2-5①
「おはよう、ヴラノヴァー嬢……いいえ、エリシュカと呼ばせてちょうだい。あなたの着ていた服も素敵だけれど、着替えは多くても困らないでしょう。いくらか見繕っておいたから、持っていくといいわ」
使用人の持つ上等な鞄をチラリと見てから、夫人がエリシュカに向き直った。今回も朝の着替えはありがたく借りることにした。別れの挨拶で、再びパヴェルのズボンの裾を披露するわけにはいかない。着ていた服は、もちろん肩から下げた革鞄の中に大切にしまい込んだ。
「おはようございます、夫人。お言葉に甘えてお借りします」
「まあ。貸すのではないわ。これからもあなたが使ってくれると嬉しいわ」
「では、ありがたく頂戴いたします」
腰を落としたエリシュカは、夫人の横に立つ使用人の方へ手を伸ばした。その時、後ろからすっと腕が伸びてきて、鞄を素早く奪っていった。
「僕が持っていく。カーヤの馬に乗せるには重いからね」
鞄を手にしたルカが、夫人と旅立ちの挨拶を交わした。それを終えると夫人はエリシュカの前に立つ。エリシュカの足元に視線を落とし、思い出したかのように声を立てて笑った。
「まさかわたくしと同じようなことをする方に出会うなんて、思いもよらなかったわ。楽しい出会いに感謝しなくては」
エリシュカは自分の服を見下ろしてから、夫人に視線を合わせて笑みを浮かべた。
「目的を終えて王都に戻る前に、またこちらに寄っていらっしゃい。あなたが再び馬に跨ってここへ訪れるのを、楽しみにしているわ」
「ふふっ。その頃にはもう少し上手く乗れるようになっているといいのですが」
「きっと、驚くほど上手くなっているわ」
夫人は四人の方へ視線を向けて「みんな、無事な姿を見せてちょうだい」と声を掛けた。最後にエリシュカの手を取り、「次は一緒に馬に乗りましょう」と耳元で囁いた。
「気をつけて。無茶するんじゃないぞ、ルカ」
「分かってますよ、父上。では、いってきます」
ルカに続いて皆が夫妻に別れを告げた。
「行こう、エリ」
カーヤの手に導かれ、エリシュカが足を踏み出す。
四人と共に邸を出て、馬丁が準備していた馬に向かう。カーヤの馬の側には台が添えてあり、エリシュカはその光景に唇を噛み締めた。
「エリ」
カーヤの声に我に返って視線を上げ、馬上から伸ばされた手を掴む。一気に引き上げられると同時に、足元の台を蹴って馬に跨った。ふわりとチュニックが広がり、カーヤの前にしっかりと収まる。布を手繰り寄せれば、やはり目の前には持ち手があった。
「そこに持ち手があるって、よくわかったね?」
「えっ? ええ、なんとなく……そう、なんとなくよ」
「ふうん?」
不思議そうに首を傾げたカーヤに、エリシュカの心臓がトクンと跳ねる。
「準備はいいか?」
ルカが馬の鼻先を向けて声をあげた。今回も夫人から受け取ったエリシュカの服は、ルカの馬に括り付けられている。
「いつでもいいぜ」
「俺は殿を行く」
ルカに並んでマテスが馬を進め、カーヤがその後に続く。オルダは最後尾につき、四頭の馬が軽快に走り出した。一度目の旅より馬の脚が僅かに速い。持ち手を握る指に力を込めると、掌がじんじんと疼く。内側の赤らんだ掌は、剣を握るには柔らかすぎる。けれどやめるつもりもない。きっとこの旅を終えて、四人と笑って戻ってくるのだと、エリシュカは自分に言い聞かせた。
途中の村に立ち寄る度、夕食前にカーヤから剣を習った。暗すぎても視界が悪いが、あまり明るい内だと目立ってしまう。木立がある村はまだいいが、開けていると場所を探すのにも苦労する。
決まってマテスかルカがついてくるのは、二人だけでは不用心だからだ。マテスはいつも木の根元に座って居眠りをしているか、頭の後ろで両手を組んで興味深げに眺めている。一方ルカが見ているときは、どうにもやりづらさを感じた。オルダのように否定的なことは言わないが、険しい顔で腕を組み、じっと押し黙っているからだ。
「エリ、ルカのことは気にしなくていいよ」
「でも、なんだか怒ってるみたいじゃない?」
「違うよ、ルカは怒ってるわけじゃない。あれは何か考え事をしてるだけだよ」
「そうなの? なんだか私、ルカの不機嫌の元みたい」
カーヤはエリシュカとルカを見比べてから、ふっと笑みを浮かべた。
「そんなことないよ。ルカが本当に不機嫌なら、ここには来ない。マテスに任せて、自分は宿に戻ってるよ」
エリシュカにはわからないが、幼馴染の二人には通じるものがあるのだろうか。そう思うとなぜか気持ちが重くなる。
「痛っ」
腕を振った瞬間に痛みが走り、エリシュカは思わず剣を落とした。
「ああ、ごめんなさい。カーヤの剣がっ」
「どこを痛めたんだっ?」
いつの間にか直ぐ側まできていたルカが、エリシュカの手を覗き込む。剣を拾ったカーヤがエリシュカの手をそっと取り、掌を見つめた。
「こんなになるまで頑張って。もっと早く気づいてあげられればよかった」
「ううん、大丈夫。私が勝手に」
言い掛けたところで、ぐいっと手首を引かれる。顔を上げると怒ったような顔をしたルカが、無言でそのまま歩き出した。
「え? あの、ルカ?」
ずんずん歩く背中を見つめながら、一度目の旅で湖に入ってきたルカを思い出す。あの時も今のように、怒ったみたいな顔をしていた。それなら、今ももしかしたら――。そう考えたところで、突然ルカが足を止めた。目の前の井戸から水を汲み、エリシュカの方へ振り向いた。
「早く手を洗ったほうがいい。しみるかもしれなけど、そのままにするのはよくないから」
促されて手を差し出すと、ルカが桶からゆっくり水を流す。ジンジンと響く痛みに、唇を噛み締めた。腰のポーチから布を出したルカが、エリシュカの手を拭う。
「ありがとう」
「後は部屋でカーヤに薬を塗ってもらうといいよ。あまり無理しないで」
顔を歪めたルカが、エリシュカの掌をじっと見つめた。汚く皮のむけた跡が急に惨めに思えて、そっと手を引く。
「ごめんっ」
慌てたルカが両手を挙げて一歩後ずさった。目を瞬いたエリシュカは、胸の前で軽く拳を握る。
「じゃあ、カーヤ。あとは頼む」
気まずそうに首の後ろを掻きながら、ルカはそのまま村の宿へ戻っていった。エリシュカはそわそわと視線を彷徨わせ、カーヤと目が合い頬を赤らめた。
「ね? ルカは怒ってないし、エリを心配してるだけだったでしょう?」
「そう……みたい」
「さあ、部屋に戻って手当をしよう」
胸の奥がソワソワと落ち着かず、地面を蹴り出す足に羽が生えたかのようだ。軽く手を握りしめると、ズキンと響く痛みに眉を顰める。胸に刺さる小さな棘を思い出させるかのようなその痛みに、エリシュカはそっと息を吐いた。
翌朝、カーヤの前に跨ったエリシュカは、布に巻かれた手を見下ろし唇を引き結ぶ。気を抜くと、うっかり笑みを浮かべてしまいそうなのだが。先程から機嫌よく馬に跨るマテスが口笛を吹いていて、エリシュカの様子に気づく者はいないだろう。
「エリ、楽しそうだね?」
口笛を止めたマテスが、笑みを浮かべてエリシュカを振り返った。
「わ、私がっ? マテスが、の間違いでしょう」
「ははっ。バレたか」
トクントクンと早鐘を打つ心臓に、思わず布を巻いた手を添える。すぐ後ろのカーヤに聞こえてしまいやしないかと、冷や汗が背を伝った。
「マテス、なにをニヤけてるんだ。いつも以上に不穏だな」
「酷いよ、オルダっ! 僕の機嫌がいいのがそんなにおかしい?」
「不吉な予感しかしない」
「そんなバカな」
大げさに天を仰いだマテスが、そのままがっくりと肩を落とした。
「僕はただ、次の町ではエリも楽しめるんじゃないかと思ったから」
エリシュカはふと一度目の旅を思い出し、胸の奥がズキンと痛む。あの町でルカから貰った髪飾りは、二度目の誕生日には消えていた。
「お前はどうせ、自分が楽しむことしか考えてやしないだろう」
「失礼なっ! どうせなら楽しいほうがいいに決まってるじゃないか」
「はあ。お前の道楽に付き合ってやるほど、俺は暇じゃないんだがな」
「別にオルダに付き合って貰おうなんて思ってないけどね」
口を尖らせたマテスに、オルダが何か言おうと口を開きかけたところで、ルカが声をかけた。
「二人とも、そこまでだ。ほら、クラーロ・ヴァリが見えてきた」
ルカの見つめる視線の先には、門の前に並ぶ旅人の列が見える。あの門を潜れば、聖人の日の祭りを祝う人々で賑わっていることだろう。
「よし、競争しようぜ」
「おい、マテスっ!」
言い終わるやいなや、マテスがルカを追い抜き走り出した。追いかけるオルダの声も耳に入らぬかのように、あっという間に速度を上げる。
「まったく、仕方のない奴だな。カーヤとエリは慌てずついてきて。門のところでちゃんと待ってるから」
ルカがマテスの後に続いて馬を走らせた。大きなため息を吐いたオルダが更に続き、エリシュカはその背を見送る。
「私たちも走ってみる?」
「ええ、お願い」
窺うようなカーヤの声に、エリシュカはしっかり頷いて返した。カーヤの合図とともに馬が速度を上げる。馬の首の上で、たてがみが大きく揺れる。持ち手を握る掌の痛みも忘れるほどに、頬を撫でる風が心地いい。先を走る三人は、あっという間に豆粒のようだ。一度目の早駆けで、彼らはあんなに速くはなかった。今更ながらに、エリシュカを気遣っていたのかと思い至り、複雑な笑みがこぼれた。




