5-2②
今までと同じように、ルツィエに頼んでおいた服に着替える。もちろんパヴェルのズボンも履いた。出発は前回と同じか僅かに遅いかも知れない。気が急くが、エリシュカになにかができるわけでもない。大人しく馬車の荷台に隠れていると、町の喧騒が近づいてきた。
馬が鼻を鳴らす音と共に、ギシリと馬車の車輪が軋む。急いで麻布を跳ね除けると、パヴェルが驚いたように振り向いた。
「エリシュカ様っ、急に出てきたらびっくりするじゃないですか」
「ごめんなさい、パヴェル。早く行かなきゃいけないところがあるのよ」
「なんですって? お嬢様が町へ出るなんざそう滅多にないことなのに、一体どこへ?」
「広場で探したい人がいるの」
怪訝な表情を浮かべたパヴェルが、荷台を降りようとしたエリシュカに慌ててマントを被せた。
「これは譲れませんぜ。それから……」
小さな壺を手にしたパヴェルに、エリシュカは首を横に振る。
「靴墨は要らないわ、パヴェル。すぐに仲間と合流するから、心配しないで」
「ええっ、なんですって! 今仲間とおっしゃいましたかっ? 冗談を言っちゃいけませんぜ。お嬢様、まさか怪しい輩に騙されてるんじゃ……」
「ふふっ、どうかしら。まだわからないけど……でも、それを確かめに行くのよ」
「そんなっ、危ないですって。お嬢様に何かあったら、俺はルツィエにもマルケータ様にも合わせる顔がありませんぜっ」
荷台を飛び降りたエリシュカは、パヴェルに向かって明るい笑みを返した。
「大丈夫よ、パヴェル。ちゃんと助かるために行くのよ。今度こそ必ず戻ってくるから、私を信じて」
「しかしっ」
更に何かを言おうとしたパヴェルは、真剣な面持ちのエリシュカを見て口を閉じた。一度唸り声を上げた後に、キャスケットの上から頭を掻いた。
「なんだか分からないが、どうにもお止めすることはできそうもない。はあ、仕方ない。ルツィエと信じて待ってますよ」
「ありがとう、パヴェル」
再び笑みを浮かべたエリシュカは、パヴェルの腕を引いてラディムの元へ向かう。まずは車軸の故障を伝えなければ。ラディムのいる場所はもう分かっている。彼と会うのは今回で五度目なのだから。先を歩くエリシュカの後を、不思議そうな顔をしたパヴェルが追っていく。迷いなくラディムの馬車の横に辿り着くと、笑みを浮かべて話しかけた。
「初めまして、ラディムおじさん」
「ん? なんだい、随分綺麗なお嬢ちゃんだな。ははっ、俺にこんな姪っ子がいたかな?」
「そんな訳あるか。何をバカなことを言ってるんだ、ラディム」
後ろから呆れ顔で声を掛けたパヴェルに、ラディムはムッとしたように答えた。
「うるせえな、パヴェル。このお嬢ちゃんが先に俺をおじさんって呼んだんだぜ」
肩を竦めたパヴェルが、エリシュカを見下ろして首を傾げた。
「ねえ、ラディムおじさん。この馬車、車軸が壊れてるから見たほうがいいわ。このまま走り出したら、途中で壊れて大変な目にあうわよ」
「はっ? お前さん何を言い出すんだ。おいパヴェル、お嬢様の気まぐれならよそでやってくれ。俺を巻き込むなよ」
ラディムの荷台には、既にホンザ母子や他の乗客も乗り込んでいた。不思議そうに振り向いたホンザと目が合って、エリシュカは自然に笑みが溢れた。ホンザが驚いたような顔をした後に、顔を赤く染めて母親の袖を引いた。母子がエリシュカを見るより先に、エリシュカはラディムに視線を戻した。
「もしも壊れてなかったら、パヴェルに借りたお金は私がなんとかするわ。だから、試しに確かめてくれない?」
「なんだって?」
「お、お嬢っ……」
一旦口を閉じたパヴェルが耳元で、「どうして金の話をご存知で?」と慌てたように尋ねてくるが、首を傾げて誤魔化した。
ラディムはパヴェルのことをじろりと睨み、腕を組んで唸り声を上げた。しかしすぐにひとつ頷くと、「いいだろう、約束だぞ」と言いながら荷台の下に潜り込んだ。しばらくすると苦しそうにうめき声を上げながら這い出して、埃を払って立ち上がる。
「参ったな、嬢ちゃんの言うとおりだった。なんでわかったんだ?」
「それは秘密よ。でも、当たってたからいいでしょう?」
「まあな。このまま走ってたら面倒なことになってた。礼を言うぜ。ありがとよ、嬢ちゃん」
ラディムは馬車の荷台を振り向き、乗客たちに声を掛けた。困ったように頭を掻く者や、迷惑そうな表情で荷台を降りる者、仕方ないと言った風に荷物を背負う者など様々だ。
「じゃあ、私は他にいくところがあるから、これで」
「お嬢様、なんだか分からないが随分頼もしく思えますが……それでも気をつけてくだせえよ」
「ええ、パヴェル。じゃあ、いってきますっ」
「いってらっしゃいませ」
キャスケットを胸にパヴェルがエリシュカを見送る。笑みを浮かべて踵を返し、馬車の荷台を通り過ぎようとしたそのとき。
「お姉ちゃんっ」
聞き覚えのある声の方を見ると、そこには笑みを浮かべたホンザがいた。
「これ、あげるっ」
ホンザが差し出したのは、干したプラムだ。母親が申し訳なさそうに俯くが、エリシュカは笑みを浮かべて手を伸ばした。
「ありがとう、ホンザ」
「うんっ。……あれ? お姉ちゃん、なんで僕の名前」
ホンザが言い終わる前に、エリシュカは黒く硬い実を口に放り込んで走り出した。次は彼らを探さなくては。
石畳を蹴りながら、心臓がどくどくと暴れ出す。走っているせいなのか、緊張のせいなのか。絶対に会えると思っていても、顔を見るまでは安心などできない。はあはあと息が切れ、元に戻った体力のせいで心臓がぎゅうぎゅうと絞られるように痛む。それでも足を止めることはできない。早く早くと焦ってみても、これ以上は足が動かない。通行人にぶつかりそうになりながら、あるいはぶつかりながら、エリシュカは広場を目指して走り続けた。
ようやく目的の場所に到着すると、肩でぜえぜえと息をしながら広場を見渡す。前回彼らがいたのはどこだろう。額の汗を拭いながら、きょろきょろと辺りを見回した。
人混みの中にその姿が見当たらず、胸の奥が酷くざわつく。もしかしたら会えないのかも知れない。エリシュカが行動を変える度、様々なことが変化するのだ。前回あんなことになって、本当に死に戻りで全てが戻るのかも分からない。けれど、商人だって生きていた。それならきっと――。ぐるぐると頭の中を思考が渦巻き、人波を縫う視界がじわりと滲む。泣いている暇などないのに、勝手に浮かんでくるそれを手の甲で払った。
そのとき、彼らの姿が視界の端を掠めた。示し合わせたように集まってきた三人は、軽く挨拶を交わして何かを話し始めた。そこにいたのは、片手で頭を掻きながら何かを話しているルカ。肩を竦めて呆れたような表情を浮かべたカーヤ。それから大きな後ろ姿はオルダだろう。きっと振り向けは眉間に皺を寄せているに違いない。しかし、あと一人が足りない。
心臓が口から飛び出してしまいそうなほどに鳴り響き、耳元で脈打つようだ。その音で周囲の喧騒も聞こえないほどになり、エリシュカは血の気の引いた顔で立ち尽くした。ごくりと喉を鳴らして一歩踏み出したところで、少し離れたところから片手を挙げて歩いてきたのは――マテスだ。
エリシュカは滲みそうになる涙を堪え、足を一歩踏み出した。人にぶつかるのも気にせず、彼らに向かって一気に駆け出す。まるでエリシュカの時間だけが遅くなってしまったかのように、中々前に進まない。逸る気持ちばかりが先走り、何度も躓き転びそうになった。あともう少しで辿り着く。エリシュカは思い切り大きな声で、その名を呼んだ。




