4-1②
「あの、お姉様」
「お嬢様っ」
テレシエが口を開くのと同時に、ルツィエの声が響いてきた。振り返ると、ルツィエはそわそわと視線を巡らせている。周囲を窺うようにしながら近付くと、エリシュカにだけ聞こえるように耳打ちした。
「エリシュカ様、ズラタ様がこっちへ向かってますよ」
「そう、ありがとう。今行くわ」
アダムとテレシエに視線を戻すと、アダムは下を向いたまま肩を落としている。テレシエは泣きそうな顔でエリシュカを見ているが、エリシュカにはどうすることもできない。それにズラタと顔を合わせるのも面倒だ。邸を抜け出せなくなってはたまらない。
「私はこれで失礼するわ。次に会うときまでにどうするべきか、あなたたちも考えておいて」
踵を返したエリシュカは、二人の返事も聞かずに真っ直ぐその場を後にした。
ルツィエの用意した服に着替えたあと、麻布を被ってパヴェルの馬車に身を潜めた。返しそびれた婚約指輪は、服のポケットにしまい込んでいた。ポケットの中に手を入れ、掌にぎゅっと握りしめる。そう言えばこの指輪を外すと、いつもすっきりする。一度目の旅で湖に入ったとき、妙に身体が軽かった。あのときは光に包まれた高揚感と、指輪から解放されたせいだと思っていたが。もしかしたら、それだけではないのかも知れない。
「お嬢様、着きましたぜ」
いつの間にか町の喧騒の真っ只中に馬車が停っていた。パヴェルが靴墨の壺を手にしたのを見て、エリシュカは慌ててその手を止めた。
「パヴェル、それはしなくていいわ」
「いや、しかしエリシュカ様」
「私に考えがあるの」
パヴェルは手の中の壺とエリシュカを見比べて、不思議そうに首を傾げた。
「お嬢様はこれが何かおわかりで?」
「ええ、靴墨ね。貴族だとわからないように……でしょう?」
囁き声で答えたエリシュカに、パヴェルは目を丸くする。
「そこまでお分かりになっていなさるとは。いつの間にそんなことを思いついたんで?」
「いつもパヴェルにしてもらってたのよ」
笑みを浮かべたエリシュカに、パヴェルはますます分からないといった様子で掌の壺をまじまじと眺めた。
「さあ、いきましょう」
怪訝そうな顔で壺をしまったパヴェルが、慌てて馬車の荷台を探る。
「あっ、ちょっと待ってくださいよ。これだけは譲れませんて」
麻布の下からマントを取り出すと、ホコリを払ってエリシュカに着せた。しっかりフードを被せてから、渋い顔で眉を寄せる。
「やっぱりこれだけじゃ目立ちますぜ」
「大丈夫よ、ちゃんと考えてあるからっ!」
エリシュカは荷台から飛び降り、パヴェルを先導するようにして歩き出す。キャスケットを抑えたパヴェルは、慌てた様子でエリシュカを追いかけた。
しばらく歩いていくと、見慣れた馬車が見えてくる。
「よう、パヴェルじゃねえか」
「ああ、ラディム」
ラディムと会うのもこれで四度目だ。二度目の人生では会わなかったが、それ以外は毎度顔を合わせている。エリシュカにとっては既に馴染みの顔だ。
「ラディムさん、こんにちは」
「おっ? 随分威勢のいいお嬢ちゃんだな。……いや、お嬢様か」
エリシュカの顔を覗き込んだラディムは、興味深げにフードの中を覗き込んだ。
「おい、ラディム。そんなにジロジロ見るなっ」
「ふんっ、それならこんな目立つ見てくれで連れ回すのはやめるこったな」
ムッとした様子のラディムに、エリシュカは思わずくすりと声を立てた。その様子に目を瞬いたラディムが、口の端を上げた。
「随分肝の座ったお嬢ちゃんだな。お前よりよっぽど見どころがあるんじゃないか?」
腕を組んだラディムが、交互に二人を見比べる。エリシュカを見下ろしたパヴェルは、眉を寄せて唸り声を上げた。
「俺も今日のお嬢様は、随分頼もしく見えるんだから不思議なもんだ」
エリシュカは得意げな笑みを浮かべ、ラディムに向かって口を開いた。
「ラディムさん、ひとつお願いがあるの」
「ん? なんだ?」
面白そうな表情を浮かべたラディムとは真逆に、パヴェルはぎょっとしたような顔でエリシュカを見下ろした。
「ラディムさんの馬車、きっと車軸が壊れてるわ。だから、先に確かめてみて」
思いもよらぬことを言われたといった様子で、ラディムが目を瞬いた。一瞬後に眉を顰めると、顎に手を当て訝しげな顔をする。
「随分おかしなことを言うお嬢ちゃんだな。この馬車を見るのも初めてだろうに、一体何を考えてるんだ」
ラディムは馬車を振り返り、荷台を見回した。前回より邸を出るのが遅くなったせいか、既に乗客でいっぱいだ。その中にホンザと母親の姿を見付け、エリシュカは何とも言えない気持ちになる。
「見てのとおり、乗客たちも出発を待ってるんだ。そんな悠長なことやってる暇はねえよ」
「お嬢様っ、一体どうなさったんで?」
「ねえ、お願いっ! 試しに見てくれるだけでいいのよ」
真剣な顔で訴えかけるエリシュカに、ラディムとパヴェルが顔を見合わせた。渋るように唸ったラディムの肩を、パヴェルがぽんと軽く叩いた。
「お前、俺に借りがあるよな?」
「ん? なんのこと……ああ、いや、そうだな。チッ、仕方ねえな。それになんだか俺も見たほうがいいような気がしてきたぜ。損するもんでもねぇしな。よし、ちょっと待ってろ」
帽子を被り直したラディムが、エリシュカに示された車輪の下に潜り込む。じっくり眺めながら触って確認していたが、やがて馬車の下から顔を出して呻き声を上げた。
「参ったな、嬢ちゃんの言うとおりだ。車軸がいかれちまいそうになってる。なんでわかったんだ?」
「なんとなくよ」
肩を竦めたエリシュカに、ラディムがうんうん唸りながら首を傾げた。
「エリシュカ様、他の馬車を当たりましょう」
耳打ちしてきたパヴェルに、エリシュカは首を振った。
「ううん、大丈夫。ちゃんと考えてあるから。今からやらなきゃいけないことがあるの。パヴェルも買い出しに行かなきゃでしょう? 私のことは大丈夫だから、気にせず仕事に戻ってちょうだい」
「いやしかしっ」
心配そうに見下ろしてくるパヴェルに、エリシュカは笑みを浮かべた。
「本当に大丈夫だから。私を信じて、パヴェル」
「お嬢様……」
目を細めたパヴェルは頭に手を置き、くしゃりとキャスケットを握りしめる。そのまま胸の前に掲げると、エリシュカに向かって笑みを浮かべた。
「ははっ、なんだか随分頼もしく見えまさぁ。わかりました。エリシュカ様を信じますよ。でも、忘れないでくだせえよ。俺もルツィエも、お嬢様の味方です。何かあったら必ず頼ってくだせえ。今回みたいにね」
片目を瞑ったパヴェルに、エリシュカは晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、パヴェル。じゃあ私、行かなくちゃ」
「お気をつけて。行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「いってきますっ!」
弾む声で返事を返したエリシュカは、ラディムとも挨拶を交わし広場へ向かって走り出す。今度こそ商人も助けなければ。このままでは、前回と同じように盗賊に襲われ命を落とすことだろう。あのとき味わった苦い思いは、二度と味わいたくなどない。
荒い石畳に足を取られそうになりながら、エリシュカは必死に走った。ぜえぜえと肩で息をしながら、周囲を見回し目当ての人物を探す。視線の先に見つけた制服の背中に向かって、一目散に駆け寄った。
「あのっ、助けてくださいっ」
「どうしたんだっ?」
勢いよく振り向いたのは、警備隊の男だ。慌てた様子のエリシュカに、真剣な表情を浮かべる。
「門から出て真っ直ぐの隣町へ行く道に、盗賊が出るのっ!」
「なにっ? どこに出たんだっ? 被害はどの程度かわかるかっ?」
慌てた様子で問いかけた男に、エリシュカは必死に訴えた。
「被害はこれからよ! でも、商人の馬車がっ」
言いかけたエリシュカに、男は怪訝そうな表情で顎に手を当てた。
「……盗賊が『出た』ではなく、『出る』と言ったのか?」
険しい表情の男は、エリシュカを上から下まで確かめるように眺めた。
「あのっ、信じてくださいっ! このままだと、馬車が襲われてしまうんですっ」
「どこのお嬢様か知らないが、そういうタチの悪いお遊びは、お屋敷内だけで願いますよ」
「そんなっ! お願いします、助けてくださいっ」
ため息を吐いた男は、踵を返してそのまま歩き出した。エリシュカは呼び止めようと声を上げるが、周囲の大人たちも冷たい視線を投げかけてくる。
「ちょっとっ! お嬢ちゃん、そんなとこに突っ立ってたら邪魔だよ!」
中年の女に押されて、エリシュカはたたらを踏んだ。こんなに沢山人がいるのに、誰もエリシュカの言う事など取り合ってはくれない。けれど、このまま諦めれば、またエリシュカのせいで商人たちが殺されてしまう。
唇を噛み締めたエリシュカは、ポケットに手を入れて指輪を探る。これを着けて王都を出れば、彼らが後からやってくるかも知れない。パヴェルの馬車でなくとも、あの町へ行くものがあるのだろうか。
焦れば焦るほど、どうすればいいのか分からず、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。盗賊が去った後に嗅いだ鉄と埃の匂いが鼻を掠め、じっとりと汗が滲む。今まで四度殺されたときの痛みが蘇り、エリシュカの胸がぎゅっと握りつぶされるかのように軋んだ。
そのとき、広場のからくり時計がカラーンカランランと乾いた鐘の音を響かせた。死神の引く紐に合わせて鳴る不規則な音が、エリシュカの意識を遠くに引きずり込んでいく。
前回広場を出発したのはこの時間だ。早く向かわなければ、また無惨な馬車を見ることになってしまう。いや、今から馬車で向かっても、もう間に合わない。周囲の喧騒が頭の中をぐるぐるとかき混ぜ、浅い呼吸を繰り返す。どうしよう、どうしたらいいのだろう。混乱したエリシュカが、虚ろな視線を広場に巡らせた——そのとき。
視線の先に現れた彼らの姿に、エリシュカは意識を取り戻す。ごくりと喉を鳴らし、互いに挨拶を交わし合う彼らの元へ足を踏み出した。




