4-1①
ひゅうひゅうと鳴る喉に、両手を当てて目を見開く。全身にびっしょりと汗をかいたエリシュカは、ばさりと音を立てて上半身を起こした。肩で息をしながら震える手で両頬を包み込むと、薄っすら湿っているが温かい。じんわり滲んだ涙を隠すように、両手で顔を覆った。目を瞑ると喉が絞まる苦しさに襲われ、慌てて首を左右に振った。
夜を超えてもう大丈夫だと思っていたのに、なぜあんな目にあったのか。まさか、あの母子に殺されることになろうとは、到底思いつきもしなかった。苦しそうに咳をする少年の姿が思い浮かび、唇を噛み締めた。
エリシュカは大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着けるように一気に吐き出す。思い返してみれば、二度目の死を迎えたときは昼近くだった。誕生日からひと月を邸に籠って過ごし、ルカたちが迎えにきたのだ。そのまま知らない邸に連れて行かれ、地下でおそらく毒を盛られた。一度目と三度目が夜だっただけで、全てに共通するのは母の命日ということだ。つまり、今日から丁度ひと月後。その日一日を超えなければ、エリシュカはこの死に戻りから解放されることはないのではないか。
なぜこんなことになったのか、考えてみても何も思い当たらない。ルカたちの受けた秘密結社の依頼と、何か関係するのは間違いないだろう。二度目のときに向かった邸は、依頼人のものなのかも知れない。あれが誰の邸だったのかは見当も付かず、何の手がかりも掴めない。ルカの話では、彼らが依頼を受けたとき、いつどこにエリシュカを連れて行くのかは決まっていない。
いつかの夜窓の外に、アダムの姿を見かけたこともあった。ならば、アダムの家――クリーマー家も怪しいのかも知れない。けれどルカたちに連れていかれた邸は、クリーマー家のものではなかった。考えれば考えるほどわからなくなり、エリシュカは頭を抱えて蹲った。
まず確かなのは、これが五度目の人生だということだ。そして、今からひと月後に殺される。しかも、誰に殺されるのかはわからない。
一度目は教会ですれ違った細身の男だった。二度目は邸の侍女が持ってきた水だが、誰の仕業かはわからない。三度目に見たのは倒れ込んだときに目に入った皮の靴だけで、男か女かすら分からなかった。そして四度目は――そこまで考えて、首に掛かった紐の感触と、青白い母子の顔が思い出される。喉に手を当てひゅっと息を呑み、吹き出した額の汗を掌で拭った。大きく息を吐き出し、続きを考える。
仲間の四人と出会うかどうかは、エリシュカの行動次第のようだ。一度目も二度目も、そして三度目までは、彼らの方からエリシュカの前に現れた。けれど、四度目は違っていた。マテスは行方不明になったエリシュカを探すよう、依頼を受けたと言っていた。四度目だけ違っていたことはなんだろうか。
しばらく頭を抱えていたエリシュカは、「あっ」と声を上げて左手を見つめた。薬指で鈍く光る指輪をじっと見つめ、すっと背筋を伝う汗に身震いした。これのせいかも知れない。思い返してみれば一度目の旅で湖に入った時、これにひびが入ったのだ。あの光は一体何だったのか。結局何も分かってはいないが、十中八九あれがヴラノヴァーの洗礼なのだろう。前回光らなかったのは、一度目で本当の洗礼が終わっているせいではないか。
前回指輪を返したときに、アダムはなんと言っていただろうか。しばらくの間考え込んでいると、ふと死に戻ったの日のアダムの声が蘇った。
『これは……つけててもらわないと僕が困るんだっ』
『外したらわからなくなるだろっ!』
わからなくなる――あのときは何のことか聞けなかったが、もしかして。月明かりの下に立っていたアダムの姿を思い出し、ごくりと喉を鳴らした。
布団から勢いよく飛び出すと、ルツィエのところへ向かう。三、四度目にしたように、パヴェルのズボンの準備を頼んだ。今度こそこの人生を最後にして、前へ進みたい。それには失敗するわけにはいかないのだ。
部屋の中を歩き回りながら、何をどうするべきか頭の中を整理する。そうこうしているうちに、もうすぐアダムがやってくる時間になってしまった。胸元のペンダントを握り締め、恐る恐る指を開いた。目にした瞬間さっと血の気が引き、やっぱりそうかとも思う。ペンダントの色は、前回よりさらに暗くなっていた。この石から輝きが奪われれば、もう戻れないのかもしれない。そう思うと全身が震え出しそうで、両手で身体を抱きしめた。
エリシュカは大人しくアダムを待つことを止め、自ら部屋をあとにした。麻袋に詰めた荷物をルツィエに預け、邸のホールでまだ来ないアダムを待つ。使用人たちが訝しげな視線を向けてくるが、そんなことは気にしてなどいられない。ようやくアダムが到着すると、迷惑そうな顔をした執事が邸の扉を開いた。
「アダムっ」
「えっ、エリシュカっ?」
心底驚いたように目を見開いたアダムが、花束を手にしたままその場に立ち止まった。
「話があるからこっちへきて」
ズラタが現れる前に、この場を離れてアダムに話を聞かなければ。エリシュカは執事に庭へ行くと言い残し、アダムを連れてホールから移動した。
「エリシュカ、あの、これ」
おずおずと差し出された花束に、エリシュカは軽く視線を向けてから首を横に振った。戸惑うアダムの様子に、エリシュカは苦い笑みを浮かべた。
「アダムは私の好きな花を知ってる?」
「えっ? いや、それは……そのっ」
「別に責めてるんじゃないわ。思えば私たちって、お互いのことをよく知らなかったなって思っただけ」
アダムが花束を見下ろして、落ち着かない様子で身体を揺らした。
「ねえ、アダム。あなたに聞きたいことがあるの」
「な、なに?」
エリシュカは薬指から鈍く光る指輪を引き抜き、そのままアダムの目の前に掲げた。
「この指輪、一体なに?」
「っ! そ、それはっ、婚約指輪だろう。突然何をっ!」
「そう。それなら、私はもう要らないわ。あなたのお父様にも伝えておいて。今すぐ破棄しましょう」
「そんなことっ、できるわけないだろう!」
確かにそう簡単に破棄できるものでもないだろう。とは言え、散々テレシエと仲睦まじい様子を晒しておいて、今更何を躊躇うのかと冷めた笑みが浮かぶ。
「でも、アダムはテレシエが好きなんでしょう? それなら、二人で婚約し直せばいいわ」
「ぼ、僕だって本当はっ!」
言い掛けたアダムが、はっとしたように口を噤んだ。青ざめた額に汗を浮かべ、握り締めた花束が微かに震えている。
「本当は、なに? 私に気を使わなくていいわ。あなたが私との婚約を喜んでいないことくらい、私にだってとっくに分かってた」
「……ぼ、僕は」
「アダムっ、お姉様っ!」
アダムが何か言い掛けたところで、テレシエの声が響き渡った。彼女にしては珍しいほどに大きな声だ。スカートを摘んで必死に早足でこちらへ近寄り、数歩先で足を止めた。胸に手を当て肩を大きく上下して、アダムとエリシュカを見比べる。花束を持ったアダムと並ぶと、エリシュカの目から見てもお似合いだ。ふっと息を吐いたエリシュカは、もう一度指輪をアダムに差し出した。
「この指輪は、テレシエにあげたらいいわ。アダムは……テレシエも、そのほうがいいのでしょう?」
「お姉様! そんなことっ」
後ろめたそうな顔で口を開いたテレシエは、それ以上何も言わずに俯いた。アダムは黙ったままチラリとテレシエに視線を送ってから、エリシュカに向き直った。
「それはできない」
いつになくはっきりと言い切るアダムに、エリシュカは眉を寄せた。それでも指輪を返そうと、アダムに向かってさらに手を突き出す。
「返すわ」
エリシュカが指輪を手から落とそうとした瞬間、アダムが慌てたように口を開いた。
「返されても困るんだっ! それがないと、エリシュカの居場所がっ」
『わからなくなる』――それはやはり、エリシュカの居場所だったのか。手にした指輪をじっくりと眺めるが、至って普通の指輪に見える。少しの間考え込むが、どうするか心が決まる前にアダムが再び口を開いた。
「エリシュカの言うとおりだよ。僕は君と婚約したことを、喜ばしく思ったことはない。僕は君より先に、テレズカと出会っていたんだ。だから、本当なら彼女に結婚を申し込みたかったのに」
「アダムっ」
眉を下げたテレシエが、花束を握り締めたアダムの腕をそっと擦る。エリシュカは知らなかったが、彼らは元から知り合いだったのか。ならば後から割り込んだのは、エリシュカの方ということになる。だからと言って、家同士の決めたことだ。エリシュカだって望んだ婚約ではなかった。それでも始めの頃は、もしかしたら母以外の家族ができるかも知れないと期待していた。それすら無駄なことだったのかと、今更ながらに苦いものが胸の奥にこみ上げた。
「どうしてそれをあなたのお父様に言わなかったの?」
「言ったさっ! だけどっ……。父上は、六年前から急におかしくなったんだ」
「六年前?」
それは母が亡くなった年だ。エリシュカの背筋を、すっと冷たいものが走った。
「それまでも少し変わったところはあったけど。でも、真面目に領地管理もしてたのに。突然部屋に引きこもるようになってっ! よくわからない本を読み漁ったり、どこかから訳のわからない盃や壺なんかを持って返ったりして。そうして僕がテレシエのことを話そうとした三年前、急に君と婚約しろって言ってきたんだ」
腕に置かれたテレシエの手に、アダムがそっと手を重ねた。
「もちろん僕には心に決めた人がいるからって言ったさっ! だけど、父上は何も聞いてくれなかった。エリシュカと婚約して、その指輪をずっと外さないように言い聞かせろってそればっかりで。今だって部屋に閉じこもってぶつぶつ何か一人でしゃべってる。もう僕が父上に何を言っても、聞いてはくれないんだ」
「ベドジフ様には相談しなかったの?」
「しようとした、だけどっ! 兄上は外交官だ。いつも忙しく飛び回ってるし、数年前から隣国に行ってるんだから、どうにもならないよ」
唇を噛み締めたアダムは、項垂れ口を閉じた。その場の空気が重くなり、誰もが口を閉じた。手にした指輪に視線を落とし、どうしたものかと眉を寄せた。




