2-7②
「よくきたね、エリシュカ」
ホールで待っていたのは、見覚えのある顔だ。今の今まで薄っすらとしか残っていなかった記憶が、突然くっきりと蘇った。六年前とあまり変わらぬその顔は、どこか母の面影がある。
「ご無沙汰しております、叔父様」
腰を落としたエリシュカに、叔父は目を細めた。
「初めてお目にかかります。突然大勢で押しかけて失礼いたしました。僕はルカーシュ・イェリーネクです」
「オルドジヒ・ハヴェルです」
「初めまして、マティアス・コウカルです」
「お初にお目に掛かります、私はチェルマーク家の……カロリーナです」
ルカが小さく息を呑み、エリシュカはゆっくりカーヤを見上げた。真っ直ぐ前を向いたカーヤを横目に、マテスは僅かに口の端を上げている。オルダは眉間の皺を深くしたが、口を開くこともなかった。
「……初めまして。私はミロシュと申します」
ミロシュはカーヤの姿に眉を上げ、一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに気を取り直したように、言葉を続けた。
「皆さん、エリシュカを無事送り届けてくださって感謝します。どうぞゆっくりくつろいで下さい」
ミロシュは再びエリシュカに視線を向けると、柔らかな笑みを浮かべた。
執事を先頭にホールから客間へ案内され、全員がソファに腰を下ろした。テーブルには使用人の用意した果実水が置かれている。執事がそれぞれのグラスに注いでいき、薄緑色のグラスが程よく満たされ、深い赤に染まっていく。促されて口に含めば、森のブルーベリーのような甘酸っぱさがじわりと広がった。一口飲み下せばすっと身体に染み渡り、思わずゴクゴクと半分以上飲んでしまった。はっとして他の三人に視線を向ければ皆同じようなもので、エリシュカはそっと肩の力を抜いた。
「エリシュカ、よく訪ねてくれた。マルケータ姉さんが亡くなったときは、連れてきてやれずにすまなかった」
あの日の叔父はどんな顔をしていただろうか。エリシュカは覚えていないが、こんな風に眉を下げていたのかも知れない。
「いいえ。お母様の命日を控えて、こうして伺えましたから」
「そうか……」
「どうしてエリは母上とここにくることができなかったんだ?」
オルダが首を傾げて問いかけた。他の三人はぎょっとしたような顔をして、オルダに視線を投げた。オルダはそれに気付かず、ミロシュを見つめたままだ。
「ご存知ありませんか。ヴラノヴァーの当主たる長女は、決まったときにしか王都を出ることができません。これは王家との契約です」
「えっ」
同時に声を上げたのは、ルカとマテス以外の三人だけだ。もしかしたら、ルカとマテスは知っていたのだろうか。特にルカは星詠の家系だ。王家との繋がりは深く、ヴラノヴァーや魔女のことを何か知っているのかもしれない。
「私、お母様から何も聞いていないのです。叔父様の知っていることを教えて頂けますか?」
「ああ。もちろんだ」
深く頷いたミロシュは、ヴラノヴァーについて語り始めた。
「ヴラノヴァー家の当主は代々長女だ。王家との古い契約で、特別なときを除き王都で過ごさねばならない」
「特別なとき……それは、洗礼でしょうか」
エリシュカの言葉にミロシュは頷き、言葉を続けた。
「そうだ。それと、出産の場合も認められている。エリシュカもここで生まれたのだよ」
ミロシュは遠くを見つめるようにして、目を細めた。エリシュカは落ち着かない気分で、視線を彷徨わせる。
「ヴラノヴァーの洗礼とは、一体どんなものなのでしょう」
考え込むようにしてルカが口を開いた。ミロシュは眉を顰めて、顎に手を当てた。
「それが、当主にしかわからないのです。詳細は必ず当主が次代の当主――娘へ伝える。母からは姉マルケータへ、そしてエリシュカへと繋がるはずだったのだが」
一旦言葉を切ったミロシュは、小さく息を吐いた。
「姉は突然の事故で亡くなり、エリシュカが何も聞いていないのだとすれば詳細を知るものは誰もおりません。母も既に他界していますから」
「……そうですか」
ルカは心配そうな表情でエリシュカを見たあと、ミロシュに視線を戻した。
「エリの父上も、何もご存知ないのでしょうか」
遠慮がちに口を開いたカーヤが、ミロシュに問いかけた。ミロシュは一瞬眉を寄せ、苦い笑みを浮かべて首を横に振った。
「ヤロスラフは、ヴラノヴァーのただの配偶者です。実質何もしていませんから」
部屋の中を重い空気が満たし、誰もが口を閉ざした。少しの沈黙のあと、マテスが明るく口を開いた。
「それにしても、ここはいい町ですね。領民は働き者ばかりで。旅人にも親切だし、領主様の評判は上々だし――何より飯が旨い!」
全員がマテスに注目し、一瞬後にふっと空気が緩んだ。
「我が領地をそのように評してくださるとは光栄ですな。是非自慢の猪肉料理も堪能していただきたものです。食べ物の他にもいい蹄鉄やナイフ、こんなグラスもありますから是非ご覧になってください」
皆の前に置かれたのと同じグラスを片手に、ミロシュが片目を閉じた。
「生憎マテスは食い物にしか興味がないもので」
オルダが呆れたように言うと、マテスが口を尖らせた。ルカが苦笑いを浮かべ、カーヤがエリシュカと視線を合わせて微笑む。その様子を見ていたミロシュが愉しげに声を上げ、部屋の中が明るい笑い声で満たされた。
「エリシュカ、姉さんの命日は明日だが……せっかくだから、今から会いに行くかい?」
「ええ。明日もまた改めて行ってもいいですか?」
「もちろん。明日は姉さんの好きだった花を持っていこう」
ミロシュに促され、皆で敷地内にある墓へ向かう。礼拝堂のある建物は、町の教会とは違い小ぢんまりとしていた。キイと音を立てて木製の重い扉を開き、執事が中でそれを押さえた。ミロシュを先頭に、エリシュカたちも中に入る。夕日がステンドグラスを通して床の色を染め、どこか別の世界へ足を踏み入れたかのようだ。祭壇から出入り口までの通路を挟み、左右に順に石板が並んでいた。
ミロシュは一番手前の右手にある石板の前で立ち止まり、視線を落とした。
「ここが姉さんの……」
言葉を止めたミロシュの足元の石板は、丁度十二個目だ。そこにはマルケータの名と、六年前の明日と同じ日付が刻まれていた。エリシュカは膝をつき、そっと石板を撫でる。指先がひやりとするが、それでもどこか温かく感じる。胸に手を当ててから両手を組み、祈りを捧げると、他の者達もそれに倣った。
少しの間祈りを捧げ、再び顔を上げると並んだ石板を視線でなぞる。
「一番前の石碑から見てもいいでしょうか?」
エリシュカの問に、ミロシュはゆっくり頷いた。コツコツと足音が響き、祭壇の手前の石板まで足を進めた。通路の一番前まで進むと、祭壇との間に一枚の石碑が埋まっている。
「これは?」
エリシュカが振り向くと、ミロシュは「ああ」と頷き、隣に並んだ。
「これは、原初の魔女様だ」
エリシュカは再び膝をつき、祈りを捧げようとして何か文字が刻まれていることに気づく。
『聖なる石が砕かれし時、大いなる力は盃を満たさん』
指で辿った文字は、ところどころ薄くなっているがまだ読むことはできた。
「叔父様、これは一体なんでしょう?」
ミロシュは首を横に振り、魔女については当主しかわからないのだと眉を下げた。他の四人も覗き込むが、当然心当たりのある者など誰もいなかった。
「そうだ、そう言えば一つ思い出したことがある」
目を細めたミロシュは、遠くを見つめるようにして言葉を続けた。
「母さんと姉さんが言っていた。町外れの古い教会がどうとか……。なんと言っていたかは覚えていないが、とにかく一度訪ねてみるといい」
「そうですか。ありがとうございます」
ミロシュの言葉に頷いたエリシュカは、四人を振り返った。皆が真剣な面持ちで頷き、ミロシュに促されてその場をあとにした。
礼拝堂から出た一行は、そのままミロシュの邸に泊まることとなった。翌日マルケータの墓に花を供え、その後町外れの教会を訪ねる予定だ。ミロシュ自慢のジビエを使った料理を堪能した後は、居心地のいい寝室に案内された。
旅が始まってからずっとカーヤの隣で眠っていたが、この邸では一人一部屋が充てがわれている。カーヤは壁を隔てた隣に居るが、同じ寝室ではない。エリシュカはずっと一人で眠ることが当たり前だったのに、どこか心許ないと感じてしまう。始めの頃は、誰かと眠ることが落ち着きなく思っていたのに。
一人きりの部屋を、いつの間にかそわそわと歩き回っていた。一度寝台に潜り込んだが、浅い眠りの後に目が覚めてしまった。無理矢理目を閉じても眠気が訪れず、諦めて上着を羽織る。
分厚いカーテンをゆっくり開き、窓の外を眺めた。陽の光が届かなくなった町は、チラチラと明かりが揺らめいている。きっとこの時間もまだ賑わっている店もあるのだろう。何気なく視線を邸の近くに動かすと、一つの影が動いていた。どくんと心臓が脈打ち、掌にじんわりと汗が滲む。外へ出ていくのか、それともこの邸に向かっているのか。目を凝らしてもそれが誰なのかはわからない。そのとき、ボーンボーンと教会の鐘の音が鳴り響く。午前二時、夜半の祈りの鐘だ。エリシュカは一度目と同じその音に、背中がぞくりと寒くなる。
ぶるりと身体を震わせ、喉を鳴らして隣の部屋へ視線を向けた。カーヤはきっともう眠りについていることだろう。今から訪ねれば、起こしてしまうかも知れない。逡巡している間に、隣の部屋からコトリと音が聞こえた。ゴクリと喉を鳴らし、拳をギュッと握る。数度深呼吸をしてから、部屋の扉へ向かった。冷たい取手をそっと握り、音を立てぬように扉を開く。暗くなった廊下には、誰も居ない。カーヤの部屋の前に辿り着くと、扉にそっと耳を当てる。中からは何の音もしない。このまま部屋にもどろうか――そう思って振り向こうとしたその刹那。
ゴンっという鈍い音の後に、何かが割れる音が響いた。あっと思ったときには既に目の前が暗くなり、エリシュカは膝から崩れ落ちた。ガンガンと頭を叩かれるような痛みと共に、耳鳴りが響いてくる。うっすら映る視界には、履き古されて少し擦り切れた皮靴の爪先が見えた。
また駄目だった――そう思った瞬間、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。痛みからか悔しさからかわからないそれが、後から後からあふれてくる。
せっかくカーヤがナイフの扱いを教えてくれたのに。ルカがナイフをくれたのに。腰に手を伸ばそうとするが、その力も既にない。遠くなる意識と耳鳴りで、周囲の音が薄れていく。
「エリっ! エリーーーっ」
誰かが呼んでいるような気がするが、聞き取ることはできない。高い声と低い声が混じったようなその声は、ぐるぐると頭の中を掻き回す。
一度目も、二度目も、そして今日も。すべてが母の命日だ。なぜいつもこの日なのか。なぜいつも戻るのか。いや、今回も戻れるとは限らない。身体からすっかり体温が失われ、まとまらぬ考えを巡らせたまま、エリシュカは意識を手放した。




