2-2②
「ところで……エリ。随分顔が汚れてるけど」
エリシュカに返された革袋を受け取りながら、カーヤが首を傾げた。
「ええ。これ、靴墨なの。みっともないけど、目立っちゃいけないと思って」
「なるほど、それは賢明な判断だね。エリはすごいな」
「いいえ、そんな……だってこれは」
これは、パヴェルが前に塗ってくれたから――、そう答えそうになって口をつぐんだ。
「もしよければ、商人の馬車に石鹸くらいあるだろうから、借りて落としてみる? 水もあるだろうし、顔を洗うくらいなら使ってもいいと思うけど」
「そう……かしら」
エリシュカはふと視線を彷徨わせ、口ごもる。その様子にカーヤが首を傾げながら、「どうかした?」と尋ねた。エリシュカは気になっていることを尋ねてみたいが、その勇気が持てずに喉を鳴らす。
「ああ、そうか。商人たちのことが気になってるんだな」
ルカが頷きながら、少し離れた場所に視線を動かした。馬車の影になって見えないが、あちらに商人たちがいるのだろうか。青ざめて身体を震わせたエリシュカの背を、カーヤがそっと撫でた。
「彼らなら酷い怪我をしてるけど、まだ息があるよ」
「本当っ?」
ぱっと顔を上げたエリシュカは、カーヤに迫る勢いで身を乗り出した。
「うん。……きっと助かるよ」
それなら一度目も助かっていたのかも知れない。あの時も聞いていれば、少しは気分が楽になっただろうか。いや、きっと酷い怪我だと知って同じように気を失っていたことだろう。
「よかった」
ほっと息を吐いたエリシュカに、ルカとカーヤが顔を見合わせて頷いた。
「じゃあ、いこう」
カーヤに差し出された手を取り、ゆっくりと立ち上がった。カーヤに先導され、後ろからルカがついてくる。捕縛した盗賊たちの前に、不機嫌そうなオルダが立っていた。
「あいつは剣士のオルダ。顰め面はいつものことだから、気にしなくていい。ちょっと無骨なやつだけど、頼りになるんだ」
エリシュカの後ろから半歩近づいたルカが、オルダに手を挙げる。気付いたオルダも同じように合図を送り、エリシュカは小さく腰を落とした。オルダは頷いた後、再び盗賊たちの前で仁王立ちしている。
「さあ、エリ? 石鹸があるからこれで炭を落として」
石鹸を受け取ったエリシュカは、何度も擦って炭を洗った。繰り返しすすぐと水に黒いものが混じらなくなり、顔を上げようとしたところでカーヤが声を掛けてきた。
「よかったら使って」
「ありがとう」
カーヤに差し出された大きめの布で顔を拭い、二人の方を振り返る。一度目と同じように、二人が同時に息を呑んだ。
「……なるほど、予想はしてたけど、これは顔を黒くしても目立つわけだ」
腕を組んで感心したように呟いたカーヤの横で、ルカは絶句したまま目を数回瞬いた。
「まだ炭がついてるかしら?」
「ううん、ちゃんと綺麗に落ちてるよ」
ルカの方に視線を向けると、眉を寄せて「そうだな」と呟き目を逸らした。カーヤの反応は変わらないのに、なぜかルカには距離を感じる。
「ところでエリ、君はそんな格好だけど貴族でしょう?」
「ええ、そうよ」
どうせすぐに分かることだ。嘘を吐いても意味がないと、カーヤの問いにあっさり答えた。
「炭で顔を汚すくらいだからね。自分がどう見えるかなんて、百も承知ってところかな?」
首を傾げたカーヤに、「そうじゃないけど」と返す。そんなこと、一度目には考えてもみなかったのだから。
「目立つと分かっていながらたった一人で王都を出るなんて、一体何をするつもりなんだ?」
訝しげな顔で尋ねるルカは、どこか咎めるような口調だ。
「……母の実家へ。叔父のところへ行くつもりなの」
「なぜ一人で」
ルカがさらに続けようとしたところで、馬の足音と共にマテスの声が響いてきた。
「お待たせー」
十名ほどの警備隊を引き連れて、ひらひらと手を振りながらこちらへ向かってくる。軽い調子のマテスと、重苦しい空気を醸し出す警備隊は、まるで正反対だ。
「案外速かったな」
盗賊を引き渡したオルダが、マテスに声を掛ける。馬を降りてオルダと並んだマテスは、そのままこちらに歩いてきた。
「やあ、僕はマテス。君は……」
「私はエリよ。よろしく、マテス」
「よろしく……エリ?」
首を傾げたマテスが、何かを言おうとして口を閉じた。
「俺はオルダだ。よろしく、エリ」
「こちらこそよろしく、オルダ」
二人と挨拶を交わすと、厳しい表情のままルカが口を開いた。
「それで……エリは、まだ旅を続けるの?」
「ええ。母の遺言だから」
「どうしても行かなきゃならないのか?」
「そうよ。どうしても行くわ」
渋い顔で腕を組んだルカが、唸り声をあげた。
「君が一人で旅に出るのを、見過ごすことはできない。僕らも一緒に見届けるよ」
共に旅をすることになるとは思っていたが、ルカの態度が一度目と大分違う。なぜかはわからないが、以前はもっと人当たりがよかったはずだ。
「でも、私の都合に付き合わせるのも、申し訳ないわ」
「いいや、大丈夫だよ。僕らは旅をしながら経験を積んでるところなんだ。丁度用事があって王都をでたところだったんだけど、急ぐほどでもないから」
三人と順に視線を合わせたルカが、「だよな?」と声を掛けた。カーヤは柔らかな笑みを浮かべて頷き、オルダは肩を竦めた。マテスは頭の後ろで手を組み、愉快そうな笑みを浮かべて頷く。
「じゃあ、決まりだな」
ルカはエリシュカの返事を待たずに話を進めた。一度目はもっと遠慮がちだったルカが、一体どうしたというのか。予想外の態度に、エリシュカは何も言えずに口をぱくぱくと動かした。
「よろしくね、エリ」
胸に手を当てたカーヤが優雅に礼をする。オルダが軽く身体を折り、ルカも満足げな表情で同じ仕草をする。マテスは戯けて、大げさに振る舞った。つられたエリシュカは、ワンピースの端を軽く摘んで腰を落とす。
「こちらこそ……よろしく」
自分の馬に飛び乗ったマテスが、「さっさと出発しようぜ」と明るい声をあげた。
「そうだね。エリは私の馬に乗って。いいよね、ルカ?」
「えっ? あ、ああ……そうだな」
一瞬言葉に詰まったルカが、首を傾げた後に頷いた。
「エリ」
カーヤがいつものように手を伸ばす。
「俺の手に足を乗せるんだ」
馬のすぐ側に膝を落としたオルダが両手を組んでエリシュカを見上げる。二人の様子に胸の奥がぎゅっとなり、涙が滲みそうで瞬きをした。
「ありがとう」
エリシュカはカーヤの手を取り、オルダの両手に足を乗せる。
「いくぞ」
オルダの掛け声とともにふわりと身体が浮き上がり、カーヤが勢いをつけてエリシュカを引き上げた。エリシュカは慣れた仕草で足を開いて馬に跨る。
「えっ?」
「うわっ」
「お、おいっ」
「嘘だろっ」
カーヤに続き、マテスとオルダ、最後はルカが声をあげた。まさからエリシュカが馬に跨るとは誰も思ってもみなかったことだろう。眉間に皺を寄せて渋面を浮かべたオルダの後ろで、馬に乗ったマテスがぽかんと口を開けていた。ルカはキョロキョロと視線を彷徨わせ、手を挙げたり下げたりしている。
「エリ、随分思い切ったね?」
かすかに笑いを含んだカーヤの声が、心地よく上から降ってきた。
「ふふっ。こうやって乗るのは初めてじゃないの。ねえ、ちゃんと下にズボンも履いてるのよ」
「あははっ。準備万端ってとこだね」
エリシュカの頭を、カーヤが優しくぽんと叩いた。その様子を見上げたルカは、目をパチパチと瞬いている。
「それにしても、貴族のお嬢さんが躊躇いもせずに相乗りなんて。僕はそっちも驚きだね」
マテスがからかうように口笛を吹いた。
「手伝っておいて何だが、随分手慣れた様子だな」
腕を組んだオルダが、首を傾げてエリシュカを見上げた。
「カーヤみたいな女性に何度も乗せてもらったのよ」
「へえ?」
首を傾げたカーヤが珍しいものをみたような顔でエリシュカを見下ろした。
「それに、カーヤは女性でしょう? 別に躊躇うことなんてなにもないわ」
「えっ?」
四人が声を合わせてエリシュカを凝視する。肩を竦めたエリシュカは、「そうでしょう?」とカーヤを振り返る。
「参ったな。初対面で私が女だと見抜いたのはエリが初めてだよ。ふっ、なんだかおかしいね」
「そう? 物語に出てくるみたいな、とっても素敵な騎士様だけど。男性にしては動きがしなやかだったから」
「すごい洞察力だな」
マテスが一瞬鋭い視線を送ったような気がするが、すぐにへらりといつものような笑みを浮かべた。ドキンと心臓が跳ねて、エリシュカはマテスから視線を逸らした。
「なんとなくよ。大したことじゃないわ」
調子に乗ってやりすぎただろうか。あまり余計なことを言うと、色々聞かれて面倒かも知れない。
「しかし、躊躇いもせずにいきなり馬に跨る淑女など、あまり見たことがないな」
オルダが唸り声をあげながら、眉間の皺を深めた。
「……いけなかったかしら」
「いやっ、そんなことないよ」
失敗したかも知れないと少し声を落としたエリシュカの言葉を、ルカがすかさず否定する。
「オルダは、あまり見たことがないって言っただけだ。全く見たことがないわけじゃない。僕もいつだったか、見たことがあるような……」
おでこに手を当ててたルカは、唸り声をあげて考え込んだ。本当に思い出せないのか、それともエリシュカを慰めるためなのか。
「そりゃあ、ルカの家には特注の二人乗り用の鞍があるじゃない。おばさんが乗ってたのを見たからだろう?」
マテスが肩を竦めてルカに答えた。一度目の旅でエリシュカが乗せてもらった鞍は、イェリーネク家で夫人が使っていたもののようだ。
「そう……なのかな。でも、あれはもっと違う誰かだったような」
もしかしたら――そう思うと、心臓が浮き立つようにトクトクと音を立てる。けれど、そんな筈はない。もし皆が覚えているのなら、二度目に会った時のカーヤはカレルと名乗らなかったはずだ。ルカだって、一度目のことを覚えていたならもっと。
「行くなら早く出発しようぜ。こいつも早く走りたそうだ」
マテスの声に、ルカがはっとしたように顔を上げた。マテスの馬は、ぶるぶると鼻を鳴らし催促するように前足を地面に擦り付ける。
「そうだな。行くと決めたのなら立ち止まってる意味はない」
ドサリと音を立てて、オルダが馬に跨った。
「ルカ?」
カーヤに声を掛けられたルカは、「ああ」と答えるが釈然としない様子だ。カーヤと共に馬に跨ったエリシュカを見上げ、なんとも言えない表情で頭を掻いた。それでも振り切るように馬に乗ると、「いこうか」と声を掛けて先に進んだ。




