1-2①
十六歳の誕生日を迎えたエリシュカは、目の前のアダムを無表情に見上げた。
「エリシュカ……誕生日、おめでとう」
「……ありがとう、アダム」
アダムが差し出したのは、婚約当初から代わり映えのしない地味な花束だ。花束が悪いわけではない。エリシュカは花が好きだし、祝われれば嬉しい――そこに心が伴ってさえいれば。
「アダム、早くこちらへいらして。テレズカが待っていてよ」
「お母様っ」
咎めるような声をあげたテレシエは、それでもズラタを止めることはできない。いつでも結局彼女の言いなりだ。
「さあ、アダム。庭に冷えたワインとお菓子を用意してあるのよ。テレズカの好きな蜂蜜酒もよ。二人でゆっくり召し上がれ」
「えっ、あ、は、はい」
アダムはおずおずと差し出した花束をエリシュカの手に押し付け、気まずそうにズラタの後をついていく。エリシュカは花に視線を落とし、何とも言えない複雑な面持ちで踵を返した。
部屋に戻ったエリシュカは、花束を無造作に花瓶に挿した。罪のない花を捨てるのはいつも躊躇われて、かといって大切に飾る気にもなれない。
エリシュカは胸元のペンダントを握りしめ、ぎゅっと唇を噛み締めた。そっと掌を開き、美しく輝く石を見つめる。これはエリシュカが十歳になったとき、母から貰った形見だ。不思議と外そうとしても外すことはできず、ズラタにも奪われることはなかった。目ぼしい宝石は全て奪われたが、これだけはできなかったのだ。
エリシュカの耳を亡き母の声が掠める。
『エリシュカ、よく聞いて』
目を閉じたエリシュカの脳裏に、あの日の母の記憶が鮮明に蘇った。
『リシュカ、お誕生日おめでとう。ほら、お顔をよく見せて?』
『はいっ、お母様』
満面の笑みを浮かべたエリシュカは、母マルケータを見上げた。マルケータはエリシュカの顔をそっと包み込み、軽く頬にキスをする。それから再び目を合わせた瞬間、そっと息を呑んだ。
『お母様?』
マルケータはふっと息を吐き、自分の胸元を飾っていたペンダントを首から外した。
『エリシュカ。今から言うことをよく聞いてちょうだい』
エリシュカは首を傾げた後に、真剣な母の表情を見てしっかり頷いた。
『この国では皆十から十五くらいで魔力判定の洗礼式があるのは知っているわね?』
『はい』
マルケータは一度頷き、手元のペンダントに一度ちらりと視線を移した。
『ヴラノヴァー家は、魔女の末裔。私たちの本来の洗礼は、田舎の叔父様の家の近くで受けるのよ』
『叔父様の? どうして?』
『どうしても。そういう契約なのよ』
『契約?』
軽く唇を噛み締めたマルケータは、かすかに震える手でエリシュカの首にペンダントを掛けた。そのまま両手でそっと抱きしめ、耳元で囁いた。
『リシュカ。十六になったら叔父様のところへ行きましょう。その時にまた話さなければならないことがあるの』
エリシュカは首を傾げ、母の背に手を回す。
『今では駄目なの?』
『今でなくていいの。もう少し、このままでいましょう』
さっきより力のこもった母の腕に、エリシュカの心の奥にふっと影が差す。けれど、包まれた身体の温かさにすぐに忘れてしまった。
それ以来、エリシュカの首に掛けられたペンダントは、自分でも外すことができなくなった。それがなぜなのか、十六に叔父の家へ行くべき理由が何なのか。その年の誕生日から丁度ひと月で母が亡くなり、真実を知る術をなくした。
このままここにいても、叔父の家へ行くことはできないだろう。父はまるで空気だし、義母はあの様子だ。テレシエはもちろん、アダムに相談したところでどうにもなりはしない。
エリシュカはまとめた荷物を麻袋に詰め、誰にも気付かれぬように階下の厨房を目指した。
「ルツィエ」
覗き込んだ厨房の出入り口近くに、ルツィエが座っていた。彼女はエリシュカが物心ついたときから屋敷に務める、気心の知れた使用人だ。今は丁度午前の休憩時間で、その隙を狙ってやってきた。
「お嬢様」
神妙な顔で頷いたルツィエが、直ぐ側に置いてある布に包まれた荷物を片手に厨房から出てくる。
「準備できた?」
「はい。でも、本当にお一人で?」
「ええ。ルツィエを連れていくわけにもいかないもの」
肩を竦めたエリシュカに、ルツィエは眉を下げた。
「やっぱり私も一緒に……」
「だめよ。あの人に気付かれたら、ルツィエが首になっちゃうわ」
ズラタはエリシュカがいなくても気に留めることはないだろうが、使用人は別だ。侍女長がルツィエの不在を報告すれば、容赦なく暇を出すだろう。例えヴラノヴァー家の跡継ぎがエリシュカであったとしても、今はまだ正式に認められたわけではない。
「……では、こちらへ」
ルツィエが渋々歩き出し、使用人部屋へ向かう。他の使用人、特に侍女長に見つからぬよう素早く身体を滑り込ませた。ルツィエが外で見張りをしている間に、手早く着替える。ルツィエが着替えと共に予め用意してくれていた、使い古した革鞄に麻袋の荷物を移し替えた。
「ルツィエ、準備できたわ」
「お嬢様……ついてきてください」
ルツィエに連れられて外へ出ると、一台の荷馬車が停っていた。御者台に座る壮年の男は、ルツィエの夫パヴェルだ。
「あんた、くれぐれも頼んだよ」
「ああ。エリシュカ様、どうぞ」
じゃりっと硬いブーツの踵を鳴らし、パヴェルが御者台から降りた。すぐに荷台に乗り込むと、ごつごつとした手でエリシュカを引き上げる。その白く細い腕が袖から覗き、ルツィエが不安げに眉を下げた。
「さあ、ここへ隠れておいてください」
「ええ、ありがとう」
粉っぽさの残る荷台に置かれた麻布を被り、エリシュカはルツィエを覗き見た。
「ルツィエも、ありがとう。きっと元気に戻ってくるから、心配しないで」
「……エリシュカ様。どうぞご無事で」
エリシュカは唇を引き結んだ後に、どうにか笑みを浮かべて麻布をしっかり被り直した。ギシギシと音が鳴り、パヴェルが御者台に戻ったのがわかる。
「いきますぜ」
「お願い」
短く言葉を交わしパヴェルが馬車を出発させた。ゴトゴトと普段乗るものより大きく揺れる荷馬車の上で、息を詰めて身を固くする。
「おい、門を開けてくれ」
しばらく走ったところでパヴェルの低い声が響く。
「ああ、パヴェル。また仕入れか?」
「そうだ。今日はアダムさまもいらしてるからな。朝は手に入らなかった肉がそろそろ出てる頃だろう」
キイと耳障りな音が鳴り、ゆっくりと門が開いていく。
「ご苦労さん」
門番に軽く手を挙げたパヴェルは、いつもどおりゆったり馬車を進めた。エリシュカの心臓がとくとくと鳴り響き、麻布の端をぎゅっと握りしめる。再び門の閉まる音が少し遠く響き、エリシュカは小さく息を吐いた。
「エリシュカ様、楽にしてください。お顔は隠したほうがいいが、もう屋敷の者に見つかることはないでしょうから」
「そう、よかった」
深く息を吐き出したエリシュカは、自分の手が震えていたことに気づき、小さく身震いした。しばらくそのまま身を潜めていると、パヴェルが明るく声を掛けてくる。
「もうすぐ町の門です。あれを潜っちまえばもう出てきても大丈夫。もうしばらくの辛抱ですぜ」
エリシュカはほんの少しだけ開けた麻布の隙間から、パヴェルに向かって頷いてみせた。徐々に石門が近づき、再び息を詰めて麻布を被り直す。
「ヴラノヴァー家の者です」
「ああ、パヴェルか。今日は予定通り二度目だな? 通っていいぞ」
「どうも」
キイキイと門の開く音が響き、馬車が走り出す。一瞬にして日差しが遮られ、アーチ状にくり抜かれた壁の下を通っているのが分かる。先程まで乾いていた車輪の音が、低く反響する。しばらくするとぱっと明るさが戻り、無事に石門を潜り抜けたのだと分かった。
しばらくすると、喧騒が近づいてきた。そのうち人々のざわめきが、意味を持った言葉として耳に飛び込んでくる。
「今日入ったばかりの林檎だよ!」
「さあ、こっちは王様でも食べたことがないような肉があるぞ」
ゴトゴトと進む馬車は、ゆっくりとその速度を落とした。やがて馬の鼻息とともに停車し、パヴェルがエリシュカを振り返る。
「つきましたぜ。ちょっと失礼しますよ」
麻布から顔を出したエリシュカに、パヴェルはポケットから出した壺に入った黒い物を塗りつけた。言われるがまましばらく待っていると、満足気に頷いたパヴェルが麻布を無造作に避けた。
「これでいい。エリシュカ様は見るからに貴族だ。このくらい汚しとけばしばらくは誤魔化せるでしょう」
鼻に付く何とも言えない油臭い匂いに、エリシュカは眉を顰めた。
「パヴェル、これは? 酷い匂いがするわ」
「これは靴墨です。顔に塗るには臭いかもしれやせんが、我慢なさってくだせえ。なにせエリシュカ様は綺麗すぎる。服が庶民のものでも目立ちすぎるんです」
パヴェルは布に包まれた小さな壺をエリシュカに差し出した。
「もし取れちまったらまた塗り直すように。女の一人旅なんざ危険がつきものです。なるべく目立たんように気をつけてくださいよ」
ゴクリと喉を鳴らしたエリシュカは、神妙な面持ちで頷いた。
「そうね。ありがとう、パヴェル」
革鞄に壺を仕舞い、肩にかけて顔を上げる。先に馬車を降りたパヴェルに手を借り、エリシュカも荷台から降りた。
パヴェルは再び荷台にあがると、麻袋から古びたマントを取り出した。ばさばさと数回振って軽く汚れを落とすと、エリシュカの肩に掛ける。「失礼しますよ」と言いながらフードを被せ、頷いてから口を開いた。
「俺の知り合いがやってる乗合馬車まで案内します」
エリシュカが首を縦に振ると、パヴェルはそのまま歩き出した。人々の喧騒の中、パヴェルの背を見失わぬよう必死について歩く。貴族の住む区画と違う、石畳の粗さに躓きそうになって、革鞄の紐をぎゅっと握りしめた。




