3-1②
「パヴェルの言ってた内緒のお金っ」
「うわああ、お前さん、一体何を言い出すんだっ」
「それ、無しにしてあげるわ!」
「ええ? どういうことだ?」
訝しげなラディムに向かって、エリシュカは口の端を上げた。
「もし車軸がなんともなかったら、私がパヴェルに頼んで無しにしてあげる。だから、車軸を点検してみてっ! お願いっ」
両手の拳を胸の前で握りしめ、ラディムに向かって身を乗り出す。ラディムはさらに後ずさり、うめき声を上げた。
「なあ、おやじ。もう馬車はいっぱいだぜ。そろそろ出してくれよ」
馬車の乗客が声を上げ、ラディムがちらりと荷台を見上げた。乗客の顔ぶれは前回と変わらないようだ。その中にはホンザ母子も乗っている。
「ラディムおじさんっ、お願いよっ!」
「わ、わかった、わかったからちょっと落ち着けっ」
両手を挙げて後ずさったラディムが、客の方へ少し待つように声を掛けた。そのまましゃがみ込むと、エリシュカに促されて前回も壊れた車軸を覗き込む。
「ねえ、どうかしら?」
「くそう、こいつぁ参ったな」
唸り声を上げたラディムが、這いつくばっていた身体を起こして頭を掻いた。
「悪いが車軸がぶっ壊れちまいそうだ。急いでるやつぁ、他をあたってくれ。修理にしばらく時間がかかっちまう」
乗客に向かって声を掛けたラディムに、エリシュカはほっと息を吐いた。走っている間に壊れるはずだったが、今の時点でそれがわかるかは確実ではなかったのだから。
幾人かの乗客は、そのままラディムの馬車に残った。ホンザはどうしたかと思えば、母親に手を引かれて別の馬車へ向かっている。今度は一度も言葉を交わすこともなく去っていく背中は、あっという間に見えなくなった。口の中にプラムの味がふわりと広がり、胸の奥がずきりと痛んだ。
「お前さんも急いでるなら、他の馬車を当たってやろうか」
ラディムに声を掛けられたエリシュカは、一瞬の間考える。しかしすぐに首を横に振った。
「いいえ、私はまだ大丈夫だから。修理が終わるまで待つわ」
「そうか」
頷いたラディムは一度部品を取りにどこかへ行って帰ってくると、すぐに馬車の下に潜り込んだ。そのまましばらく待っていると、馬車の下からラディムが這い出てきた。
「ふう。これでよし」
ラディムは額の汗を拭い、大きな息を吐いた。道具を片付けるとエリシュカに向き直り、丸帽子を取って笑いかけた。
「エリ、助かったぜ。あのまま走ってたら事故になってたかも知れん。客が怪我でも負えば、また誰かから金を工面しなきゃならなかった。ありがとよ」
「ううん、役に立てたなら良かったわ……ラディムおじさん」
「ははっ」
エリシュカの頭をフードごとぐしゃぐしゃとかき混ぜたラディムが、心底楽しそうに笑った。前の記憶があるのも悪いことばかりではない。エリシュカはやっと一歩進めたような気分で、勢いよく御者台に乗り込んだ。
しばらくそのまま待っていると、前とは違う客たちが集まってきた。荷台はあっという間に満員になる。通行証の束を確認したラディムが、馬に合図を送った。その時、広場のからくり時計がカラーンカランランと乾いた鐘の音を響かせた。死神の引く紐に合わせて鳴るその鐘は、なんとも不規則で胸の奥がざわつく。時計を見上げる人々と、忙しそうに通り過ぎる者とが交差する。ゆっくりと回り出した時計の中の人形たちが、広場を出ていくエリシュカの馬車を見送っていた。
前の二回とは違い、馬車は順調に進んでいく。分かれ道の向こうから、商人の馬車はやってこない。きっと先に通り過ぎたはずだ。エリシュカはこのまま四人に会うことなく、次の町に行くことになるだろう。そう思うと少しの不安が胸を過ぎる。後ろ向きになりそうな気持ちを追い払おうと、座席を握る手に力を込めた。
「ん? あれはなんだ」
エリシュカが横の景色を眺めていると、前方を見つめていたラディムが訝しげな声を出した。慌てて前に視線を戻すと、そこには見覚えのある馬車が停まっている。ドクンと大きく心臓が跳ね、全身を駆け巡るように打ち付ける。そんなはずはない――そう思いたいが、近づけば近付くほどに確信が湧いてくる。あれは、商人の馬車だ。
「なんだ? なにがあったんだっ」
後ろの客たちも騒ぎ始め、エリシュカの顔からどんどん血の気が引いていく。けれど、きっと大丈夫だ。前回だって彼らは助かったのだから。そう言い聞かせて、近付いてくる馬車に目を凝らした。
「おいっ、大丈夫かっ」
馬を停めたラディムが御者台を飛び降り、倒れている男の元に走り寄った。その服装は、商人のものに似ている。乗客たちがざわつき始め、一人の体格のいい男が荷台から飛び降りた。そのまま幌馬車の周囲を確認し、慎重に馬車の後部の布を捲る。一瞬動きを止めて、ゆっくり降りてきた男は、全員の顔を一度見てから首を横に振った。
エリシュカはガクガクと震える拳を握りしめ、御者台を降りた。どう見ても商人は無事ではない。馬車の後部に立っていた男が「おいっ」とエリシュカを呼び止めたが、構わず布を捲って中を覗き込んだ。荷台は無惨に荒らされ、見覚えのある二人が倒れている。エリシュカはホンザが居ないことに安堵を覚えるが、次の瞬間ぐっと喉をつまらせた。吸い込む空気に埃と鉄の匂いが混じり、腹の底から何かがこみ上げてくる。
ホンザたちは助かったのかも知れない。けれど、商人と護衛が犠牲になってしまった。御者もおそらく無事ではないだろう。自分が行動を変えたせいで、こんなことになるとは。滲んでくる涙を袖で拭い、元来た道を振り返る。そこに四人の姿はなく、土煙の影すら見えない。やはり彼らとの出会いは、二度とも偶然だったのだろうか。
「お、おいっ! どうなってるんだっ」
「ねぇっ。こんなところに居たら危ないんじゃないのかいっ?」
「そ、そうだっ! 早く馬車を出せっ」
乗客たちが騒ぎ始め、ラディムが舌打ちをした。エリシュカはラディムに近寄ると、足元の商人を見つめて顔を歪めた。
「エリ、見るな。もう手遅れだ。お前、ナイフは使えるか?」
エリシュカが頷くと、ラディムは商人の腰からナイフを抜き取った。
「持ってろ。まだ何があるかわからん。俺一人じゃお前を守りきれるかわからんからな」
ごくりと喉を鳴らしたエリシュカは、指先の震える手でナイフを受け取った。腰のベルトに通すと、やけに重く感じる。ルカに貰ったナイフのように手に馴染むものでもない。
「そんな顔すんなって。どうにかなるさ。お前さんを無事に送り届けなきゃ、俺はパヴェルに顔向けできねえや」
エリシュカの頭をクシャリと撫でたラディムは、馬車に向かって歩き出した。
「おいっ、早く馬車を出せっ!」
「分かった分かった、落ち着きなって」
騒ぎ出した乗客を宥めるが、今度は進むか戻るかで揉め出した。
「早く次の町へ連れってくれよ」
「いいや、元来た道を戻るんだっ! ここまでは何も居なかったじゃないかっ」
「そんなぁ、俺は今日中に次の町へ行かなきゃならねえんだ。勘弁してくれよお」
意見のまとまらぬ乗客たちが、口々に主張し始める。大きなため息をついたラディムが、一度パンと手を叩いた。
「ちょいと黙っちゃくれないか。この馬車は俺のもんだ。行き先は俺が決める」
乗客たちは息を詰め、ラディムの言葉を静かに待った。
「悪いが一旦王都へ戻る。その後は警備隊に報告だ。俺ぁ、あいつらのように、あんたらを死なせるわけにはいかないからな」
ラディムの振り向いた先には、うつ伏せに倒れる商人の姿があった。誰もがその様子に青ざめ、視線を彷徨わせた。
「文句があるやつはここに置いていく。さあ、どうする?」
乗客たちから反対の声が上がるはずもなく、馬車はゆっくり進行方向を元の道へ向けた。
ラディムの横に座ったエリシュカは、青ざめたまま口を閉ざした。自分が行動を変えたせいで、商人が犠牲になってしまった。本当なら彼らは助かるはずだったのに。
それにしてもなぜ四人は来なかったのだろうか。もしエリシュカが行動を変えず、商人の馬車に乗っていたら――そこまで考えて、全身がブルリと震えた。もし四人が来なければ、エリシュカはホンザを庇って無事には済まなかっただろう。そこまで考えてから商人の姿を思い出して、今度は胃の奥がムカムカとしてくる。
命が絶えるときの苦しさや悲しみ、やりきれなさをエリシュカは知っている。商人に味わうはずのなかった痛みを与えてしまったのは、他でもなくエリシュカだ。腰のナイフを撫でてから、気分が重くなり拳を握りしめた。
ゴツゴツと座り心地の悪い椅子の上で、エリシュカはぎゅっと唇を引き結ぶ。一度目の死に戻りとも、三度目とも違う今度の旅は、一体どこへ向かうのだろうか。王都への道がやけに細く頼りなく思えて、エリシュカの胸の内に巣食う靄に溶けてしまいそうだ。ガタガタと耳障りな音を響かせた馬車は、真っ直ぐにその道を走り続けた。




