1-1②
屋敷の扉を通り抜け、門の前に横付けされた馬車の直ぐ側に立つ。御者が音もなく扉を開くと、ルカが自然な仕草で手を差し出した。
「ありがとうございます」
エリシュカは震える指をどうにかルカの掌の上に添える。冷たい指先があたたかな温もりに触れるが、エリシュカの震えが止まることはない。
エリシュカに続いてルカが乗り込み、向かいに座る。音もなくエリシュカの横に滑り込んだのはカーヤだ。オルダは馬に乗り、そのまま馬車の後をついてくるつもりのようだ。ルカが馬車の壁を軽く叩くと、馬の鼻息と共に車輪がギシリと軋む。ゴトゴトと鳴り響く音にゴクリと喉を鳴らしたところで、ルカが口を開いた。
「改めまして、ヴラノヴァー嬢。僕の自己紹介は先程終わっているので、隣のカーヤを紹介します」
屋敷の中にいたときよりも柔らかな笑みに、エリシュカは一瞬目を瞠る。すぐに隣のカーヤへ視線を移すと、ほんの少し唇を引き上げたカーヤが目を細めた。
「私の名前は、カレル・チェルマークです。以後お見知りおきを」
男にしては少し高く、女にしては少し低い声でカーヤが答えた。
カレル――これは本当の名前ではない。エリシュカは知っているが、それをこの場で口にすべきではないだろう。つまり彼らはエリシュカを覚えていない。もし覚えているなら、カーヤがこの名を名乗るはずがないのだから。ルカの笑みに、ほんの少しの期待を抱いていたが、この瞬間に脆くも崩れ去ってしまった。
「外で馬に乗ってる不機嫌そうな男は、オルドジヒ・ハヴェル。それからもう一人、マティアス・コウカルというやつもいるけど……それはまた後で紹介しますよ」
屋敷で話したときより随分砕けた口調に、エリシュカは目を瞬いた。隣のカーヤに視線を移すと、こちらもふわりと笑みを深める。初めて会ったときの彼らを思い出し、胸の奥がぎゅっとなる。
「あの……どこへ向かってるんですか?」
幾分緊張の溶けたエリシュカは、それでも硬い声で問いかけた。
「具体的な場所は言えません。依頼主との契約で。ただ、貴女を保護するように頼まれてるだけですから、安心してください」
「保護?」
「そうです。ヴラノヴァー家の……魔女の末裔を保護するようにと言われています」
「なぜですか?」
膝の上でぎゅっと拳を握りしめたエリシュカは、眉を寄せてルカを見上げた。
「……詳細はわかりませんが、危険が迫っているから保護するようにと」
気まずそうに視線を逸らしたルカは、ほんの少し表情を曇らせながらもそう答えた。
「誰が、何のために私の保護を?」
「それは……。申し訳ないが答えられません」
「そう、ですか」
エリシュカは眉を寄せたまま俯いた。一度目に彼らと会ったとき、そんなことは言っていなかったはずだ。それに出会い方もまるで違う。偶然出会ったと思っていたのだが、それも間違っていたのかも知れない。誰を、何を信じればいいのかわからず、エリシュカの背中がゾクリと寒くなる。
「ヴラノヴァー嬢。そんなに怯えなくても大丈夫。私たちがしっかりお送りしますから……ね?」
カーヤがエリシュカを見下ろし、小さく笑みを浮かべた。とても嘘を吐いているようには見えないし、労るような視線に悪意も感じられない。それでも不安げな顔をするエリシュカに、カーヤはさらに続けた。
「私は騎士……見習いです。チェルマーク家は由緒正しい騎士の家系。どうか、安心してください」
これは本当のことだ。エリシュカはカーヤと目を合わせ、こくりと頷いた。
しばらく走り続けた馬車が、徐々に速度を落としていく。どこまで走ったのか、エリシュカには皆目見当もつかない。ジャリジャリと石を踏む音の後に、ギシリと車輪が軋んだのが到着の合図だ。
小さな音を立てて開かれた馬車の扉から、まずはカーヤが外へ出る。振り返り頷いたのを確認して、ルカが続く。カーヤが一歩馬車に近づこうとしたところで、ルカがエリシュカに手を差し出した。
「……ありがとうございます」
エリシュカはルカの手に指先を重ね、慎重に馬車を降りた。カーヤが軽く肩を竦め、オルダに目配せをした。馬車を降りたエリシュカを先導するように、ルカが前を歩く。次にエリシュカが続き、カーヤとオルダが後ろからついてくる。
向かう先は見たことの無い邸で、ここがどこなのかは分からない。壁には青々としたツタが這い、足を踏み入れれば二度と外には出られないのではないかと不安が過る。見上げた窓はどれもしっかりと閉じられ、中の様子はわからない。カンカンとルカがノッカーを叩く音が響き、思わず肩を揺らした。
ギッと微かな音を立てて扉が開き、中から現れたのはこの家の執事と思しき壮年の男だ。扉の取っ手を握る手は、不穏な邸の様子とは真逆に真っ白な手袋に包まれている。陰気な雰囲気で、エリシュカに向ける視線が妙に鋭い。
「ご依頼の方をお連れしました」
「……ええ、確かに。どうぞお入りください」
執事に促され、ルカが邸に足を踏み入れる。エリシュカは一歩遅れ、喉を鳴らして足を進めた。
「では、お嬢様はこちらへどうぞ」
侍女長と思しき中年の女がエリシュカへ声を掛けた。
「ヴラノヴァー嬢だけですか?」
ルカが間に立ち、怪訝そうな表情で女を見下ろす。
「主にそのように申し付けられております」
「いや、しかし……」
「主がお待ちです。こちらへお越しください」
言い掛けたルカを執事が鋭い口調で遮った。
迷うようにエリシュカと執事を見比べたルカは、少しの間逡巡してから口を開いた。
「ヴラノヴァー嬢、帰る前にご挨拶に伺います」
「……ええ」
乾いた喉の奥からどうにか声を出し、微かに頷く。一人で行くことに不安はあるが、ルカたちを信用していいのかもわからない。今の彼らに助けを求めることも躊躇われた。
執事に促されたルカを、後の二人が追いかける。エリシュカとすれ違いざまに、カーヤが耳元で「また後で」と囁いた。
侍女の後について廊下を歩いていくと、ホールから遠ざかるごとに暗くなっていく。廊下の明かりも乏しくなり、空気が重く息が詰まる。どこまで歩くのだろうかと思ったところで、侍女が階段を降り始めた。それまであった分厚い絨毯が途切れ、木製の階段がキイ、キイと小さく音を立てる。
「あの、なぜ地下へ?」
誰かの家へ招かれたことのないエリシュカでも、客人を地下へ連れていくのが不自然であることは想像できる。けれど、何もわからないまま邸を抜け出しても、どこへ逃げればいいのかわからない。
「主から特別なお部屋へご案内するよう言いつけられております」
「そう」
ついていくべきではないのかも知れない。そう思うが、もう今更引き返すこともできない。全身が細かく震え、足を踏み外しやしないかと恐ろしくなる。
「こちらへ」
促された部屋へ入ると、窓一つ無い狭い部屋だ。喉がからからに乾き、口の中は張り付き飲み込めるものもない。
「あ、あの。お水を貰えるかしら?」
一人で部屋に取り残されることにどうにも不安が過ぎり、得体のしれない侍女ですら引き止めたくなる。
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
侍女は一旦部屋を出ると、すぐに盆に載せた水を持って戻ってきた。
「ありがとう」
震える手でコップを手に取り、ごくりと水を飲み下す。一瞬ぴりりと舌が痺れるような気がしたが、緊張しているせいだろうか。
「では、しばらくここでお待ち下さい」
無表情な侍女が去り、狭い部屋に置かれた木の椅子に腰掛ける。落ち着きなくあたりを見回すが、吸い込む空気のすえたかび臭さに眉を顰めた。
少しすると、突然汗が吹き出してくる。かと思えば、すぐに全身がガタガタと震えだす。喉が熱く、息が苦しくなってくる。徐々に狭くなる気道に、ひゅうひゅうと息が漏れる。目の前が白くなり、次第に視界がぼやけてくる。ガタリと音を立てて椅子から崩れ落ちるが、エリシュカは床の冷たさすらわからない。指先が冷えて、感覚が失われていく。苦しい――そう思うのに声も出ない。
きっと自分はこのまま死ぬのだ。一度目と同じ今日に。混濁する意識とともに、エリシュカは一度目の人生を振り返る。




