4-8②
昼食の後は礼拝堂へ向かい、魔女の石板を確かめた。
『聖なる石が砕かれし時、大いなる力は盃を満たさん』と、刻まれる文字は何一つ変わることはない。エリシュカがその文字を指で辿ると、後ろから三人が覗き込んできた。
「この文言は……つまり神父の言っていた、悪魔との契約を指すのか」
「そうだね。それにしても、聖なる石が砕かれるっていうのは、ペンダントの石そのものなのかそれとも――」
「契約者の命とも取れるのか? 盃は神父の盗まれた盃そのものだろうな」
石の冷たさが指を伝い、エリシュカは小さく身震いした。思わず指先を握り込むと、隣にルカが膝を付いた。同じように文字を指で辿ってから、エリシュカに視線を向ける。
「リシュカ、今度こそ大丈夫。絶対に今日と、明日を乗り越えよう」
「……ええ。ありがとう、ルカ」
頷いたルカが立ち上がり、エリシュカに手を差し出した。手を握ると力強く引かれ、その場にしっかり立ち上がる。カーヤとオルダを振り向けば、二人も力強く頷いた。四人はそのまま邸へ戻り、夕食までのときをのんびり過ごすことにした。
客間のソファに座って話をしていると、邸の中が騒がしくなる。何事かと顔を見合わせた四人は、しばらくしても収まらない様子に怪訝な表情を浮かべた。胸の奥にあるもやもやとしたものが大きくなり、エリシュカは思わず立ち上がった。
「私、見てくる」
「リシュカっ」
焦ったように名前を呼んだルカが、そのすぐ後を追った。
「えっ、まっ、待ってよ!」
「おいっ」
カーヤとオルダも慌ててそれに続き、四人は邸のホールへ集まった。開け放たれた扉の内側で、見知らぬ男とミロシュが何か揉めているようだ。こちらに気付いたミロシュが、四人に気まずそうな顔を向けた。
「騒がせてしまって、申し訳ない。ちょっと問題が起きたようなんだ」
「何があったんですか?」
ルカの問いかけに答えようとしたミロシュへ、訪ねてきた男が慌てた様子で声を張り上げた。
「領主さまっ! 頼みますよ。この町で人が死ぬなんざ、病気以外ではそう滅多にないんだ。しかも貴族様だなんてっ!」
「お客様の前でする話じゃない。さあ、詳しく聞くから入ってくれ」
二人のやり取りを見ていたエリシュカは、うるさく鳴り始めた心臓の音にごくりと喉を鳴らした。貴族とは誰のことだろうか。エリシュカを尾行していた誰かなのか、それともアダムなのか。もしくは、まさか――。そこまで考えたところで、ルカが一歩前に出た。
「ミロシュ殿。僕たちも話を聞きたい。その貴族に心当たりがあるかもしれません」
「なんですって? あんたがたのお知り合いですか? なら早く確かめてくだせえっ」
困ったように眉を下げたミロシュは、少しの間「いや、しかし」などと言いながら落ち着かない様子だ。やがて諦めたように頷き、男にその場所へ案内するように促した。
エリシュカは邸で待つように言われたが、どうしてもと強引についていくことにした。カーヤの馬で一緒に行くのならと、ルカが渋々妥協する。誰の亡骸であっても、正気を保つことは難しいだろう。
オルダが知らせに来た男を自分の後ろに乗せ、ミロシュも馬に跨り共に向かう。町の警備隊は既に向かっているようだが、どう取り扱えばいいのか困っているのだという。
エリシュカはそんな話を上の空で聞きながら、知らない誰かで合ってほしいとそればかり考えていた。ぐるぐると頭の中を巡るのは、どういうわけか昨夜のマテスの笑った顔だ。暑いわけでもないのに額に汗が浮かび、きつく唇を噛み締めた。
「おーーい! こっちだ!」
現場と思われる場所には、既に人が集まっていた。少し手前で馬を降りた一行は、それを掻き分けるようにして近づいていく。領主の姿に気付いた者から道を開け、遂には横たわる誰かの姿が見えるようになった。
「ああ……嘘だろう」
「そんなっ!」
「どういうことだっ」
ルカが片手を額に置いて呟くと、カーヤとオルダが駆け寄り亡骸の横に膝を付いた。エリシュカが恐る恐る三人の視線の先を辿ると、そこには仰向けに寝かされた男がいた。どくんとひときわ大きく心臓が脈打ち、一瞬にして男の周囲から色が消え音すらしなくなる。呼ばれるようにしてゆるりと足を進めると、その姿を見下ろした。
足元から這うようになぞっていくが、だらりと伸ばされた腕に続く指先はピクリとも動かない。呼吸も感じられない腹の上から胸にかけて、大きく赤い染みが広がっている。ゆっくり首の先を辿ると紙のように真っ白で、その顔にいつもの笑みは浮かんでいない。それは、マテスだった。顔を見ているのはずなに、胸元の染みの赤が目につき、視界がぐらぐらと揺らぐ。それはまるで神父が口元を拭ったときに見た、あの果実水のようで。
「リシュカっ」
突然耳元で掛けられた大きな声に、はっと意識を取り戻した。心配そうに覗き込むルカに、「大丈夫」と言おうとして、ガクガクと顎が震える。絞り出そうにも喉の奥が狭くなり、何の音も出て来ない。顔を歪めたルカが伸ばした手を取らずに、エリシュカはマテスの直ぐ側へ近寄った。カーヤの隣にふらふらと膝をつき、マテスの顔を覗き込む。
『リシュカ。君はカーヤと同じ部屋だから』
初めて会った日のマテスが、エリシュカを誂うように言った言葉だ。
『聖水を飲んじゃって、思わず『何だよこのクッソまずい水!』って叫んだら、親父から思い切り頭にゲンコツを食らって酷い目にあった』
ヴラノヴァーの洗礼に向かう理由を話すとき、いつも一度目の洗礼式と亡き母の話でどこか空気が重くなる。そんなときは、必ずマテスがこの話を持ち出した。回を重ねるごとに、同じ気持ちで笑うことができなくなったが、いつだってマテスは同じように戯けていた。
『名物の温泉せんべいだ。ここにきたらまずはこれを食べなきゃ』
祭りの度に、大きな丸い菓子をエリシュカに差し出した。自分で作ったわけでもないのに、なぜかいつも得意げに。
『僕も信じるよ。マテスと呼ばれたときに、なぜかすごくしっくりきた。今まで何度も呼ばれてたみたいな気がしたんだ』
勘が鋭くて、なのに人懐っこい笑みをう浮かべるから、つい気を許してしまう。
『なんでも自分が正しいと思ってるルカは、そろそろ思い知ったほうがいい』
『リシュカ、魔女の力を手に入れて僕に協力してよ。そうしたら命は助けてあげるし、君だって好きに生きられるさ』
それなのに、皆を裏切るようなことを言い残して。
『後悔するなよ』
悪戯を仕掛けるようなあんな笑みを浮かべて言った一言が、まさか最後になるなんて。
「……じゃない」
「リシュカ?」
エリシュカの途切れ途切れに口から漏れた呟きに、カーヤが顔を上げた。
「……わけないじゃない」
エリシュカは一度俯いてから、拳を握り締めてマテスに向かって口を開いた。
「後悔なんて、しないわけないじゃないっ! マテスのばかっ! どうしてよ……どうしてなのよっ!」
『疑ってるのに一人で後をつけるなんて、勇気があるのか考えなしなのか。カーヤに声をかければよかったのに』
本当にそのとおりだ。あのときカーヤを連れていけば、何かが変わっていたかも知れない。マテスが裏切り者だったとしても、皆が傷ついたとしても。昨夜のマテスと今まで一緒に過ごした四ヶ月分のマテスが、エリシュカの頭の中を一気に駆け巡る。
何が本当のマテスで、何が偽りのマテスなのか。四ヶ月も一緒に過ごしたと思っていたのに、その実たったの四ヶ月だ。心から信じ切るにはまだ足りなくて、心底疑うのには長く一緒に過ごしすぎたのか。ただ目の前の物言わぬ姿に、どうしてという言葉だけが浮かんでは消えていく。
周囲の景色が黒く染まり、その中にぽつんと白く浮き上がる血の気の失せたマテスの顔を、エリシュカはただ呆然と眺めていた。
次章、最終章です。
残り約11万文字で完結となります。




