3-2①
王都に入る石門が迫り、エリシュカは慌てて俯いた。邸を抜け出したことは、既に知れているのだろうか。だからと言ってエリシュカをすぐに探すかと言えば、ズラタは探しはしないだろう。けれど、アダムの言っていた『外したらわからなくなる』の言葉が気になり、どうにも落ち着かない。
「悪かったな。まさかこんなことになるとは思わなかったぜ」
石門の手前でラディムが肩を落としてため息を吐いた。
「いいえ、ラディムおじさんが悪いわけじゃないわ」
そうだ、商人があんな目にあったのも、ラディムのせいではない。
エリシュカの頭をぽんと一度叩いたラディムは、石門に向かって馬を進めた。
「よお、トマーシュ」
「ああ、ラディムか。何だ? シケた顔して」
「悪いがお前と遊んでる暇はねえよ。隣町へ行く道の途中で、商人の馬車が襲われてる。ありゃあ、たちの悪い盗賊だ。急いで警備兵に知らせてくれ」
「なんだってっ!」
トマーシュと呼ばれた門番は、慌てて近くの仲間の元へ走っていく。ラディムは顔を顰めたままその様子を見送り、しばらくその場で足止めされることになった。
「おい、客だけ先に中へ入れてやって貰えんか? ほら、通行証ならここだっ」
背中に向けて叫んだラディムに、トマーシュが振り返る。すぐに代わりの門番を寄越すと、ラディムからは後で事情を聞くと言い含めて馬車を通過させた。
元の広場に戻ってきた一行は、そのままあちこちへ散っていった。同じ方面へ進む馬車は、しばらく足止めを食うのだろう。手持ち無沙汰になった周囲の乗合馬車の主たちが、ラディムの馬車に集まってきた。
「おい、エリっ。お前これからどうする?」
周囲の御者たちと話し終えたラディムが、眉を下げてエリシュカに問いかけた。唸り声を上げて考え込むが、どうしたらいいのかわからない。すると、少し離れたところから誰かがラディムを呼ぶ声が聞こえてきた。
「ラディムっ! 事情を聞きたいからちょっと来てくれ」
トマーシュが片手を挙げて、小走りで向かってくる。ラディムは軽く舌打ちをした後に、エリシュカに視線を戻した。
「ラディムおじさんっ、私なら大丈夫。なんとかするわ。どうしても困ったら、またおじさんのところにきっと戻ってくる」
「いや、おい、エリっ! お前さんになにかあったらパヴェルに顔向けできねえよ」
「大丈夫よ、おじさん。私が戻ってこなければ無事に旅に出られたと思ってちょうだい」
「待て、エリっ!」
ラディムの呼びかけを背に、エリシュカは町の喧騒のなかに紛れ込んだ。一人になるのも心細いが、もしエリシュカを追う者がいればやっかいだ。トマーシュがその報せを受けていないとも限らない。こんな黒い顔で邸に戻れば、ズタラにどんな嫌味を言われるか。それに、せっかく手伝ってくれたルツィエとパヴェルにも悪い気がした。
昼過ぎの王都は沢山の人が行き交い、慣れない人混みに目が回りそうだ。先程から幾人かにぶつかっては足を止め、文句を言われて答えようとすると既に相手はいない。どうしたものかと思案していると、ふと人々の隙間の奥に彼らを見つけて心臓が跳ねた。
三人は、広場の片隅で難しい顔をして何かを話し込んでいる。顎に手を当てたルカ、腕を組んで首を傾げたオルダ、軽く肩を竦めたのはカーヤだ。まだこちらには気づいていないが、何をしているのだろうか。
一度目も三度目も、今頃彼らと馬に乗っていた。用事があるなら、既に王都を出ていたはずではないのだろうか。エリシュカが行動を変えたことで、彼らにも影響があったのだとすればなぜだろう。
そんなことを考えていると、どこからか小走りでやってきたマテスが、慌てた様子で三人に話しかけた。三人はマテスの話に、困ったような表情を浮かべている。一体何を話しているのだろうか。声を掛けるべきか否か、そんなことを考えていると、前から走ってきた男がエリシュカの肩にぶつかってきた。
「きゃっ」
ドサリと倒れ込み、石畳の上を滑る掌がじゃりっと音を立てる。打ち付けた身体の痛みに、エリシュカは顔を顰めた。
「悪いな、嬢ちゃんっ! 急いでるんだっ」
男は形ばかりの謝罪の言葉を置いて、そのまま走り去っていった。
「痛っ」
起き上がろうとしたエリシュカは、突いた左手の痛みに思わず声をあげた。そのとき、ジャッジャと走り寄る靴音が近づいてくる。滲み出た涙を袖で拭ったところで、真上から照っていた陽の光が遮られた。
「大丈夫かっ?」
声の方へ視線を向けるが、逆光で黒くなった顔はよく見えない。黒い影の向こうに見える光の強さに、目を細めながら左手を掲げた。
「っ! 怪我をしてるじゃないかっ。ちょっと見せて」
ぎゅっと手首を握った影が、そのままエリシュカのすぐ横にしゃがみ込む。太陽の光から抜け出し目の前に現れたのは、怒ったような表情のルカだ。エリシュカはくしゃりと顔を歪め、せり上がってくる涙に慌てて瞬きをした。
「早く洗ったほうがいい。立てるか?」
眉を下げたエリシュカに、顔を上げたルカが目を瞠る。ぱちぱちと数回目を瞬くと、眉を顰めてまじまじとエリシュカの顔を眺めた。
「どうしたんだよ、ルカ。いきなり走り出すなって」
マテスがルカの肩を叩き、あとの二人もルカとエリシュカを覗き込んだ。
「ああ、これは酷いな」
マテスが眉を寄せ、二度頷いた。
「そうだね……どっちも早く洗ったほうがいいね」
カーヤが眉を下げて、困ったような表情を浮かべる。
「これは……墨だな」
オルダが腕を組んで眉間にシワを寄せた。エリシュカは慌てて両手を頬に当て、そのまま俯いた。顔を黒くしていたことをすっかり忘れていたのだ。エリシュカの手首を掴んでいたルカは、空になった手をぼうっと眺めた後、はっとしたようにエリシュカに視線を戻した。
「突然すまなかった。僕は、ルカ」
「私はカーヤ」
「僕はマテスだよ」
「俺はオルダだ」
順に名乗った三人に、エリシュカは喉を鳴らした。一度目はリシュカ、二度目はヴラノヴァー嬢、三度目はエリ。四度目の今は、なんと名乗るべきだろうか。
「私は……」
「あんたたちっ! 邪魔だよ、どいとくれっ」
大きなかごを抱えた年嵩の女が、迷惑そうにすぐ横を通り過ぎる。慌てて周囲を見回すと、エリシュカたちのところで人波が二つに別れていた。
「立てる? とにかく傷の手当をしよう」
中腰になったルカが、エリシュカに向かって手を伸ばした。エリシュカは一瞬躊躇うが、そっと指先を重ねた。ルカがしっかり握り直し、そっと自分の方に引き上げる。エリシュカはそれに合わせて立ち上がり、スカートについた埃を軽く払った。
人の流れに乗りながら、ルカを先頭に広場の中央へ歩いていく。四人の真ん中に挟まれたエリシュカは、彼らになんと名乗ろうかとそればかり考えていた。石造りの井戸の前に辿り着くと、ルカに促されて手を差し出した。ルカが井戸から汲んだ水を、エリシュカの掌にゆっくり掛ける。ナイフで豆を潰したときも、こんな風に手当をしてもらった。その時のルカを思い出し、じわりと涙が滲む。下を向いたエリシュカに気付き、ルカが傾けていた桶をぱっと戻した。
「そんなに痛むのか?」
眉を下げたルカに、エリシュカは慌てて首を横に振る。カーヤが掌を覗き込み、エリシュカの背中をそっと二度叩いた。
「無理しなくていいよ。こんな綺麗な手なんだ。痛いに決まってるよ」
マテスが壺を取り出し、蓋を開けてカーヤに差し出す。カーヤは頷いてから指で少しすくい、エリシュカの掌にそっと乗せた。傷口に慎重に伸ばしてから、腰のポーチから取り出した手巾でしっかり包む。よしと頷いたカーヤがその手をじっと見つめ、考え込んだ。すると、他の三人もエリシュカの手を眺めて不思議そうな顔をした。落ち着かなくなったエリシュカは、慌てて「ありがとう」と声を掛けると手を自分の方へ引き寄せた。
「顔の墨も落としたほうがいいんじゃないか?」
オルダの声に、三人がはっとしたようにエリシュカの顔に視線を向ける。エリシュカは再び汚れた顔を思い出し、フードに手を当て深く被り直した。
「まあ、なにか訳ありなんだろうけど……僕らといると却ってその顔は目立つかも知れないな」
「マテスの言う通りかもね。もしよければ人目につかないところへ行こうか」
「ねえ、カーヤ。その言い方だと僕たち怪しいやつみたいだぜ」
マテスの言葉にカーヤが目を丸くした。それからマテスの顔をじっと見つめて、「確かに、怪しい奴らだね」と呟く。
「えっ、ちょっとカーヤ! 僕の顔を見てその言い方は酷いじゃないかっ」
「いや、当たってるだろう」
「オルダのほうが怪しいだろうっ!」
「なんだとっ。そんなわけあるか、俺はどこからどう見てもれっきとした剣士だっ」
腕を組んでマテスを見下ろすオルダは、相変わらずの渋面だ。マテスが何かを言おうと口を開きかけたところで、ルカが遮った。
「そこまで。全く、いつもこの調子だ。彼女がびっくりするだろ?」
四人の視線がエリシュカに集まると、エリシュカは顔をくしゃりと歪めた。フードの先をぎゅっと握り、肩をふるふると震わせる。
「ああ、どうしよう。マテスのせいで泣いちゃうじゃない」
「ええっ、僕のせい? 待ってよ、カーヤが最初に言い出したんじゃないかっ」
「蒸し返すなって。仕方ない奴らだなあ」
「ルカもその仲間だぞ」
エリシュカは小さく息を吐くと、腹に手を当てて笑い出した。
「ふっ。あははっ。あははは」
四人は何度出会ってもきっと同じだ。いつ、どんな風に出会っても。
カーヤが柔らかな笑みを浮かべる。マテスは頭の後ろに両手を回して愉しげに口の端を上げ、腕を組んだオルダが眉間にシワを寄せながら頷く。目を細めたルカが一度目のときと同じように笑い、エリシュカは目尻の涙をそっと拭った。




