2-4①
遠目からでも高さのある、立派な造りの見張り台が夕日を浴びて橙色に浮かび上がる。剣の稽古を重ねながら旅を続け、いよいよイェリーネク家が見えてきた。
一度目に見たときは、ただの見張り台だと思っていた。しかし、やはり空がよく見える造りになっている。あれは星見であるイェリーネク家が、夜空を観るためのものでもあるのだろう。一度目にルカと見た星空が脳裏を過ぎり、ソワソワとした気持ちになる。まだ紅色に染まる空を見上げ、見ることのできない星に目を細めた。
「ただいま戻りました」
使用人の開けた扉を潜りながら、ルカがホールへ足を踏み入れた。エリシュカはカーヤに促され、後に続く。
「ルカ、それにみんなも。ようこそイェリーネク家へ」
「おかえりなさい、ルカ。みなさんもよくいらしてくださったわ」
壮年の男女がホールで五人を出迎えた。一度目に会ったのと同じその二人は、ルカの両親だ。夫人がルカの頬に手を添え、腰を落としたルカの額に口付ける。当主は一つ頷き、ルカの肩に手を置いた。ルカがその手を軽く二度叩くと、視線を合わせて頷く。
「お邪魔します。おじさま、おばさま」
「お二方とも、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
カーヤに続いてオルダ、最後にマテスが挨拶を交わす。
「今日はもう一人増えたんだ。彼女はエリ」
ルカがエリシュカを振り返り、両親の方へ向き直った。エリシュカはスカートの端を摘み、しっかりと腰を落とす。
「初めまして。エリシュカ・ヴラノヴァーと申します。突然の訪問、ご無礼致します」
ほうっとため息が広がった後、夫人が「あら」と声を上げた。当主は目を瞬いたあと、夫人を見下ろし笑みを浮かべた。エリシュカは前回と違う反応に、首を傾げて周囲を見回した。
「ふははっ。エリっ、足元からまずいものが覗いてるぜ」
マテスがカラリとした笑い声を立てると、使用人たちが息を呑んだ。エリシュカは慌てて自分の足元に視線を落とす。そこには、しっかり折ったはずのズボンの裾が、無様に落ちて見えていた。いくら綺麗に腰を落としたところで、これでは台無しだ。意味がないとわかりつつも、思わずスカートを両手で押さえて俯いた。
「ふふふっ。ようこそ、ヴラノヴァー嬢。どんなお嬢さんかしらと思っていたけれど、私と気が合いそうね」
ゆっくり視線を上げると、夫人と視線がぶつかる。扇を開いて口元を隠しているが、その上から覗く目元はなんとも穏やかだ。それは優しかったときのルカに似ていて、エリシュカの胸がトクンと跳ねる。
「妻も乗馬をするときは、君と同じような服を着るんだ。まさか余所のお嬢さんが同じようなことをするとは。歓迎するよ、ヴラノヴァー嬢」
エリシュカの目にじわりと涙が滲み、慌てて瞬きを繰り返した。
「さあ、皆も。旅の汚れを落として食事に致しましょう」
夫人の声を合図に、ホールの空気が軽くなる。それぞれが動き出し、エリシュカはカーヤと共に同じ部屋へ案内された。湯浴みを終えればきっとドレスが待っているのだろう。カーヤはまたドレスを諦めるのだろうか。かと言って、着替える前からその話をするのも、自分がドレスをねだっているようで話しづらい。
そんなことを考えているうちに、イェリーネク家の使用人によって支度を終えたエリシュカは、鏡の前に立っていた。今回も同じドレスだ。何度着ても上等な質感にため息が漏れる。意匠もエリシュカ好みで、鏡越しのドレスに見入ってしまう。くるりと回って裾を揺らしたところで、カーヤが鏡の端に映り込んだ。
「エリ、とっても綺麗だね。よく似合ってるよ。きっと皆も驚くね」
やはりカーヤは男装だ。それもよく似合ってはいるのだが、エリシュカを見つめる瞳がどこか遠い。
「カーヤ、ありがとう」
差し出された手に指先を添え、部屋の扉を潜る。
「……私がそんなドレスを着ることは、もう二度とないんだろうな」
カーヤのその言葉に、エリシュカは勢いよく顔を上げた。
「そんなことないわっ! カーヤも着たらいいじゃない。そうよ、カーヤのドレスは用意されてなかったの?」
「えっ?」
カーヤはエリシュカの顔を凝視し、しばらくの間口を開いたまま静止した。はっと意識を取り戻すと、慌てたように片手で顔を覆う。その耳は真っ赤に染まり、男装であってもやはり美しい女性にしか見えない。
「エリったら、突然何を言い出すの」
「ねえ、夫人はカーヤのドレスを用意してなかったの?」
「……ううん、ちゃんとあったけど。断ったんだ」
「そんなっ。着たら絶対似合うのにっ」
顔を覆っていた手を口元に下ろし、カーヤは視線を左右に揺らした。
「こんな形をするようになってから、そんなことを言われたのは初めてだよ」
エリシュカは指先を重ねていたカーヤの手を両手で包み込み、一歩踏み出した。
「ねえ、せっかくだから着てみましょうよ」
「いや、でも」
戸惑うように後ずさったカーヤに、エリシュカがさらに一歩踏み出す。
「私、見てみたいわ」
「え、待ってよ、エリっ」
さらにカーヤが後退る。
「どうしたんだ?」
エリシュカの後ろから響いてきた声に、カーヤの手を握ったまま振り返る。そこにはルカを先頭に、マテスとオルダも立っていた。
「いや、なんでもないよ。待たせちゃったみたいだね」
「カーヤっ」
握ったままのエリシュカの手を軽く二度叩いて、カーヤはそのままエリシュカの手を引く。
「待って、カーヤ!」
歩き出したカーヤに手を引かれ、エリシュカが一歩踏み出した。
「何を揉めてるんだ?」
訝しげな顔で尋ねるルカに、エリシュカは慌てて答えた。
「カーヤにもドレスを着て欲しいのっ。絶対似合うから!」
「エリっ! 私はこれでいいんだよ」
「でも、本当は着てみたいんでしょう?」
カーヤはぐっと息を呑み、エリシュカのドレスを眺めながら顔を歪めた。
「……まあ、多少の憧れはあるけど」
「それなら着替えましょうっ」
オルダが珍しく眉間の皺を伸ばし、目を皿のようにして固まる。マテスはぽかんと口を開いた後に、すぐに愉しげな笑みを浮かべた。ルカは目を見開いたまま、青ざめているように見える。
「いいんだ、エリ。皆を待たせちゃ悪いから、行こう」
「僕は別にいいぜ。腹は減ったけど、カーヤのドレス姿を待つのも面白いし」
「俺も別に構わんぞ。女の装いに時間が掛かることくらい理解している」
「え、オルダでもわかるのか?」
「うるさいマテスっ。俺だってそれくらいは」
言い争い始めた二人に、カーヤが「いいから行こう」と割って入る。いつも二人を仲裁するはずのルカが、今回に限って口を閉ざしていた。
「さあ、エリ」
軽く手を引かれて、エリシュカは渋々歩き出した。無理強いするのもよくないだろう。きっと旅の間にまだチャンスはあるはずだ。一度目はできなかったが、今度こそカーヤが着飾り笑うところを見てみたい。
「おい、ルカ。どうしたんだ?」
オルダに肩を叩かれたルカが、はっとしたように肩を揺らした。「なんでもない」と一言答えて、先頭に立って食堂へ向かった。
やはり部屋には夫妻はおらず、マテスが一度目と同じ椅子を引く。笑みを浮かべたカーヤに促され、エリシュカはそっと腰を下ろした。
「おじさんとおばさんは来ないってさ。皆で楽しんで欲しいって言ってたから、エリも気を楽にして料理を味わってよ」
「まるでマテスの家みたいだな」
「オルダの方こそ、まるで自分の家のように堂々としてるよね」
肩を竦めたマテスに、オルダは腕を組んで「そうか?」と首を傾げた。
「君たちはそんな話しかできないの? エリがせっかくこんなに美しく着飾ってるのに。気が利かないね」
パチパチを目を瞬いたオルダが、エリシュカをじっと眺めてから口を開いた。
「ああ、よく似合ってるな。とても馬に跨ってたなんて思えないほどだ」
「僕は初めから似合うことはわかってたさ。想像どおり綺麗だよ。なあ、ルカ?」
マテスに肩を叩かれたルカは、顔色を青くしたまま口ごもった。少し間を置いてから、「そうだな、よく似合うよ」と答える。その様子を見てエリシュカと視線を合わせたカーヤは、苦い笑みを浮かべた。
エリシュカは一度目に照れながら褒めてくれたルカを思い出し、胸の奥がズキズキと痛む。口を結んで下を向くと、使用人が運んできた飲み物が視界の端に映り込む。赤い液体の入ったそれは、食前の赤ワインだろうか。皆に合わせてグラスを手にすると、ルカが気を取り直すように口を開いた。
「旅の安全を願って、乾杯」
皆がそれに合わせてグラスを軽く上げ、ゴクリと一口飲み下す。ハーブの漬け込まれた赤ワインが、口の中でじわりと広がる。滑り落ちる液体が張り付くような気がして、ゆっくり喉を鳴らした。




