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ばいめた!~楽師トールの物語(サガ)~  作者: 冴吹稔
ミクラガルドの騎士
17/102

欲望は自覚するまで身を焼かない

 

 ユトランドの沿岸を進むこと四日目。二日ほど俺たちを悩ませた霧が晴れた。マストの高みに上がったスノッリが、右舷前方を睨んで声を上げる。


「おーい、見えたぞ! 小島と砂州、その奥にフィヨルドだ」

あらかじめ教えられていた地形の特徴に一致したらしい。


「おお、間違いない。マアスホルム島だ」

舳先でアルノルが満足げに顎ひげに手をやった。

「あの奥のフィヨルドを進めば、ヘーゼビューだ。もう一息だぜ!」


 じめじめした霧に閉口していた一行が歓声を上げる。洋上で位置を見失った祖先の悲劇が記憶されているのか、彼らは霧をひどく忌み嫌うのだ。


「あそこには誰か住んでるのかな」

島を指差しながら俺が尋ねると、アルノルが教えてくれた。

「このあたりはうまい魚の漁場でな。だいぶ前からデーンの漁師たちが村を作ってる」

彼が言うには、マアスホルムというのは土地の言葉で燻製ニシンのことだそうだ。


「ニシンかぁ」

俺にとってはあまりなじみの無い魚だ。一度、回転寿司の期間限定メニューで出ていたのを物珍しさに試してみたが、身が柔らかすぎて淡白な味わいは寿司としてそれほど旨いと思わなかった。カズノコや身欠きニシンにもこれといって執着は無い。


 だがヨーロッパでは中世を通じて飽きるほど消費され、時に一国の経済を左右するほどの水産資源だったと何かで読んだ覚えがある。そういえば噂に聞く悪臭缶詰「シュールストロミング」とか言うのは、ニシンの塩漬けだっけ。くわばらくわばら。


「他には?」

「ウナギとかスズキとかだな」


 ウナギ!


 一瞬、蒲焼を連想して口に涎があふれた。俺はどちらかといえば脂の抜けていない、ぶりぶりした歯ざわりのウナギが好きだ。タレのしみた飯の味を思い出し、郷愁に胃袋が苛まれる。舌先に立ち上がる山椒の刺激の幻。燻したレバーのような肝焼きのコクと弾力。


 視界が滲む。


「トール?」

「あ、いや、なんでもない」


 口元を押さえて涎を押さえ、涙ぐんでいたのが船酔いの発作にでも見えたらしい。大抵のことには冷笑的なアルノルが、酷く心配そうに俺の顔を覗き込んだ。


「ちょっと故郷の食い物を思い出しただけだ。心配しないでくれ」


「そ、そうか」

「ああ、大丈夫だ」

 まだ大丈夫だ。大丈夫だとも。泣いても喚いてもジャポニカ米は地球の反対側だ。


 突然、自分がこの数ヶ月の間どれだけ、21世紀日本人のごく普通の欲求を蔑ろにしてすごして来たかを考えて、慄然とする。

(いかん、まともに考えたら気が狂う)

都会で野垂れ死ぬ所をこうして、粗野で残酷だが、単純で清々しい世界で生きていられる。それで十分だと自分に言い聞かせてきたはずだ。




 フィヨルドに進入して四時間ほど。行き来するクナルやロングシップとすれ違うたびに、船上に緊張した空気が充ちる。大山羊号のマストの周り、一段くぼんだ船倉にはセイウチの牙やヨルグのものにならなかった戦利品の剣、つづれ織りや修道院の祭器など、ここ最近アンスヘイムのヴァイキングが獲得した財宝がぎっしりと詰まれている。ヘーゼビューで無事に荷を降ろすまでは、片時も安心できない。


 漁師の小さなボート一つにも念入りに誰何の声を上げ、あるいはフィヨルドのあちこちに潜んだ厄介な砂州に神経を尖らせる。そんなことを繰り返しながらも、結局のところ取りたてて言うほどの事件もなく、船は西へと進んだ。

 水路はなだらかな丘陵の連なる河口の低湿地に出会い、そこから南へと折れ曲がって水深の浅い潟湖――あるいは湾――で終わりを告げる。その湾に面して見えてくる、黒々とした三角屋根の連なる眺め。



 ヘーゼビュー。ヴァイキングなら知らぬ者はないという、北欧有数の交易拠点。


 突き固めた土と分厚い木材で作られた半円形の土塁が港の周りを囲んで、その内側に大小さまざまな家屋と市場らしきテント群が無数に散らばっている。

 あちこちに人の手の入っていない低木の木立と、アシの様な丈高い雑草の茂みが点在しているのが「交易都市」と言う言葉に抱く印象を大きく裏切っていた。だが、この時代に来て以来初めて目にする大きな町であることには違いない。



 そして何よりも俺を驚かせたのは、微風にさざなみ立つ湖面に殷々と響き渡る、正午の鐘の音だった。


「キリスト教会があるのか、こんなところに」



 無論、布教に精力的なカトリック教会が北欧に手を伸ばしていないわけも無い。オウッタルの部下にも信者がいると聞いたし、アンスヘイムの男たちも異教徒と見られて不利にならないよう、十字架に偽装したミョルニル(雷神トールの鉄槌)のお守りを上陸前に首にかけて笑いあっている。だがそれだけに――


(この連中相手に本気で布教するのは並大抵の苦労じゃ無かろうな……)

メンタリティーのまるで違う人種の中に、立ち混じって暮らす苦労。自分の身に引き比べてなにやら親近感と同情を覚えた。




 大型のクナルは浅瀬にじかに乗り上げた場合、出航に困難を伴う。そのため大山羊号はクナル向けに設けられた桟橋に横付けにされた。そうして船を舫い、荷下ろしをしている時にちょっとした椿事があった。



 桟橋のたもとで軽く休憩を入れ、フリーダから薄めた蜂蜜酒をもらって喉を潤していると、港の人混みの中から奇妙なざわめきが聞こえてきた。

 住人の話すユトランド特有の方言や各地ごとのなまりのあるノルド語に混ざって、明らかに異国の響きを帯びた、警告や威嚇を思わせる短い音節が耳に飛び込んでくる。


「何だろう、あれ」

 俺が干した角杯を受け取ろうとして、はたと手を止めたフリーダがそちらを見やって目を細めた。


 何処か東方の騎馬民族風の格好をした20人ほどの一団が、しきりに周囲を目探ししながら歩いていた。ざわめきはその一団が差し掛かかる先々から辺りへ波紋のように広がり、彼らは人垣を掻き分けながら次第に桟橋へと近づいてきているようだった。


 幅の広いズボンに、鋲を打った革製の鎧。ターバンに似通った独特のデザインの布の帽子を頭に載せ、腰に見慣れない形の片刃の剣を吊った戦士たちだった。片刃の剣はシミターのような湾刀ではなく、むしろククリに近い前曲がりの曲線を持つもののようだ。


 先頭の男がフリーダに目を止め、つかつかと歩み寄ってきてその腕を掴む。ひッ、と少女の唇から息が漏れた。

「おい!」

 思わず半歩前へ踏み出す。腰の斧に手が伸びかけるが、男が空いたほうの手を突き出したその威圧感だけで、体が動かなくなった。


「顔ヲバ見セラレ」

 酷い訛りのノルド語だが、何とか聞き取れる。数秒、震えるフリーダの顔を睨み回した後、男はフリーダの金髪をじっと見つめた。


 不意に突き飛ばすようにフリーダを解放すると、一歩下がって振り向き、後ろに続く隊伍に向かって首を振る。

 仲間へ良く分からない言葉で何事か叫ぶと、フリーダに向かって首だけ曲げて会釈する。

「フム、人違イデャ。許セ、娘」

 投げ捨てるようにそれだけ言うと、歩調を速めて立ち去った。




「な……何よあれ」

 怒りと恐怖で蒼白になったフリーダが、そうとは意識していない様子で俺の胸元に取りすがり、わなわなと腕を振るわせた。

「はて、さっぱり分からんが」

 ぽんぽん、とフリーダの肩をたたいて今の位置関係を意識させる。平手が飛んでくるかと思って身構えたが、生憎それほど安っぽい反応はしてくれないらしい。


「どうやらその男装、性別を誤魔化すにはほぼ意味が無いことがはっきりしたな」

「……そりゃまあ、いずればれる覚悟はしてたけど」


 何がおきているのか良く分からないが、あの一団は要するに、フリーダと似通った年恰好の女の子を探しているわけだ。どうもろくな予感がしない。


 アニメや映画の見すぎというなかれ、現実の歴史の中で無数の惨たらしい事例が繰り返されてきたからこそ、世に物語的お約束というものが形成されてきたのだ。

 ここで俺が何か妙なことに巻き込まれるとしたら、むしろそれが将来お約束として扱われる事例の原型に繰り込まれるだろう……冗談じゃねえや。



 まあきっかけはどうあれ、珍しく彼女との距離感が縮まっているからには、かねてからの懸案を一つ解決しておくべきか。


「ところで、折り入って頼みがある」

「何?」

 きょとんとした表情で見上げてくるフリーダに、俺は内心血の涙を流しながら持ちかけた。

「剣とか、他にも個人的な買い物をしたいんだが、知ってのとおり俺は秋からフリーダの家で働いて飯を食ってただけで、こちらで金になりそうな財産といえばセイウチ狩りの分け前の牙だけだ。だけどこの町で値を吊り上げて売って王への貢物を増やすために、牙は皆の分をまたかき集めることになった」

「そうね、うん」

 フリーダの目が少し泳いでいる。


「で、貢物で王の歓心を買う案は俺が考えたことだから、牙を俺だけ出さないわけにはいかないよな、どうしても」

「そ、そうね。それは確かにそうだわ」


「というわけで、トールめに金を貸していただけないでしょうか、フリーダお嬢様」

 言ってて死にたくなってくる。セイウチの牙のナットは夢と消えた。


「私も正直、あんまりお金持ってない……」

 フリーダががっくりとうなだれる。

「おぅ……」こちらも言葉に詰まった。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい。奴隷だって自分を買い戻すための給金は主人からもらえるのに、私はあなたが何も言わないのに甘えて、すっかり忘れてた」


「え」

 給金もらえるんだ、ヴァイキング社会の奴隷って。想像もしなかったがなんと羨ましい。

 

 まあノルド語教えてもらう労力を考えれば、つりあわなくも無いと思うべきか。家族扱いということかもしれない。家族の手伝いにきっちりと報酬を出すことってあまり無いものな。

 ……ブラック企業がやたらと「アットホーム」と口にしたがるのはそういうことか。


「お爺様はそういった家内の差配は私に投げてたし……本当に申し訳なかったわ」

 まあこっちも居候の身で言い出しにくかったのもある。今後のことを建設的に考えるべきだろう。

「分かった、とにかく今は荷下ろしを済ませて、さっさとみんなに合流しよう」

 市場の一角に確保したテントのところまで、再び荷物を抱えて移動を始める。



 ああもう。ずぶぬれで動かなくなったスマホとか電池切れのMP3プレイヤーとか、ここで高く売れれば良いのに。


 全機械式のアナログ時計を持ち歩いていた時代の人間なら、タイムスリップに巻き込まれても時計を売って何とか資金を捻出できただろうか。俺という男はとことん金運に恵まれない星回りと見えた。


トールめにお金を貸していただけないでしょうかだろ、フリーダお嬢様!

と書くとネットのAA物語でおなじみの白くて長いあの人に。


さて今回登場した謎の一団、歴史学の分野では結構有名だったり物議をかもしたりしてるのですが、ヴィジュアル的な情報がさっぱり手に入りません。仕方が無いのでそれらしい風体を想像してでっち上げているのが実情です。


タイムマシンほしいにゃー。手軽に往復できてメンテナンスフリー、オプション品2セットついた奴。

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