2-6①
午後の穏やかな日差しを浴びながら、四頭の馬が流れるように走る。カーヤの前に座るエリシュカの髪は、生成りの紐で彩られていた。走る度に揺れる後れ毛を、暖かな風が撫でていく。腰に巻いたベルトには、一本のナイフが吊るされていた。
あの日から掌の傷は徐々に回復し、今ではすっかり元通りだ。いや、元より少しは皮膚の厚みが増している。剣とは比べ物にならぬほどに軽いナイフは、エリシュカの手にすっかり馴染んでいた。刻まれた文字の意味は聞いていない。未だに彼らを信じたい気持ちと、疑う気持ちが交錯する。そもそもが本当に偶然の出会いなのかもわからない。けれど、必然であるならエリシュカの居場所をどうやって知ったのか。わからないことばかりで身動きが取れず、彼らを信じたい思いのほうが次第に育っていく。
「エリ、疲れたらいつでも言って」
「ありがとう、カーヤ」
「この先さらに厳しい道になるからね。今のうちに休めるならそのほうがいいよ」
「ええ、わかったわ」
今回の旅路も同じ道を進んでいた。旅人や商人の姿はまばらになっていくし、建物も数を減らしていく。もう少し走ればきっと森の入口が見えてくるはずだ。エリシュカは前方に目を凝らし、握る持ち手に力を込めた。
「この辺りで一旦休もう」
ルカが馬を止めると、三人もそれに倣い足を止めた。いつものようにルカがエリシュカに肩を貸し、カーヤがそれを支える。始めは戸惑っていた四人も、今ではすっかり見慣れた光景だ。エリシュカにとっては尚更で、それが喜ばしくもあり寂しくもある。
ルカとマテスが馬に水をやり、その間にエリシュカが食材をナイフで切り分ける。始めはパンすら上手く切れずにボロボロと崩れてしまったが、今では大分様になっていた。
「エリ、随分上手くなったね」
「そうだな。始めの頃はスープの具に指が入ってもおかしくなかった」
「オルダっ。それは褒め言葉になってないよ」
「そうか?」と首を傾げたオルダに、カーヤがため息を吐いた。
タープを張るのはオルダとカーヤの役目で、その間にエリシュカが食材を準備するようになっていた。護身のためのナイフだが、こんなことにも使えるとは思ってもみなかった。四人はそれぞれ自前のナイフを持っていて、以前のエリシュカはそんなことすら気付かなかった。
バキバキと木を踏む音を立てながら近寄ってきたのは、それぞれニ頭の馬を引くルカとマテスだ。ついでに薪を拾って戻ってくると、手際よく積んでいく。火を使う段になれば、エリシュカはお役御免になる。それでも何もできなかった一度目よりは大きな進歩だ。
パチパチと爆ぜる火を囲みながら、五人揃って食事を口に運んだ。誰も何も言わないが、スープの具材はどれも不格好で不揃いだ。
「エリ、ナイフの使い心地はどう?」
橙色の柔らかな明かりに照らされたルカが、穏やかに口を開いた。
「手に馴染んで使いやすいわ。でも、まだまだね」
大小交じる野菜と干し肉のスープに視線を落とし、エリシュカはため息をこぼした。
「いや、最初よりかなり上手くなってるぜ?」
マテスが感心したように器を掲げる。深く頷いたオルダが「具材が指になっていないだけ」と言いかけたところで、マテスがオルダの足を強く蹴った。
「いてっ! おい、マテスっ」
「マテス、さっき同じようなことをエリに言ってたからもう遅いよ」
「あちゃー。エリ、気にするなって。誰だって最初はそんなもんだから」
三人のやり取りに肩を竦めたルカが、エリシュカと視線を交わして淡く微笑んだ。何となくむずむずと落ち着かず、エリシュカはオルダに視線を移した。
「でも、オルダって実は結構器用よね。力持ちだし手だって大きいのに、細かい作業が得意なんて意外だったわ」
「野営は子供の頃から慣れてるからな。俺より姉上のほうが……」
そこまで口にして、オルダは何かを思い出したように顔を歪めて口を閉じた。
「エリだって、使い始めたばかりでここまでできれば十分だよ」
「そうだといいけど。もっと上手くできるように頑張るわ。訓練の方はもっとね」
ルカの言葉に、苦い笑みを浮かべる。ルカは「ほどほどにね」と笑みを深めた。
食事を終えればカーヤと共にタープの中だ。やはり今回もエリシュカだけが敷き藁を使っているが、遠慮をするのはやめにした。一番経験も体力もないエリシュカがしっかり休まなければ、結局足手まといだ。
「エリ、寒くない?」
「大丈夫よ。皆のお陰で寝心地はいいし、もう大分慣れたもの」
「ふふっ。確かに、初めての旅とは思えないほどだね」
エリシュカはぐっと息を呑み、誤魔化すように咳払いをした。
「やっぱり寒いんじゃない?」
「違うわっ。歪なスープの野菜を思い出してちょっと気まずかっただけよ」
「あははっ。最初から何でも上手くできる人なんていないよ」
「そうね」
カーヤの寝返りを打つ音がタープの中に響き、エリシュカはほっと息を吐いた。
「お母様のお墓に行ったら、皆のお陰でこんなにたくましくなれたって報告しなくちゃ」
「母上はびっくりしちゃうんじゃない?」
「そうね。ふふっ。だけど、きっと喜ぶと思うわ」
「そう……だといいね」
カーヤの返事は歯切れが悪い。思い返してみれば、一度目もそうだったかも知れない。出会った日の話をしてみようかと逡巡するが、喉の奥に詰まった言葉は重くてすんなり出てこない。もし偶然の出会いでなかったなら、この先どうしたらいいのだろう。そう思うと何も聞くことはできなかった。
そうしてしばらく他愛のない話をしているうちに、エリシュカは深い眠りに落ちていった。
ふと人の話し声に意識が浮上し、目を擦った。
「オルダ、どうして私じゃ駄目なの」
「はあ、くどいぞカーヤ。お前は女だろう」
「女だから何?」
「夜番は男の仕事だと決まってる。さっさとタープに戻れ」
パチパチと爆ぜる焚き火に照らされたオルダは、険しい顔で座り込んだ。橙色の炎に映し出された影が、ゆらゆらと揺れ動く。エリシュカはそっと身体を起こし、その様子に耳を澄ました。
「ルカは私にも夜番をやらせてくれたよ」
「それはまだ大して危険のない場所だ。しかもマテスかルカが一緒だっただろう? カーヤ一人ではまず無理だ」
「これから森に入るなら、夜番は多いほうが役に立つと思うけど」
腕を組んで渋面を浮かべたオルダは、深く息を吐いた。
「女は黙って男に守られ、安全な場所にいればいい。わざわざ危険に身を投じるなど、俺は見過ごすわけにいかん」
「私はただの女じゃない。子供の頃からずっと剣の稽古も欠かしてないよ」
「全く話にならんな」
立ち上がったオルダが大きな体で、カーヤを不機嫌そうに見下ろした。
「エリだって信じられん。一人で旅に出るなど……ましてや、ナイフを習いたいとまで言い出すとは。淑女にあるまじきとんだ蛮行だ」
「酷い言い方だね。エリだって必死なのに」
「俺達に守られながら、なぜナイフが必要なんだ。せいぜい野菜を切るまでで止めておけばいいものを」
エリシュカは、少しずつ違う二人の会話にじっと聞き入った。一度目のカーヤはもっと必死に食い下がっていはたずだ。ところが今回はどうだろう。随分穏やかに話しているように見えるのは、エリシュカの欲目だろうか。それにむしろ、オルダのほうがどこか余裕なく思える。
「だけど、いざというときに身を守る術を学ぶことは、淑女だってやってるでしょう」
「中途半端に力を持てば、逆に危険だ。カーヤだってそうだろう」
「私が中途半端なのは分かってるよ。それでも騎士でいたいと思うのは、そんなに悪いこと?」
「俺はいいことだとは思わん。カーヤだって淑女らしく振る舞うことはできるだろう」
カーヤは剣の柄頭に目を落とし、微かに笑みを浮かべた。
「そうだね。やろうと思えば、今でもできるよ」
「なら、そうすべきだ」
「それはオルダに決められることじゃない。やっぱり私は騎士になりたい」
くしゃくしゃと頭をかき混ぜたオルダが、険しい顔つきでため息を吐く。カーヤをじっと見据えてから、顎をしゃくった。
「なら、実力で俺を納得させてみろ」
「どういうこと?」
「剣で俺に勝ってみろということだ」
『遊びの時間は終わりだ』――オルダはまたそう言うのだろうか。カーヤの鼻をすする音が蘇り、エリシュカは今度こそ止めなくてはと起き上がろうとした、その時。
「あははっ。オルダに剣で勝つなんて無理に決まってるじゃない」
肩を竦めたカーヤが、さもおかしそうに笑った。訝しげな顔で見下ろすオルダに、カーヤは続けた。
「そもそも私が男に力で勝つ必要なんてないよ。同じように訓練してる男に勝とうなんて、到底無理な話でしょう?」
「だったらっ」
「私が騎士になるのって、そういうことじゃないと思う」
一旦言葉を止めたカーヤが、しばらく唸り声を上げながら考え込んだ。
「少し前までは私も男に勝ちたいと思ってたし、そうじゃなきゃ認められないと思ってた。だけど、エリが教えてくれた」
顔を上げたカーヤは、晴れやかな笑みを浮かべた。




