスベルクのほうが規模は上かもしれない。だが、ここにはブレーメンで見たような石材を多用した建造物が、真新しい彫刻や金具に飾られて立ち並んでいた。


 ようやくオウッタルがフランドル伯の外交文書を差し出す。それにはノルウェー使節である俺たちへの厚遇を依頼する文言と、嫡男ボールドウィン2世にウェセックス王家の子女を娶わせたい旨が記されていたらしい。

「懐かしい。あの運命に弄ばれた婦人の儲けたお子が、もう縁談を取りざたされる年頃になりましたか」アルフレッドが遠い目をした。

「運命に、弄ばれた?」

「ウェセックス王家とフランドル伯の間には、数奇ないきさつがあるのですよ。私は当時子供で、難しいことは分らなかったのだが」


 アルフレッドの語ったことを簡単にまとめると、こうだ。


 フランドル伯ボールドウィンと駆け落ちした、今は亡きフランク王国の王女ジュディスは、17の年までウェセックスの王室にいたのだという。アルフレッドの父エセルウルフおよび、その死後は長子エセルバルドの王妃として。

 フランク王家の血統に付随する権威が重要なものとみなされたこと、そしてそれまでのイングランドの慣習を改め、初婚の際に王妃として聖別を受けた身であることから、王の地位をより補強するものとして婚姻の継承が望まれたのだ。

 現代人には理解しがたいし、この時代の伝統的な慣習にももとることだが、ある意味合理的な成り行きでもあった。

 といってもむごい話ではある。結婚生活の実体がどうであれ、この間王妃ジュディスは10代のいたいけな娘にすぎなかったのだから。結局イングランドでの5年間、彼女が子をなすことはなかったという。


「私とは6歳違い。幼い頃にはあやしていただいたこともありました。あのお方が武勇の誉れ高いボールドウィン殿と結ばれたと聞いたときは、本当に嬉しかったものです」

 続柄上は継母だが、子供心には「憧れのお姉ちゃん」といったところだったのだろう。アルフレッドは目を潤ませ、血のつながりのない微妙な親族の少年に思いをはせていた。


「楽師殿は会われたのですね? どんなお子でした」

「祖父の血を引いて、その……額の秀でた方だった。御髪が心許なくならぬうちに、妻を娶りたいとあせる様子が可愛らしい。やや背伸びが過ぎる嫌いがあるが、利発で先行き頼もしい男子かと」

伝えるところは伝えるところとして、俺は小ボールドウィンを精一杯褒めたのだ。アルフレッドはくすりと笑った。

「目に見えるようです。いずれ娘が生まれたら、ブリュッヘに使いを送りましょう……そのためにも」

彼の眼が細まり、鋭いものになった。


「ブリテンとその周辺に、平和と安全を戦い取らねばならない――」

 

定説では王女ジュディスは870年没。ところが実のところ彼女が何年まで生きたかは未だ学界で異論があり、仮に890年代まで生きていればボールドウィン2世とアルフレッドの娘の婚姻を、彼女が差配した可能性があったげな。


 作中ではトールたちがその歴史の間隙でこのような役割を演じることに。

我ながら無茶なことを書いているなと思うけどまあ目くじらを立てる人もいるまい。いるまい。

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