3-5①
「もう少し行くと、見えてくるはずなんだけど」
エリシュカはカーヤの言葉に頷いた。じっと前方に目を凝らすと、もう三度目になる高い塔が見えてきた。あれはイェリーネク家の見張り台であり、星見の塔だ。
オルダの話を聞いてから数日、ルカの家に向かう旅路は順調だった。空いた時間はカーヤにナイフを習ったが、オルダが何かを言ってくることは無かった。ただ、度々難しい顔をしてこちらの様子を眺めていた。そこには怒りや悲しみがあるようには見えなかったが、ただのエリシュカの願いかも知れない。本当のところは聞いていないので、オルダの胸の内はわからなかった。
「リシュカ、母上は君と同じように馬に跨って乗る人なんだ。その姿を見ても驚かないと思うから、気楽にして」
「ええ、ありがとう」
エリシュカは笑みを浮かべた後に、息を吐いて俯いた。ルカに言われなくても知っていた。これで会うのは三度目なのだから。
『今度はもっとゆっくりしていらっしゃい』
一度目の夫人はまた会おうと言ってくれた。
『目的を終えて王都に戻る前に、またこちらに寄っていらっしゃい。あなたが再び馬に跨ってここへ訪れるのを、楽しみにしているわ』
二度目に会ったときには、エリシュカとの出会いを楽しんでくれていた。どちらもまたと言ってくれたのは、旅を終えて戻ってきたときのことだったはずなのに。意図せず既に今回で三度目の出会いになってしまった。けれど今回は、また同じように歓迎して貰えるかはわからない。
見張り塔の上の人影が動き、四頭の馬が門の下をくぐり抜ける。以前の二度は気付かなかったが、すんなり門が開いたのは見張りのお陰だったようだ。一度目はただ呆然と眺めていて、二度目は夕日の美しさに目を奪われていた。エリシュカが三度目の今それに気付いたのは、これからやろうとしていることへの緊張のせいかもしれない。ドクンと心臓の音が大きくなり、自然と身体が硬くなる。
「リシュカ?」
カーヤがエリシュカを覗き込み、心配そうに首を傾げた。
「大丈夫よ、カーヤ。もう三度目だもの」
戯けたように言ったエリシュカに、カーヤは何とも言えない表情で頷いた。
邸の前で馬を預けた五人は、ルカに先導されて扉を潜った。エリシュカは慌ててスカートの裾を確かめる。前回のように、パヴェルのスボンを晒すような真似はできない。
「ただいま戻りました」
「おかえり、ルカ。みなさん、ようこそイェリーネク家へ」
「おかえりなさい、ルカ。みなさんも、よくいらしてくださったわ」
ルカの両親がホールで出迎えた。夫人がルカの頬に手を添え、額に口付けるのもまるで同じだ。当主がルカの肩を叩き、視線を合わせて頷いた。
「お邪魔します。おじさま、おばさま」
「お二方とも、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
前回と同じに、カーヤに続いてオルダとマテスが挨拶を交わす。エリシュカの心臓がどくどくと大きく脈打ち、自然と指先が震えだす。
「今日はもう一人いるんだ。リシュカ」
ルカが差し出した掌に、震える指先をそっと乗せた。軽く引かれるがままに一歩踏み出し、息を吸って手を引く。小さく息を吐きだしてから、スカートの端を摘んで腰を落とした。
「初めまして、リシュカです。突然お邪魔いたしまして、ご無礼いたします」
一瞬にしてホールが静まり返り、誰かの息を呑む音がした。エリシュカは震えそうになる膝に力を込めて、俯いたままその場に留まった。少しの間を置いて、ざっと扇の開く音がする。
「ようこそ、イェリーネク家へ……リシュカ。顔をお上げなさい」
額に汗を滲ませたエリシュカは、ゴクリと喉を鳴らしてゆっくり顔を上げた。真っ直ぐ夫人を見つめると、扇の向こうの目が細められた。
「は、母上っ」
ルカが何か言おうとすると、当主が手を挙げて留めた。夫人はエリシュカから目を逸らさず見つめたまま、パチンと音を立てて扇を閉じた。
「どんなお嬢さんかと思っていたけれど、なかなか肝の座った方のようですわね」
エリシュカの胸にやはりという思いと、後悔の気持ちが押し寄せる。夫人は今、『どんなお嬢さんかと思っていた』と言ったのだ。
「……失礼致しました、イェリーネク様、夫人。私はエリシュカ・ヴラノヴァーと申します。お二方とも、私が何者かご存知だったのですね」
ルカがはっとしたように振り返るが、その顔は青ざめている。それに気付いた夫人は目を瞬き、すぐに頷きながら笑みを浮かべた。
「そういうことでしたのね。ええ、わたくしたちは貴女が誰かすぐにわかりました。ルカが貴女のような女性を連れてくるなら、それしかないからよ」
笑みを浮かべた夫人が当主を振り返る。当主は肩を竦めて、ルカに視線を向けた。決まり悪そうに頭を掻いたルカが、何かを言おうとしたとろこで、夫人が口を開いた。
「ルカが何も話していないのはわかりました。まったく、秘密主義で困ったものね」
「あのっ、試すようなことをして申し訳ありません。大変失礼なことを致しました」
「ふふっ、よろしくてよ。貴女もいきなりこんなところに連れてこられて、不安だったのでしょうから。お互い様で水に流しましょう、ね?」
閉じた扇を顎に当て、夫人がいたずらっ子のような笑みを浮かべた。その瞬間、エリシュカの身体からふっと力が抜ける。膝が震えてよろけそうになったところで、カーヤがエリシュカの腕を取った。
「馬に跨ったり、大人にカマをかけたり、大胆な娘だと思ったけれど。ふふふっ、可愛らしいお嬢さんだこと」
夫人がパンと掌に扇を打ち付け、ホールを見渡した。
「さあ、お客様にゆっくり寛いでいただきましょう。旅の汚れを落として、お食事を召し上がってちょうだい」
ピンと張り詰めていたホールの空気が一気に緩み、使用人たちが慌ただしく動き出す。夫妻に挨拶を終えた一行は、それぞれ使用人に案内された部屋へ向かうことになった。
いつの間にかカーヤの腕を掴んでいたエリシュカは、まるで騎士と姫のような自分たちの姿に胸の奥がむずむずする。こんな風に誰かにエスコートされることがあるなんて、思ってもみなかった。いつかアダムの腕を取って、宮廷の宴に出るのかと思うと気が重かった。ふと軽くなった薬指に視線を落とし、小さく笑みを浮かべた。
「リシュカ、部屋に着いたよ。湯浴みをして着替えておいで」
はっとして顔を上げると、素早くカーヤの腕を両手で掴み直した。
「リシュカ?」
「ねえ、カーヤっ! カーヤも一緒にドレスを着ましょうっ」
「えっ? な、何を言ってるの?」
後ずさりをしたカーヤは、目を皿のようにしてエリシュカを見下ろした。すぐにきょろきょろとあたりを見回し、落ち着かない様子だ。
「カーヤだってドレスを着てみたいでしょう?」
「そ、そんなこと……」
言い淀むカーヤに、エリシュカは大きく頷いた。部屋の中を振り返り、案内役の使用人に問いかける。
「ねえ、夫人はカーヤのドレスも用意してくださってるわよね?」
「はい、お嬢様。仰せのとおりにございます」
エリシュカは「やっぱり」と呟き明るい笑みを浮かべた。
「ねえ、カーヤ。せっかく用意してくださったんだもの、一緒に着替えましょう」
「で、でもっ」
「いつもはどうしてるの?」
困ったように視線を彷徨わせたカーヤは、苦い笑みを浮かべた。
「おばさまは着替えが必要なときは、どちらも用意してくれる。私がいつも男装を選ぶと、少しだけ残念そうな顔をするよ」
「そうなのね」
エリシュカは頷いてから、掴んでいたカーヤの腕をその両手に変えた。自分より厚みのある、普通の令嬢より堅い両手を、ぎゅっと握ってその顔を見上げる。
「私一人より、カーヤも一緒に着替えてくれたほうが心強いわ。それに、今のカーヤも素敵だけれど、ドレスも同じくらいに素敵よ。ねえ、だから……お願い」
うめき声をあげたカーヤの頬が、徐々に赤く染まっていく。もう一押しとばかりにエリシュカが握る手に力を込めると、カーヤはぐっと息を呑んだ。
「……わ、わかった。今日は特別に、着てみるよ」
「本当? よかった。絶対絶対、似合うわっ! 楽しみにしてるから、必ずドレスに着替えてね」
使用人にも念押しをして、エリシュカは湯浴みに向かった。準備されているドレスは同じだが、今回はカーヤも一緒だ。二人並んだらきっと、他の三人はさぞかし驚くことだろう。その後ルカは――そこまで考えて、胸の奥がチクリと痛む。また傷つけてしまうのだろう。けれど、カーヤの本音を知っているのに、ここで誤魔化すわけにはいかない。
身支度が進むに連れて、胃がきゅっと縮こまるような苦しさを覚える。胸の奥がそわそわと落ち着かず、鏡に映る自分の姿が目の入っているようでいて見えていない。映り込むエリシュカの後ろから現れるはずの、カーヤの姿ばかりを探していた。
「お嬢様。カロリーナ様のお支度が終わったのですが……」
斜め後ろから遠慮がちに声を掛けられ、ぱっと振り返ったエリシュカの視界にカーヤは映らない。きょろきょろと辺りを見回すが、やはりどこにも見当たらなかった。
「カーヤはちゃんとドレスに着替えたのよね?」
「はい。それが……お部屋から出るのを躊躇われておいでなのです」
エリシュカは目を瞬いた後、納得したように頷いた。
「そうなのね。私が迎えにいっても大丈夫かしら」
「ええ、お願いします」
使用人に案内され、隣の部屋へ向かう。廊下の先には、ルカを先頭に三人が歩いてくるのが見えた。気付いた彼らに軽く会釈して、そのままカーヤの居る部屋の前へ足を進めた。
「カーヤ、入るわね」
軽く扉を叩きながら声を掛け、返事を待たずに思い切って扉を開いた。ここで時間をかければますます出にくくなるだろう。何せ三人が、不思議そうな顔でこちらに向かってきているのだから。
「リシュカっ!」
振り向いたカーヤは、年齢に見合う大人びたドレスに身を包んでいた。エリシュカは思わずほうっと息を吐き、頬に片手を添えた。
「カーヤ……とっても綺麗」
「そ、そうかな……なんだか変な気分。リシュカのほうがずっと似合ってるよ」
いつもの凛とした姿と打って変わって、恥ずかしそうに俯いたカーヤは艷やかだ。可愛らしさの残るエリシュカのドレスと違い、格調高くシンプルなデザインが、その美しさを引き立てている。エリシュカの淡い色合いのものとは真逆に、落ち着いた深みのある生地がサラリと揺れる。こんな姿を見たら、誰もが見惚れてしまうだろう。ルカだってきっと、罪悪感など抱く暇もないかも知れない。そんな風に考えて、ほんの少し胸がチクチクと痛んだ。
「リシュカ? やっぱり、私は元の服に」
「駄目よ、カーヤっ!」
エリシュカは自分の考えを振り切るように、カーヤの腕にそっと手を添えた。いつもは優しくエリシュカを導いてくれるカーヤだが、今はすっかり逆転だ。重心を後ろにして足を止めたカーヤの正面に向き直り、その顔を見上げた。
「カーヤ、ドレスは嫌だった?」
虚を突かれたような顔をしたカーヤが、一瞬後に自分の姿を見下ろした。気まずそうな表情を浮かべると、頬がほんのり上気する。
「ううん、嫌じゃない」
首を横に降ったカーヤは、俯き加減で少しの間考え込んだ。それからゆっくり顔を上げ、エリシュカに視線を戻した。
「リシュカに着替えてって言われて、正直戸惑ったけど。本当は着てみたかった。ただそれを認めるのが、ちょっと怖かっただけ」
「それならよかった。とっても似合ってる。勿体ないけど、皆にも見てもらいましょうよ」
少しの間視線を彷徨わせたカーヤは、やがてはにかむような笑みを浮かべた。
「一人じゃ勇気が出ないけど、リシュカと一緒なら心強いね」
顔を見合わせて同時に笑い合い、手を繋いで扉へ向かって歩き出す。カーヤの足取りは淀みなく、エリシュカは笑みを深めた。




