5-8①
翌朝、アダムが慌てた様子でやってきた。いつも訪ねてくると、エリシュカと形ばかりの挨拶を交わしていた。その後はいそいそとテレシエの元へ行っていたのだが、今日は違う。エリシュカの部屋を訪れると、持っていた鞄から封筒を取り出し、中の書類を手にして真剣な表情を浮かべた。
「父上の書斎を漁ってたら、こんなものが出てきた。僕には詳しいことはわからないけど、何かの役に立つんじゃないかと思って」
額に汗を滲ませたアダムは、微かに震える手でエリシュカに紙の束を差し出した。受け取ったエリシュカは、視線を落として文字を辿るが、やはりよくわからない。何かの契約書のようだが、一体これがどうしたというのだろうか。
「ねえ、これってただの契約書ではないの?」
「まあ、確かにただの貸借の手形だって言われればそうなんだけど……」
もう一度じっくり見直してはみたものの、何がおかしいのか分からず首を傾げた。アダムは渋い顔でその文字を見ながら、さらに続けた。
「どうしてこんなに何人もの手形を父上が集めてたのか、ちょっと不自然だと思って」
「そういうもの?」
「これだけの手形を買い取って、一体何に使ってたのかがわからないんだ」
エリシュカは書類に視線を落として、ごくりと喉を鳴らした。これはもしかしたら、エリシュカの保護を秘密結社に依頼したことに、何か関係するのではないだろうか。どう使ったのかは分からないが、金の出どころを誤魔化すようにできるのかも知れない。
「最後にこれを持ってた人は同じなの?」
「いいや、それがほとんど別の名前なんだ。だけど」
言葉を止めて書類を眺めるアダムは、すっかり顔色が悪くなっている。握り込んだ両手が微かに震え、心なしか唇の色も悪いような気がした。
「ここに書かれた人間の名前を、聞いたことすら無い」
「それって、どういうこと?」
頭を数回かき混ぜまたアダムが、苦しそうな表情を浮かべて答えた。
「僕にもはっきりとはわからないけど……後ろ暗いことがあるのは確かだと思う」
二人揃って書類を眺め、しばらくの間重苦しい沈黙が流れた。同じ人間から買い取っていないのなら、秘密結社に依頼を持ち込んだ貴族とは関係ないのだろうか。だとすれば、ヴァーツラフと依頼人の繋がりがわからない。アダムはこの書類の持ち主だった者たちを知らないようだが、マテスなら何かわかるだろうか。
息を吐いたエリシュカは、少しだけ気分を変えるように口をひらいた。
「よく探せたわね。怖くなかったの?」
「そりゃあ、最初はね。父上の書斎に忍び込むなんて、初めてのことだし。僕はテレズカのことだって諦めてたくらいだから」
唇を噛み締めたアダムが、自嘲するように苦い顔をした。
「父上がおかしくなってからも、僕はずっと見て見ぬふりをしてた。父上は昔から兄上にしか期待してなかったし。その癖僕の名前がアダム……最初の人だなんて、笑えるよ」
眉を下げたエリシュカに、アダムは気まずそうな笑みを浮かべた。
「エリシュカと話してから……テレズカともよく話し合ったんだ。僕らは今まで自分たちはなんて不幸なんだって思いながら、ずっとそれに浸ってた。だけど、それじゃあ何も変わらない」
エリシュカは曖昧な笑みを浮かべて頷いた。それは自分も同じことだ。十六になるまでは、諦めたまま過ごしていた。ヴラノヴァーの洗礼に何か意味があるのかもしれない。そう思って旅に出たが、それがなければどうなっていただろうか。四人と出会って洗礼を終えて——死に戻りをしていなければ、何も変わらなかったかもしれない。
「エリシュカが一人でこれからのことを考えて動き始めたのを見て、本当に情けなくなったんだ。僕はこうして君と話すことからも逃げてた。もっときちんと話してたら、何かが変わったかもしれないのに」
「そうかも知れないわね」
頷きなら視線を逸らしたエリシュカは、本当にそうだろうかと考える。そもそもアダムとテレシエは先に知り合っていた。知らなかったとは言え、彼らからすれば後から割って入ったのはエリシュカの方だ。出会ってすぐにアダムからそう告げられていたとして、何ができたのだろうか。それに、エリシュカは一人でどうにかしようなどとは思っていない。
「それで、この書類は」
「私が預かってもいい?」
「もちろん……だけど、どうするの?」
目を細めて口の端を上げたエリシュカは、受け取った書類を封筒にしまうと、大事に抱えて少しだけ胸を張って答えた。
「私、実はもう独りじゃないの。だから、心強い仲間たちに頼るわ」
一瞬目を瞠ったアダムは、ぱちぱちと瞬きしてから不思議そうに首を傾げた。
「なんだかわからないけど……これが役に立ちそうならよかった」
「ええ。ありがとう、アダム」
満足げな笑みを浮かべたアダムが頷き、「何かあったらまた知らせる」という言葉を残して部屋を出ていった。このままテレシエの元へ行くのだろう。その背中を見送りながら、大きくため息を吐いた。
出会った頃は、ほんの少しだけ期待していた。初めて会う婚約者は、母の代わりに家族になってくれるかもしれないと。すぐにその期待は脆くも崩れ去ったが、今となってはそれでよかったのだと思える。それでも二人を笑って祝福できるほど、エリシュカの気持ちは割り切れていはいない。
気を取り直すようにして書類に視線を落とすと、今夜の夜番に誰が来るのかとそわそわとした気持ちでその後の時間を過ごした。
夕食を終え、後は夜番の誰かを迎えるだけになったエリシュカは、落ち着かずに書類を見たり窓を見たりを繰り返していた。一人で眺めてみても何かが解決するわけではないのだが、それ以外にできることもない。
しばらくそうして待っていたが、窓の合図は響いてこない。しびれを切らしたエリシュカは、とうとう分厚いカーテンを横に引き、そっと窓を開いて外を眺めた。
目の前にはいつもと変わらない様子の樹があるが、その枝には誰もいないようだ。暗闇に目を向けてみるが、やはり何も見えない。唸り声をあげて少しの間考えてから、思い切って窓から身を乗り出し、下の様子を眺めた。じっと地面に目を凝らしていると、植え込みから微かに葉擦れの音が響いた。そのまま注意深く見つめていると、突然目の前の樹から「リシュカ」と囁く声が聞こえた。
「ひゃっ」と声をあげながら尻餅をつき、慌てて両手で口を塞いだ。手にしていた封筒から飛び出した書類がパラパラと部屋に散らばり、焦ってかき集める。すると上からすっと伸びてきた手が、床の書類をあっという間に拾い集めていった。
ぱっと視線を上げると、そこには顎に手を当てて書類を眺めるマテスが立っていた。
「び、び、びっくりするじゃないっ」
「あはは、ごめんごめん。リシュカがあんまりにも覗き込むから、何かあったのかと思ってさ。僕は部屋に上がり込むつもりなんてなかったのに」
書類を片手に気まずそうな顔をしたマテスが頬を掻いた。少し困ったような笑み浮かべるのを見て、エリシュカは首を傾げた。
「どうして?」
「えっ? ど、どうしてって、それは……女の子の部屋にそう簡単にお邪魔するわけにはいかないだろう?」
エリシュカは目を瞬くと、斜め上を見て今までの三人を思い起こした。ルカもカーヤもオルダも、普通に窓から入ってきたような気がする。
「ねえ、他の皆は窓に合図をくれて、中に入ったわよ?」
うめき声をあげたマテスが、視線を左右に彷徨わせてから肩を落とした。
「カーヤはそもそも女だし、オルダはどうせ何も考えてないからな。ルカは……まあ、リシュカが気にしないならいいんじゃないって思うけど」
「けど?」
怪訝な表情で見上げたエリシュカに、マテスは一歩後ずさる。
「……僕はルカに恨まれたくない」
「なにそれ、どういう意味?」
マテスは珍しくオルダのような渋い表情を浮かべた後に、片手でおでこを覆ってため息を吐いた。
「まあ、いいよ。もう今さらだしね。それに、僕に用事があったんじゃないの?」
「あっ」と声を上げたエリシュカは、自分の集めた書類をマテスの方に差し出す。受け取ったマテスがそれに視線を落としたところで、昼間聞いたことを話すことにした。
「アダムが持ってきたのよ。クリーマ家に隠してあったみたい。それでなにかわかるかしら?」
何枚もある書類を順に読んでいたマテスは、真剣な表情をしている。半分を超えた辺りで口の端が上がり始め、全部を見終わると少しだけ悪そうな笑みを浮かべた。
「これはいいね。おもしろいや」
「なにか分かったの?」
頷きながらもう一度書類に目を落としたマテスが、ゆっくり口を開いた。
「この手形は、資金の移動を誤魔化すためによく使われるやり方なんだ。ここに沢山書かれてる名前は、順番にこの手形を買った人間の署名なんだけど。最後に行き着いたのがこの人物だ」
マテスの指さす先に書かれていたサインは、昼間にアダムが誰だかわからないと言っていた人物のものだ。訝しげな表情で見上げたエリシュカに向かって、マテスがさらに続ける。
「この人物は、普通の人間には誰だかわからないようになってるけど。全部同じやつさ」
「名前も筆跡も違うのに?」
「ああ。まあ、詳しいことは知らないほうがいいよ。とにかく、裏の事情に詳しい者なら心当たりのあるやり方だ」
探るような視線を向けたエリシュカに、マテスが目を瞬いた。それから思い当たったような顔をすると、慌てて首を横に振った。
「大丈夫だって、無茶はしないっ!」
「本当に?」
「ああ、信じてくれよ。また下手打って死ぬなんてことになったら、オルダにだって何を言われるか分からないじゃないか」
肩をすくめたマテスに、エリシュカはほっと息を吐いた。紙みたいに真っ白な顔で横たわるマテスなんて、二度と見たくはない。そう思いつつ「それならいいけど」と返事をするが、次の言葉を言い淀んだ。
「……だけど」
「ん?」
「マテスが調べてくれるお陰で、今度こそ死に戻りをしなくて済むかもしれない。危ないから止めてって言いながら、結局頼るなんてなんだか都合がいい話ね」
「あははっ」
カラッとした声で笑ったマテスは、いつになく柔らかな表情を浮かべた。それから頬を掻き、少しの間視線を彷徨わせてから、口を開いた。




