5-7①
目を覚ましたエリシュカは、カーテンからかすかに漏れる陽の光に目を瞬いた。思いの外長く眠ってしまったようだ。母が亡くなってからはエリシュカの面倒を見る専属の侍女もいなくなり、こんな風に寝坊をしても誰に邪魔されることもない。ズラタの言いつけで、ルツィエもそう簡単にこの部屋を訪れることはない。具合が悪くて寝込みでもすれば、世話のためにきてくれるくらいだ。
大きく伸びをしたエリシュカは、ベルを鳴らして使用人に洗面用の水を頼むことにした。
身支度を整えた後は窓から外を覗き見る。どこかにオルダがいるはずだが、エリシュカの部屋からでは全く見えなかった。けれど、二度目のようにただ一人で屋敷に籠っているわけではない。仲間のうちの誰かが近くにいてくれると思うだけで、気持ちが随分楽になった。
昼間は勘を取り戻すためにナイフの練習をした。そんなことをしていても、誰も様子をみにくることもない。ずっと諦めていたこの生活も、今となってはむしろありがたくさえ思えるのだからおかしなものだ。
特に何事もないまま夜まで過ごし、夕食を終えて気になるのは窓の外だ。窓の前を何度も行ったり来たりと繰り返してみるが、エリシュカに何かができるわけでもない。腕を組んで唸り声をあげたところで、コツンと窓に何かが当たる音がした。
すぐにそちらへ駆け寄ると、分厚いカーテンを慌てて横に引き開けた。そのまま窓を押し開けて暗がりの中にある樹をじっと見つめていると、薄っすらとカーヤの姿が浮かび上がってきた。カーヤが握り込んでいた手を開くと、中から数個の小石が滑り落ちた。どうやら先程の音は、それが窓に当たった音のようだ。昨夜のルカも同じことをしたのだろう。
「リシュカっ、そっちに行くから横に避けて」
囁くようなカーヤの声に、エリシュカは慌てて窓枠から距離を取った。まさかルカのように飛び移るのだろうかと思うと、身体がブルリと震えた。
息を詰めて窓を見守っていると、ガサガサと木の葉の擦れる音の後に、ひらりと足先から滑り込むカーヤの姿が目に飛び込む。声を上げそうになり慌てて口を塞ぐと同時に、カーヤの身体が部屋の中央で止まった。
「あははっ、格好悪いところ見られちゃったね」
軽くホコリを払いながら立ち上がったカーヤが、振り向きざまに照れたように頬を掻いた。ほうっと息を吐いたエリシュカは、すかさず首を横に振る。
「そんなことないわ。驚いたけど、無事でよかった」
その場に座り込んだエリシュカを見て、カーヤが目を丸くする。「びっくりさせちゃってごめんね」と言いながらすぐ隣にしゃがみ、立ち上がりながらエリシュカを支えてソファに移動した。
「ねえ、オルダが反対したって聞いたけど、夜の見張りなんて大丈夫なの?」
「もちろん、平気だよ。ちゃんと条件もつけたしね」
そう言えばルカがそんな事を言っていた。一体それはなんだろうかと首を傾げたエリシュカに、カーヤが苦笑いを浮かべた。
「リシュカが迷惑だったら断ってくれていいんだけど。明け方までこの部屋に居てもいいかな? もちろん、床の隅っこでいいんだ」
目を見開いたエリシュカは、カーヤに向かって身を乗り出した。
「床なんて駄目よっ! そうだ、よかったらこのソファを使って」
「でもそれじゃあ、誰かが来たら困るんじゃない?」
エリシュカは気まずい笑みを浮かべて、「誰も来ないから大丈夫よ」と返す。カーヤは眉を下げて黙り込んでしまった。エリシュカは小さく笑みを浮かべて、明るい調子で口を開いた。
「死に戻りの前はずっと見ないふりして気にしないようにしてたけど、本当はちょっと辛かった。だけど、今は平気よ。皆がいるし、窮屈な思いもしなくて済むし。カーヤをこうやって迎え入れることだって簡単だもの」
複雑な笑みを浮かべたカーヤは、しばらくの間口を閉じた。やがて真剣な顔で、エリシュカを真っ直ぐ見つめた。
「私はリシュカに会えてよかった。会ったばかりなのに、なぜか心の靄がすっと晴れたんだ。あのときはすぐにわからなかったけど、リシュカの話を聞いて腑に落ちたよ」
少し間を開けてから、「リシュカはもう知ってると思うけど」と話を続けた。
「ルカに男装で騎士をすることを勧められて、私はとても救われた。だけど、時間が経つにつれて、本当にこれでいいのかなって思うようにもなってた。私には姉と妹がいるんだけど。彼女たちの華やかな装いが、少しだけ羨ましくもあったから。自ら望んで捨てたものなのに、なんて勝手なんだろうって思ってた」
「そんなことっ」
思わず声を上げたエリシュカに、カーヤは柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「ずっとね、男に勝てなきゃ価値を認めてもらえないって思ってた。でも、きっと何度もリシュカと出会ったおかげで、そうじゃないって分かったんだ。最後に本当の意味で救ってくれたのは、リシュカだよ」
「私は何も……」
最初にそれに気付いたのはカーヤ自身だ。次の出会いでは、エリシュカがそれを勝手に突きつけた。同じように居場所がないと迷子のようだったカーヤが、一人で先に行ってしまったようで寂しく思うこともあった。だからエリシュカのおかげだなんて、そんな風に言ってもらえるほどのことはしていない。
「リシュカに出会わなければ、今もオルダにだって勝たなくちゃってムキになってた。自分一人じゃこの答えにはたどり着けなかったよ」
「でもそれは、一度目にカーヤとオルダが言い争うところを見たからだわ。私はカーヤの本音も、オルダの苦しみも知ってたから」
カーヤの顔を見ることが出来ずに、俯き膝の上で両手を握り締めた。そのまま黙り込んだエリシュカに向かって、カーヤの柔らかな声が届く。
「リシュカ、下を向かないで」
その言葉にぱっと顔を上げる。
「いつのリシュカが、何を知ってたかなんて関係ないよ。何度出会っても、リシュカはきっと手を差し伸べるんだから。私だって何度でもリシュカを守るために力を尽くすよ。そうでしょう?」
前回も、その前も、カーヤは同じことを言っていた。それぞれのカーヤの姿が頭の中に浮かんできて、エリシュカは顔を歪めて唇を噛んだ。滲んだ視界の先では、困ったように眉を下げたカーヤがぼんやりと浮かび上がっている。立ち上がって隣に腰を下ろしたカーヤは、手にした手巾でそっとエリシュカの頬を拭った。
涙の止まらないエリシュカの背を、温かなカーヤの手が往復する。しばらくグズグズと鼻を鳴らしていると、段々気分も落ち着いてきた。
軽く背中を叩いたカーヤが、胸元から何かを取り出した。ふとその手元を覗き込んだエリシュカが息を呑む。不思議そうに首を傾げたカーヤが、躊躇いがちに口を開いた。
「今日みんなと待ち合わせて、あの宿へ行ったんだ。帰る途中で見つけた店で、なぜかすごく気になって……思わず買っちゃったんだけど。もしよかったら、どちらか一つを受け取ってくれないかな?」
そこに乗せられていたのは、生成りと鮮やかな朱色の飾り紐だ。エリシュカは再び込み上げて来そうな涙を堪えて、大きく息を吐いた。首を傾げていたカーヤが、はっとしたように口を開く。
「もしかして……」
「ええ。クラーロ・ヴァリの聖人のお祭りで、いつも同じ色の飾り紐を一緒に買ってたわ」
まじまじと自分の掌を見つめたカーヤが、納得したように頷いた。
「そう、だからなんだ。どうしても欲しくなって、思わず買っちゃったんだけど」
「ありがとう」
溢れんばかりの笑みを浮かべたエリシュカに、カーヤがホッとしたように破顔した。
「ねえ、カーヤ。いつか一緒にドレスを着ましょう」
「ええっ?」
「無理にとは言わないけれど」
じっと見上げていると、カーヤはしばらく視線を彷徨わせた。眉を下げて口を開きかけたところで、思い直したように頷いた。
「わかった。リシュカとなら、できそうな気がする」
「ええ、約束よ」
「その時は、この飾り紐を一緒に使おう」
照れたように笑ったカーヤの手を、両手で包み込んで頷いた。エリシュカよりもずっと硬く、とても淑女らしいとは言えない。けれどエリシュカは、このカーヤの手が心から好きだと言える。さっきカーヤはエリシュカに救われたと言ってくれたけれど、エリシュカだって何度もこの手に救われたのだから。
二人顔を見合わせて笑い合い、優しく穏やかな夜が更けていった。




