5-7②
久しぶりにカーヤと同じ部屋で過ごし、いつもより深い眠りから覚めたエリシュカは、大きく伸びをしてから身体を起こした。ソファに視線を向けると、そこにカーヤの姿はなかった。少しだけ残念な気持ちで寝台を降りると、空になったソファへ足を進めた。よく見ると、カーヤが居たはずの場所には丁寧に畳まれた掛布と、その上に一枚の紙が乗せられていた。
書かれていたのは、ソファを借りたことへの礼と、今日ルカと出掛けるための手筈についてだった。丁寧に書かれたその文字を幾度も目で辿ると、自然と口元に笑みが浮かぶ。
身支度を整えたエリシュカは、早速邸を抜け出すためにルツィエの元へ向かった。
「お嬢様、本当にそんな格好でお出かけに?」
邸を抜け出すときに準備してもらった服を再び纏ったエリシュカに、ルツィエは躊躇うように尋ねた。肩をすくめたエリシュカは、「もちろんよ」と何でもないことのように答えた。この格好でなければ、馬に跨ることなどできない。けれどそれを言えば、ルツィエは卒倒してしまいそうだ。
「そろそろ出ますぜ」
パヴェルの声に、ルツィエは眉を下げて不安げな表情を浮かべた。
「ルツィエ、大丈夫よ。誰も私の格好なんて気にしないわ」
「でも、ご一緒されるのは貴族の方なんですよね? エリシュカ様の評判に傷がついては困りますよ」
「ふふっ。心配してくれていありがとう。だけど、本当に大丈夫よ」
なおも食い下がりそうなルツィエの手をぎゅっと握った後に、スカートを翻したエリシュカは勢いよく荷台に飛び乗った。愉快そうに笑ったパヴェルに、ルツィエは怒ったような表情で「あんたっ」と声を上げた。
「ははっ。じゃあ、行ってくる」
「はあ、まったく。頼んだよ」
ルツィエの声を聞きながら、麻布の下に潜り込んで小さく手を振った。馬が鼻を鳴らす音が聞こえたかと思うと、ギシギシと音を立てて馬車が走り出す。
ヴラノヴァー家の門を抜けると、少し走ったところで馬車が止まった。「お嬢様、おいでになりましたよ」とパヴェルの声が聞こえ、エリシュカはそっと麻布から顔を覗かせた。馬車から少し離れたところに居たのは、二頭の馬の手綱を持ったルカだ。自然と口元を緩めたエリシュカに、パヴェルが目を瞬いた。
「じゃあ、行ってくるわっ」
ひらりと荷台から飛び降りたエリシュカに、パヴェルが目を白黒させた。「お、お気をつけてっ」と慌てたように掛けられた声に、エリシュカは「ありがとう」と返して走り出した。
「おはよう、リシュカ」
「ルカ、おはよう」
柔らかな笑みを浮かべたルカを前に、急に落ち着かない気分になる。ルツィエに大丈夫だと言ったものの、急にスカートの下に履いたパヴェルのズボンが気になり始めた。無意識に視線を下に向けると、今度は顔を上げることが出来ずに黙り込んだ。
ブルブルと馬が鼻を鳴らしたかと思うと、蹄を擦る音がする。そちら視線を向けると、商人から譲り受けた馬がエリシュカをじっと見つめていた。
「リシュカを待ってたみたいだな。邸を出てからずっと落ち着かなくて」
そう言いながらルカが手綱を差し出してきた。おずおずと受け取ったエリシュカは、馬を見上げて笑みを浮かべた。
「またよろしくね」
その言葉に答えるようにして、馬が首を大きく振った。目を細めてそれを見ていたルカが、エリシュカの足元にしゃがみ込んだ。いつもの位置で組まれた両手を差し出しながら、顔を上げてふわりと笑みを浮かべる。エリシュカの頬にぽっと熱が集まり、誤魔化すように馬の手綱をぎゅっと握り締めた。
鐙に足をかけてからルカの手を踏み込むと、いつもと同じ調子で馬の背に押し上げられた。ひらりと鞍に跨れば、馬が嬉しそうに鼻を鳴らした。自分の馬に乗ったルカが、エリシュカの横に並んで口を開く。
「予測をつけた邸があるから、行ってみよう」
「ええ。お願い」
ルカが馬を進めるのに合わせて、馬の腹に踵を食い込ませる。すぐにポクポクと小気味よく響く蹄の音に、ふと初めて乗馬をした日のことが脳裏を過った。
皆を真似て踵で腹を押しても、一歩も足を出してはくれなかった。それが今はすんなり合図が伝わるようになっていた。何度も死に戻りを繰り返す内に、色々なことが変わっていく。今までの全てを無駄にするわけにはいかないと、手綱を握る手にぎゅっと力を込めた。
しばらくするとルカが馬の脚を速め、エリシュカもそれに続く。コツは掴めているので、遅れを取ることもなくついていく。ルカはその様子に驚いた風だったが、すぐに楽しげな笑みを浮かべた。
そのまま石畳の道を進んでいくと、貴族の邸宅が並ぶ一角に辿り着いた。ルカが馬の脚を緩め、目当ての邸に向かっていく。手綱を持つ手が微かに震え、エリシュカは喉を鳴らした。
「この邸なんだけど……外から見ただけじゃ、わからないかな?」
エリシュカは眉を寄せ、二度目の死を迎えた邸を思い起こした。あのときは馬車で邸宅の前まで行ったので、門を見た覚えがない。
「そうね、門を見てもわからないけれど。邸はツタに覆われてて、暗い雰囲気だった。窓は全部締め切られてたし……執事が少し怖かったわ」
頷いたルカが、考え込むようにして邸に視線を向けた。中を見ればわかるかもしれないが、勝手に入るわけにもいかないだろう。どうするのかと思って眺めていると、馬を降りて手綱を引きながら門に向かって歩き出す。慌てて馬を降りたエリシュカは、その後に続いた。
門の近くまで来ると、見張りの男が鋭い視線を向けてくる。足を止めたエリシュカを庇うように、ルカが数歩前に出た。
「突然すまない。馬に水をやりたいんだ」
「申し訳ありませんが、主が不在でして」
「そう。僕はイェリーネク家の者なんだけど、ちょっと馬に水をやるくらいで君の主は咎めるだろうか?」
「はっ、イッ、イェリーネク様! も、申し訳ありません。ただいまお持ちしますので、こちらでお待ちください」
門番の男は突然畏まった様子で、慌てて門に手を掛けた。キイキイと音を立てて開かれた先には、見覚えのある邸が佇んでいる。ひゅっと息をむと、ルカがちらりと振り返った。
門番の男が立ち去ると、ルカが目配せする。エリシュカが微かに頷いたのを確認すると、「大丈夫、すぐに済むから」と囁いた。
馬に水をやり終えると、早々にその場を離れた。ポクポクとのんびりした蹄の音とは裏腹に、エリシュカの心は波立っていた。あの邸は間違いなく二度目に死んだ場所だ。さっきから喉が狭くなったように感じて、何度も大きく息を吸い込んだ。あの地下室で水を飲んだときのことが思い出され、片手を首に添えた。
「リシュカ、ごめん」
ルカの気落ちした声に、はっとして隣に顔を向けた。眉を下げたルカが、心配そうにこちらを窺っている。どうにか笑みを浮かべたエリシュカは、首を横に振った。
「私が何でもするって言ったのよ。それに、ちゃんと分かってよかった。少しは役に立てたかしら?」
「ああ。でも、もっと慎重に考えるべきだった」
ルカの顔を見ているうちに、なぜか呼吸が楽になる。そうだ、今度はもうみんなが同じ目的に向かっている。隣にはルカがいる。そう思うと、肩の力が抜けて自然に笑みが浮かんだ。
「心配かけてごめんなさい。でも大丈夫。だって、今度は守ってくれるんでしょう?」
目を瞬いたルカが、すぐに真剣な顔で頷いた。
「もちろん。僕が……みんなも、絶対にリシュカを守るよ」
真っ直ぐに見つめられて、エリシュカは頬を染めて俯いた。今度こそ皆で六の月の七日を迎える。誰ひとり欠けることなくだ。




