1-3②
ヒヤリとしたものが額に当たり、エリシュカは薄っすらと瞼を上げた。滲む視界の先には躊躇いがちに手を伸ばしたカーヤの姿が映る。
「あっ、目が覚めた?」
慌てて身体を起こそうとすると、カーヤがそっと肩を押して留めた。
「駄目だよ、急に起き上がったら。頭に血が回ってないんだ。もう少しゆっくり横になってて」
額に乗せられた布に手を当て、エリシュカは目を瞬いた。湿り気を帯びたその布は、恐らくカーヤの手巾なのだろう。先程感じた冷たさは、この手巾だったようだ。
「目が覚めたのか?」
いつの間にか側に立っていたのは、一番最初に乗客たちに声を掛けてきた若者だ。膝をついたカーヤの上から顔を覗かせ、気遣うように声を掛けてきた。
「少し話せるかな? 僕はルカだ」
エリシュカは小さく頷き、カラカラに乾いた口をゆっくり開いた。
「わ……たし……、……リ……シュカ」
掠れ声で音が途切れてまともに答えることができない。軽く咳き込むと、カーヤがそっと背中に手を回した。
「リシュカ? もし起き上がれそうなら、水を飲んだほうがいい。無理せずゆっくりね」
まともに名乗れなかったせいで、図らずも誰も呼んでくれない愛称になってしまった。胸の奥がジリジリとして、何とも言えない気分になる。
身体を起こすとカーヤが先ほどと同じように、革袋を差し出した。今度はしっかり両手で受け取り、少しずつ喉を潤す。じわりと水分が身体に染み渡り、スカスカだった部分が満たされていく。
「あの、ごめんなさい。私、迷惑をかけてしまったみたいで」
「いいや。荒事に慣れてないお嬢さんなら、誰だって同じようなもんだよ。むしろ君は、叫んだりもせずに耐えたんだ。だから気にしなくていいよ」
革袋を受け取ったカーヤが肩を竦める。その横にしゃがみ込んだルカも、同意するように深く頷いた。
「ところでリシュカ。随分顔が汚れてるけど」
「え?」
躊躇いがちに尋ねるカーヤの言葉に、エリシュカは慌てて両手を頬に当てる。ふとパヴェルに塗ってもらった靴墨を思い出し、途端に頬を染めた。カーヤもルカも、見るからに貴族といった出で立ちだ。オルダとマテスと呼ばれた二人も、恐らく貴族だろう。よく見れば二人とも上品な顔立ちで、油臭いエリシュカは一体どう思われているのだろうか。じんわりと汗が滲むが、顔色が変わってもこの黒さでは誰にもわかるまい。
「もしよければ、商人の馬車に石鹸があったから落としてみる? 水も積んであったし、顔を洗うくらいなら借りてもいいと思うけど」
カーヤに顔を覗き込まれ、下を向いたエリシュカは素早く数回頷いた。
「じゃあ、いこう」
差し出されたカーヤの手に引かれ、ゆっくりと立ち上がる。カーヤとルカの後に続き、商人の馬車の方へ歩いていくと、捕縛した盗賊の前にオルダが仁王立ちしていた。眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな表情だ。
「あいつは剣士のオルダ。顰め面はいつものことだから、気にしなくていい。ちょっと無骨なやつだけど、頼りになるんだ」
カーヤから一歩遅れてエリシュカの横に並んだルカが、オルダに視線を送った。気付いたオルダが軽く手を挙げ、エリシュカは思わず小さく腰を落とした。オルダは頷いて返し、そのまま盗賊たちの見張りに戻った。
「さあ、リシュカ。石鹸があるからこれで炭を落として」
辿り着いた馬車の荷台から降りてきたカーヤが、石鹸と桶に入った水をエリシュカに差し出した。礼を言って受け取ったエリシュカは、石鹸を水に濡らして顔を洗った。簡単には落ちないが、何度か洗っていると黒いものが混ざらなくなる。ようやくすすぎ終えて顔を拭こうとすると、後ろから布が差し出された。
「よかったら使って」
「ありがとう」
カーヤに手渡された大きめの布で顔を拭うと、気分も大分すっきりとした。黒い靴墨と共に、胃の奥にくすぶっていた重だるさも軽くなったような気がする。大きく息を吐くと共に顔から布を離し、ゆっくりと振り返る。その瞬間――ルカとカーヤが息を呑む音が聞こえた。
「……なるほど、予想はしてたけど、これは顔を黒くしても目立つわけだ」
腕を組んで感心したように呟いたカーヤの横で、ルカは絶句したまま目を数回瞬いた。
「あの……まだ落ちてない?」
「ううん、綺麗に落ちてるから大丈夫」
ふわりと微笑むカーヤの横で、ルカは不自然に目を逸らした後で「そうだね」と呟いた。首を傾げたエリシュカに、カーヤが軽い笑い声を立てた。
「リシュカ。君、そんな格好をしてるけど貴族だよね?」
エリシュカはビクリと肩を揺らし、視線を左右に彷徨わせた。
「何か事情があるのはわかるし、言いたくなければ聞かないけど。どこへいくつもりなの?」
「あの、それは……母の実家へ」
「ふうん?」
首を傾げたカーヤが口を開きかけたところで、遠くから馬の蹄の音と共に人の声が響いてくる。
「お待たせー」
何とも軽い調子で馬上から手を振っているのは、先程警備隊を呼びにいったマテスだ。その後ろから土埃を上げて、揃いの制服で馬を走らせる十名ほどの男たちがやってきた。彼らは警備隊だろう。マテスとは打って変わってみな厳しい表情を浮かべている。
「案外速かったな」
盗賊たちを引き渡しながら、オルダがマテスに声を掛けた。その姿を見て、エリシュカはぶるりと身体を震わす。
「リシュカ、これからどうするつもり?」
ルカはエリシュカの視線を遮るように一歩前に出た。
「旅を続けるの?」
エリシュカは一瞬言葉に詰まるが、やがてしっかり頷く。
「母が亡くなる前に、十六になったら行かなきゃいけないって言ってたの。だから、行くわ」
「そうか」
腕を組んで少しの間逡巡したルカが、再び口を開いた。
「それなら、僕らと一緒に行こう」
エリシュカは目を瞬き、首を傾げた。
「でも、皆はどこかへ行く途中だったんじゃないの?」
「ちょっとした用事で王都を出たところなんだ。急ぐ用件でもないし、僕らも旅の経験を積めるから丁度いい」
カーヤとルカの顔を順に見比べたエリシュカは、それでもすぐに頷ことができずに視線を落とした。一人よりは確かに心強い。しかし、エリシュカにとって貴族の世界もまた不慣れだ。母が亡くなってから満足な教育を受けていない。彼らが一体どこの家のどんな人物なのか、家名を聞いたところでわかるはずもない。
「どうしたんだ? なんか深刻そうな顔してるけど」
両手を頭の後ろで組んで歩み寄ってきたマテスが、そのまま拳を上に突き出し伸びをした。
「お前は随分呑気だな」
マテスを追い越しざまにチラリと視線を送ったオルダが、眉間に皺を寄せてエリシュカを覗き見る。
「顔色は大分いいようだ」
顎に手を当ててじっと見つめてくるオルダに、エリシュカは思わず後ずさった。すると、ルカがオルダの肩に手を置き二度軽く叩く。そのままそっと後ろに引くと少し咎めるような声音で口を開いた。
「オルダ、そんな風に覗き込むなよ。リシュカが驚いてるだろ」
目を瞬いたオルダがルカとエリシュカを見比べた。
「すまん」
両手を顔の横に挙げたオルダが、肩を竦めて一歩下がった。
「いいえ……心配してくれてありがとう」
オルダは小さく口の端を上げて頷いた。
四人の顔をぐるりと見回したエリシュカは、ごくりと喉を鳴らす。彼らに悪意はなさそうだ。エリシュカを騙しても得になることなどない。それなら単に、自分のような世間知らずの一人旅を放って置けないだけなのかも知れない。
「あの、さっきの話だけど……目的地まで一緒に行ってもらえる?」
エリシュカはルカに視線を戻し、その顔をまっすぐ見つめる。一瞬目を逸らしたルカは、軽く頭を掻いてから姿勢を正した。
「もちろん。……よろしく、リシュカ」
胸に手を当て少し身体を折り曲げたルカに倣い、オルダも同じように身体を曲げた。カーヤは柔らかな笑みを浮かべながら優雅に、マテスは戯けるように軽やかな仕草だ。エリシュカもワンピースの端を摘んで軽く腰を落とした。
「じゃあ、さっさと出発しようぜ」
マテスが愉しげに声を上げ、自分の馬に飛び乗った。
「そうだね。リシュカは私の馬に乗って。……それでいいよね、ルカ?」
「……ああ、それがいい」
エリシュカが戸惑っているあいだに、カーヤが優雅に馬に跨る。躊躇うことなく差し出された手に、思わず腕を伸ばした。すると、すぐ側で膝を落としたオルダが両手を組んでエリシュカを見上げた。
「俺の手に足を乗せるんだ」
「え?」
驚くエリシュカを他所に、カーヤはエリシュカの両腕をしっかり掴む。
「オルダ、頼んだ」
その声と共に軽く身体が浮き上がり、足が地面から離れた。息を呑んだその刹那、オルダの手がエリシュカの地面になる。あっという間に下から押し上げられ、気付けばカーヤの前に座っていた。エリシュカよりあたまひとつ分高い位置にある整った中性的な顔が目に飛び込み、思わず頬に両手を当てた。熱くなる顔を隠したくて下を向くと、上からくすりと笑い声が落ちてくる。
「リシュカ、速く走らせたりはしないけど、揺れるからしっかり掴まっていて」
エリシュカの腰に片手を回し、慣れた様子で手綱を握るカーヤの声が耳元に響く。何度も頷いたエリシュカは、しかしどこに掴まるべきかわからない。こんな風に誰かと馬に乗ったことなど――いや、乗馬すら初めてなのだから。恐る恐る目の前にある腕に掴まると、思いの外細くしなやかだ。思わず顔を見上げると、ふっと息を漏らしたカーヤが馬に合図を送った。
二人の様子を眺めていたマテスは、面白そうに笑みを浮かべた。オルダは口をへの字にして肩を竦めて馬に向かう。ルカは何とも言えない顔で頭をくクシャクシャとかき混ぜたあとに、自分の馬に跨った。
不慣れなエリシュカに合わせてゆっくりと進む四人は、他愛もない話をしながらのんびりとした様子だ。カーヤに掴まり落ちないようにと必死なエリシュカは、彼らの会話があまり耳に入ってこない。時折カーヤがエリシュカの座る位置を直してくれるのだが、その度に身体が硬くなる。申し訳なさと恥ずかしさが入り混じり、カーヤの顔どころか誰の顔も見ることができなかった。
ようやく町に辿り着き、ルカの手も借り馬から降りるが、今度はしっかり歩くことができない。腰と尻だけでなく、全身が凝り固まって上手く動けないからだ。そんなエリシュカを他所に、ルカとマテスがいつの間にか宿を取っていた。エリシュカ一人ではこんな風に手際よく進めることはできなかっただろう。
宿からほど近い食堂で彼らに倣って食事を済ませ、ようやく身体がほぐれてきた。やはり彼らと旅をすることに決めてよかったと、ほっと息を吐いたところで、マテスが信じられないことを言い出した。
「リシュカ。君はカーヤと同じ部屋だから」




