4-7③
「とにかく明日、明後日と無事に過ごせればそれでいい。後のことはそれから考えよう。僕らはリシュカとずっと一緒にいることはできないから、その間はカーヤ、頼むよ」
「もちろん」
カーヤは真剣な面持ちでエリシュカを見つめながら頷いた。エリシュカは笑みを浮かべて頷き返し、他の三人に順に視線を向けた。三人も同じように真剣な表情で頷き返すが、マテスの本心がわからない。本当にヴァーツラフが黒幕だったとして、その見張り役がマテスではないとは言い切れないのだ。マテスが言っていることが本当のことだったとしても、何も隠していないとは限らない。
「じゃあ僕は主人に声を掛けてから行くから、皆は先に戻っててくれよ」
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がったマテスが、厨房に向かって歩き出した。エリシュカはその後ろ姿をしばらくの間眺めていた。
部屋に戻ったエリシュカとカーヤは、手早く寝支度を整えて床に就いた。今夜はまだ何も起こらないはずだが、エリシュカはどうにも落ち着かない。微かな寝息を立てるカーヤを窺いながら、そっと寝台から足を踏み出した。
そわそわした気分を紛らわせようと窓の外に目をやると、月明かりに照らされた道がよく見えた。人影もなく特に変わった様子がないことに、ほっと息を吐いた。そのまま向きを変えようとしたところで、視界の端を過ぎる影に、心臓が大きく跳ねる。慌てて道に目を凝らすと、そこに居たのはマテスだった。
どくどくと脈打つ音が頭に響き、全身に冷や汗が吹き出す。カーヤを振り向くと、微かな寝息を立てて眠っている。声を掛けるか迷うが、それも一瞬のことだ。寝台に置いてあったマントを慌てて羽織ると、振り切るように部屋を出た。エリシュカは音を立てぬように、しかし急ぎ足で宿の出入り口へ向かった。
宿の扉をそっと開けると、マテスの後ろ姿が遠ざかっていく。きょろきょろと辺りを見回すと、他には誰も居なかった。ごくりと喉を鳴らし、一度身震いをしてから扉をするりと抜け出した。
背中を見失わないように小走りで追っていくと、ふいっと建物の角に消えていった。急いでその場所へ向かい、勢いよく角を曲がる。その瞬間目の前にあった黒い壁にぶつかりそうになり、慌てて足を止めた。
「はぁ、リシュカ。全然尾行に向いてないね。これじゃあ、後をつけてますって言ってるようなもんだぜ?」
呆れたようにエリシュカを見下ろすのは、マテスだ。いつもと変わらぬ調子なのは、どういうことだろう。
「……人の後をつけるなんて、したことないもの。次やるときには気をつけるわ」
「あははっ、そりゃいいね! だけど僕は生半可な尾行じゃすぐに気づくから、相当な訓練をしてきてくれよな」
軽く笑い声を立てたマテスからは、何の後ろめたさも感じない。ただ情報屋として行動しているだけだったのだろうか。エリシュカは考えがまとまらずに、口を閉じた。
「で、リシュカは僕を疑ってるってことでいい?」
ぐっと息を呑んだエリシュカは、マテスの顔を見ることができずに視線を彷徨わせた。マテスは「正直者だなぁ」と言いながら、くすくすと笑っている。
「疑ってるのに一人で後をつけるなんて、勇気があるのか考えなしなのか。カーヤに声をかければよかったのに」
「……だけど、もしも。もしもマテスが裏切ってるなら、きっとカーヤは悲しむわ。それに、まずは話を聞いてみたかったから」
目を瞬いたマテスは、「なんだよそれ」と言いながら困ったような笑みを浮かべた。
「どうして僕が怪しいと思ったのか聞いても?」
「……さっきは言わなかったけど、マテスは一度目のときから、一人でどこかへ行くことが多かったわ。夜にこうやって宿を抜け出すのを見たこともある。だけど、それがなぜなのか怖くて聞けなかった。皆もマテスがこうして抜け出してることは知ってるの?」
「さあ、どうかな。僕が一人で別行動をするのはいつものことだし、情報屋ってのは秘密が多いものだからね」
一度言葉を切ったマテスは俯き、少しの間考え込むように黙り込んだ。それからゆっく顔を上げ、見たこともないような――いや、何度か見たことのある鋭い視線でエリシュカを射抜いた。
「みんな随分リシュカのことを気に入ってるよね。特にルカ。今まで出会った女の子たちには目もくれなかったのに。どうして君なんだろうな? 死に戻りの間に何か特別なことでもあったのか?」
エリシュカは黙り込んだまま、青ざめた顔でマテスを見上げた。いつものように気楽に話せるような雰囲気ではない。背筋に一筋汗が流れ、カーヤに声を掛けなかったことを今更後悔した。
「まあ、いいか。それより実は、僕が本当は黒幕も狙いも知ってるって言ったら、リシュカは信じる?」
ひゅっと息を飲んだエリシュカは、何も言わずにマテスを見つめた。
「実は僕、全部知ってて今まで皆を――ルカを騙してたんだ。リシュカも僕の提案に乗ってくれるなら、命は助けてあげるよ。どうする?」
「どういうこと?」
口の中がカラカラに渇き、絞り出した声は掠れている。無意識に握り込んだ拳が微かに震え、思わずマントの袷に着けたブローチを握り締めた。マテスがその様子に一瞬目を細め、軽く口の端を上げた。
「僕ら三人は、みんなルカに助けてもらった恩がある。だけどいつまで恩を返せばいい? 僕はそろそろ降りようと思ってる。今回の依頼を失敗すれば、ルカの評価は自ずと下がる。カーヤのこともオルダのことも、ルカは自分が正しいと思ってやってきたことだ。だけど結果は? 全部リシュカにひっくり返された。その程度のことだったんだ。なんでも自分が正しいと思ってるルカは、そろそろ思い知ったほうがいい」
冷めた目つきで見下ろしてくるマテスに、エリシュカはごくりと喉を鳴らした。何かを言い返したいのに、何も言葉が出てこない。マテスがこんな風に考えていたなどと、今まで全く想像もしていなかった。
「今回の依頼は、ちょうどよかった。リシュカ、もう一度死に戻ってくれないか。魔女の力を手に入れて、僕に協力してよ。そうしたら次は命を助けてあげるし、君だって好きに生きられるさ。失敗して落ち込んだルカを手に入れることだって、きっと簡単だぜ?」
「嫌よっ! そんな風に人の心を手に入れたって、意味なんかないわっ。それに、マテスは覚えてないだろうけどっ。皆も、誰も覚えてないけど! 私はもう何度もあなた達に会ってる。みんなにとってはたったひと月だけど、私にとってはかけがえのない四ヶ月よっ! こんなんでどうやって裏切れって言うのよ! それに私……魔女の力なんて欲しくないっ」
一度に言い切ったエリシュカは、肩で息をしながらマテスを睨みつけた。マテスは虚を突かれたような顔をして、目を瞬いた。すぐにふっと息を吐き出すと、どうとも取れるような笑みを浮かべる。
「それは本心か? ……本当にいいんだな?」
「いいわ。私、絶対にみんなを――ルカを裏切ったりしない。そんなことしなくても、ちゃんと死に戻りから抜け出してみせるわっ」
「あははっ、リシュカって案外図太いんだな。自分が死ぬことより、皆を裏切ることのほうが嫌なんだ」
おかしそうに笑ったマテスは、今までとひとつも変わらない。先程まで纏っていた重い空気が消え去って、まるで何事もなかったかのようだ。それから何度も見たことのある、悪戯を仕掛けるような笑みを浮かべて続けた。
「後悔するなよ」
マテスはその一言を残して踵を返し、あっという間に暗闇の中へ消えていった。一歩遅れて後を追おうと足を踏み出すが、既にその後ろ姿は跡形もなく消えていた。エリシュカがここで追いつけたのは、わざと誘い込まれたということだろう。
もやもやとしたものを抱えたまま、ブローチを一撫でして踵を返した。肩を落として宿に引き返すと、カーヤは変わらず寝息を立てていた。ほっと胸を撫で下ろし、再び寝台に潜り込む。
明日になったら今度はみんなの前でマテスを問い詰めるべきか。その時の皆の反応を思い浮かべ、胸の奥がずきりと痛む。それでもマテスの本心を聞いたからには、このまま放って置くわけにはいかない。
口が上手く付き合いの長いマテスに、エリシュカは勝ち目などないかも知れない。先程から腹の中に渦巻くものが心地悪く、何度も寝返りを打った。そうしてぐるぐると考えを巡らせているうちに、いつの間にか暗く深い穴に落ちるように眠りについた。




