3-2②
「笑ったりしてごめんなさい。私の名前はエリシュカ。エリシュカ・ヴラノヴァーよ。よろしく」
しっかり名乗った後に、全員の顔を順に見比べる。カーヤは目を瞠り、オルダはぴくりと片眉を上げた。マテスは表情を変えず、ルカは一瞬息を呑んだ。彼らはやはりエリシュカのことを、今の時点で知っているのだろうか。二度目に会った時は、誕生日からひと月が過ぎていたからわからない。けれど、もしかしたら一度目の出会いの時も、エリシュカのことをはじめから知っていたのかも知れない。
「初めまして、ヴラノヴァー嬢。僕はルカーシュ・イェリーネクだ。ルカでいい」
「私は……カレル・チェルマーク。よろしく。カーヤって呼んで」
「オルドジヒ・ハヴェルだ。オルダで構わん」
「僕はマティアス・コウカル。マテスでいいよ。それから、怪しい奴らじゃないから安心してよ」
肩を竦めたマテスが、戯けたように最後を締めくくる。誰もが自然な名乗りで、カーヤ以外は皆本名だ。エリシュカを知っている素振りがあるようにも見えるが、ヴラノヴァーの名前に反応しただけかも知れない。
「私は……好きに呼んでくれて構わないわ。あと、皆の家名を聞いても私にはわからないの。失礼があったらごめんなさい」
「それじゃあ、リシュカ。……そう呼んでも構わないかな?」
ルカの言葉にエリシュカの心臓が跳ね、一瞬息が止まる。すぐに頷き返すと、ルカはホッとしたように続けた。
「僕らは家名なんて、誰も気にしてないから大丈夫」
「ルカの言う通りだよ」
「俺は家名になど頼るつもりはない」
「もちろん、僕もだ」
一度目も、三度目の出会いでも、そして今日も。彼らはまた同じことを言う。胸の奥は震えるのに、同時にチクチクと痛みを訴える。どんなに出会いを重ねても、彼らはエリシュカのことをまた覚えていないのだ。
「それより、リシュカはどうしてこんなところに……そんな格好で?」
カーヤが遠慮がちにエリシュカの顔を覗き込み、首を傾げた。エリシュカは一瞬躊躇い、ちょっとの間考えてから答えた。
「私は、行きたいところがあって。……皆はどうしてここに?」
顔を見合わせた四人の視線が、ルカに集まる。ルカはすぐに穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「僕らは、簡単に言えば修行中ってところかな。僕の持ってきた依頼を皆でこなしながら、経験を積んでるんだ」
「……依頼?」
「そう。詳しくは話せないけど」
肩を竦めたルカが、三人に視線を巡らせた。カーヤが微笑み、オルダが腕を組んで頷く。マテスは頭の後ろに両手を組んだまま、面白そうな顔で笑みを浮かべた。四人は意味ありげでもあり、かと言って悪意がありそうにも見えない。二度目に馬車の中で言っていた『魔女の末裔を保護する』という依頼を既に受けているのだろうか。
「私、これから王都を出て、行かなきゃならない場所があるの。だから、これで失礼するわ」
「えっ、ちょ、ちょっと待って!」
軽く腰を落として踵を返したエリシュカを、ルカが慌てて呼び止めた。振り返ったエリシュカは、首を傾げてルカを見上げた。
「えっと……どこへ行くのか聞いてもいい?」
「どうして?」
困ったように頭を掻いたルカが、他の三人に視線を送った。マテスは変わらず笑みを浮かべ、オルダは渋い顔をしている。ふっと息を吐いたカーヤが、エリシュカに一歩近づいた。
「貴族のお嬢さんが、たった一人で王都を出るなんて無茶だよ。ね、ルカ?」
「ああ、そうだな。そうだ……それなら、僕らが一緒に目的地まで送っていくよ」
「でも、依頼を受けているのなら忙しいんじゃない?」
言葉に詰まったルカの後ろで、マテスが組んだ両手を解いてエリシュカを見つめた。口元に笑みは浮かべているが、その鋭さに背筋がぞくりと寒くなる。
「いや、大丈夫。今受けてる依頼はそんなに急ぎじゃないんだ。まだ余裕があるから」
「そう」
エリシュカは俯き加減で考え込んだ。もしエリシュカの保護が依頼内容なら、期限はひと月後なのかも知れない。二度目に彼らが現れたのは丁度その日だ。もしその考えが合っているなら、たしかに余裕はあるだろう。それよりここでエリシュカを見失うほうが困るのではないか、――この誘いに乗るべきか否か。
「……わかった。もし皆がよければ、一緒に行ってもらえると心強いわ」
顔を上げて軽やかに笑ったエリシュカに、ルカはほっとしたような笑みを返した。
「改めて。よろしく、リシュカ」
胸に手を当てたルカが軽く腰を折り、カーヤもそれに倣う。オルダは厳しい表情で、マテスは少し大げさな仕草だ。エリシュカはワンピースを軽く摘み、腰を落とした。
「じゃあ、早速……といきたいところだけど、リシュカはその顔じゃまずいかも知れないね」
「ああ、そうだな」
カーヤの言葉にルカが頷いた。エリシュカは、ぱっと両頬に手を添えて下を向く。
「どうしてだ? 別に顔が汚れてるくらいどうってことないだろう」
「オルダ……僕ら一応貴族だぜ? 一人だけ目立てば普通確認されるだろ。……いや、オルダが門番ならなんてことないな」
「おいマテス、それはどういう意味だ」
マテスとオルダがいつもの調子でやり合うと、ルカは「仕方のない奴だな」と肩を竦めてからエリシュカを促した。カーヤが呆れたような笑みを浮かべ、手を差し出す。指先を重ねると、先導したルカに続いてカーヤが歩き出した。マテスとオルダはまだ小競り合いをしながら後ろからついてくる。エリシュカは胸の奥が熱くなり、空いた片手でフードの先を握りしめた。
ルカに連れられて行ったのは、広場から路地へ入った先にある宿屋だった。主人と顔見知りのようで、目立たぬように裏口から水場へ入る。どこからかマテスが布と石鹸を調達してきて、カーヤに渡した。怪我した手を庇うエリシュカをカーヤが手伝い、ようやく顔から墨を落とすことができた。
拭った顔で振り向くと、ルカが息を呑んで目を細めた。カーヤは柔和な笑みを浮かべ、マテスが口笛を吹く。オルダは変わらず渋面のまま、腕を組んで微動だにしない。エリシュカは居心地悪く、曖昧な笑みを浮かべた。
四人はその宿屋に預けていた馬を引き取り、それぞれが手綱を引いて門へ足を進める。人混みが途切れたところで、マテスが馬に跨った。
「じゃあ、出発しようぜ」
カーヤが馬に乗り、ルカに目配せをした。ルカは何かを言いかけて口を閉ざす。一度エリシュカを見てからカーヤに向かって頷いた。
「オルダ、頼むよ」
ルカの声に、オルダが頷きカーヤの馬の横にしゃがみこんだ。
「リシュカ、手を」
カーヤの伸ばした腕に、エリシュカは躊躇うことなく手を伸ばす。
「俺の手に乗るといい」
組まれたオルダの大きな手に、エリシュカは「ありがとう」と声を掛けて足を乗せた。もう幾度も繰り返したこのやり方も、彼らにとっては初めてのことだ。カーヤの前にすんなり収まるエリシュカに、やはり全員が驚いたような顔をする。ふわりと広がるスカートの下からは、パヴェルのズボンがちらりと顔を出した。全員が息を呑む音が聞こえて、エリシュカは苦い笑みを浮かべた。マテスがどこか遠くを見るような目でエリシュカを眺め、ぽつりと呟いた。
「前にもこんなことがあったな」
エリシュカの腰に腕を回したカーヤは、首を傾げて唸り声を上げた。オルダは自分の両手を見つめ、ルカは訝しげな顔をしている。思い切って打ち明けてみようか。そんな考えが頭を過ぎるが、こんな場所でそんなことを言えるはずもない。それに、おかしなことを言い出したと気味悪がられるかも知れないと思えば、喉の奥で言葉が鉛のように重くなる。
「いや、こんなにすんなり馬に跨る淑女などいないだろう。大体そんなことがあったら、忘れるはずがない」
ぱんぱんとオルダが掌の汚れを落とす音に、張り詰めていた空気がぱっと解ける。ルカとカーヤはそれもそうかと納得しているようだが、マテスは腑に落ちないといった表情だ。エリシュカと視線が合うと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「それにしても、躊躇いもせずによく乗れたな。もしかして、男と相乗りするのに随分慣れてる?」
「そうじゃないわっ! だって、カーヤは女性だからっ……」
あっと思って口を閉じたときにはもう遅い。思わず言い返してしまったが、前回もマテスにつられてカーヤが女だと言ってしまったのだ。余計なことは言うまいと思っていたのに、まんまと乗せられた。
「すごい、よく分かったね。初対面で私が女だって分かったのは、リシュカが初めてだよ。……いや、前にも誰か」
ドクンと心臓が跳ね、その音がカーヤに聞こえてしまいそうなほどだ。けれど、考え込んだまま口を閉ざしたカーヤは、結局何も言わなかった。
「おい、早く出発しないと次の町に着くのが夜になるぞ」
オルダの言葉でカーヤが我に返ったように、エリシュカの腰に回した腕に力を込めた。同じように考え込んでいたルカもぱっと顔を上げ、馬の向きを門へ向ける。マテスは何を考えているのか分からないような笑みを浮かべ、ルカの後に続いた。
門へ近づいていくにつれ、エリシュカの喉がカラカラに乾いていく。張り付きそうに狭くなり、息苦しさに胸が詰まりそうだ。
「リシュカ、大丈夫だよ。訳ありなんだろうけど、ルカがどうにかしてくれる」
頭の上からそっと囁かれて、エリシュカはビクリと身体を揺らした。
「ふふっ。緊張してるってすぐにわかるよ。肩の力を抜いて、自然にしていて。もし何かあっても、私がいるから落ち着いて」
潰れそうだった胸がふわりと楽になり、喉を通る空気が軽くなる。徐々に見えてきた門には、ヴォイチェフが立っていた。ルカを先頭に近づいていくと、気付いたヴォイチェフが畏まったように胸に拳を置き頭を下げた。
「僕の連れも一緒なんだけど、このまま通っていいかな?」
「もちろんです、イェリーネク様。貴殿のお連れ様であれば問題ありません」
「そう。じゃあ、失礼するよ。ご苦労さま」
「はっ」
軽く手を挙げたルカが、そのままヴォイチェフの前を通り過ぎた。エリシュカはカーヤの前で呆気に取られたまま、厚い石門の下に入っていく。ひやりとした空気を胸に取り込み、大きく息を吐いた。
「……ルカの家って、すごいのね?」
「まあね。ルカはそれを傘に着るってことはないけど、こんなときは便利だよね」
一度目の旅で、一緒に星を見た。流星群の約束は、もうどこにもない。あのときはルカがどれほどの立場なのか、何も知らなかった。ただ一緒に旅をして、ただ一緒に星を見た。二度目からはどこか遠くて、手を伸ばしても届かないのだと思った。エリシュカだけが記憶を持ち、彼らは全てを忘れている。隔たりはそれだけなのだと思っていたけれど。もしかしたら届くかもと思っていた星空は、端からエリシュカには掴むことのできないものだったのだろうか。むしろ、手を伸ばすことすらしてはいけない星なのだろうか。
日の差さない門の下を、同じ距離でルカの背中が進んでいく。近くに見えて、果てしなく遠い。馬に揺られながら、ルカの後ろ姿がどこか別の世界のもののように見えて目を瞬いた。胸の奥が苦しくて、小さく唇を噛む。石門の影から抜け出したルカが、陽の光に照らされた。まるで切り取られた絵のように輝くその姿に、エリシュカだけが影の中に置いていかれるような気がした。




