第一話 12月の東京は冷える
その夜、日向拓真は死んだ。
空から落ちてきた星に、頭を撃ち抜かれるように。
嘘みたいな話だが、事実である。少なくとも拓真自身は、そう信じて疑わなかった。
――もっとも、そこから全てが始まるのだと知っていたなら、もう少しはマシな顔で夜空を見上げていたかもしれない。
拓真が死ぬ少し前。
十二月の東京の夜は、例年よりもずっと冷たかった。
拓真はマフラーに顎を埋めて、人通りのまばらな道を歩いていた。
バイト帰りの午後十時過ぎ。吐く息は白く、指先はとっくに感覚をなくしている。
「今日も、何もできなかったな……」
頭の中で何度も繰り返してきた言葉が、また拓真の口から零れた。
レジの打ち間違いや品出しの遅れ。そのたびに浴びせられる店長の舌打ちと嘲笑。
いわゆるパワハラだ。
「お前さ、なんで東京来たの? もう帰れば?」
今日言われたその一言が、拓真の胸の奥に刺さったまま抜けない。
拓真は答えられなかった。
答えられるような理由を、彼自身が持っていなかったからだ。
中には庇ってくれる先輩もいるが、それで傷が癒えることは無かった。
「俺は……なんでここにいるんだろう」
横断歩道の手前で足を止める拓真。歩行者信号が点滅を始める。
その時、視界の端を小さな影が駆け抜けていく。
「えっ?」
五歳くらいの男の子が、今にも車道へと出て行きそうになっていた。
車のヘッドライトが迫ってくる。そして、甲高いブレーキ音が辺りに響き渡る。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
拓真は地面を蹴り、男の子の腕を掴んで歩道へと引き戻す。
直後、すぐ目の前を車が走り過ぎていくと、少し行った場所で停車した。
尻もちをついた拓真の腕の中で、男の子は目を瞬かせていた。
「ゆうくん!」
母親らしき女性が、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
そして、男の子を抱きしめると拓真に何度も頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございます!」
「あ、いや別に……」
拓真は、慣れない笑顔を浮かべた。
本当は、拓真ももっと声をかけてあげたかった。けれど、喉の奥で言葉が絡まってひとつも出てこなかった。
何度も振り返りながら去っていく親子を見送って、拓真はゆっくりと立ち上がる。
「……ほんとに、よかった」
ようやく零れた言葉は、もう誰の耳にも届かないほど小さかった。
あの子にはこの先、何十年もの未来がある。
だが、彼には――。
拓真は、そこで考えるのをやめた。
拓真が上京したのは、今年の三月のことだった。
何をやっても上手くいかない自分を変えたかった。田舎を出れば、何かが変わると拓真は思っていたのだ。
夢と呼べるほどはっきりしたものはなかったが、東京に来ればきっと見つかると信じていた。
しかし現実は、そう甘くなかった。
始めたアルバイト先で、拓真はすぐに店長の標的になった。
仕事を覚えるのが遅い。要領が悪い。声が小さい。理由はいくらでもあった。
押しつけられる面倒な仕事。わざと聞こえるように言われる陰口。
一度でもミスをすれば、皆の前で執拗に責め立てられる。
言い返せばいいのだと、拓真も頭では分かっていた。
だが、拓真にはそれができなかった。
誰かと争うくらいなら、自分が我慢すればいい――それが拓真の考え方だった。
「いつだって、俺にとってはそれが最善策だった」
そんな日々が続いていた六月頃、夜空を無数の流れ星が埋め尽くした。
SNSは美しい写真で溢れてテレビは連日、謎の流星群の話題で持ちきりだった。
ただ、世間が浮かれていたのもほんの束の間。
その頃から、日本の各地で奇妙な事件が起こり始めたのだ。
獣に襲われたような傷を負いながら、なぜか食い荒らされた形跡のない遺体。
刃物で切断されたにしては、あまりにも綺麗すぎる断面を持つ首なしの遺体。
そしてある日突然、忽然と姿を消す人々。
遺体の多くは、山間部や人里離れた田舎で見つかっていた。
専門家たちはもっともらしい推測を並べたが、誰ひとり、納得のいく説明はできなかった。
これら一連は人間の仕業とは思えない――。
ニュースキャスターが口にしたその言葉を、拓真はどこか遠い世界の話のように聞いていたのを思い出していた。
「あの事件が起こり始めて半年か。いっそのこと、あの店長……あいつが犠牲になってくれれば」
そこまで口にした時に、拓真は我に返る。
「ダメだ……そうじゃないって。くそっ」
――自分がもっと自信に満ち溢れていたらいいのに。
拓真がその考えに至った時、気づけばもう家の近くにある神社まで歩いてきていた。
静かな佇まいの神社だ。
東京に来てから拓真にはひとつだけ、新しい日課ができていた。
『拓真の家の近くの神社にさ、野良猫いたよ。人懐っこい子』
一緒に上京してきた親友の水上修吾から、そんな連絡が届いたのがきっかけだった。
その猫は小柄なキジトラで、拓真がしゃがみ込むと警戒する様子もなくすり寄ってきた。
それ以来バイト帰りにキャットフードを持って神社へ立ち寄るのが、拓真のささやかな楽しみになった。
拓真がどんなに失敗をしても、その猫は責めたりなんかしない。
ただ足元で喉を鳴らして、ご飯を食べてくれる。
それだけで、拓真は少しだけ救われる気がした。
「もう、無理だ」
その言葉は、息を吐くように拓真の口から呟かれた。
拓真は、もう限界だった。
このまま東京にいても何も変わらないことは、彼自身にも分かっていた。かといって、胸を張って実家に帰ることもできない。
拓真は冷たい夜空を見上げた。
拓真の頭の中には、二つの選択肢が浮かんでいた。
ひとつは、全てを諦めて実家に帰ること。
そしてもうひとつは――。
もし、どちらかを選ばなければならないのなら。
拓真の心は、すでに片方へと傾き始めていた。
「……帰ろう、かな。もう」
白い息と一緒に、そんな言葉が零れ落ちた。
そのとき、ポケットの中でスマホが震える。
画面に表示された名前は――修吾だった。




