5-7③
邸の塀の前に辿り着くと、さてどうやって中に入るのだろうかと首を傾げた。
「リシュカはそのまま少し待ってて」
ルカは自分の馬の上に立ち上がると、塀に向かって飛び上がった。手を掛けてからよじ登り、素早く跨いでエリシュカを振り返る。
「引き上げるから、手を伸ばして」
「えっ?」
さすがに人一人を持ち上げるのは大変そうだと思うのだが、身を乗り出したルカは至って平静な顔をしている。おずおずと手を伸ばしたその直後、あっという間に塀の上に引き上げられた。外側へ両足を下ろして座り込むと、その高さに身震いした。思わず目の前にあったルカの服を強く握り込むが、足が震えてしまいそうだ。
「リシュカ、反対を向ける?」
腰に回されたルカの腕に、ぎゅっと力がこもる。心臓が破裂しそうに鳴り響き、小さく頷いた。汗ばむ手をどうにか服から離し、ゆっくりルカに背を向けた。持ち上げた足元に覗くパヴェルのズボンが目に入る。さっきまで恥ずかしいと思っていたがこの格好でよかったなどと、どうでもいいことを考えて意識を紛らわせた。
「僕が先に降りるから、合図をしたらリシュカも飛び降りてくれ」
返事をする間もなく、ルカの体温がスッと離れていく。瞬く間に地面に降り立ったルカが、再び両手を伸ばして合図を送った。
喉を鳴らしたエリシュカは、その高さに尻込みして唇を噛み締めた。ルカを信用してないわけではないが、ここから飛び降りるのは勇気がいる。前回の死に戻りで窓から落ちたときは、後ろ向きだったな、などと余計なことを考えて膝が震え出す。そもそもあのときは、死んだマテスを生き返らせるための死に戻りだ。今とは覚悟の重さが違いすぎる。
「リシュカ」
囁くようなルカの声に、深呼吸を幾度か繰り返した。このままここに座っていては、そのうち誰かに見つかるだろう。覚悟を決めたエリシュカは、塀を掴む手にぎゅっと力を込めてから、ルカに向かって頷いた。ルカが頷き返したのを確認すると、「えいっ」という掛け声と共に塀から落ちた。
不格好に滑り落ちたエリシュカは、近づく地面を見ることが出来ずに硬く瞼を閉じた。下から風が突き上げてくるような気がして、窓から落ちたときのことが鮮明に蘇る。身を硬くして衝撃に備えた次の瞬間、温かなものに包まれた。
ガサリと植え込みの擦れる音がするが、エリシュカに伝わるのは軽い振動だけだ。軽く背中を叩かれ、恐る恐る瞼を上げると、ルカに抱えられて座り込んでいた。上目遣いに覗き見ると、すぐ側に苦笑いを浮かべたルカの顔があって慌てて俯いた。
「僕はバカだ。また怖い思いをさせたんだな。前回の死に戻りの話を聞いてたのに」
エリシュカは、俯いたまま何度も首を横に振った。
「ううん。ルカなら絶対受け止めてくれるって信じてた。これでもう塀から飛び降りることならできるようになったわ」
再びチラチラと下から覗き込むと、目を見開いたルカがふいっと顔を横に逸らした。小さくため息を吐いてから、膝の上で硬く握り込んでいたエリシュカの両手に視線を送り、そっと包み込む。
「まだこんなに震えてるのに、強がらなくていいよ。今度はもうちょっとマシな方法を考えるから」
肩をすくめたルカに、エリシュカは気の抜けたような笑みを浮かべた。
しばらくその場で落ち着くのを待ってから、二人揃って厨房の出入り口へ向かった。植え込みの中で待っていると、ルツィエが籠を持ってソワソワと辺りを見回しながら出てきた。きっとエリシュカが戻るのを、何度も確認しにきているのだろう。エリシュカが駆け寄ると、「お嬢様っ」と声を上げて慌てて口を閉じた。植え込みを振り返ると、思わずと言った風に笑ったルカが、カーヤと同じ方法で塀を超えていった。
部屋に戻ったエリシュカは、気を抜くと緩みそうになる頬に両手を当てた。誰に見られるわけでもないが、なんとなく気恥ずかしい。
夕食を終えても昼間の様子が頭の中を駆け巡り、ふわふわとした気分になる。部屋の中を行ったり来たりしていると、コツンと窓の方から音が響いた。
我に返って振り返り、慌てて分厚いカーテンを開いた。なるべく音を立てぬように窓を開けると、目の前の木の枝がガサガサと揺れる。いつもより葉擦れの音が大きいのは、きっと今日の夜番がオルダだからだろう。そう考えて慌てて窓から飛び退いた。その直後、ガンッと音が響いて、思わずその場で飛び上がった。窓をよく見ると、大きな手が窓枠を摑んでいた。
窓の下側からぬっと顔を覗かせたのは、やはりオルダだ。そのまま軽々とせり上がり、窓枠に足をかけてから部屋に踏み込んだ。
「驚かせたか?」
目を瞬いたエリシュカは、反射的に首を横に振った。本当は心底驚いたのだが、オルダに悪気はない。眉間にシワを寄せて渋い顔をしているが、案外心配しているのだということも、今のエリシュカには分かるようになっていた。
一度頷いたオルダが、少しだけ言い淀んでから口を開いた。
「本当は外で見張るつもりだったんだがな。リシュカに礼を言いたくて」
「私、オルダに何もしてないわよね?」
気まずそうに頭を掻いたオルダは、唸り声を上げた。それから真っ直ぐ視線を合わせ、眉間のシワを深くした。
「姉上と話してきた」
その一言に、思わず「えっ?」と声が出る。あの頑なだったオルダが、こんなに早く行動を起こすとは思ってもみなかった。目を丸くしたエリシュカに、オルダは一層決まり悪そうにガシガシと髪を掻き混ぜた。
「前の俺を知ってるなら、驚くのも無理はない。俺だって驚いてるんだ」
「あ、ご、ごめんなさい」
両手で口を塞いだエリシュカは、眉を下げてオルダを見上げた。
「いや、いい。むしろ礼を言いたくて来たんだ」
首を傾げたエリシュカに、オルダが腕を組んで口の端を上げた。
「俺は姉上が格下の家に仕方なく嫁いだんだと思い込んでた。だが、実際は全く違う。俺はずっと見ようとしてなかっただけで、姉上はちゃんと幸せだった」
珍しく眉間のシワを浅くしたオルダが、明るい口調で続けた。
「義兄殿は姉上を大切にしていた。足が不自由で杖が手放せなくても、馬車に一人で乗り込むことができなくても。それがなんだと笑っているような、本当に強い人だった」
どこか誇らしげな表情に、エリシュカは自然に笑みがこぼれた。「そう」と一言返すと、オルダは頷きさらに続けた。
「女を守るべきという考えは今でも変わらない。だが、無条件にただ守られるべきだと言うのはもう止めだ」
吹っ切れたように言い切ったオルダが、ふっと思い出したように小さく笑った。
「カーヤのように騎士を目指すのもいいだろう。夜番を反対したら、リシュカの部屋で過ごせばより近くで守れると言われて、俺は何も言い返せなかった。足りないところは補い合えばそれでいいってことだ。リシュカがナイフを使うのも、それで少しでも命を繋ぐ可能性があるなら、きっと正しいことだ」
「それを伝えに来た」と言ったオルダは、満足げに頷いた。それから珍しく明るい笑みを浮かべて、「改めて礼を言う」と一言残してくるりと窓の方に身体の向きを変えた。あっという間に窓を乗り越えると、そのまま樹に向かって飛び出した。「淑女の部屋に長居は無用だ」と呟くと、そのままガサガサと音を立てて樹から降りていった。
エリシュカは意外に素早いオルダの動きを、ぽかんとただ眺めていた。我に返って窓から下を覗き込むが、真っ暗な地面には何も見えなかった。カーヤやルカのように何か合図をするでもなく、オルダは塀の外へ去ったのだろうか。
最後に笑みを浮かべたオルダの顔を思い出し、エリシュカはクスクスと声を立てた。それにしても、一人で一気に喋ってさっさと立ち去るなんて、オルダらしいと再び笑いが込み上げだ。




