雲間からの光
「何が書いてあるんだ?」
「この手紙……ブレーメンの司祭からボールドウィン殿にあてたものだ。こう書いてある――」
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いと気高く力ある君主、神とローマ皇帝(*1)に嘉されたる
フランドル伯ボールドウィン閣下
先にたまわりました書簡での要請にお応えするために、ブレーメンを出立してはや十日になります。
閣下の庇護下になる血統正しき子女と、奇しくも我らの聖堂に北方人の改宗者を引き合わせた若者――わが師リンベルトの消息を知る東方の楽師との婚礼を取り結ぶ、喜ばしい旅の途上にあって、このようなお知らせをしたためることをお許しあれ。
いかなる悪魔の奸計か、ユトレヒトの聖堂に滞在した翌日から実に不愉快な心身の不調に見舞われております。このような有様では、到底一組の若者を祭壇の前で娶せる秘蹟を執り行うことは叶わないでしょう。
これは主が私を試しておられるのだと存じます。若者の婚礼を前に私自身がこの試練を耐え忍び、打ち克って見せることで、二人の結婚とその生活がまことに神のご計画と意思に叶う祝福されたものとなるべく、範を示せということなのでしょう。
しかし、私がこの試練に打ち克つために更なる時間を要するとすれば、二人の為にまさに収穫祭の喜ばしき日をもって長く記憶されんものとする、閣下の慈愛に満ちたお計らいに沿うことが出来なくなるかもしれません。
そこで、まず先立って我が参事会の敬虔な会員である司祭、フィリベルトをお送りします。期日までに私が到着いたさぬ暁には、彼をして祭事の一切を執り行わせてくださいますように。
彼は叙階されて日が浅いとはいえ、神学にとどまらず多方面にわたる深い学識と、俗世で培った武人らしい堅忍不抜の精神を持ち合わせております。必ずや閣下のおそばでお役に立つでありましょう――
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つっかえつっかえしながらそこまで読み上げるとフォカスは大きく息をついた。彼にとってノルド語への翻訳は骨が折れるらしかったが、ラテン語を読めない俺たちよりははるかにましというものだ。
「ちょっと待ってくれ。この北方人の改宗者を連れてきた若者、って……誰がこれを?」
「末尾の署名にはこうある。アダルガー、ブレーメン司教座聖堂参事会員、と」
「アダルガーだって? 知っている名前だ、ブレーメンでロルフが改宗した時に会ったよ。じゃやっぱりこれは俺のことか――」
妙な話だ。これは本来ならアダルガーからフィリベルトに手渡され、ボールドウィンに届けられるべきもののはず。それがなぜ、ここにあるのか?
フォカスが読み上げた文面は一件何の変哲もない、旅先での不調による遅参を詫びる内容だ。だが、どうやらそれらの言葉の端々に、フォカスはただならぬものを感じ取ったようすだった。
「良いか息子よ。地上の権力者をはばかってぼかした書き方がされているが、ここまでの状況を考え併せれば、この『不愉快な心身の不調』というのがなんであるか、見当がつくのではないかな? 聖職者が務めを果たせなくなるような、そしてそれを神の試練と付会しなければならなくなるようなもの――」
フォカスはそこでいったん言葉を切って、俺を指さした。
「トールがそこに持っている毒薬が答えだ。アダルガー司祭を苛んだ症状とは、恐らくカンタリスの作用によるもの。尿道の痒みから惹き起こされる持続性勃起だ」
「あいつめ! アダルガー司祭にハンミョウを盛ったのか!」
フォカスが怒気を面に表すのも当然だ。俺も腹が立った。非キリスト教徒の俺から見ても、それは陰険で卑劣極まりないたくらみだ。聖職者を冒涜するのにこれほどのものもそうはあるまい。今頃彼は恥辱に震えながら上位の司祭たちに聴罪を請い、贖罪のためにあれこれと償いの苦行を励行しているに違いない。
冷や水を浴びたり不眠をおして祈祷をささげたり、自らを鞭でたたいたりといったやつだ。そして、この書簡に施されていた封と、それが切り取られた痕跡。
(読めた!)
まだ動機ははっきりしないが、何が行われたかは推測できる。フィリベルトはハンミョウを使ってアダルガーをユトレヒトに足止めし、元々自らが婚礼の主司祭として派遣されたと装った。何のため?
ボールドウィンをはじめ、フランドル伯の宮廷に連なる人々をヒヨスを用いて毒殺するためだ。危うく俺たちもその巻き添えになるところだった。
「すぐにフランドル伯に会おう。これを報告しなければ」
部屋の前に立っていた兵士が二人いたことを思い出す。若い方に先触れをしてくれるよう頼むと、彼は顔を紅潮させて走っていった。
「こりゃあ、色々と急いだほうがいいかもしれんな」
アルノルが神経質に部屋の中をあちこち見まわして、そう言った。
「幸い集めて閉じ込めてあるそうだから安心だが、供の侍祭たちもどこまでこの件に関与しているかわからん。何かしでかす前にはっきりさせておくのがいいだろう」
「そうだな」
どうにも大変なことになってきた。だがこの時代にあって、聖職者を別にすればだれよりも論理的、科学的な思考で推理を働かせることができるのは、たぶん俺たちだ。やれることはやるしかない。
「これは……!」
俺たちが見つけた書簡を示すと、ボールドウィンは絶句した。
「私はこの手紙を渡されていなかった。当たり前のことだが……」
そう言いながら、壁の棚からもう一つ、よく似た形に整えられた羊皮紙の書簡を手に取った。
「私が受け取ったのはこれだ。単にフィリベルトを派遣する、と書いてあっただけだった」
「封蝋は?」
「見ての通りだが――」
その手紙に施された封蝋は、既に開封され破壊されていた。だが、全体の五分の一程と推定できる蝋の塊が、まだ剥げ落ちずに残っていた。
窓からの薄い明りで必死に目を凝らす。すると、そこには確かに、鋭利な刃物で削り落とした封蝋を同質の溶けた蝋で巧妙に貼り付けた跡があった。
「大した腕だ……」
感嘆せざるを得ない。日本にいた頃模型雑誌の作例で見た、プラ板で箱組みした戦車の車台に既成キットから必要な部品だけそぎ取って貼り付ける、精妙な工程を思い出させる。
「こんな細工まで。そこまで周到に私を狙うとは、尋常なことではないな。まあ幸いにして奴はもう死んでおるわけだが」
「そうですね……」
俺は首をひねった。分からないのはそこなのだ。例えば、オウェインが司祭殺しの下手人だと仮定してみる。彼はもしかしたら、ワイン樽に毒を仕込む瞬間を押さえることができたのかもしれない。
ではなぜ殺したか? 取り押さえて汚染されたワインを特定し、フィリベルトをとらえて裁きの庭に引きだせば事足りたはずではないか。
そしてもう一つ。なぜ彼は森へ向かったのか? それも、もしかしたらユーライアとともに? そもそもこの事件にあの乳母が絡んでくる理屈がもうひとつわからない。
司祭を殺したこと自体は、毒殺を未然に防いだということがわかれば、むしろ褒められるくらいのことだ。オウェインが逃げる理由は何だ? そこではたと思考が見えない壁にぶつかった気がした。ここからさらに推理を進めるには、俺は彼を知らなすぎるのだ。
「ともあれここまでの調べ、ご苦労だった。引き続き頼む。夕暮れまでには森へ向かった者たちも戻るだろう」
ボールドウィンのねぎらいの言葉を後に、俺たちは彼の執務室を辞した。さて、これからどうするか。
そろそろ昼前。雨はようやく小降りになり、雲の所々が薄くなって光が差してきていた。
「もう昼か。腹が減ったな」
「本当なら今頃は婚礼の宴席で、みんなから小突き回されながらワインをしこたま飲んでたんだろうけど……ちょっと今日はそんな雰囲気じゃないな」
「ふむ。厨房やパン焼きかまどのところへ行けば、女たちに頼んでなにかつまみ食いできるかもしれんな」
フォカスが意外なことを言いだして、俺は少し噴き出した。
「隅に置けないな、フォカス! そんな伝手があるのか?」
「なに、仕事場にしているあの建物はもともと家畜を肉にする作業場だ……これまでも時々本来の目的で使われたし、私も作業を手伝った。つまり、下働きの女たちと顔見知りになる機会はそれなりにあるのだ」
謹厳な顔で大真面目に言われると、ここまでの緊張がどこかへ行ってしまいそうにおかしい。
「よし、そうしよう。何か食わなきゃ実際やってられん」
アルノルが先頭に立って歩き出した。
かまどは厨房とはまた別棟で、そこには数人の女たちが詰めかけて働いていた。婚礼が延期とあってか、彼女らの意気は上がらないことおびただしい様子だったが。
「あんれ、昨日の兄ちゃんでねえか」
一人の女が声をかけてきた。でっぷりと太った色つやのいい顔には見覚えがあった。昨日俺を鍋洗いに引っ張ったご婦人の一人だ。
「イレーネちゃんが探しとったで。部屋に居るからってことだったけんども、会わんかったかね?」
「いや、会わなかった……それはそうと何か食うものないかな。昨日の手伝いの駄賃、まだもらってないしさ」
「ご領主さまのお客だっちゅうのに、まあ、まあ!」
女は笑いながら、俺たちのためにふすまや雑穀の入ったぼそぼそしたパンを両手に抱えてきてくれた。
「ありがたい」
城内は混乱と緊張で委縮したようになっていて、料理人たちも仕事に身が入らないらしい。この分だと、今日は大勢がすきっ腹のまま眠ることになりそうだ。
おばちゃんに礼を言って立ち去ろうとすると、彼女は一つ大きなため息をついた。
「司祭様が殺されるなんて、のぅ。えらいことたまげたわ」
その大きな身振りと声が妙に気になって、俺は足を止めた。
「……フィリベルト司祭はこの辺にも来たのかな」
「ああ、うんにゃ……居館のそばをよく歩いてなさったけんど。ユーライア様と話し込んでるとこも、二回ほど見たでな」
ユーライアと? そういえば、と昨日の広間での風景がふと頭によみがえった。乳母は何やら司祭のあとを追うように歩いていた――
「何を話してたか、分かるかな?」
「私はわっかんねぇだな。だけんども、ネリスならなんか聴いたかも」
「ネリス?」
「水汲みの仕事してる、まだ十をちょっとすぎたくらいの子だよ。イレーネちゃんがさっき連れてったから、きっと部屋に――」
これはおそらく、新しい手がかりだ。俺は直感していた。これでフィリベルトとユーライアを繋ぐ糸口が見つかれば――
「ありがとう、おばちゃん!」
俺はアルノルたち二人に声もかけずに、走り出していた。
註 *1:ローマ皇帝
この場合は、フランク王国国王のこと。