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3-7③

 今夜の宿は、カーヤの提案で初めて泊まる場所だ。前と違うことをすれば違う結果になるかもしれない。エリシュカのために、カーヤがそれとなくここを選んだ。


「ねえ、カーヤ」


 部屋の中に入ったエリシュカは、カーヤの袖をそっと引いた。


「どうしたの? ああ、もしかして今夜……?」


 言葉を切ったカーヤが眉を下げてエリシュカを見下ろした。袖を摘んでいたエリシュカの手を、両手でそっと包み込む。軽くぽんと叩いてから、笑みを浮かべて頷いた。


「大丈夫、今夜も私が一緒だから」


 エリシュカの目にじわりと涙が滲み、こくりと小さく頷いた。ふっと息を吐いたカーヤは、エリシュカの手を取って部屋の奥へ足を進めた。


「どうして皆に話したの?」


 カーヤがエリシュカを見下ろし、首を傾げた。


「いつもと違うことをしたら、いつもと違うことが起こるかもって思ったから。今夜を無事に越えたら、きっと今度こそって」

「そっか。……うん、きっと今度は大丈夫。私に話してくれたのも、初めてでしょう?」

「ええ……ええ、そうね。きっと大丈夫」

 

 きっと今夜は大丈夫――エリシュカは自分にそう言い聞かせて床に就いた。


 皆が部屋に集まって話していたのは、エリシュカが一度目に死んだ日の夜だ。前と同じならそれは今夜、日付の変わった頃だ。けれど今日は湖には行っていない。いろいろなことが前とは違っている。だからきっと大丈夫――エリシュカは何度もそう繰り返した。


 翌朝早くに出掛けると分かっていても、中々寝付けず夜が更けていく。ボーンボーンと、二時の祈りの鐘が鳴る。幾度も寝返りを打ち、もうすぐ夜が明ける頃になって、ようやく浅い眠りについた。


 ごそごそと響く衣擦れの音に目を開くと、まだ薄暗い部屋の中でカーヤが身支度を整えていた。


「おはよう、リシュカ。あまり眠れなかった?」

「ううん、大丈夫。おはよう、カーヤ」


 無事に朝を迎えたことで、ほっと大きく息を吐く。前回は夜半の祈りの鐘が鳴ってすぐ、命を失っていた。今日は母の命日だ。宿を出て湖に寄ってから、そのまま神父の療養先へ行く。戻ってきたら、母の墓参りもできるだろうか。無事に夜を超えたことで、エリシュカは今度こそこのままときを進めることができるに違いないと思えた。


 馬に乗って町を出ると、一度目に寄った脇道を目指した。前回と同じような時間だが、その景色がまるで違う。初めてこの道を通ったときは、朝霧がかかって前がよく見えなかった。今日は打って変わって前方も、ルカの背中もしっかり見える。それが逆にエリシュカの胸をざわつかせた。


「本当に湖だ」


 マテスが驚いたように声を上げ、ルカとオルダも馬を止めて湖を見つめた。昇り始めた朝日に照らされ、湖の向こうにある崖は淡い色の花に彩られている。


「リシュカ」


 いつものようにルカに手を借り、馬を降りる。腐葉土の上にカサリと降り立ったエリシュカは、湖の方へ視線を向けてゴクリと喉を鳴らした。さくりさくりと音を立てて、一歩ずつゆっくり進む。湖の手前まできたところで、エリシュカは足を止めた。前は中に足を踏み入れて少ししてから、光に包まれたはずだ。意識が遠のいていたので、しっかり覚えているわけではない。けれど、きっと今度も。


 エリシュカは思い切って湖の中へ足を踏み入れた。ぱちゃんと水音が響き渡り、水面に波紋が広がっていく。前は感じなかった冷たさが足首から指先へ広がり、あっという間にブーツの中が水浸しだ。


「リシュカっ」


 その声に一瞬後ろを振り向くと、慌てて追いかけてくるルカが見えた。構わず前を向いて歩き出すと、すぐ近くで立ち止まる気配がする。そのまはま湖の中を進むが、一向に光は現れない。これでは何の証明にもならないと、焦って更に足を踏み出そうとした、そのとき。


「危ないから戻るんだっ」


 腕を引かれて振り向くと、ルカが怒ったような顔をして、そのままエリシュカを引き寄せた。エリシュカはよろけながら、ずぶ濡れの足で引きずられるようにして陸に上がった。


「……一度目にきた時は、光ったの。でも、これじゃあ証明にはならないわね」


 俯いたエリシュカの前で、ルカが黙ったまま足を止めた。恐る恐る見上げると、青ざめた顔でエリシュカを見下ろしていた。不思議に思って声を掛けるが、返事がない。


 思い出したように他の三人に視線を向けると、皆黙り込んだままエリシュカを見ていた。カーヤは目を見開き、オルダは眉間の皺を深めて口元を手で覆っている。マテスはおでこを片手で覆い、珍しく真剣な表情を浮かべていた。よく見ると、誰もがエリシュカをみているようでいて見ていない。眉を寄せたエリシュカは、全員を見比べて口を開いた。


「みんな、どうしたの?」


 ルカが我に返ったように、掴んでいたエリシュカの腕を放した。同時に他の三人も息を呑み、信じられないといったような顔をしている。エリシュカが首を傾げて訝しげな表情を浮かべると、ルカがごくりと喉を鳴らした。


「リシュカが、光って見えた」

「俺にもだ」

「僕も」

「私も同じく」


 ルカの言葉に、他の三人も頷く。カーヤはすぐに納得したような笑みを浮かべるが、オルダとルカは未だに夢でも見ているかのような表情だ。一方マテスはおでこから手を外し、エリシュカをじっと見つめた。


「僕は、リシュカを信じるよ。今までこんなことは一度もなかった。見たことないはずの光景が、頭の中で鮮明に浮かび上がったんだ。しかも、皆同じ光景なんて、普通じゃ絶対あり得ない」

 

 マテスの言葉にカーヤが頷き、ルカとオルダはまだ納得できないように唸り声を上げた。


「とにかく、このままじゃリシュカが風邪を引いちゃうよ。一旦さっきの宿に戻ろう」

「そうだな。話はそれからだ」


 カーヤの言葉にルカが頷き、再び町へ戻ることになった。



「じゃあ、着替えてくるわ」


 宿に着いたエリシュカは、カーヤに付き添われて着替えるために部屋へ向かう。


 宿の階段を上っていると、パタパタと軽い足音が後ろから追いかけてきた。気になって振り向けば、教会ですれ違った少年が階段を駆け上がってくる。ぜえぜえと喉を鳴らし、エリシュカの横でぴたりと止まった。首を傾げたエリシュカは、子どもの視線に合わせるように腰を落とした。


「こんにちは。今日は一人なの?」


 少年はこくりと頷き、エリシュカをじっと見つめた。


「私はエリシュカよ。あなたのお名前は?」

「……ホンザ」


 つぶやかれた名前に、はっと息を呑んだ。馬車で出会ったホンザの笑顔が脳裏を掠め、口の中にプラムの甘酸っぱさが広がる。よくある名だが、まさか同じ名の子供に、こんなところで出会うとは。


「そう……ホンザ。どうしてここに?」

「お姉ちゃんは、エリシュカ?」

「そうよ」


 答えたエリシュカをじっと見上げてから、小さく頷いたホンザが「こっちにきて」と手を引いた。


「リシュカ、どうしたの? 早く着替えないと風引を引くよ」


 カーヤの声に振り返るが、ホンザの手を振りほどくことなどできない。


「ごめんなさい、カーヤ。この子がどこかへ行きたいみたいなの。ちょっとだけ待ってて」

「えっ? ああ、あの時の子供か。それなら私も一緒に」


 そう言いかけたところで、ホンザがエリシュカの手を強く引いた。「わっ」と声を上げて、そのまま階段を駆け下りる。


「リシュカっ」


 カーヤがあとを追おうとするが、ホンザがそちらに向かって何かを投げた。「えっ?」と言いながらとっさに掴んだのは、ホンザの帽子だ。意表を突かれたカーヤは出遅れて、エリシュカとホンザに追いつけないほど離れていた。手を引かれたエリシュカは、病気とは思えぬほどの速さで走るホンザにどうにかついていく。


「ねえ、どこへ行くの?」


 ホンザは答えず、そのままどんどん走って宿の一室の扉を開けた。エリシュカをその中に押し込むと、くるりと踵を返して部屋を出る。ばたんと閉じられた扉がカチャリと音を立てた。鍵を掛けられたことに気付いたエリシュカは、取手を掴んで扉を開けようとする。開かないことを確かめてから、ドンドンと叩いてホンザを呼んだ。


「ホンザっ! どういうこと? ねえ、開けてっ! カーヤ、カーヤ!」


 続けてルカの名前を呼ぼうとしたところで、背後でギシリと床の鳴る音がする。エリシュカは咄嗟にナイフを抜き、振り向きざまに横に振った。「ひっ」と声を上げて一歩下がったのは、教会近くですれ違ったホンザの母親だ。エリシュカはナイフを持つ手が震え、そのまま立ち尽くした。


 その隙を突いた女は、エリシュカを強く肩で押す。よろけたエリシュカの手からナイフがこぼれ落ちた。カランと乾いた音が部屋に響く。尻もちを突いたエリシュカを見て、後ろに回った女が素早く首に何かを巻き付けた。すぐに外そうと手を伸ばすが、指を入れる隙間もない。あっという間に女に背負われ、仰向けた状態で足が床から浮かび上がる。ぐっとうめき声が漏れ、ばたばたと足を動かした。


「わ、悪く思わないでおくれよっ。あの子の命がかかってるんだ。もう薬も使っちまった。そうだ。私は悪くない。あの子を助けるために、こうするしかないんだ。そうだ。悪くない」


 誰にともなく呟く声は、震えながら何度も同じ言葉を繰り返している。


 意識が遠のき掛けたところで、扉を外から激しく叩く音が響いた。


「リシュカっ、リシュカっ」


 カーヤの声だ。いや、ルカの声だろうか。マテスの声にも聞こえるし、オルダなのかも知れない。既に誰の声かも分からぬほどに、大きな耳鳴りが響いている。ふっと目の前が暗くなり、あっという間に何も分からなくなった。


「リシュカっ! リシュカーーーっ」


 意識を失ったのに、声が聞こえるはずはない。そう思うのだが、誰かの悲痛な叫び声が頭の中に響き渡る。これは、一度目と同じ誰かなのだろうか。エリシュカには何もわからなかった。

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