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第二話 落ちてきた星

 震え続けるスマホを、拓真はしばらく見つめていた。

 出るべきなのかと、迷っていた。

 今の声を聞かれたら修吾にはきっとすぐに見抜かれてしまうと、拓真は分かっていた。

 それでも、修吾からの連絡を無視することはできなかった。

 拓真は小さく息を吐いてから、通話ボタンをタップして耳に当てる。


「……もしもし」


「あ、拓真? 今大丈夫?」


 スマホ越しに聞こえてきたのは、いつも通りの修吾の声。

 柔らかい話し方で、地元にいた頃から何ひとつ変わらない。


「大丈夫。今ちょうどバイトが終わって、家の近くの神社にいるとこだよ」


「神社? あ、例の猫かな? あの子、まだ元気?」


「元気だよ。……今は見当たらないけど」


 拓真は境内の石段に腰を下ろして、辺りを見回した。

 薄暗い拝殿の脇にも、手水舎の陰にも、まだあのキジトラの姿はない。


「そっか。拓真がちゃんと面倒見てくれてるなら安心だね」


「面倒っていうか、ご飯をあげてるだけだけどね」


「いやいや。それが大事なんだって」


 電話の向こうで、修吾が小さく笑う。

 それから、他愛のない話が続いた。

 修吾の職場にいる上司のことや、最近よく買っているというコンビニの食べ物。

 年末は地元に帰るのか、という話。

 拓真は相槌を打ちながら、どこか上の空で聞いていた。


「拓真さ」


 不意に、修吾の声の調子が変わった。


「なんかあったでしょ」


「えっ?」


「声で分かるよ。何年の付き合いだと思ってんのさ」


 拓真はすぐに答えられなかった。

 夜風が、境内の木々を揺らす。

 誤魔化そうと思えば、いくらでも誤魔化すことはできた。

 いつものように「何でもないよ」と笑えばいい。

 しかし、今日だけはその言葉が出てこなかった。


「……実家に帰ろうと思ってる」


 口にしてしまえば、思っていたよりもあっけなかった。

 電話の向こうで、短い沈黙が落ちる。


「……そっか」


 修吾は、責めることも驚くこともしなかった。


「拓真が決めたなら、僕は何も言わない。帰ることは、別に逃げることじゃないよ」


「でも俺は、結局何も変えられなかった。東京に来たって、何も」


「そんなことないって。拓真はさ、自分で思ってるよりずっとすごいよ。僕は知ってる」


 優しい言葉だった。

 修吾は昔から、拓真が落ち込んでいる時に励ましの言葉を伝えてくれた。

 だからこそ、拓真は胸が痛んだ。

 その言葉に応えられない自分が、どうしようもなく情けなかった。


「まあ、拓真が東京からいなくなったら僕としては少し寂しくもあるけど」


「……修吾」


「とにかくさ、また連絡するよ。あったかくして寝なよ」


 通話が切れる。

 画面が暗くなったスマホを、拓真はしばらく見つめていた。

 心は、少しも晴れなかった。


 修吾とは、小学校からの付き合いだ。

 クラスで浮いていた拓真に、最初に声をかけてくれたのが修吾だった。

 中学でも高校でも、拓真が何かに躓くたびに修吾は当たり前のように隣にいてくれた。

 上京すると決めた時も「じゃあ僕も行こうかな」と笑って、本当についてきてくれた。

 そんな親友に、拓真は何ひとつ返せていなかった。

 帰ると口にしたことさえ、心のどこかで止めてほしかっただけなのかもしれない。拓真はそう思った。


「にゃあ」


 突然、足元で小さな鳴き声がした。

 いつの間にか、あのキジトラが拓真の靴に身体を擦りつけていた。


「お前……来てたんだ」


 拓真はしゃがみ込んでリュックからキャットフードの袋を取ると、手の上に出していく。

 猫は一度だけ拓真の顔を見上げると、静かに食べ始めた。

 カリカリと、乾いた音だけが境内に響く。

 拓真は、その小さな背中をそっと撫でた。


「ごめんね。今日でお別れかもしれない」


 猫は何も答えない。ただ黙々と、ご飯を食べ続けている。

 猫に言葉が分かるはずもないことは、拓真にも分かっていた。

 それでも拓真は、誰かに聞いてほしかったのだ。


「俺がいなくなっても修吾がいる。大丈夫だよな?」


 声が、少しだけ震えた。

 拓真は猫から手を離してゆっくりと立ち上がる。

 そして、何気なく夜空を見上げた。


 東京の空は、星が少ない。

 拓真の地元では、見上げればいくらでも星が見えた。

 だがこの街に来てからは、数えるほどしか見つけられていない。

 拓真がそう思っていた、その時だった。


「……え?」


 ひとつだけ、やけに明るい星があった。

 それも、周りの星と比べて明らかに大きい。

 その光が、少しずつ大きくなっていく。


「なんだあれ……っていうか星?」


 拓真はすぐに気づいた。

 光は大きくなっているのではない。

 拓真に向かって、近づいてきているのだ。


 逃げなければならないと、拓真も頭では分かっていた。

 だが、足が地面に縫いつけられたかのように動かない。

 目を逸らすことさえできなかった。

 光は段々と拓真に近づいていく。


 そして。

 その「星」は、拓真の頭を真正面から貫いた。


 音は、なかった。

 痛みもない。

 ただ、頭の芯を焼けるような熱が突き抜けていって――。

 気がつけば、拓真は仰向けに倒れていた。


 冷たい石畳の感触が、背中越しに伝わってくる。

 身体が、まるで自分のものではないかのように重い。

 指一本、動かせなかった。


「え……死ぬ?」


 拓真の頭のどこかで、ひどく冷静なもう一人の自分がそう呟いた。

 走馬灯というものは本当にあるのだと、拓真はその時に初めて知った。

 実家にある部屋。近くにあった小さな公園で遊んだ記憶。

 バイト先で、ただひとり笑いかけてくれた先輩の顔。

 さっき助けた男の子の、丸い目。

 どれもこれも、少しずつ自分の前から遠ざかっていく。


 不思議と拓真は恐怖を感じていなかった。

 むしろ、どこかほっとしていた。

 これでもう、何も選ばなくていい。

 帰るか、それとも――と悩む必要もない。

 そんな安堵が、拓真の胸に静かに広がっていた。


 霞んでいく視界の端で、キジトラがじっと拓真を見下ろしていた。

 その瞳は、暗闇の中で妙に光っているようにも見えた。


 意識が深い闇の底へと沈んでいく。

 その最後の瞬間。

 どこか遠くで、聞き覚えのない声が聞こえた気がした。

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